はじまりのはじまり・3
「なあ、杏ちゃん、どないしたん? 」
「べ、べつに、何も無いけど」
「ほんま? てっきり、龍生君と……あかん、よういわんわ」
そう言ったきり、浜田美穂は先ほどから顔を赤らめてもじもじしている。そこへ龍生がやって来た。
「何してるんだよ。西洋便器の蓋」
浜田美穂にこんな不名誉なあだ名を付けたのは、美穂の祖父に当たる近所の寺の住職だ。
幼児の頃の美穂は頑固で、怒られてもめったに泣かないで口を引き結び、黙っている、そんな子だったのだ。その様子が可愛げが無くて、しかも女として将来が聊か不安な器量だといった意味合いも込めて「西洋便器の蓋」などと言う喩えをしたらしいが、美穂が気の毒なのは、そのあだ名を檀家や近所の老人連中が広めてしまい、この地域の人間が皆知っていると言う状態で、すっかり定着してしまった事だろう。
「た、龍生! あんたまで言う事ないでしょ? 」
「でも、祖父さん、上手い事を言うと昔から感心してたんだ」
美穂は「龍生君のいけず」と叫んで、わっと泣きながら走り去った。
「別に、俺以外の男子も全員言ってるぜ、西洋便器の蓋って」
「美穂ちゃんは幼稚園の頃から、あんたが好きだったのよ。久しぶりに再会して、それなりに期待していたこともあったんでしょうに、さっきの一言で、完全に粉砕したわね」
「俺はずっと杏一筋だ。美穂がたとえ絶世の美女だったとしても、付き合う気なんて無い」
「せやけど……」
「早めにはっきりさせた方が、良いんだよ。そう言う事は」
杏も龍生も、生まれてから幼稚園の卒園の約半年前までこの土地に居た。だから美穂も同じ幼稚園で過ごしたので、その頃の記憶が美化されて残っていてもおかしくは無い。更に、杏も龍生も小学二年生のほんの半年間だけ大阪に戻った事もあった。九州から関東までほぼ毎年のように引越しで、落ち着かない小学校時代だったが、幼児の頃馴染んだ大阪に半年だけ戻ったあの、小学二年生の時期は、他の土地では感じない特別な地域への愛情を意識させもしたのだった。
美穂の祖父は「きかん気で何でもようできる」と言って、龍生がお気に入りだった。境内で虫取りをさせてくれと龍生に頼まれるといつも快く許可してくれた。先ほどのような美穂の顔つきに龍生は見覚えが有る。
あれは、小学二年生の夏休みの事だ。自由研究用に蝉の抜け殻を集めさせてもらいに、寺に行き、そのついでに本堂の縁側で住職から「お供えのお下がり」の菓子と麦茶を貰って話をしていた。
「あんた、杏ちゃんが好きなんか? 」
「はい。大人になったら結婚します」
「ほおお、さよか。美穂はどないや? 不細工やけど、気立てはええで」
「すんません。俺は杏以外、どんなにええ子でも目に入らんのです」
「さよか、こら、言われてしもた。そう言うわけやから、美穂、あきらめえ」
そのとき初めて、美穂が柱の影から自分たちの方を見ていたことに気がついた。
あの時も美穂はさっきと同じように「龍生君のいけず」と言い放つと、泣きながら走り去ったのだった。
「俺、いけずで言うてるのと違います」
美穂に泣かれて、何かひどく自分がいけない事を言ったような気がして龍生は動転した。そして住職の顔を心配になって見たものだったが、住職は何処かほろ苦い笑みを浮かべてこんな事を言った。
「わかってるで。まあ、あれやな、あんたみたいにええ男は女難に注意やでえ」
「じょなん? 」
女の所為で自分の人生が雁字搦めにされてしまうのが、女難らしい。
望まない女との因縁や、迷惑な好意の向けられ方は「もてる」などと言ってヤニ下がっていられるほど甘いものではない。だから、自分の好きな女がはっきり決まっているのなら、あれこれ他の女に振り回されないように気をつけないといけないのだ。先ほどのきっぱりした言い方は確かに美穂には辛いものだが、はっきりさせないで居るよりもずっと親切だ。
確か、あの時住職はそんな風に言って、龍生自身大いに納得したので、以来杏以外の女の子に好意を必要以上向けられないように注意するようになった。予想外の子から告白などされた場合は、平謝りでお断りするのだった。
「美穂の奴、あいつを好きな良い男が居るじゃないか」
「ええ? ひょっとして、弘樹君」
田辺弘樹は神社の息子だ。確かに龍生ほど人目を引く派手な顔ではないが、それなりに整った男らしい顔立ちで、最近は女子の間でも人気上昇中らしい。
美穂の父は地元の信用金庫の職員で、弘樹の父は私立高校の教師だ。どちらも転勤とは無縁で、幼いときからずっと一緒で、恐らくそれぞれの実家の関係もあって、この地元から遠くに行く可能性も低い。
「弘樹君、幼稚園の頃、美穂ちゃんの背中にトカゲを乗っけたり、コガネムシをくっつけたりしたでしょう? あれ、美穂ちゃんにはトラウマみたいよ」
「でも、あれ、男の子が好きな女の子の気を引くために結構取りがちな行動なんだよ。さすがに、今はしないだろ? あんな馬鹿なこと」
すでに、小学二年生の時には弘樹は美穂を影になり日向になり守っているように見えた。その後、龍生も杏も引っ越したから、弘樹と美穂に何が有ったのかは分からない。だが、そう言えば、今も彼だけが「西洋便器の蓋」と言わないのだ。その事に龍生は思い至った。幼稚園の頃はいじめっ子キャラだったが、小学生二年生の当時はめっきり静かになっていたし、中学になったら優等生路線を走り始めている。
「おとといさ、俺がこの町に帰ってきたのが心配だって、弘樹にはっきり言われた。でも、俺は相変わらず杏一筋だって言うと、安心したみたいだったよ」
「へええ、美穂ちゃんのトラウマさえ克服できれば、未来は明るいかもねえ」
「美穂が『顔も頭もええ人がやっぱり一番やわ』と言っているから、弘樹は勉強頑張ってるんだと思う」
「なんか弘樹君がメチャメチャええ男に見えてきた」
「こら! 杏、お前は俺だけ見ていろ」
「うん。今度のテスト、また満点連続でぶっちぎりのトップになってね」
龍生はどこに引っ越しても学年トップの成績を取り続けてきたが、そのたびに杏が「龍生、かっこいい! 」と言ってくれるのが、何よりの張り合いになっていた。
「任せとき! 」
弘樹には悪いが、テストの成績は負けられないと龍生は思った。