第69話「姉妹」
宮中に帰ったアンシは、自室で一人の少女を見た。
王女の部屋に許可なくして入れる人間は一人しかいなかった。
昼の光の中にすらりと立つ肢体が瑞々しい。
「コウコ」
駆け寄ったアンシは、思わず彼女に抱きついた。
抱きしめ返されると、アンシは、体の力が心地よく抜けるのを感じた。
「疲れてるみたい」
コウコの手がまるで幼い子どもをあやすように王女の頭をなでる。
アンシは、「疲れました」と正直に答えた。
実質的に国を宰領しているのがグラディ卿だとしても、王の代行であるアンシの仕事は多い。政務に関する書類と、朝から晩まで格闘している。加えて、市中で市民の声を聞いたり、グラディとの遊びにも付き合っているわけだから、よっぽど寝る暇も無いくらいだった。
「コウコはお元気ですか?」
身を離したアンシが訊くと、少女は、「ええ」と答えた。
「わたしは大丈夫」
「良かった」
「グラディに会って来た」
「宰相に?」
「母親からの手紙を渡してきたの」
アンシは、今現在勇者パーティがミスティカというグラディ卿の領地にいること、グラディの母から息子に対して勇者を害せんとする行為をやめるよう説得の手紙が書かれたこと、その手紙を届けに来たのが他ならぬコウコであるということを、聞いた。
「そうでしたか」
アンシは、先のグラディとの会見について話すのは差し控えた。
「みな、息災ですか?」
「サイが刺された」
「ええっ!? 無事なのですか?」
「ぴんぴんしてる」
「……相変わらず、人間離れした方ですね」
「あれも魔法なの?」
「おそらくは……しかし、わたくしにはどのような種類の魔法かは分かりません」
「やめようか、サイの話なんか」
「コウコが言い出したんですよ」
そう言って、アンシは笑った。心からの笑いである。
自分の笑声を聞いたアンシは、何か不思議な音色でも聞くような気持ちだった。
「アレスのことだけど」
「はい」
「謝ってほしい?」
「とおっしゃいますと?」
「殺そうとした」
「わたくしのためにですか?」
「ヴァレンスのため」
ヴァレンス王家の血に平民の血を混ぜないようにする。王家の血は尊貴なものでなくてはならない。平民が王室入りなどしてしまったら、ヴァレンスの伝統は汚れ、王室への尊崇の念は薄れる。
――古い……。
アンシは嘆息を押さえられない。
しかし、コウコを責める気は毛頭無かった。
というのも、それはおそらくその通りだからである。
アレスと結婚して、平民を王室に入れれば、それだけ国民に開かれた王室となるだろう。というのも国民のほとんどは平民であるからである。しかし、それは同時に、狎れを生み、王室を軽んじることにつながる。
さらに、現在、政務を担当する五大臣は、平民が王女の横にいることを認めないだろう。自分より身分が低い者が、自分の上に――王女の夫という立場が大臣より上になるかどうかは議論の別れるところではあるが、明確に下だとは言えないことは確かである――いることをよしとしない。貴族というのはそういう人種である。それによって、王女との間に軋轢が生じることになる。
クヌプスが反乱軍を率いた時点では、そんなことを心配している余裕は無かった。しかし、クヌプスが倒れた今、その余裕ができたわけであり、速やかになすべきと思ったことを為したコウコに対して、アンシは責める言葉を持たなかった。
「アレスがこの国を出るまで見届ける」
「わたくしが手配しましょう」
「どこ?」
「ミナンがいいかと」
ミナンは隣国であり、かつ同盟国だった。ヴァレンスは他の周辺諸国とも仲が悪いことはないが、特にミナンとは良好な関係を築いている。
「…………」
「どうかしましたか、コウコ?」
「ミナンは助けに来なかった」
「クヌプスの王都攻めの時ですね」
クヌプスの乱の間、ヴァレンスは外聞を捨て、他国に救援を求めたのだが、一兵たりとも救助の兵をよこしてくれた国はなかった。
「であるので、その点では他国も同じです」
「信用しすぎない方がいい国」
「ヴァレンスはどの国も信用していません、コウコ」
「ならいい」
「……ゆっくりしていらっしゃるんですか?」
「ちょっとはね」
「ちょっとですか……」
「わたしの知らないところで、アレスが厄介事に巻き込まれていたら、面倒だから」
「巻き込まれるというか、自ら渦中に飛び込んでいるような気もします」
「アホだから」
「ひどい」
そう言って、アンシはまた笑った。
コウコもつられて微笑むようにした。
「あるいは、それは至純にして至尊なる者の呪いなのかもしれません」
「サンルミズマって殺せないの?」
「仮にできたとしても、当のアレスがそれを許さないでしょう」
「果てしなくアホだね」
「そうですね。ただ……」
「ただ?」
「半端に賢しい人よりは、アホな人の方が好きです」
「……同感」
そうして、二人はまた笑い合った。
もしもその場に第三者がいたら、奇妙な感覚にとらわれたであろう。
向かい合う二人の少女。
彼女たちは、背格好も顔も、まるで鏡に映したかのようにそっくりだった。




