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第2部

    

       七


次の日、空は昨日よりも雲がまばらにかかっていたが、それでもいい天気だった。

僕らは朝食をすませるとまた軽自動車に乗り込んだ。

今日は僕が運転しようかと聞いたが、彼女は自分が運転すると言った。

きっと終始自分がいろいろ案内しようと考えていてくれたのだろう。

国道に出ると早くも強烈な日差しがアスファルトの上に日向と日陰を作り、気温は瞬く間に上昇をはじめた。

車は島の南にある湾に面した細い道路をぐるっと周り、岬の先端まで行った。

彼女はバッグからポケットカメラを取り出し、僕を撮ると言った。僕がなにか変なポーズをすると、彼女は喜んでシャッターを切っていた。

それからちょうど近くを通りかかった地元の若い女性に頼んでふたりの写真を撮ってもらった。

そう、僕は彼女の右にいて、バックには青い瀬戸の海が写っていたはずだ。

僕はぎゅっと恭子の肩を抱き、彼女は恥ずかしそうに僕の肩に頭を乗せていた。

シャッターを頼まれた女性は、おおよそ通勤途中かなにかだったのだろうけど、朝っぱらからいちゃついている僕等に頼まれ、まいったことだろう。

あの写真を恭子は今も持っているのだろうか。

僕はいつかその写真を観るときが来るだろうか。

来ないだろうか。


僕も恭子の写真は何枚か持っているが、全部実家に置いてきている。

まあ、いいと思う。写真などなくても、僕はあの日の思い出は鮮やかに思い出す事ができる。そう、こうやって腕を伸ばせば恭子がいて、僕は彼女の細く柔らかな肩を引き寄せる。

海と緑と蝉の鳴き声と。


写真は色褪せても、あの日の思い出はずっと永遠に色褪せないだろう。それから、僕等は途中、土産屋に寄って弁当とお茶を買い込んで、オリーブの木がたくさん植えられている公園へ行った。

昨日と同じように海は穏やかで、まるで水の上を歩いていけそうなほど平らに見えた。

海から吹く風は甘い潮風を高台まで運んできて、僕等の鼻先をかすめっていった。

夏草が生い茂る公園の周辺には、白い、小指の先ほどのちいさな花がたくさん咲いていて、夏の日差しを一杯に浴びて、飾らない美しさを放っていた。


公園には地元のまだ若い女性が、まだちいさい子供を遊ばせていた。子供はベンチに腰掛けた母親の周りを走り回ったり、時々しゃがんでは、地面に落ちているものを興味深そうに拾い集めたりしていた。

女性は僕等に気が付くと頭を下げた。僕等も彼女に会釈をした。

僕等は木陰のベンチに腰掛けると、目の前に広がるパノラマを眺めながら、言葉を交わした。

蝉の鳴き声がうるさかったが、恭子の声だけはガラスの風鈴のように涼しく爽やかに聞こえた。

僕は、もっと彼女と、あの島のことが聞きたいと思っていた。

ただ、まだあまり深くは聞かなくてもいい思ったので、話の合間になにげなく聞いてみた。

「恭子が小さがった時も、よくここに来たん?」

「うん。友達とよく遊びに来たりしたん。」

「そっかあ。」


「もう友達あんまりおれへんけどね。」

「なんで?」

「みんな、島を出ていってしまったん。」

「そっか。」

「でも、楽しかった思い出はいつまでも消えへんから。ずっと。」

僕が生まれ育った生駒では、小さい頃の友達は、その当時はまだ、ほとんど幼い頃と同じ住所に暮らしていた。

僕は、恭子とは生まれ育った環境が違うことを実感させられたような気がした。

なにか聞けば聞くほど、ふたりの間が遠くなるような気がしたので、その時はそれ以上聞かないでおこうと思った。

僕は卒業したら恭子と結婚したいと思っていた。だから彼女が島で生きてきた思い出は大切にしてやりたいと思った。島は彼女の故郷であり、彼女が大切にしている場所なのだ。だからずっと大切にしてやりたいと思った。


僕は腕を恭子の肩にまわし、彼女の顔を覗き込むように見つめると、

「そうや、思い出大切やもんな。」と言った。

僕は彼女を見ていた。

今こうして二人でここへ来たことも、僕等の楽しかった思い出として彼女の中へ刻まれて行くのだろう。

そして、彼女が生まれ育った、海と緑に溢れた美しい島の光景、それから、かわいい彼女の指先や、髪の毛の一本一本までがきっと僕の中に永遠に消えない思い出として残るだろうと思った。


「あの蝉の命は短いんやて。僕等の一生も短いんやろなあ。でも恭子と一緒やったら幸せやで。きっとふたり幸せになろうな。」

そう言うと彼女は、頬を赤くして僕にそっと寄り添うと、小さく頷いた。


しばらく公園の中を走り回っていた子供は、母親のもとへ戻ると、幸せそうにその腕に抱かれた。


それから僕等は、また海へ行ったり、醤油工場を見に行ったりした。

僕はザックに詰め切れないほど、彼女は軽自動車に積み込めないほど、ふたりでたくさんの思い出を作った。

しかし結局、再び彼女の家へ行くことはなかった。


暑い夏の太陽は、西の海原に向かって傾き始めていた。


夕方になって僕等はフェリー乗り場の近くにある喫茶店に入った。

このあたりにしてはめずらしい洒落た店だった。木製のテーブルがならんだ落ち着いた雰囲気の店だった。

僕はアイスコーヒー、彼女はいつもどおりアイスオーレを飲んでいた。ストローで氷をかき混ぜるしぐさは、大阪でもここでも同じだと思ったが、彼女のしぐさは、昨日よりいっそう美しく見える気がした。それが昨夜、彼女は僕に抱かれ、大人の女性としての輝きを増したのかもしれないと思うと、僕は満足だった。ただ、またしばらく彼女と別れなければならないのが辛かった。

島での2日間はあっと言う間に過ぎていった。帰りのフェリーの出港時間もだんだんと迫ってきていた。

「おまえいつ大阪に戻るん?」と僕が聞くと彼女は、

「うーん、家の用事がすんだら。」と答えた。

僕はテーブル越しに彼女の手を握った。

彼女は自分の手と僕の手が繋がれた一点を見つめていたが、突然目に涙を浮かべた。

涙は彼女の愛らしい頬をひと筋、ふた筋と流れた。いつもは落ち着いた彼女の涙を見たのはその時が始めてだった。やがてしゃくりあげるように泣きはじめた。

僕はただ彼女のかわいい手を握ってやっていた。

今思えば、その涙の意味を聞いておけば、全ての答えはそこで出ていたのかもしれない。いや、聞かなくてよかったのだろうか。

僕は右手で彼女の熱くなった頬に手を当ててやった。親指が彼女の涙に触れた。


僕は、「先に帰って、恭子が戻ってくるん待ってるわ。いつも大好きや、恭子のこと大好きやで。ずっと愛してる。」と言った。



フェリーが岸を離れ、静かな海上に白い航跡を引き始めると、恭子の姿はだんだん小さくなった。

僕は何度も手を振り、彼女も手を振った。やがて恭子の姿は芥子粒のように小さくなったが、それでもずっと僕を見送っていてくれた。僕も見えなくなるまでずっとデッキで恭子の姿を見ていた。


大阪への帰り道、列車の窓から見える夕日は海に反射して奇麗だった。

僕は窓を飛び去っていく景色を眺めながら、ずっと恭子のことを考えていた。

島での2日間は本当に楽しかった。そして今まで僕がしらなかったこと、そして彼女が生まれ育った場所まで見ることが出来た。ただ、彼女の両親や、兄弟や、生い立ちについては、新しい情報はなにも得られなかった。いや、なにも聞かなかったのだ。

その時僕は、いつか僕が知るべきときが来れば、きっと彼女のほうから話してくるだろう、詮索をするのはよそうと思った。


うとうとして気が付いたら、列車は西宮あたりまで帰ってきていた。嫌というほど走ったような気がした。

列車が大阪まで着くと、なぜか夜の大阪の景色が懐かしく見えた。高層ビルの明かりや大勢の人々でごったがえすホームですら、不思議と落ち着くような気がした。

僕は大阪駅で恭子と待ち合わせをした日のことを思い出していた。

そう、ヘッドライトの川の中で、彼女を抱いた。

「好きよ・・」

僕がいちばん聞きたかった言葉だった。

そう、彼女は僕を大切に思ってくれて、好きでいてくれている。そして僕も彼女をかけがえのない人だと思っている。もちろんそんなことは、ふたりが付き合い始めたときからわかっていることではあるけれど、島へ行って、それを確かめ合えただけでもよかったやん、と思った。

ひとつだけ気になっていたのは彼女が見せた涙だった。

僕を想うが故に流してくれた涙なのは確かだと思ったが、なにか気になるものがずっと残っていた。


なんとか実家まで帰りつくと日付が変わっていた。

何日かして僕は恭子に電話しようかと思ったが、用事があると言っていたし、実家まで電話するのはやめたほうがいいと思ったので、向こうからかかってくるのを待つことにした。


そうこうするうちに、またバイトが始まって忙しくなった。

結局、それ以来恭子から電話がかかることはなかった。それどころか、後期の授業が始まっても恭子は大阪へは帰ってこなかった。

さすがに心配になって、僕は恭子の実家へ電話してみたのだが、なぜか「現在使われておりません」というメッセージが流れるだけで電話はまったく繋がらなかった。

それから僕は、恭子が福島の部屋へ帰っているのではないかと思って尋ねてみると、部屋は空き家になっていた。


僕が立ちすくんでいると、ちょうど大家が不信そうに出てきたので、恭子のことを聞いてみた。


「藤村さんは7月に実家へ帰られて、ずっと空き家ですよ。」

僕はそれを聞いて愕然とした。恭子は島へ帰るとき、一切合切の荷物を島へ送って部屋を引き払っていたのだった。

大学でも恭子のことを聞いてみたが、彼女は7月で中退したと言われた。

不安が僕の心の中を行ったり来たりしていた。あの時彼女が見せた涙が、悪い予感へと繋がっていくような気がした。


僕は、大学の構内を探し回って絵里子をつかまえると、恭子のことを聞いてみた。

絵里子は、「うーん、わかれへん」と答えた。

僕は絵里子の前に立ちふさがると、

「なんでや、おまえ何か知ってるやろ。」と強い口調で問い詰めた。絵里子は僕を両手で突き放すと、

「知らんってば!。仁史が知らんこと、なんでうちが知ってるん!」と言った。

僕は肩を落とすと、「そっか、ごめん。」と謝り、その場を立ち去ろうとした。

すると絵里子は、僕に近づいてきて、

「あんね、ほんまにわかれへんねん。ほんまやで。でも、前にうちと恭子ちゃんとふたりで会ったとき、実家に帰る、ゆうて泣いててん。どうしたんか聞いてんけど、「大丈夫」言うてなんにも教えてくれへんかってん。」と言った。

それから僕と絵里子は相談して、電話をかけてみたり、彼女の消息をつきとめようとしたが結局はなにも解からなかった。


それからしばらく、僕はずっと恭子のことを考えていた。

バイトも辞め、学校も度々休むようになった。ただ恭子が戻ってきてくれるのだけを待っていた。

しばらくして、絵里子から電話がかかってきた。

「もう、恭子ちゃんのことあきらめ。たぶん恭子ちゃんにもいろいろ事情あったんやわ。」

彼女にそう言われ、僕は止め処もなく涙が溢れ、もう何も言えなかった。

僕はなにもかもが自分の周りから消えてしまったような、どうしようもない喪失感の中で、ただ生きているだけだった。

もう、何を見ても笑うこともできず、時折押し寄せる悲しみの感情を押し返す力もなく、ただ、恭子が戻ってくれることだけを祈っていた。

電話が鳴って僕が出る。電話の向こうからは恭子の声が聞こえてくる。

あのやさしいイントネーションで、「ごめんね、遅くなってん。」そう言ってくれたら僕はどんなに救われるだろう。そう思うとまた感情が溢れ、ただ布団にうつ伏せるしかなかった。

僕は長い迷路の中にいた。朝も夜も、どうしても抜けられない闇の迷路をさまよっていた。


僕はどうしてこんなところにいるのだろう。僕はどうしてこんなに苦しんでいるんだろう。

なにもできなかった。まるでテレビのチャンネルをどんなに回しても、何も見ることも聞くことできず、ただ、暗い画面を見つめているだけのようだった。

自分だけがどうしてこんなに苦しまなければならないのだろうと思っていた。僕は恭子に捨てられたのだろうか。

だんだんとそう思うようになってきていた。


島のフェリー乗り場で僕を見送り、いつまでも手を振ってくれていた、あの彼女のかわいらしい姿を、僕は10年経った今でも思い出すことができる。

そう、結局それが、僕が恭子を見た最後だった。

ある夜、僕はひとりで京橋の居酒屋へ行き、酒を浴びるほど飲んで、恭子とよく行った大阪城公園へふらふらと傘もささずに歩いていった。

それから川のほとりの手すりに寄りかかり、いつまでも流れを眺めていた。

流れていく暗い水の中に時折、ニューオータニやビジネスビルの明かりが反射してきらきらと光っていた。

すぐ側の鉄橋をいつものように、大阪環状線のオレンジ色の電車が何度も通り過ぎていった。

僕は暗い川の流れの中に、恭子との思い出を手繰り寄せようとしていた。

僕は恭子と付き合い始めたときのことを思い出していた。


その年の春、大阪城公園の梅が奇麗に咲いていたころだった。恭子と僕はまだ友達だったが、僕はそれより半年も前から恭子のことが好きだった。いつも恭子のそばにいたし、僕が誰より彼女に近かっただろう。

ただ、好きだとも言い出すこともできず、ただいつも彼女を守るように一緒にいるだけだった。

ある日、同じ学部のひょろっとした男が、僕に封筒を渡すと恭子に渡してほしいといった。

見かけは頼りなさそうな男だったが、優しそうで、人の良さそうな男だった。

封筒の中の手紙は、おおよそラブレターのたぐいか、コンパの誘いに決まっている。自分で渡せばいいだろうと言おうと思ったが、この男が恭子を誘ってるのは見かねるので、引き受けてしまった。僕はその手紙を捨ててやろうと思ったのだけど、卑怯なこともできないと思ったのでしぶしぶ恭子に渡した。

「どうせつまらない誘いやから、捨ててしまい、そんなんいらんやん。」

僕がそう言うと彼女は笑っていたが、手紙を持って帰った。

次の日、彼女は僕にかわいい水色の封筒を渡すと、その男に渡してくれと言った。封筒は糊付けしてなく、中を見ようと思えば見れたけれど、僕はそれもできず男に渡した。渡す時、「恭子から。俺は中を見たりしてないから」と言うとそいつは、「ありがとう」と言った。

それから恭子は、阪神百貨店へ行こうと言うので、僕がどうしてかと聞くと、バレンタインのチョコレートを買うのだと言った。

「おまえ、もう3月やでぇ。」というと彼女は、「いいねん。」と答えた。僕は胸を締め付けられるようにやるせなくなったが、

「まっ、恭子にも好きな人いるやろうしなあ。いつも俺がそばにいてたらあかんのかなあ」と言った。そういうと彼女は笑っただけだった。

百貨店の地下で彼女は銀紙に包まれたチョコレートがたくさん詰まった箱をプレゼント包装にしてもらい、メッセージカードも貰っていた。

それから僕らは百貨店のフロアを順番に見てまわった。彼女は女性服売り場を楽しそうに見ていた。

僕はマネキンに着せられた服を見ながら、きっと自分の気持ちを解かってもらいたかったのだろう。

「恭子はかわいいからなんでも似合うで。」と言った。


それから僕等は、最上階にある喫茶店に入った。彼女は筆箱からカラーペンを出すと、メッセージカードを書き始めた。そして僕に「見んといて」と言った。

「ああ、まあゆっくり書き。」そういうと僕は、仕方なく壁にかけてあるシャガールを見ていた。

その時まで僕は、タイミング的に見て、あの手紙を書いてきた男のためにチョコレートを買ったのだと思い込んでいた。

彼女はカードを書き終え、チョコレートの箱に添えると、「はい」と言って僕に渡した。

僕は肩をすくめると、「また、おつかいに行かなあかんの?」と聞いた。

すると彼女は、顔を真っ赤にして、「ううん、仁史くんに。」と言った。

カードには「これからもずっと一緒にいてください」と書かれていた。

あの男からの手紙は案の定ラブレターだったらしいが、彼女は断りを書いて僕に渡させていたのだった。

そのときの僕の喜びはたいへんなものだった。

僕はテーブルごしに彼女のちいさな手を握ると、

「俺も恭子のことがずっと好きやってん。なかなか言えなくてごめん」と言った。

彼女は恥ずかしそうにうつむくと、繋がれた自分の手と僕の手をを見つめ、小さな声で「よかった」と言った。

その日は僕の人生の最良の日だと思った。


そして次の日、僕らは学校をさぼり、ふたりだけで手をつないで、春の日差しが眩しい大阪城公園を歩いていた。

まだ風は少し冷たかったが、紅白の梅の花がきれいに咲いてあちこちに春の香りが漂っていた。

芝生の緑も、土の香りも、襟元を吹き抜けてゆく風も、春の訪れに全てが鮮やかで目を覆うほどの明るさだったが、僕にはどんなものも、いつも隣にいてくれる恭子が、時折見せるやさしい笑顔の眩しさにはかなわないと思った。

彼女はひとりの女性なのだ。そして彼女も僕も、人間にしかすぎないのだ。やがては年老いていく存在にしかすぎない。

しかしその春の日、彼女の若さは、健康美に満ちた肉体と優しい心を、完璧なまでのバランスで存在させて、溢れるほどの生命力と輝きを放っていた。

そう、それにあの時、僕も輝いていたのだろう。

彼女も僕を、あの早春の日の陽差しのように暖かく、眩しい存在と思ってくれていただろう。


帰り際、僕はホームのベンチで彼女の肩を抱いた。内回り電車が来ても彼女は乗ろうとせず、「もうすこし一緒にいたいん」と言った。オレンジ色の電車は次々に止まっては、過ぎていった。


僕は酔った頭で彼女との思い出を回想しながらいつか、川縁にへたりこんでいた。

秋雨前線は今日も朝から雨を降らせていた。

空を見上げると雨が、鈍い銀色の矢のように地面や、僕の顔に落ちてくるのが見えた。

雨は暗い川の水面に落ちては無数の波紋をつくり、そのたびにビルの明かりや、電車の室内灯を反射させ、細かい光の粒になって輝き瞬いていた。

・・・恭子、おまえどこにいったん。もうふたり終わりなんか?・・・。

彼女の消息がわからなくなってまだほんの数ヶ月だったが、僕には10年も経ったように感じられるほど辛い日々だった。

まだどこかで、恭子は必ず帰ってきてくれると思っていたのだろう。

ただそんな希望だけにすがって、毎日を過ごしていたように思う。


11月も終わり頃になって、僕はひさびさに大学に行った。

両親からは、酒とたばこに溺れていると叱られ、学校に行かないのならやめてしまえとも言われた。

それでもなんとか立ち直ろうとはしていた。

大学で絵里子と会った。絵里子も恭子の実家に何度も電話したり、手紙を書いたりしてくれたようだったが、電話はかからず、手紙は全て戻ってきてしまうらしかった。


僕は絵里子に、「島へ行ってみようかなあ。」と言った。

彼女は、

「そんなんやめとき、そっとしといたげるんが優しさやで。」と優しく諭すように言った。

そう言われて僕は、またぼろぼろと泣いた。絵里子は困っているようだったが、

「恭子ちゃん、きっと幸せになれる道を見つけたんちゃうかなあ。仁史やって、恭子ちゃんが幸せになったらええやろ?。」と言った。

僕はもうなんとも言えず、ただ頷いただけだった。

大学に面した民家には小さな庭があって、白やピンクのコスモスが植えられていた。コスモスは、まだ咲いていたが、実が膨らんでたくさんの種を宿していた。



それから僕はなんとか大学を卒業し、今の会社へ入社した。

それから洋子と知り合った。洋子は明るい性格で、前向きな女性だった。

僕と洋子は最初、それほど惹かれあったというわけでもなかったのだが、それでもお互い興味のあったことや、話題が合ったのだろう、ほどなくして結婚し、娘が産まれた。

今僕は、洋子の気配りがきいて、一生懸命に生きようとする姿を見ているとなにか逞しさのようなものを感じる。

そう、娘が植えた、ベランダのプランタで精いっぱい咲くちいさなひまわりのように。

そんな彼女に僕は、安心感を感じている。そして家庭をもつことの幸せと喜びを感じているだろう。彼女も僕をそう思ってくれているだろう。娘が産まれてしばらくは何かと大変だったが、それでも僕等3人家族はま

娘が産まれてしばらくは何かと大変だったが、それでも僕等3人家族はまあまあ幸せなんだと思う。

恭子の記憶はだんだんと色褪せてゆき、島でのことも遠い思い出となっていた。

あれからもう10年が経ったのだ。


僕は隣に寝ている洋子を起こさないように、静かに布団を抜け出すとリビングへ行き、ソファーに腰掛けた。

それから恭子から届いた葉書と地図をならべてみた。

「御荘」というのは四国の愛媛の地名だ。愛媛のかなり南の方にある町だ。

いっそのこと御荘まで行ってみようか、彼女の手がかりがつかめるかもしれない。


僕は一瞬、安直にそう思った。


−−今とても幸せです。私、あの日から永遠なものを見つけました。−−


そう、彼女は今幸せなのだ。

僕が行ったところで、あの日僕が島へ行った時のようにはいかないのだ。

僕に会いたいのならば、住所くらいは書いたはずだ。

今はそっとしておいてやるべきだろう。

僕がいなくても、彼女が今幸せであること、それだけは確実なのだ。

ただ、この葉書は僕に何かを伝えようとしていることも確かだ。

恭子の姓は変わっていない。彼女はまだ独身なんだろうか。いや、姓を変えていたら、僕はこの葉書の差出人があの恭子だと解からなかったかもしれない。

そう思って恭子は旧姓を使ったのだろうか。

僕は確実なことと不確実なことを自分の心の中へならべ、今はもう過ぎ去って遠くなってしまった日々に思いを馳せていた。

恭子はどうして僕から去っていったのだろう。

今となっては、それは遠い日に起こったことに対しての疑問なのだ。今更それを引き出してどうなるものでもないだろう。

それでも僕は、彼女の葉書に書かれた文字を見ると胸が熱くなった。

今彼女は30才になっている。僕と同じく幾分老けただろうか。それでも、あの白くて美しい指で、僕のためにこの文字をしたためてくれた。僕のことを忘れず、覚えてくれているのだ。彼女が僕から去っていったのは、僕を好きでなくなったからではないのだ。それもまた確実なことだろう。

きっとなにかどうしようもない事情があったのだ。

僕は、今はもう思い出でしかない出来事の、意味や答えを探そうとしていた。


絵里子が言ったように恭子は、四国の金持ちかなにかと見合いして、嫁いでいったのだろうか。いや、それなら彼女は僕にそう言ったはずだ。それとも言えなかったんだろうか。

島の喫茶店で彼女が見せたの涙の意味は、それを言い出せず、ただ涙を流すことしかできなかったということなんだろうか。

もっと考えられそうなことはないだろうか。

・・・例えば親の転勤かなにかで、この四国の辺境の地へ引越したとする。

たしか彼女は「家の用事」と言っていた。

その後、絵里子が言ったように見合いをして結婚したとして、今は子供もいるとする。そして、「今とても幸せです」という言葉につなげると納得ができた。


そうと仮定して、「あの日から永遠なもの」とはなんだろう。

そういえば確かに彼女は、あの満天の星空の下で、「ここから永遠なものってあるん?」と聞いた。

彼女が書いた「あの日から永遠なもの」の「あの日」とは、あの夜のことに違いないだろう。

あの日、あの夜、彼女といたのは僕だけだ。あの夜、僕は恭子を抱いた。それが彼女には生涯忘れ得ないような衝撃的な経験になったという意味だろうか。

いや、それを説明するのに「永遠なもの」というのは大袈裟すぎる。


あの夜、僕は彼女に「俺の愛は永遠や」と言った。

恭子は今も僕の愛を信じていてくれているのだろうか。


僕は自分の中で、考えられる説をまとめてみることにした。

10年前、恭子の実家は「家の用事」で愛媛へ引越しすることになった。

恭子も一緒に行かなければならない事情があったのだろう。それで誰にも言わず、

福島の部屋を引き払い、大学を中退した。そして僕を島へ呼び、ふたりだけで最後の時を過ごそうとした。島の喫茶店で彼女は、僕に全てを話すつもりだったが、結局は何も言いだせなかった。

その後、彼女は結婚して、僕と同じようにもう子供もいるかもしれない。独身でいるのかもしれない。ただ、今は幸せでいるのだけは確かだ。

そして僕とのことを心の中で、楽しかった思い出として永遠に愛してくれている。


「あの日から永遠なもの」とは僕と過ごした、楽しかった日々の思い出のことなんだろう。

そう、あの日から僕は恭子の思い出になり、恭子は僕の思い出になった。


きっと、恭子も僕と別れてからはたくさん泣いて、そして苦しんでいたのだろう。

僕はひとりで長く暗い迷路を歩いていたのではなかったのだ。

彼女と一緒に、いつ果てるともなく長く感じた、あの辛い日々を共に歩いていたのだ。

ふたりで過ごした楽しかった時も、会えなくなって辛かった時も、もう取り返すことのできない大切な時間を、共に一緒に歩いていたのだ。


10年も経って葉書をよこしたのはどうしてなのだろう。

たしか僕が島へ行ったあの日は、10年前のちょうど今ごろだった。

彼女は覚えているのだろう。

あの暑かった夏の日、彼女の島で一緒に過ごした時を、鮮やかな思い出として今も覚えてくれているのだ。

そう、今僕が、ふたりで過ごした日々のことを思い出しているように、彼女もまた、あの楽しかった日々の思い出の中へ戻ろうとしている。

そして今も、あの日の続きをふたりで歩いているのだ。


僕らは満天の星空の中、ひときわ明るくきらめく星をみていた。


「10年は長いかなあ、短いかなあ、俺は10年後は恭子と結婚して、子供もいるかなあ。そのときがきたらまた一緒に星を見よう。」


そう、僕はあの夜、確かにそう言った。


「星や・・・恭子は星のことを言ってるんや・・・」


僕は慌ててソファーから飛び起きると、ベランダへ走り出た。

もちろん星を見たところでどうなるというものでもないことは解かっていたが、僕にはそれだけが、今は遠く離れてしまった恭子と自分を唯一、繋げてくれるもののように思えた。


「ここは14階や。ここからでも見えるはずや」

僕はそう呟くと、ベランダの手すりに体を預け、空を見上げた。

名神高速の上空には排気ガスと低い雲がかかって、星はひとつも見えなかった。

僕はただ、いつまでも暗い灰色の空を眺めていた。


「・・・恭子、おまえ、幸せになったんやな。よかったなあ。

俺も幸せになったで・・・。

恭子、俺も恭子との思い出、永遠に忘れへんから。

これからもずっと幸せでいるんやで・・・。」

僕は目頭が熱くなり、涙が溢れるのをこらえるしかなかった。


寝室から洋子が起きだしてきた。


「なにしてるん?」


「ん・・・星を見てるんや。」


「星なんか見えへんやん。」


「・・・いや、見えるんや。・・・そう、見えるんや。」


「変なの。・・・でも涼しくて気持ちええなあ。」


「・・・そうやなあ・・・。」


「なんかあったん?」


「いいや、ちょっと寝られへんかっただけや。」


洋子はくすくすと笑うと、

「あの葉書の人のこと考えてるん?」と聞いた。

僕はテーブルに地図と葉書を、並べておいたままにしてあることを思い出した。


きっと洋子はそれを見たのだろう。僕は洋子を見つめ、微笑みながら、

「・・・もう、遠い遠い昔の話や。」と言った。


洋子は、両肘をベランダの手すりにのせ、僕の顔を覗き込むように見つめると、

「思い出、大切やもんね。」と言った。


その時、僕には彼女の言葉が、恭子からのメッセージのように聞こえた。


僕は洋子の肩を抱きよせると、

「葉書の彼女、今幸せなんやそうや。僕等もたくさん楽しい思い出つくろうな、幸せでいような。ずっと永遠に。」と言った。

そう言うと洋子は「変なのぉ」と言い、けらけらと笑った。


「さあ寝よか。」


僕は洋子の肩を抱くと、そっと部屋へ戻した。そして振り返り、もういちど空を見上げた。

暗い灰色の空の下をヘッドライトの川が流れていた。


*** あとがき***


僕が書く小説というのは大体いいかげんです(笑)。なんとなく思い付きで書き始め、なんとなくできてるという感じです。

大阪は、僕が学生時代を過ごし、その後長く勉めていたところです。

そして、小豆島はバイクツーリングの好きなコースです。まあ、この辺を舞台にして・・・なんていう感じでいいかげんに書き始めました。

登場人物の仁史という名前は学生時代の友達の名前に近い名前にしたのですが、

なんとなく思い付いただけで、特に彼を書いた訳ではなく、モデルは書いた僕に他ならないと思います。

恭子は、なぜ「恭子」なのかというと、え〜っ、いいかげん!って思われるかもしれないですけど、ちかくにあった雑誌に深田恭子ちゃんが乗ってたから。(笑)


ただ、恭子のモデルは深田恭子ではなく、実はちゃんといるのです。昔、よく大阪城公園に遊びにいった女の子がいます。その子は僕よりはかなり若くて、単なる友達だったのだけど、瀬戸内沿岸出身の彼女の、飾らない性格とやさしい言葉が好きでした。もちろん彼女とこの話のような体験をしたわけじゃないのだけれど、「恭子」がその彼女から派生していることは確かだと思います。僕は瀬戸内の自然や雰囲気が好きです。バイクでもよく走りにいきます。


そのあたりからこの話を作りました。この話のテーマは、「思い出、大切やもんね」です。


なんしか、ややこしかったのは、今物語を書いてる自分は、先ほどまで舞い込んできた葉書のことで10年前の夏の自分を思い出し、その中で10年前の秋の自分は、その年の春の自分を思い出している、みたいなところかなあ。笑


あと、最初仕事から帰ってきた自分は、つい先ほどの自分だから、出来事だけをうす〜く書いています。人間って、今起こっていることとか、今自分がいる場所の事って、見てるようであんまり見えてないと思います。よく見えるのはあとになって、あの日は。。とか、あの時は。。って感じで、客観的に思い出す時だと思うん。もちろん、そのときよく見てたわけじゃないから、誇張や演出があったりもするのかなあ。


それから、地名には実名を出していますが、地理的には正確なわけではありません。主人公は10年前のことを思い出し、書いた僕も10年前の記憶、小豆島に行ったときの思い出とイメージでいいかげんに書きました。(笑)


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