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第一部

ここから永遠に


序章


過ぎ去った時というのはもう戻らない。それが楽しい日々であったとしても。

そして人は、もうどうしようもないと知りながら時に遠く過ぎ去った日々に思いを馳せる。

人生はまるで未来へ遠く続く一本道のようでありながら、時として遠い過去へ触れる時もある。

そして、かつて見出すことができなかった答えに近づく時がある。



僕が住むマンションは吹田にある。尼崎の会社へは車を使って通勤している。

梅雨が明けたとはいえ今日も蒸し暑い一日だった。雨は降らなかったが陽は差さず、とても快適とは言えない陽気だった。

暦の上では夏だろうが、まだ雨がちょくちょく降りそうだ。

僕は仕事を終えると、エアコンの効きの悪いぼろセダンを走らせて帰宅した。


うちは妻の洋子と、子供はまだちいさい娘がひとり。どこにでもいそうなサラリーマン家庭だ。

ようやく育児がどうのという問題も解決し、まあ、周りからみれば、平凡だが幸せそうな家庭に見えるのだろう。

まあ、普通というのがいちばんなのかもしれない。


自宅に着くと娘はもう寝ているようだった。僕はいつものように「ただいま」と言い、洋子もいつものように「おかえり」と言ったきり特に話すこともなく、ネクタイを外して、リビングに置かれた布製のソファーに腰掛けた。


目の前に置かれたガラスのテーブルには、洋子が買ってきた女性誌、娘の絵本に新聞と、今日届いた郵便が無造作に置かれていた。


クレジットの明細、折り込みのスーパーのチラシに、どのみち開けずに捨てるだろう広告の封筒のたぐいが散らかっていた。


キッチンからは、がちゃがちゃと洋子が食事の用意をする音が聞こえた。僕はなにをするでもなく、ただ無意識に新聞の上に置かれたテレビのリモコンを手に取ろうと手を伸ばした。


と、そのとき、印刷ばかりの郵便物の中に一通の手書きの葉書があることに気がついた。

宛先は小さな女性の字で書かれていたが、書かれているのは僕の実家の住所だ。


差出人を見ると「藤村恭子」と書かれているだけだった。


僕は記憶の中からその名前を引き出していくうちに、胸に大きな衝撃を受けたような気がした。僕はただ呆然と葉書の内容に目をこらしていた。


−−暑中お見舞い申し上げます。


お元気ですか。


今とても幸せです。私、あの日から永遠なものを見つけました。−−


水色の朝顔の花が印刷された私製葉書には、ただそれだけが書かれていて、切手には「御荘郵便局」という消印が押されていた。


僕が葉書を眺めていると、洋子がそれに気づいたのかキッチンから出てきて、「それ、お母さんが持ってきてくれてん。誰から?」と聞いた。


僕はとっさに平然を装い「大学のときの友達や」と言った。

それからしばらく考えると「この子このあいだ結婚したらしいわ。」と答えた。

洋子は「ふーん」といっただけで、それ以上詮索しようとはしなかった。

僕は動揺を隠すようにその葉書をテーブルに放りなげ、食事と風呂を済ませると、さっさと布団へ潜り込んだ。洋子はすぐに寝息を立てはじめた。




恭子・・・そう、恭子。どうして今になって彼女から葉書が来たのか解からなかった。そして「あの日から永遠なもの」という言葉が、僕の記憶の中にかすかに見え隠れするのを感じた。

僕は忘れかけていた学生時代の記憶をそっとたぐっていった。

彼女が書き綴った言葉が、僕の記憶を映画のように鮮やかに甦らせていった。





今からちょうど10年前、たしか3年の夏休み前のことだった。僕は西日のさす鶴橋の駅から、発車間近の満員電車に駆け込んでいた。

連日雨が続いてうんざりしていたのだが、その日はめずらしく午後から雨があがり、久しぶりの太陽を見ることができた。

僕は走り出した列車の窓から、通り過ぎてゆくホームの天井に吊り下げられた時計を見ていた。大急ぎで大阪駅の待ち合わせ場所へ行かなければならなかった。


途中、夕陽が大阪城の木々の緑に反射して眩しかった。天守閣の屋根はそれに合わせるように鮮やかな緑笙の緑色を見せていた。

あの日は週末だったので列車はキタへ遊びに出掛ける若いカップルやサラリーマンでごった返していていた。


あちこちで聞こえるがやがや楽しそうな話し声や、駅の自動音声や列車の振動が、西日に映える列車のオレンジ色などと折り重なって、大阪環状線の週末の夕景を賑やかに描き出していた。

僕は右手で肩からザックが落ちないようにストラップを握り、左手で人の手で脂っぽくなった吊り輪を握って、通り過ぎる夕景の、工場やビルディングのひとつひとつを目で追いかけていた。

列車が上下に揺れるたびに肩や背中に重くのしかかるザックの中には、A4サイズの大袈裟なカバーの付いた経済学の本とノート、折りたたみ傘と、まるめたデニムジャケットが詰め込んであった。


僕はそれを足下に降ろすと、のろのろと走る列車にため息をついて、また窓の外を眺めた。

きらきらと夕陽を受けて、黄金色に光る川の水が通り過ぎていった。


大阪駅へ着きドアが開くと、僕は真っ先にホームを駆け始めていた。

プラットホームは、やや涼しくなり始めた時間とはいえ、大勢の人々が行き交い、熱気にあふれていた。大きなバックを抱えている観光客らしい一団や、中年のサラリーマンや、薄着の派手な化粧の若い女性たち。

そこへ今到着した列車の群衆がなだれ込み、下り階段から改札へ向かう通路は人の川の大きな流れになった。

この駅はなぜか、僕にはいつも同じ光景に見える気がした。

中央口に通じる階段の前には四畳ほどの広さのキオスクがあり、その前に、業務を終えたどこかの会社の新入りたちだろうか、スーツ姿の五、六人の男女の一団が、売り物の丸められた新聞紙の一面をを指さして笑ったり、肩をつつきあったりしていた。


僕はその横を通りすぎると、人の流れを避けて、階段の前まで駆け足でやってきた。それまで僕は、だいたいいつも時間厳守だったが、その日に限って学校で、来年の就職活動のことや、前期試験の範囲のことやいろいろと話をしていて、つ

いつい遅くなってしまっていた。

僕は恭子を待たせているのがとても気になっていた。彼女はもう来ているだろう。


約束の時間を10分ほど過ぎていた。


人を待つのに10分は長い時間だろうか、それとも短い時間だろうか、そんなことを気にしながら、中央口に続く階段を人混みをかきわけながら早足に駆け下りていった。

僕はたくさんの広告ポスターが壁に貼られた通路から、さらに低くなっている改札口の前の階段も駆け下り、リー・ライダースのコインポケットから切符を取り出し改札員に手渡すと、中央口の広い駅構内へ踊り出た。

駅舎の中に作られた噴水の周囲は、人待ち顔の大勢の若者達で賑わっていた。

八角形に縁取られた噴水の一角には模造の大きな木があり、その前まで駆け足で回り込んで行くと、すぐとなりにある小物屋かなにかの硝子のウィンドウの前で、僕は恭子を見つけた。


彼女は僕に気が付くといつもの笑顔を見せた。僕は軽く手を合わせるしぐさをして、「ごめん。遅れた・・・」と言った。

彼女は、ちいさなバッグを持った左手の手首に右手をそっと重ねるような仕草すると、ややうつむき加減に、

「今日、忙しかったん?」と聞いた。

「学校で試験の話しとってん。おまえなんで今日こうへんかったん?」

僕がそう聞くと、雑踏のなかの二人に僅かな沈黙が訪れた。

僕は次の言葉を考えながら、彼女の薄いピンクのブラウスと彼女の細いうなじを見つめていた。


彼女の装いの中にある着こなしは、彼女が生まれついてここで暮らしてきたような印象をあたえていたが、彼女が話す言葉の中にあるやさしいイントネーションには、どこか、ここではない遠い土地の人という印象があった。


彼女の洗い晒しのジーンズは、彼女の太股の柔らかなカーブを美しく浮き上がらせて、穏やかで暖かい印象を演出していた。


「あほちゃうんか、単位取れんかったら、おまえ卒業できんようになんぞ。」

僕は優しく諭すように言った。きっとどう話を切り出していいのかわからなかったからそんなことを言ったのだろう。


彼女は僕の胸のあたりを見つめて、「うん」と頷いた。

駅舎の天井をガタンゴトンと大きな音をたてて電車が通り過ぎていった。僕は、彼女のその反応が「解ったこれから気をつけるよ」という意味なんだと思ったが、「もうどうでもいい」っていう意味にも取れて、なにかしら気になるものが残った。


僕等は駅舎を出ると、行き交う大勢の人々の流れを避けながら、阪急電車のりば方面へ通じる大きな横断歩道を渡り、それから、阪急梅田駅へ通じている「動く歩道」に飛び乗った。

僕は移動している歩道の上をさらに歩くつもりだったが、彼女が立ち止まったので、しかたなく彼女の前で歩道の手すりに背中からもたれかかって、流れる景色と彼女を交互に見ていた。

恭子と僕は、2年のはじめに同じ大学で知り合った。同じ学部で学んでいたが、経済学なんて、ただなんとなくで、僕も彼女もそれほど興味があるわけではなかった。

知り合った頃の彼女は、垢抜けない地味で目立たない子といった印象だった。それでもお互い興味のあったことや、話題が合ったのだろう、今年の3月に僕等は友達を卒業して恋人同志としてつき合うようになっていた。


僕は恭子を見ていた。背景を通り過ぎていく百貨店の広告看板も、通路を行き過ぎる人々も僕にはカメラのレンズを通すように大きくぼけて、ただ最近口数が少なくなった彼女の、美しく成長した姿だけがはっきりと見えているだけだった。


日々輝きを増していくような、彼女のやさしさの中にある飾らない美しさは、いつか自分のものでなくなってしまうような気がして、僕は胸を締め付けられるような切なさを感じた。


僕等が歩道の終わり近くに差し掛かったころ、彼女は手すりに置いた自分の指と僕を交互に見ながら、


「あんな、今日な、仁史に話したいことがあってん。」と言った。

僕は、「どうしたん?」と聞いたが、彼女の話を聞く間もなく歩道が終わった。

僕は先に降り、彼女はそれに続いた。


彼女は僕の歩調に追いつくように静かに二、三歩駆けると、僕の背中に向かって「あとで話すわ。」と言った。


それから、阪急電車の乗り場の近くにある、地下街に続く階段を降りた所にある喫茶店に僕等は入った。


店の中は、白い壁の部屋に大小のニス塗りの木製のテーブルが二十ほどあり、このあたりにしてはめずらしく落ち着いた雰囲気が漂っていた。


僕等はマホガニー色に塗られた四人掛けのテーブルに無言で向かい合って座ると、店員が注文を取りにくるのを待った。バックには場違いな洋楽が流れていた。


やがて、白いシャツに黒いジーンズ姿の女性店員がメニューを持ってきた。僕はアイスコーヒーと、彼女はアイスオーレを注文した。

僕はおしぼりや、それを包んでいたセロファンの袋をテーブルの上に散らかすと、肘をテーブルについて指をくんで、なにげなく店内を見回していた。


しばらくの間沈黙が続いていたが、彼女は一瞬僕の顔を見て、そしてまた目をそらすと、

「私、夏休みに入ったら、しばらく実家に帰んねん。ちょっと家の用事があんねん。」と言った。


僕は彼女にどうかしたのか聞こうとしたが、ちょうどその時、先ほどの店員が二本の細長いグラスに注がれた、黒とベージュ色のよく冷えていそうなコーヒーを持ってきた。


彼女は、運ばれてきたグラスの氷をストローでかき混ぜながら、ややうつむき加減の表情を見せていた。

彼女の繊細な指の間から涼しげな音が響いて、どんどん暑さを増していく大阪の街の中でそこだけがオアシスのように思えた。

「どうかしたんか?」

僕が聞くと、彼女は指をとめ、

「ううん。別に。だいじょうぶ。」と言った。

「そっか、おまえ実家どこやったっけ?」。僕が聞くと彼女は、

「前にゆうたやん。瀬戸内海の小豆島やで。」となぜか僕に目を合わせようとはせず、鈍く光るマホガニー色のテーブルの一点だけを見つめて答えた。


僕は小学生の頃から地理が苦手だったが、それでも頭の中でいい加減な形の本州と四国を思い出し、その二つの陸地の間あたりにある小さな島を想像した。


「そっか・・」


僕はしばらく会えなくなると思うと淋しかったが、彼女は、僕の気持ちを察したのか、

「でも電話するから」と明るい調子で言った。


僕はそれ以上彼女自信の事や、まして実家のことまで詮索するのは良くないと思ったので、「わかった」とだけ答えた。


僕等はそれから話題を変え、学校のことや、新作の映画の話や、友達の失敗談や、とりとめのない話をしてふたりで笑った。


すっかり長居して店を出ると外はすっかり暗くなっていた。僕等は交差点を渡り、若者たちでごったがえしている東通り商店街の中にある居酒屋へ入った。


そこで夕食を摂ってビールを飲んだが、とりとめない笑い話はそこでも続いた。

帰り際、彼女は酔って足取りがふらついていた。僕は彼女のブラウスの肩に腕を回し、自分の胸に抱き寄せるように大阪駅に向かって歩いた。

彼女は気持ちよさそうに、甘えるように僕の肩に頭を乗せていた。

僕はなぜか、せつなくて不安な気分になって、ずっと彼女が自分のものであってほしいと思った。


夜の東通り商店街はその日も遅くまで賑わいを見せていた。ゲームセンターの喧噪や、居酒屋やカラオケの色とりどりの照明やネオンが僕等を包んでいた。

僕は、彼女が他の人間にぶつかったりつまずいたりしないように、優しくかばいながらゆっくりと歩いた。


そういえば、彼女とつき合い始めた頃、僕等は学校をさぼって大阪城に行ったことがあった。

その帰り、夕暮れの大阪城公園の駅で彼女が住んでいる福島の駅へ向かう内周り電車をホームのベンチで待ってる時、僕は始めて彼女の肩を抱いた。たくさんのサラリーマンが帰宅の途に着く頃、電車は次々に到着したが、彼女は、次のを待つ、次のを待つ、と言ってずっと僕に抱かれていた。

僕はそんな彼女の、健気に僕だけを想ってくれて、こうやって安心して僕に抱かれている愛らしい姿を見ていると、いっそのこと今夜彼女を部屋に帰さず、このまま一緒にいようかと思ったりした。それでも駅が近づくにつれ、彼女の足取りはしっかりとしてきたので、今日は帰してゆっくり休ませようと思った。

大阪駅に戻る途中、すでに営業を終えた灯りの消えた百貨店のショーウィンドウの横の、人目につかない一角で、僕は恭子を抱きしめた。それから右手の親指を赤く染まったやわらかな頬に押し当てて、手のひらで細い首筋を包むようにして唇を重ねた。リードされるままに瞳を閉じた彼女の奪われた唇から、小さな喘ぎ声がもれた。


彼女の髪の匂いや、息づかいや赤くほてった頬の熱や、それになんとも言えないせつなさが僕の中にひろがった。

「好きよ・・」僕よりも先に、艶を帯びた細い声で彼女は言った。

「俺も大好きや」僕は優しくそういうと、もういちど彼女を強く抱きしめた。

どこかの居酒屋の広告が風でさらさら音を立てながらと飛ばされていった。

御堂筋を行き過ぎるヘッドライトは川のように絶えず黒いアスファルトの上を流れて、街灯の明かりが僕等をやさしく包んでいた。梅雨の蒸し暑い空気は、彼女の首筋をうっすらと湿らせて優しい香りを漂わせていた。僕等は光の川の中に沈んでいくような錯覚の中で、お互いの気持ちを確かめあっていた。


彼女は「ひと駅やからだいじょうぶ」といったが、僕は内周り電車で彼女を福島の駅まで送り、そのままぐるりとまわって鶴橋駅まで戻ることにした。彼女の部屋は福島駅から10分ほどのところにあったが、僕は、恭子が酔った足取りで一人で歩いて帰ると思うと、たとえ10分でも長い時間に思えて気になったので、「おまえ、今晩電話してこいよ。」と言った。

僕等が乗った列車が福島駅に近づくと彼女は、

「今日はありがとう。」とまた頬を赤くして言った。


彼女が降り、ドアが閉まって列車が動き出すと彼女の姿は視界の左の方へ流れて行った。彼女は僕に笑顔を見せて、指先を軽く振ってみせた。僕は早足で彼女に近づこうとしたが、5、6歩歩いた所で連結器のドアに阻まれ、彼女の姿は見えなくなった。


僕は揺れる車内のドアの横に取り付けられたステンレスの長い手すりによりかかり、窓の外の夜を見ながら、今日あったことをいろいろと思い出した。

実家に帰るという彼女の言葉がなぜか気になっていた。

夏休みに実家に帰るというのはとりわけ不思議なことでもないのだが、彼女の家族になにかあったのではないだろうかとか、詮索しまいとしても気になってしまうのだった。

それに、彼女はたしか、話したいことがあると言っていたが、そんな単純なことだったんだろうか。

そんなことを思いながら硝子に映った自分の姿をぼんやりと見ていた。


車窓をきらきらと新世界の灯りが流れていった。赤、白、青、黄色、さまざまな色どりのネオンや道路の街灯は、車内の冷房で薄く曇った硝子を通してひとつひとつが光の円と放射状の光を放っていた。


僕は、鶴橋から近鉄線に乗り換え生駒の自宅に帰った。

留守番電話に伝言が残されていた。

「今日はありがと、ちゃんと帰れました。」

彼女のやさしい香りと、彼女の体の熱さまでもが、まだ僕の腕の中に残っているようだった。



次の月曜日、僕は昼前まで寝ていたが、ごそごそと起き出すと午後の講義を受けるために学校へ向かった。


学校は大阪といっても、市内からはかなり外れた場所にあって、閑静な下町の駅の近くにあった。僕は学食で朝昼と昼食を兼ねた食事を摂り、午後の眠い講義を受けた。


講義が終わると僕は、友人の明美と絵里子と一緒に外へ出た。

学校の正門へ続く商店街には、いかにもこの街らしい、下町の風情のある商店が軒を連ねていた。


学生相手の食堂や喫茶店もたくさんあり、たこ焼きや焼きそばを売る屋台まで出ていて、多くの学生で賑わっていた。


僕等は商店街を少しはずれたところにあるちいさな大衆喫茶に入った。

この喫茶店の向かいには、どこの下町にでもありそうな古い作りの玉突き屋がある。当時は玉突きが流行っていたので、そこそこの客が入り、いつも半分以上のテーブルで賑やかな笑い声がしていた。


僕は男の友人といるときは決まってそこへ通った。腕前の方は誰も似たり寄ったりだったのだが、それでも2時間ばかり、エプロン姿のおばさんの出してくれるコーラ瓶を片手に、すり切れたラシャの上で青や赤の玉を行ったり来たりさせて、

帰りにこの喫茶店に入るのが習慣になっていた。


店にはいると、開店休業のマスターは椅子に座って腕を組みながら、積まれた漫画雑誌の横に置かれたテレビで退屈そうにワイドショーを見ていた。

マスターは僕等三人を見ると僕に、「どなしたん、今日はもてもてやん」と言って笑った。


僕は明美からノートを借りると、それをザックに詰め込みながら、「ありがと。明日絶対返すから」と言った。

僕等はそれからコーヒーを飲み、いろいろと話し始めたが、話題はいつものように講義のことや、学校に関することから始まった。

途中で、マスターが割り込んできて、「今日はこれか?」といって玉を突く仕草をしてみせたので、「試験前でそれどころやないわ」と答えた。

話の流れが夏休みの予定のことになると、絵里子が思い出したように、

「恭子ちゃん、夏休みのあいだ小豆島の実家に帰るらしいわ。なんか家の用事らしいでぇ、彼女なんか最近おかしいなぁ」と言った。


僕が黙っていると絵里子はおしぼりを包んでいたセロファンを、自分の指にくるくると巻きながら、

「仁史、恭子ちゃんをちゃんとつかまえとかなあかんでぇ」と言った。

恭子は絵里子と仲が良かったので、彼女にはいろいろと話したのだろう。

僕は恭子のことを聞いてみようかと思ったが、他人から聞き出すのは卑怯だと思ったから、何も聞かずに黙っていた。

僕は週末の夜、恭子が言った「好きよ」という言葉を思い出していた。それは言葉として思い出すだけでなく、今でも彼女の熱い息づかいや髪の香りまでも、素晴らしい思い出として自分の中で再現することができた。

「だいじょうぶや。心配ないと思うで」僕が絵里子にそう言うと、彼女は笑いながら、

「わかれへんで。島に帰って、どっかのお金持ちと見合いするんかもよぉ」と言った。

僕も笑いながら、「あほちゃうか、そんなわけないやん」と答えた。


それから何日かして、前期試験が始まった。

僕は、試験対策と夕方からの中華料理店のアルバイトに追われていた。何度かキャンパスで恭子と会ったが、彼女も忙しいようで二人だけで会える時間はあまりなかった。

それでも、夜は電話でその日あったことなどを話したりした。

ただ、今のように携帯電話を学生が持ってるはずもなかったし、実家の電話を使うと母親が、長い、長いとうるさく言うので、僕は仕方なく毎晩、生駒駅近くの、人通りの少ない通りにある電話ボックスまで歩いて行かなければならなかった。


それでも恭子と話している時は至福の時間であったし、話し終えて帰る道のり、僕は星空を見上げて恭子のことを想いながら歩くのが好きだった。


試験が終わって、夏休みに入った日から、恭子と連絡がとれなくなった。

いつものように彼女の部屋に電話をしてみたのだが、呼び出し音が鳴るだけで彼女の声は聞けなかった。

僕はたぶん実家へ帰ったのだろうと思って、向こうからかけてくるのを待つことにした。

4日目になるとさすがに心配になってきていたが、その日の晩になって彼女から電話がかかってきた。

「今、島に帰ってきてるねん。準備とかいろいろで連絡できひんかってん。ごめんね。」と彼女は言った。僕は、恭子と話ができる嬉しさでいっぱいで、「そっか。」と答えただけだった。


僕は、夏休みが始まってまだ4日目だというのに、中華料理店のアルバイトに昼間からかりだされている話をした。恭子は笑ってそれを聞いていた。


「そっちの様子はどうや?」と聞くと彼女は、

「今日は家でごろごろしててん。なんにもない島やし」と答えた。

僕は笑うと、「家の手伝いせんでええんか?」と聞いてみた。

彼女は、「うーん・・たまにはするかなぁ」と答えた。

僕等はお互いのことをしばらく話した。そして二人の会話がふっと途切れたあと、

彼女が突然「あのね、」となにかを言いかけた。

「ん?」

僕が聞くと、彼女は少し間をあけてから遠慮がちに、

「あのね、仁史くん、よかったら、うちの島に来てみぃひん?」と言った。

僕は、夏休みに入ったとはいえ、彼女の突然のバカンスの提案に内心驚いてしまった。それでも、それを悟られないように平然とした様子で、

「ええでぇ、ほないくわ」と答えた。


小豆島は瀬戸内海にあったが、大阪からだと結構距離があるはずだ。僕はまた、いい加減な形の本州と四国と島の位置を思い浮かべたが、どうやって行ったら良いのかさっぱりわからなかった。それでも神戸あたりから船に乗れば、せいぜい30分くらいだろう、と見当をつけてみた。

しばらく考えてると、彼女はそれを察したのか、くすくす笑い、「あのね、岡山に”ひなせ”っていう港があるから、そこからフェリーでおいで。」と言った。


僕は岡山まで行かなければいけないのかと思ってまた内心驚いたが、再度平然と、「りょうかい。わかった。行くわ。」と答えた。


夏休みなんだし、旅行もいいだろう。少しくらい遠くても、島に行けばきっとほとんどは二人だけで過ごすことができるだろう、僕はそう思うとだんだんと嬉しさと期待がこみ上げてくるのを感じた。


次の日僕は駅前の本屋で地図をめくって小豆島を探してみた。実は神戸より西へ行くのは、中学校の修学旅行で九州の大分へ行った以来のことだった。


なにしろ、うちの母は奈良の出身で、父は金沢の出身だったので、瀬戸内海にある小さな島など、今まで何の縁もなかったし、行く必要もなかったのだった。


地図を見ると、神戸から30分くらいだと思ってた自分の間違いに気がついた。島は神戸どころか淡路島よりも遥かに西にあった。

僕は地図で、本州でもなく、四国でもない、両方の大陸が引っ張り合うような位置にあるへんてこな形の島を眺めながら、「あいつ、こんなとこ住んどったんか。」とつぶやいた。

しかし、もしかしたら恭子が産まれ育ったこの島は、もしかしたら楽園のような所かもしれないと勝手な想像をした。

地図の海上に引かれた線を追いかけてみると、小豆島へ行くフェリーはあちこちから出ているようだったが、僕は恭子に言われたとおり、電車で日生まで行き、そこからフェリーに乗ることにした。

「どうせ辺鄙な田舎の島で、たいしたことないに決まっている。」

僕はそう思い直すと、近所の高校の女の子達が芸能雑誌をあさってきゃっきゃ言っている横を通り過ぎ本屋を出た。


僕はアルバイト先に電話をして、島へ行く予定の日から4日間休みを取りたいと言った。


店長は今日は機嫌が良いらしく、いつにない優しい声で、「ええけど、そのあとはずっと入ってや。」と言った。

なんでも好景気の波に乗ってどこかの企業から転職してこの店を開いたという中年の店長は、生粋の大阪人のくせに料理の腕も接客にしても、商売はいまいちだった。機嫌が悪いとやたらと周りに八つ当たりするのは子供じみていた。それでもなにかと親切に若い連中の話を聞いたりする時もあるので、バイト仲間からの信頼は比較的に厚かった。

「はい」と答えると、彼は

「どっか行くんか?女と旅行でもいくんか?」と言って笑った。僕はバイト先で恭子の話をしたことはなかったので、彼の事を、勘だけは鋭い嫌なオヤジだと思った。


「日生に着いたら電話してぇ。」彼女はそういうと、実家の電話番号を教えてくれた。

僕は電話ボックスから出ると、いつものように空を見ていた。

低い灰色の雲がかかっていたが、予報では次の日は晴れるということだった。


僕は自宅に戻ると、目覚ましをセットして床に着いた。その当時流行っていた深夜ラジオ番組を聴きたかったが、その夜はあきらめて眠ることにした。


僕は布団の上に横向きに寝転がると、また恭子のことを考えていた。

「恭子ちゃんをちゃんとつかまえとかなあかんでぇ。」絵里子が言った言葉がなぜか枕元をちらついていた。

「ちゃんとつかまえてるやんか。」

僕はそう独り言を言うと、枕に顔を埋めた。

僕はあの夜の御堂筋の光の川の中にいた。

「好きよ・・」

僕がいちばん聞きたかった言葉だった。

僕はその言葉を鮮明に何度も何度も思い出そうとしていたが、思い出そうとするたびに記憶はどんどん色褪せてゆくようにも思えた。

思い出なんて色褪せてしまうものなんだろうか。でも、それでも恭子は確かに僕のそばにいてくれる。いつも一緒にいられるのだ。いつかふたりであの時は楽しかったねって思い出せればそれでいいだろうと思った。

やがて眠気が波のように押し寄せて来ると僕の記憶も意識も、暗闇の川底に沈んでゆくように眠りに落ちていった。



翌朝、僕は目覚まし時計の電子アラームが鳴り始める前に目覚めた。

その当時、僕の部屋は実家の2階にあった。その数年前までは一階の狭い部屋で寝起きしていたのだが、兄貴が出て行ってからは、その部屋を自分の部屋にしていた。

特に趣味があったわけでもなかったし、雑誌とテレビ以外なにもない部屋だった。

僕は煙草のやにで汚れたカーテンを開くと、サッシをいっぱいに開いて朝の景色を見渡した。何もない部屋だったけど、眺めだけはいい部屋だった。

家の前には早くも向かいのおばさんがを道路をせっせと掃いているのが見えた。

彼女が腕を動かすたびに、アスファルトからはざっざっと乾いた音が聞こえた。

部屋の中に涼しい朝の匂いが舞い込んで、煙草臭い淀んだ空気を追い出してくれた。空には薄い雲がかかっていたけれど、ところどころ青空ものぞいていた。

今日は恭子の島へ行く日だ。

僕はそう思い直すと、もういちど隣のベランダや遠くの町並みを、近くから遠くまで見渡した。

梅雨は何日か前に明けていて、どうやら天気の心配はなさそうだった。

もうどこかで蝉の鳴き声が聞こえてきた。

夕べ土の中から這い出して羽化したんだろうか。僕は、蝉の羽化後は一週間の寿命しかないという話を聞いたことがあったから、今から羽化したら八月まで生きられないのに、と思った。

まったく一週間というのは短い一生だと思ったけれど、でももしかしたら彼等にとってはほんの10分でも永遠に続くようなとてつもなく長い時間に感じるのかもしれないと、まだぼうっとしている頭で思いながら、めいっぱい伸び上がってあくびをした。

アラームが鳴り始めた。


僕は顔を洗って、髪の毛をきちんとセットした。

あまり格好など今も昔も気にしないほうだし、めんどくさいから適当でいいかと思ったのだけれど、もしかしたら恭子の実家へ行くかもしれないと思ったので、あの日はちゃんとしていこうと思ったのだと思う。

その割に服はいつもと変わらないTシャツにいつも着ているコットンのシャツを羽織った程度だった。


ザックに着替えやなんやらを適当に詰め込み、台所へ降りると、僕がめずらしく早起きしてきたので、母がどこにいくのかと聞いてきた。

「学校の合宿や。何日か泊まるかもしれへんわ。」

僕はとっさにそう答えると、出勤前の父はコーヒーカップを口に運びながら、僕のいいかげんな嘘に気付いたのか、

「おまえももう3年やろ。遊び回ってるみたいやけど、ちゃんと勉強してるか?おまえが勉強してるとこ見たことないぞ。」と言った。


その時は僕のラフな服を見て、まさか小豆島まで行くとは誰も思わなかっただろう。せいぜい加太あたりに海水浴がてらナンパでもしにいくのだと思われただろうか。

「だいじょうぶ、勉強は順調や」僕はそう答えると、さっさとザックを肩にかけ、玄関へ向かった。


近鉄から大阪環状線に乗り換えると、緑色の天守閣や、京阪百貨店のウィンドウやサラ金の看板や、毎日毎日うんざりするほど代わり映えのしない街の光景がひろがった。


大学生にとっては夏休みでも、社会人にとっては単なる平日だった。電車はスーツ姿のサラリーマンや、部活や補習などで登校する高校生などで混みあっていた。

列車の中は朝からがんがんクーラーが効いていたが、それもなんとなく、夏休みらしくていいと思った。

その日僕は、いちいち地図を用意していなかった。本屋で見て、だいたい場所を覚えてきただけだった。

まあ、とにかく西に行ったらいいだろう。バイト代もかき集めてきたし、なんとかなるだろうと思った。

電車が、ひと駅過ぎるだびに、なんとなく不安にもなったが、それよりもわくわくしていただろう。


大阪駅へ着くと僕は、いったんホームを出て、切符売り場で券売機の上に取り付けられた、料金が記入された大きな路線図を見ていた。

あいかわらず人が多くて、地下街に通じる階段は絶えず通勤する大勢の人々を吸い込み、そして大勢の人ごみを吐き出していた。


僕は路線図を西の端までさがしてみたが、「日生」という駅名はなかった。

しかたなく近くにいた駅員に、「載ってないんやけど」というと、「どのあたりまでお出かけですか?」と聞くので、指で路線図を西へ延長してみせて、ちょっと大袈裟に、隣のグランビアホテルの入り口のあたりを指さして、「たぶんあのへんまで」と言った。

「あちらでお求めください」と駅員は丁寧に言った。

僕は長距離切符の発券窓口へ行くと、若い駅員に「ひなせ」と言った。「それどこです?」とか言われはしないかと心配したけれど、駅員はかしこまりました、

という表情でさっさと切符を出してきた。

僕はホームへ上がると、電車を待つことにした。僕はぼんやりしながら、さっき買った切符を見たり、マルビルの電光サインを眺めたりしていた。

上りのホームに、神戸方面から出勤する人々を乗せた空色の満員電車が滑り込んできた。ドアが開くと、桜橋口へ降りる階段に大勢の人々が流れ込んで行くのが見えた。僕が立っているホームにも混雑というほどではないが、電車を待つ大勢の人々が列を作っていた。

しばらくするとホームに、ベージュと茶色に塗り分けられた新快速電車が滑り込んできた。


とりあえずこれで姫路まで行けばいいだろう。姫路まで行けば、きっと次は別の電車が待ってるだろうから、それに乗り換えればいい。所詮海と山しかない田舎なんだし電車も東西に走ってるだけだから簡単だと思った。


京都方面から来た乗客が大方おりると、ホームで待っていた人々が列車に駆け足で乗り込み、空席の争奪戦が始まった。

それがひととおり収まると、しばらくして列車は静かに動き始めた。僕は椅子取りゲームには興味はなかったので、乗り込んだ当初からドアの硝子に寄りかかって、流れ始めた外の景色を見ていた。

阪神高速を走るトラックの屋根だけが防音壁に見え隠れしながら、走り去って行くのが見えた。

やがて長い鉄橋にさしかかると、淀川が深い緑色の水の流れを見せた。


河原には親子らしい数人がバレーボールをしていて、その上を伊丹空港を飛び立った旅客機が、雲がきれて青く晴れ始めた空に浮かんでいた。

少しのあいだ、このうんざりするほど代わり映えのしない大阪の街ともお別れだなぁと思った。


列車が神戸を過ぎ、しばらくすると、それまでの街の景色が一転した。

海が視界に広がり、朝の陽光を受けて、穏やかな波がきらきらと細かな光を放っているのが見えた。

何隻かの大型船が沖に浮かんでいるのが見えた。海を見るのは何ヶ月ぶりだろうと思った。

列車はさらにスピードを上げながら西へと向かった。その後、僕は途中で列車を乗り継ぎ、街と海と山の退屈な景色を繰り返し見ながら西へと向かった。

通り過ぎる海沿いの町並みは、どことなくひなびた風情を漂わせていた。

太陽がまぶしかった。

僕は揺れる列車の窓から、きらきらと光る波を眺めながら恭子の事を考えていた。

彼女の故郷へ行くという喜びと僅かな緊張が僕を複雑な気分にさせていた。

彼女はもしかしたら、僕を両親に紹介しておきたいと思って僕を島へ呼んだのかもしれない。もしそうなら将来僕と一緒になりたいという意味なのだろうか。


それなら僕も嬉しいとは思ったが、直接彼女から聞いたわけでもなく、就職も苦戦しそうな自分にそんなうまい話もないと思った。


単に夏休みの間、何もない島に帰郷するわけだから、僕に会いたいと思っただけなのだろう。

列車はしばらく平地を走り、町を通り抜け、やがて窓の向こうに青い海がひろがった。

いくつかの疑問はあったけれど、まあ、行ってみれば解ることだと思った。


途中なんどか、駅員に聞いたりしたが、なんとか無事に日生に着いた。

駅を出ると、潮の香りと油の匂いが風に乗って流れてきた。

日生の町には「鮮魚」や「市場」という字の、錆のまわった看板が所々にあった。

今思えば、何も知らなかったものだと思う。それを見て、ここって漁港だったんだと始めて知った。


恭子が言ったとおり、駅を出るとすぐにフェリー乗り場があった。僕は小豆島の大部港ゆきフェリーの乗船券を買った。

それから恭子に電話をかけることにした。

待合室にぽつんとおいてある公衆電話は、がちゃがちゃとノイズがうるさかったが、呼び出し音が2度鳴って彼女が出た。

僕は彼女に、これからフェリーに乗るからと言った。

それから、「もうすぐ会えるなぁ」と言った。

彼女は嬉しそうに声を弾ませると「うん」と答え、少し間をおいて、恥ずかしそうにトーンを落とした声でもういちど、「うん」と答えた。低い電子ノイズの中で彼女の声だけが薄いガラスの風鈴の音のように涼しくやさしく聞こえた。


出航まで時間があったので、僕はフェリーが接岸する突堤の赤く錆びた鉄の壁にもたれて海を見ていた。


瀬戸の海は穏やかで、まるで湖のように見えた。時々小さな波が、海草や黒い貝がいっぱいくっついた堤防にぶつかって、ちゃぷちゃぷと小さな音をたてていた。


魚の脂のような苦みのある匂いが潮風にのって流れてきた。僅かな細波に合わせてオレンジ色の浮きに結ばれたロープが小さく上下しているのが見えた。

夏の午前の日差しが強さを増してきていた。僕はコットンシャツを脱いでザックに詰め込むと、ヘインズの袖を肩までまくり上げた。


太陽が肌を焼いているのがわかった。



20分ほどして僕は、ところどころ錆が垂れるように浮いているフェリーボートに乗り込んだ。船なんて今まであまり乗ったことが無かったので、船内のどこへ行けばいいのかよくわからなかったが、車両甲板の階段から2階へ上がりデッキへ出た。手すりに腕を置くと、潮が乗っていてべたべたしていた。

船が動き出すと、潮風が穏やかに吹いてきた。

瀬戸の海は青いとも言えるし、緑とも言える深い色合いを見せていた。水面は照りつけはじめた太陽に絶えずきらめいて揺れていた。

そういえば幼い頃、父に連れられて、なんどか能登の海を見にいったことがあった。日本海の海は波が荒く、真っ青だったのを覚えている。それに比べ瀬戸の海はなんて静かでやさしい色なんだろうと思った。瀬戸内は優しい恭子の海だと思うと、納得出来る気がした。

日生港を少しはずれた海岸線には、ところどころに漁港や民家が軒を連らねていた。もう細い糸のようにしか見えない海岸沿いの国道を芥子粒のような軽トラックが走っているのが見えた。


しばらくすると、どこから来たのか、静かな海上に漁船が、低いエンジン音と白い波しぶきをたてて現れた。漁船はフェリーに寄り添うように並んで走っていたが、やがて進路を変え、走り去っていった。

幾つかの島が遠くに近くに見えた。大海原と僅かな陸地が作り出す景色は美しく、そして、喧騒もなにもないシンプルな光景ではあったのだけれど、自然の壮大さに溢れていた。

太陽光線はまるで雨のように降り注いで反射し、光線が体を通り抜けていった。そのたびに僕の体は熱くなったが、ときどき吹く潮風は熱をぬぐって涼しくさせてくれた。

僕は、飲んでいたコーラの缶を床に置き、デッキに設置されたプラスティックのベンチに寝転ぶと、空気をいっぱい吸い込んで空を見ていた。

ボッボッボッとフェリーの低いエンジン音と波を切るざあっという音だけが聞こえていた。

空は真っ青で天球はいつもより高く見えた。遥か遠くを長い軌跡を引いてジェット機が飛んでいた。僕はザック枕にしてそれを見つめていた。

恭子は今頃、家を出て大部港へ向かっている頃だろうか。

僕のために案内するコースを考えたりしているのかもしれない。そしてかわいい頬や唇に薄い化粧をしてるだろうか。

そういえば、僕と付き合い始めてから彼女は化粧をするようになった。僕は大概鈍感な方なのでしばらく気が付かなかったのだが、ある日、あまりに彼女の肌がかわいく奇麗に見えたので、頬に触れようとしたことがあった。

そうすると彼女は僕の指を避け、

「さわったらあかん。化粧落ちるもん。」と言った。

僕は、”おまえ化粧してるん?”と聞きそうになったのだが、絵里子から鈍感なのはだめだと言われていたので、「そっか、そやな、ごめん。」と言った。


すると彼女は、僕の指を取ると化粧が落ちないように、そっと頬に当ててくれた。彼女の頬は柔らかく、さながら菜の花畑を飛び交う蝶の羽のようだった。暖かくて、繊細で、そして美しかった。今想うとせつない思い出だ。

もうすぐ恭子に会える、そう思うと嬉しくて、海上ルートはまるで天国へ向かう道のように見えただろう。


僕は最初どれが小豆島なのか解らなかったが、

やがて前方に大きな海岸線が見えてきた。

島はほとんどが木々の緑に覆われているように見えたが、よく見ると所々ちいさな家が立ち並んでいるのが見えた。

フェリーはスピードを落とすと、慎重に船体を岸へ近づけていった。

島の港街はいくらかひらけてるとはいえ人通りは少なく、港の敷地を、何台かのトラックと、数人の従業員らしい男達が動き回っているのが見えるだけだった。


フェリーのキャビンから15人ほどの乗客が階下へ降りようと列をつくっていた。

ポロシャツ姿の男性が率いる家族は、ときおり顔を寄せ合うようにして観光地図をのぞき込んでいて、どうやら島へは海水浴に行くらしかった。

僕は列には加わらず、階段の上のデッキに取り付けられた手すりにもたれかかって少しずつ近づいていく岸辺に、恭子の姿を探した。

しかし結局、船の上から恭子をみつけることは出来なかった。


船が接岸すると、車両甲板から数台の乗用車とトラック、それから先ほどの乗客が下船を始めた。

僕もザックを背負いタラップへ向かった。

そう、なぜか不思議と緊張していた。

恭子とは学校ではいつも一緒にいた。昼食の時も、帰り道も、買い物に行く時も、日々のなにげないシーンにいつも一緒にいるふたりだった。なのにどうしてこんなに緊張するんだろうと思った。今、こうやって思い出しても、あの日の嬉しさ

と緊張感まで自分の中に再現できる。

僕は会ったらまずなんて言おうと考えていた。会いたかったって言おうか、なによりも先に好きだって言おうか。上手く言えるだろうかって。


タラップを渡り、美しい自然に囲まれた島の地に降り立った。

目を覆うような強烈な太陽の光だった。

陸は海上よりもかなり気温が高く、熱気がアスファルトの地面から沸き上がっていた。


僕は手首を目の上にあてると、目を細めて港内を見渡そうとした。

「仁史くん。」

声は僕の右手のほうから聞こえた。

僕が声がした方向へ振り向くと、恭子が微笑みながら立っていた。

洗い晒しのジーンズに、ピンクのハイビスカスの花が描かれた白いTシャツ姿の彼女は、恥ずかしそうにうつむきながら、両手の細い指を前で組むような愛らしいしぐさをした。


僕は嬉しさで、なによりも先に駆け出して、思い切り抱きしめてしまいたいと思った。

それでも、ゆっくりと近づいていくと、彼女の、僕を待つあいだ絶えず陽に焼かれていただろう白い肌がだんだん眩しく輝いてゆくように思えた。


「ちゃんと来たでぇ。」


僕は笑いながら言った。結局はそれしか言えなかったのだ。あの日の彼女の雰囲気は特別だった。なんといえば良いのだろう。眩しく光る、いや、輝いていると言った方がいいだろう。

彼女はいつものように、「なにしにきたん?」とか冗談を言うのかと思ったが、僕の顔をちらっと見るとまたうつむくと細い声で、

「会いたかった・・・。」と言って、僕の胸に顔をうずめるようなしぐさをした。

僕は思い切って両手で彼女の柔らかな体を強く抱きしめた。

彼女のシャツの、木綿のやさしい香りがするようだった。



港から僕らは、彼女が友達から借りてきたという軽自動車に乗り込んだ。

「おまえ運転できるんか?」と僕が聞くと彼女は、

「ここやったらね。大阪やったらこわいもん。」と答えた。

僕は彼女の言葉のイントネーションが少し変わったのに気がついた。

ターンシグナルのレバーを器用に操作するしぐさにも、どことなく彼女が少し大人っぽくなったような気がした。


僕と恭子は海沿いの国道を走って、彼女の実家がある街へ行くことにした。

僕は助手席で彼女に、ここまで来るいきさつを話して聞かせた。

大阪駅で切符の買い方が解らなかったという話をすると、彼女は仁史君らしいと言って笑った。

車は夏の強烈な日差しを受けながら、逃げ水を追いかけて走った。

瀬戸内の海は青く美しい広がりを見せていた。

空気は遠くの島々まで見渡せるほど澄みわたり、太陽の光は、海水をプリズムのように屈折しながら通り抜けて、浅い海底を遠くまで照らし出していた。寄せては返す波は細かな光を反射させ、ときおりそのかけらがサイドガラスから車内に入ってきた。

僕は恭子の横顔を見ていた。

光は白く細い指先や、きれいに揃えた髪の一本一本の中にまで入り込んで、まるで秋の野原のように栗色と金色に輝かせ、彼女の美しさを際立たせていた。


しばらく走ると、車はカーブの多い緩やかな上りに差し掛かり、上りきった地点からはひと回り大きな弧を描きながら下っていった。

右手は海、左手には緑が生い茂った山が迫っていて、どこであっても、いい風景画が描けそうなくらい、自然が作り出す雄大さと美しい光景で溢れていた。

僕等の前後に他の車の姿はなく、彼女は上手に車を操作していた。それでも、カーブが多くなると怖いのか、僕が話をしても、「うんうん」と頷くのが精いっぱいのようだった。僕は可笑しくなって、「運転、上手やん。」と言ってやった。

彼女は僕の言葉を考える余裕がないようで、「うん」と答えた。僕は大笑いしながら、

「だいじょうぶ。ゆっくりでいいねんで。」と言うと、彼女はまた「うん」と答えた。


国道が平坦になると、両側に古い商店や民家が軒を連ねるようになった。町のようだったが、人通りは少なく、何人かの農作業着の老婆が、籠を背負って国道沿いを歩いている程度だった。

町を少し過ぎたところに国道と十字に交差する細い道があった。交差点の角には雑貨屋らしい老朽化した木造の建物があり、その影になって国道から見ると交差する道があるようには見えなかった。

彼女はシグナルレバーを操作し、スピードを落とすと、車を左折させた。

車がやっと2台すれ違えるほどの狭い道路の脇には、小さな畑が幾つかあって野菜が植えられてあるようだった。畑の側には、ひまわりが夏の日差しをいっぱいに浴びて、太陽に負けないくらいの黄色い花をたくさん咲かせていた。

恭子はそこから少し走った民家の前で車を止めた。

「ここがわたしのうち。」

彼女はそう言うと玄関の方を見た。

あの辺りだとどこにでもありそうな2階建ての木造建築だったが、人の気配がなく、今思うと、どことなくがらんとしていて、生活感が感じられない家だったように思う。

玄関の前にある小さな庭には早くも、白やピンク色のコスモスの花がたくさん咲いていた。

二階のサイドの窓には黄色のカーテンがかかってあり小綺麗にしてある部屋があるようだった。僕は、そこが恭子の部屋なのか、と聞こうしたが、彼女は、「でも、今日はだれもおれへんから、他に行こう」と言い、外へは降りず、また車を走らせ始めた。

彼女は少し走ると、舗装されていない狭い駐車場で細い腕を上手に交差させてハンドルを切り、車を転回させた。タイヤが土を蹴る音とともに砂ぼこりが舞い上がった。

僕らは再び海岸沿いの道路へ出た。


僕は恭子に、どうしてここへ呼んだのか聞こうかと思ったが、ここへ来たとき、彼女は港で「会いたかった」と言った。僕も彼女に会いたくてここに来た。それだけのことだと思った。結局そのことについて何も聞かなかった。

「ええとこやんか、自然がいっぱいやなあ」と言うと彼女は、

「大阪みたいに遊ぶとこないでぇ。」と答えた。

しばらく走ると、国道はまた海岸線の近くを平行するようになり、白い砂浜が広がった。

僕らは車を止め、誰もいない浜辺を歩いた。


神戸や和歌山あたりだったら海水浴客でごったがえしそうな奇麗な海岸だったが、人の姿はなくただ、長閑な浜辺が遠くまで続いていた。ふたりが歩いたあとの砂には僕等の足跡が出来ただろう。

ようやく梅雨が明けた瀬戸内の空は真っ青で、日差しが欠けることはなかった。

僕らはしばらく手をつないで波打ち際を歩いていたけれど、なにかの拍子でふざけ始めて、波に足を漬けてしまい、とうとうジーンズのまま水の中へ入ってしまった。

「もうこのまま泳ぐでぇ。」

そういうと僕は先に水の中へ飛び込んだ。

波の中へ潜ると、今まで絶間なく聞こえていた波の音が嘘のように消えて、ごぼごぼと僕が吐き出す泡の音と、海底を流れる砂の音がさらさらと聞こえるだけだった。光が水底の砂を波に合わせてゆらゆらと照らしているのが見えた。

太陽と海と、そう、やっと待ちに待った夏がやってきたと思った。

恭子は最初、水に入るのをためらっていたが、あんまり僕が気持ち良さそうだったのか、ばしゃばしゃと波をかきわけて僕の側まで来た。

彼女は波に顔も髪もつけて僕の肩にしがみついた。

僕は波に浸かりながら、はしゃぐ恭子の肩を掴み自分の胸に引き寄せた。

彼女は笑いながら僕の胸を二三度叩いたが、腕をまわして抱きしめるとおとなしくなった。

水の中で僕の胸や指先に彼女のしなやかな背中のラインと、豊かな胸の感触が伝わった。

波は遠くからだと穏やかに見えたが、重い水の固まりがふたりを沖へ誘おうとしたり、波打ち際へ押し戻そうとしたりした。


僕等は波に翻弄されながら、ふたりだけの時間を過ごしていた。

彼女は寄せては返す波の中で、何も言わず、ただ僕に身を任せていた。

ちいさな魚の群れが僕等のまわりを行ったり来たりしていた。


それから彼女は、軽自動車で島のワインディングを登り、山の頂上に僕を案内した。展望台まで登るといきなり視界が開けた。

島の海岸線の向こうには真っ青な瀬戸内海が広がり、何隻かの漁船やフェリーボートが行き来しているのが見えた。

手前にはひなびた町並みが見渡せ、どこか懐かしい雰囲気を漂わせていた。

どこに行っても、照り付ける太陽と木々の緑と海の青が、盛夏の強烈なコントラストとなって溢れていた。

いたるところで蝉の鳴き声がしていた。


僕等の周りを、蜂や蝶が飛び回っていて時々僕にぶつかっては飛び去っていった。虫たちにとっては短い夏の日なのだ。今思うと、あの日精いっぱい咲いていた夏の花も、あんなに活気のあった虫たちも、なにひとつとして今はもう生きてはいないのだ。そして、僕や恭子も、もう戻らない短い若い日を生きていた。生きとし生けるものはいつかは老いて死んでいく。でもあの時の僕はそんなことは考えなかっただろう。

虫たちは死んでも、僕と恭子はふたりで来年の夏も、再来年の夏も、ずっと永遠に歩いていける、そんな気がしていた。


「あそこが私のいってた小学校。」


彼女はそう言うと、緑の木々に見え隠れする広い運動場のある敷地を見下ろし指差した。

木造の校舎と、運動場には鉄棒や、ジャングルジムがあるのが見えた。

もちろん僕には、始めてみる学校ではあったが、なぜかすごく懐かしい場所に思えた。

幼い頃から恭子とここで一緒に育って、あのジャングルジムに登ったり、追いかけっこをしたり、一緒に手をつないであの畑のわき道を歩いてきた、そんな記憶が存在するような錯覚を覚えた。

「くわがたとかいてるかなぁ」

「うん、いるん。ちいさい時よくとったん。」

「恭子が産まれたとこ、ええところやなあ。俺この島好きやで。」

僕は彼女の横顔と、青く視界一杯に広がる大海原を交互に見ながらそう言った。

彼女は、「うん、・・・私もこの島が好き」と言った。

そう、あの島は恭子が産まれてから、大阪に来るまでの間を過ごしてきたところなのだ。

恭子はあそこで産まれ、幼い時代を過ごし、学生時代を過ごしたのだ。

楽しい思い出もたくさんあっただろう。思春期の頃には恋もしたのだろう。

あの島の豊かな自然と暖かい暮らしが、彼女を育んだのだ。あの優しいイントネーションは、あの島で暮らしてきた者の素朴さと優しさそのものだったのだろう。

幼い頃はここへ来て花や虫たちと戯れたり走り回ったりしていたのだろう。


僕は今まで知らなかった彼女の、もう戻らない過ぎ去った時間に、ほんの少し触れたような気がした。しかしそれは僕の想像に過ぎない。それ以上彼女は多くを語ろうとはしなかった。

彼女があそこで以前にどんな生活を送って来たのかも、今となっては解らない。

もっといろいろ聞けばよかったのかもしれない。しかし、その時僕は、彼女の優しさと穏やかさの中に、なにかどうしても追求できない排他的なものがあるような気がした。

僕が着ていた服も、僕が話す大阪弁も、あの島では大阪から訪れた観光客に他ならなかっただろう。しかしあの日の彼女は、暑かった夏の島の光景に溶け込んでいた。

栗色の髪、ピンク色のTシャツ、洗い晒しのジーンズ、眩しい太陽、海の香り、あの島が彼女そのものだったのだろう。

そう、まるで島に力強く咲く、ひまわりの花のようだった。


誰が植えたわけでもなく、自然の中で過ぎ行く季節を精いっぱい生きようとしている存在。

僕もあの島で産まれればよかったのにと思った。しかし事実は違うのだ。僕はそれが残念に思えた。いや、違うからこそ、あの島と彼女があんなに眩しかったのだろう。

10年経って僕の記憶はいいかげんになっているのかもしれない。彼女を想うとき、僕は自分の中で彼女の存在を美しく理想的にしたいという心理が働いているのかもしれない。

それでも僕の碌なものがない記憶の中で、彼女の記憶はひときわ明るくきらめく星のように今も存在している。

きっといつまでも消えることのない思い出として残っていくだろう。彼女はあの日のことを今も覚えていてくれるだろうか。


まあ、確かに10年が経って、僕と違って彼女にはもっと楽しい思い出もできただろう。

人間なんて、なんでもそんなに覚えていられるものでもない。いちばん楽しい思い出ができたら、古い思い出なんて塗り替えられていくものだろう。

でも、葉書をくれたのは、彼女も僕のことを覚えていてくれるからなのだ。

そしてあの日、僕も彼女にとって、あの盛夏の太陽のように眩しい存在だったのだろう。


僕は彼女の肩を引き寄せると、指を彼女の、波に洗われ潮の香のする髪に通して優しくといてやった。

彼女は目を閉じて気持ちよさそうに僕の肩に頬を乗せていた。それから僕は彼女の顔を少し持ち上げ、優しく唇を重ねた。ただ彼女と一緒にいたいと思った。

大阪駅の噴水前で僕を待っていてくれた彼女、福島駅のホームで手を振ってくれた彼女、全てが僕には輝く存在だったが、そんな彼女の思い出の中で、あの日の恭子はとりわけ美しかっただろう。

海から吹くそよ風は、時々木々をざわざわと鳴らせていた。


夕方、もうほとんど陽は落ちて、暗い木々の上空は、水彩絵の具をなんども塗ったような真っ赤な夕焼けがかかっていた。僕と彼女の白いTシャツもオレンジ色に染まった。

海上は、まだわずかに残る青空と、夕陽に赤くそまった薄い雲が紫色の微妙な色調を見せていた。

僕は彼女と一緒にいたいと思っていたが、それでも、

「おまえ、もう家に帰り」と言った。

彼女はふっと淋しそうな表情をみせると、

「友達のとこに泊まる言ってるから大丈夫。」と答えた。

僕はなんと言っていいか困って彼女を見ていた。

彼女は僕の腕にすがりつくと小さな声で、

「一緒にいたいん。」と言った。


国道沿いに白い看板に黒のペンキの行書で「国民宿舎」と書かれた建物があった。僕等は他に探すのもめんどうなので、そこに泊まる事にした。

宿といっても、古い木造を改造したような作りで、玄関は狭く、もらい物らしいカレンダーや、木彫りの置物などが無造作に飾られていて、まさしく普通の民家を改造しましたといった感じだった。

従業員というか、おそらくここの一階の住人であろうおばさんは、笑顔で僕等を二階へ案内した。板張りの床や階段は歩くとミシミシとなった。

部屋は、一階よりはるかにきれいな和室だった。

新しい畳の匂いと潮の香りが心地よかった。客間だけ見れば、そこそこの旅館の部屋のようだった。


ガラスの引き戸は国道と反対側に面していて、ベランダからは白い砂浜と見渡す限りの海が広がっていた。

波打ち際から海の香と波の音が、部屋の中まで入ってきて、ずいぶん落ち着く感じがした。

「なんか、いい雰囲気やな。」

僕がそういうと、彼女も嬉しそうに頷いた。


食事ができましたと言うので下の広間へ降りてみると、若い夫婦とちいさな子供ふたりの四人家族がもう食事をしていた。どうやらその夜の宿泊客は僕等と彼等だけのようだった。

食事は、瀬戸の小魚を使った質素なものだったが、その分たくさん食べた。彼女は僕の豪快な食べっぷりを見て笑った。


日が沈むと涼しくなって、浜風が気持ちよく吹くようになった。

宿舎の建物の前の砂浜へは一階の通路からすぐに出ることができるようになっていた。僕らは夜の砂浜に出掛けることにした。

その日の夜の瀬戸内海は、昼間の暑さが嘘のように涼しく、夜風は澄みわたり、肌寒くすら感じられた。

「花火、買うてきたらよかったかなあ。」

「うん、でもいいん。」

僕は彼女の手を取るとざくざくと砂浜を歩いて宿から少し離れ、砂の上に腰掛けた。それから恭子の肩を抱いて引き寄せ、空を見上げた。

「すごいで、恭子、見てみ。すごい星空や!。」

その日の夜空は驚くほどの星空だった。まるでダイヤモンドの粒をちりばめたようで、その光で空が明るく見えた。都会ではとても見られない光景だった。

明るい星、小さな星、ほの赤くみえる星、青白く光る星。とても数え切れない数の星が瀬戸内海の上空に輝き、瞬いていた。

「すごいなあ、空がまあるく見えるで。」

彼女は「うん」と答えると、びっくりしている僕の顔を見て笑った。

「きれいやなあ。」僕が感心していると、彼女も空を見上げた。彼女はうなずくと、嬉しそうに僕の肩に頬を寄せた。


僕は彼女の肩を抱きしめながら

「恭子、大好きや。」と言った。

「うん、好き。」と彼女も答えた。

「あの星すごい明るいなあ」

僕がそういうと彼女も同じ星をみて頷いた。

「あれは何星?」

彼女は僕に聞いたが、僕に解るはずもなかった。それでも小学校のキャンプの時に教えてもらった話を思い出して、

「たぶん一等星とかかなあ。」と答えた。

それから、「あの星はずっとあるねんで、僕らが産まれる前から、死んだあとも、あそこにあるねんで」と言った。

彼女は僕の顔を見上げると小さな声で、

「永遠にあるん?」と聞いた。

「うーん、ようわかれへんけど何億年くらいあるんとちゃうかなあ、ほとんど永遠みたいなもんやろなあ。」

僕がそう答えると彼女は、しばらく星をうっとりと見ていたが、僕を抱きしめるように身を寄せると、

「あのね、ここから永遠なものってあるん?」と聞いた。

僕はその時、恭子がどうしてそんなことを聞くのかよく解からなかったけれど、

「あほやなあ、永遠なものは俺や恭子が産まれる前から永遠やねんで。ここから永遠なもんなんかないで。」と答えた。

彼女は「うん」言い、納得したようだった。

「でも、俺の愛は永遠やで、何億年後、あの星が死んでも、恭子のこと愛してるから。」

僕がそう言うと、彼女は甘えるように頷き、また僕の胸に顔を埋めた。

「あの星に比べたら俺達の人生は短いなあ。たった10年経ったら30やで。おじさん、おばさんやでえ」

そう言うと恭子は、「うん」と答えて笑った。

「10年は長いかなあ、短いかなあ、俺は10年後は恭子と結婚して、子供もいるかなあ。」

僕がそう言うと彼女は、僕の顔を愛おしそうに見つめ、

「そのときまた一緒にあの星見れる?」と言った。

僕は、「そのときがきたらまた一緒にあの星を見よう」と答えた。

天球には無数の星が輝いて、今にも砂浜に降ってきそうな気がした。


それから僕らは風呂に入り、浴衣に着替えた。

彼女の浴衣の胸元から見える肌はほんのりと赤く染まり、美しかった。蛍光灯を消し、優しく抱きしめると、まだ乾ききっていない髪に指を通し、口付けた。それから彼女の肩から浴衣をそっと外し畳の上に落とした。

窓から差し込む星明かりが彼女のきめ細かく美しい肌と、成長した女の肉体を浮かび上がらせた。

柔らかくしなやかな体を優しく寝かせると、洗いたてのシーツの香の上に、彼女の湯上がりの髪の香りと、大人の女の香りが僕の中で弾けた。

僕は自分の指を彼女の指にからませた。彼女の汗ばんだ小さな手のひらや細い指が、なんて柔らかくてかわいいんだろうと思った。その夜、僕は恭子を抱いた。


/////PART2へ続く

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