第56話「新世界への憧憬」
掃き清められたような青空の下、一乗の馬車が走る。
東西に延びる街道を、他の通行も無いので、のびのびと。
御者を務めるのは黒髪の少年であり、眠たげな半眼で、時折あくびを交えていた。
その隣にちょこなんと、きちんと膝を揃えて少女が座っている。
「良いお天気ですね」
少女が言う。
「眠くなるね」
少年が答える。
「御を代わりましょうか? 勇者様」
「えっ、できるの?」
「できるような気がします」
「いや、『気』ってなんだよ。気だけじゃダメだろ」
「一回やったことがあります」
「なんだあるのかー。で、そのときはどうだった?」
「あやうく父を轢き殺すところでした」
「ダメだよね、絶対運転しちゃいけない人だよね、それ」
「今度は誰も轢き殺しかけないようにします」
「いや、轢き殺しかけないことは大前提だからね。轢き殺しかけないことは絶対のルールで、それであとどれだけ安全に運転できるかってことなんだから」
少女は、しょぼん、としたように顔をうつむかせた。
「……じゃあ、ちょっとだけ手綱取ってみるか?」
「いえ、結構です」
「何なんだよ、キミは」
「冗談が好きなんです」
少女――リマリは笑顔を作った。
アレスは女の子の笑顔に弱い。
笑顔通りの気持ちでリマリは御者台に座っている。
ボンラを出て一日が経っている。
一日しか経っていない。しかし、ボンラに向かっていた時は夢のような遠さにある。人にかしづかれていたときの自分とは明らかに違う自分をリマリは感じていた。
何という自由さだろう。
「今なら空も飛べる気がします、勇者様」
「試してみるのはやめようね、飛べないから」
自分のした決断が正しいかどうか。
それはリマリには分からない。
当時の決断の正しさは未来に判断される。
しかし、本当は正しさなど無いのかもしれない。
正しいと思ったとしたら、それは決断自体が正しかったのではなく、決断後にその決断を正しくしようと努めたからこそ、そう思えるようになっただけなのかもしれない。でなければ、哀しいではないか。
はるかに広がる平原を見ながら、リマリはそんなことまで考えていたわけではなかった。
正しいか間違っているか。
それを考えられるのは理性であるが、理性的な判断の彼岸に狂おしいほどの衝動があって、それに押される格好を取ったのが、前日の自分である。
友に別れを告げたことを思い出すと、リマリの胸は締め付けられた。これから幾度、その痛みに耐えなければいけないのかと思えば、
――ロマンチックですこと。
微笑する気持ちが湧くけれど、それを心からのものとするためには、リマリは友人のことが好きであり過ぎた。
――ユーフェイ……。
友人というより、むしろ姉のような彼女が自分のことを想い、想うだけでなくいままさに追いかけて来てくれているところかもしれない。
「わたくしは人でなしでしょうか、勇者様」
「素直なだけだろ」
「そうでしょうか」
「人でなしってのは、女の子を人質に取るヤツのことだよ」
「わたくしに人質の価値はありません」
およそ父が自分のことで何かを譲歩するとは考えられないリマリである。それを特に寂しいとは思わなかった。父とはただそういう人なだけである。それは、リマリに対して情が薄いということではないのだ。情は薄くなくとも、父はただ父であることをやめられないだけなのだ。
「わたくしを連れて来てくださったこと、感謝します」
「だーから、ただの人質だよ。それ以上の意味は無い」
「勇者様はあまのじゃくですね」
「おい、大人ぶるなよ。年下のくせに」
「精神年齢はわたくしの方が上だと思います」
「そんなことないね。オレの方が大人だね、精神的にも」
綺麗にしつらえられた箱から飛び出したはいいものの、今後の行く先は全くの未定である。どこに行き何を見るのか、それは全てが自己の判断に任されている。
「人はなにをしてもいいけれど、卑怯なことだけはしてはダメ」
他人に言ったことを自分が守れるかどうか、リマリは楽しみで仕方がない。できなければそれまでのこと。自分に見切りをつけて生きていけばいい。もしもできれば、目前に新たな世界が開かれることになるだろう。
「こら、立つなよ。危ないだろ」
横からかけられた声に、リマリは素直に謝った。
「すみません。興奮してしまって」
腰を落ち着けたあと、
「ところで、勇者様。例の件は有効ですか?」
訊いた。
「例の件?」
「わたくしとの結婚です」
「……それ、真面目に言ってんの?」
「はい、もちろん」
「いや、オレの立場分かってる? キミのお父さんにつけ狙われてるんだけど」
「父は父、わたくしはわたくしです」
「それ、子どもの理屈」
「わたくし、自分の都合で大人になったり子どもになったりするんです」
「性質悪いぞ」
「慣れていただかないと」
「結婚の話は無しだ」
「残念です。どなたか心に決めた方がいらっしゃるのですね、コウコ様とか、コウコ様とか、コウコ様とか」
「声をもっと小さくしようね、リマリちゃん」
「はい、気をつけます」
リマリはあくまで笑顔だった。




