それを幸せというのなら
どうしよう、と思ったのはルミエラが倒れた直後の事だった。
マリナはその光景をただ見ている事しかできず、ルミエラが倒れてしまっても何もできず立ち尽くしていた。
(あぁ、私のせいだ……)
ミゲルが自分の手を信じられないように見ているのを、マリナはまるでヴェール越しに見ているかのようにぼんやりと視界におさめて。
自分のせいでミゲルがこんな事を……と頭の片隅で思った次の瞬間――
マリナの視界は一瞬で切り替わったのである。
「……え……?」
一体何が起きたのかわからなかったが、今いるこの場所は紛れもなく――
「私の、部屋」
間違えるはずもない。
一体どうして。
わけがわからないなりに現状を把握しようとして、そして何故だか過去に戻っているという事実に余計混乱する。
「なんで? でも、過去に戻ったっていうのなら……あの人は今生きている……」
ミゲルが殺そうと思って行動に移ったわけではない、と近くで見ていたマリナはわかっている。
ミゲルにそんな度胸が無い事を知っている。
自分の能力不足を嘆き、それでも認めてもらいたいと努力し、藻掻き足掻いてそれでもどうにもならなくて自分自身を追い詰めるような人だ。
足りない自分のせいで決められてしまった優秀な婚約者。それがルミエラであると聞いていた。
けれどミゲルはルミエラとの結婚を望んでいなかった。
頭ではわかっていても、心が納得してくれなかったから。
そしてそれはマリナも同じだった。
自分では公爵家の嫁として相応しくない。わかっている。わかっているのだ。
それでも、ミゲルを好きだという気持ちは抑えきれなかった。
けれどもきっと、そうやってマリナが近くにいたせいで、きっとミゲルを追い詰めていたのかもしれない。
マリナがいなければ。
そうすれば、きっとミゲルはもっと早くに諦めて、ルミエラの存在を受け入れていたかもしれないのだ。
ミゲルに恋をしているマリナからすれば、マリナがいなくなった後、そう簡単に気持ちを切り替えてほしくはないと思ってはいるけれど。
ルミエラの存在を受け入れていたかもしれないが、気持ちはどうせならマリナの事を想ってずるずる引きずっていてほしい。ずっと、結ばれなかった恋を引きずり続けていてほしい。
一生マリナの事を想っていてほしい。
そんな風にどうしたって思ってしまう。
もしマリナがもっと優秀であったなら、そうしたらミゲルとの結婚を認めてもらえただろうか?
身分が離れすぎているけれど、それでももしかしたら。
どうしたってそんなもしもの話を考えてしまう。
無理だ、とわかっていても、諦められなかった。
マリナの目から見ればミゲルは優秀ではあるのだが、しかし周囲はそれでもミゲルを不出来な存在だと見なしている。マリナから見ればその周囲が優れすぎているだけなのだが。
能力不足であるという部分ばかりに目を向けられて、それ以外のミゲルの良いところなど無いものと扱われているのがマリナからすればとても歯痒かった。
ミゲルの事を放っておけなくて、そうでなくとも好きだからこそ少しでも一緒にいたくて。
だが、そのせいで余計に彼を追い詰めてしまっていたのかもしれない。
二人で一緒にいて、どうしてもこの胸の想いを秘めておけなくて。
互いを求めるように口付けをしていたのをルミエラに見られて。
ルミエラがミゲルの事などなんとも思っていなければ、もしかしたらあんな事にはならなかったかもしれない。
けれどもマリナの目から見て、ルミエラがミゲルを想っているのもわかっていた。
けれどミゲルが好きなのはルミエラではない。
そこに仄暗い優越感を抱きそうになるが、その場にマリナがいたからこそミゲルはルミエラをああやって拒絶するしかなかった。
もしあの場にマリナがいなければ。
表面上取り繕うくらいはできたかもしれない。
けれども、マリナがいなければルミエラがあの場にいたとして、取り繕うも何もあったものではなかっただろう。
ルミエラがミゲルを求めるように手を伸ばして。
けれどマリナがいるからこそ、ミゲルはそんなルミエラを必要以上に拒絶しようとした。
結果、思った以上の力で振り払われて。
(人ってあんな簡単に死ぬのね……)
瞼の裏に今でもあの光景が残っているようで、マリナは思わず頭を振った。
死ぬまでに何度も頭を打ち付けただとか、もっと確実に殺す意思があって実行したのであればそうは思わなかった。ミゲルだって死ぬだなんて思っていなかったからこそ、あの時呆然としていたのだから。
自分があの場にいたせいで、ミゲルは人を殺す事になってしまった。
今は時間が戻ってあの時から過去にいるけれど、同じように進めばまたあの悲劇は繰り返される。
(でも、まって? 私は憶えているけれど、あの二人はどうなのかしら?
憶えていないのなら、ミゲルが人を殺した罪の意識に潰れる事はなくなるけれど。
でも、彼女が憶えていたのなら? 自分を殺した男を今でも愛しているかしら?
そうじゃなくても、邪魔な私の存在を今度は早々に排除しようとするかもしれない。
彼女が憶えていなくてもミゲルが憶えている場合と、その逆にミゲルが憶えていなくて彼女が憶えている、なんて事も考えられるわ。
でも……確かめようがないわよね)
時間を遡ったなんて荒唐無稽すぎる事を口走ったところで、ミゲルはさておき彼女はどうだろうか。
仮に憶えていたとしても、自分にはその記憶がない振りをしてこちらの油断を誘う、なんて事もあるかもしれない。
正直に憶えていないと言われても、それすら嘘だと疑ってしまうかもしれない。
マリナが遡る前の事を憶えている以上、どう答えたところでどうしたって勘繰るだろう。
疑う必要が無い場合というのは、ルミエラがそれこそ前回の事を憶えているわ、と素直に言った時くらいか。
だがその場合、その後が恐ろしい。
「……そうね、同じ轍は踏まないわ」
あの事故が起きた日は今からするとまだ先の話だ。
だが、だから猶予があると考えてはいけない。
ずるずるとミゲルの近くにいる事で、ミゲルだってマリナへの想いを捨てきれるはずもなければ、もし前の記憶があるのなら、次は前回の記憶を活かそうとして、前以上に自身を追い詰めるかもしれない。
ミゲルにはこれ以上、苦しんでほしくなかった。
もっと早くに距離を置くんだった。
そんな風に思いながらも、マリナは早急に行動に移る事にした。
こういうのは時間をかければかけただけ、自分の足場が崩れる可能性が高い。
本当は直接ミゲルと最後に会って話をしたかったけれど、しかし顔を見てしまえば。声を聞いてしまえば。絶対に離れ難くなってしまって、また同じ過ちを繰り返してしまうかもしれない。
そうして今度は、もっと悲惨な事になってしまうかもしれない。
どうしたってミゲルとの明るい未来がもう想像できなくなっていた。
不幸になってほしいわけじゃなかった。
それでも、どうしても離れられなかった。
だが今はもうそんな事を言っていられる立場でも状況でもない。
自分といる事で彼の未来が曇るとわかっているのだ。
であれば、マリナにできる事は一秒でも早く彼の人生から離れる事だ。
ルミエラがどういう行動に移るかはわからないけれど。
憶えていなければいい。けれど憶えていたとしても、マリナが離れる事で、少しくらいはこちらに狙いが向かないかとも考える。
前の事を憶えているから一足先に逃げたのだとして、そうしてこちらに怒りを向けてくれれば。
ミゲルに対して少しくらいの時間稼ぎにはなるかもしれない。
そこまで考えて、ふとマリナは他に前回の事を憶えている人はいないのだろうか、と思った。
だがその考えはすぐさま打ち消された。
もし他にも同じように時を遡ったと気付いた者が大勢いるのなら、もっと騒ぎになっていたっておかしくない。けれども少なくともマリナがいる屋敷の中では誰かが時間が戻ったなんて混乱している様子もなく、またマリナの父もそういった様子はなさそうだった。母も同じくマリナの記憶にある通りのいつもと変わらぬ状態で、仮に内心で混乱していても平静を装っているだけかも……なんて思いはしたが。
「修道院に行こうと思うのです。いえ、行きます」
マリナが突如そう宣言すれば、両親は思いもよらぬことを言われたようで驚いていた。
その驚きが前回は言わなかっただろうそんな事、というよりもあまりにも突拍子がなさすぎるという驚き具合だったので、前回の記憶はなさそうだと判断する。
その上でマリナは、今自分が修道院に行く必要性を説いた。
ミゲルとの関係は、今から一年前にミゲルが婚約をした時点で終わらせていなければならなかったけれど、細々と続いてしまっている事。このままいけばいずれ、ミゲルの婚約者の不興を買うであろう事。
それでも愚かにもマリナは未だミゲルを諦められない事。
だからこそ、物理的に距離を取るしかないのだと。
マリナは切々と訴えたのである。
どのみち貴族としての身分はそこまで高くないのもあって、このままいってもマトモな婚約者を見つけられるかどうかも疑わしくなってきている。
そうでなくとも。
もしルミエラが前の事を憶えているのなら、ミゲルは勿論そんなミゲルと共にいたマリナにも復讐してやる……! なんて思っているかもしれないのだ。もっとも、前回の事なんて記憶に残ってすらいない他の者に前回の事を持ち出したとして、その時はルミエラの気が触れたと思われるからマリナは殺されるまではいかないと思うけれど、しかし今後、ミゲル以外の婚約者を作ろうとした時に悪評くらいは流される可能性はあると思っている。
身持ちの悪い娘、なんて言われたとして、そうなると否定はできないのだ。
事実婚約者がいる男性と恋仲になっているわけだし。
最初に出会ったのはマリナの方が先だとしても、ミゲルの正式な婚約者はルミエラだ。
であれば何を言ったところで、婚約者がいる相手に懸想していると世間は見るのである。
「しかし修道院だなんてそんな急に……いつ行くつもりだ」
「今日」
「今日!?」
「今すぐ荷物を纏めて行きます」
「あまりにも急すぎやしないか!?」
「そうしないと私の心が揺らぎっぱなしだし、周囲に色々迷惑をかける事になりそうだし、その結果家族や友人たちにまで迷惑をかける可能性がとても高いのです。
急すぎていける修道院が無い、なんて事はありませんよね。戒律が厳しいところとか、この際どこでも構いません。とにかくすぐに俗世から離れなければならないのです」
正直マリナの言っている事は、両親からすれば荒唐無稽もいいところだ。
この場にマリナの兄もいたなら、慌てながらも妹に冷静になれって、と言っていた事だろう。
だが残念ながら兄は今士官学校に通っていて、戻ってくるのは二年後である。
思えば前回、兄が戻ってきた時に何やら言いたそうな顔はしていたのだ。
ミゲルと堂々とそこらを共にいて人目に触れるような事はしていなかったから、噂になるまではいっていなかったと思うが、しかしそれでも密かに噂があったかもしれない。そしてそれを兄は知っていたのかも。
だから、早いうちに諦めた方がいいとか、そういう事を言おうとしていた可能性はある。
マリナは考える。
もし、あの時、ルミエラが死んで、時が戻る事もなかったならば……と。
流石にルミエラを放置して逃げ出すわけにもいかないだろうし、そうなればミゲルは殺人犯となってしまう。マリナも共犯者として罪を背負っただろう。
ルミエラの家はミゲルを恨み、マリナを憎んだだろうし、当然言葉だけの謝罪で済むはずもない。
ミゲルの家はわからないが、マリナの家はルミエラの家に対してきっと多くの慰謝料を支払う事になったはずだ。最悪家を傾かせるどころか貴族ですらなくなっていたかもしれない。
そうして犯罪者となった後、きっとマリナもミゲルも結婚相手にマトモな相手などみつかるはずもなく、そうなれば二人はきっと結ばれたかもしれないが行きつく先は決して明るい未来ではない。
一緒になれても幸せになんてなれるはずがないし、お互いがお互いに自責の念に押し潰されてしまっていたかもしれない。
それが段々歪んでいっていずれ、相手が悪いとばかりに責任転嫁をして罵り合うどころか殺し合いに発展してしまうかもしれなかった。
ミゲルが他者を傷つける事に何の罪悪感も持たないような人物でマリナも同様であったならそれでも幸せになれたかもしれないが、しかしマリナが好きになったミゲルはそういう人物ではない。故に、人を殺しておいてのうのうと幸せになろうなんてすぐに思えるような気持ちの切り替えなどできるはずがないのだ。
ミゲルが前の事を憶えていないのならば、急にマリナが離れた事に心を痛めるかもしれない。けれど、憶えていても何も言わずにマリナが離れてしまえば、結局は同じなのだ。
だからといって話し合うつもりもないのだが。
会えばマリナの気持ちも揺らぐし、それはきっとミゲルだってそうなるかもしれない。
決心が揺らいでまた愚かな選択をするかもしれない事を考えれば、会えるはずもない。むしろ会ってはいけないのだ。
言っている事は結構無茶苦茶なマリナの言い分を、しかし両親は悩んだ末に受け止めた。
マリナの瞳には、以前まではなかった決意が浮かんでいたからだ。
本気で、心の奥底からそうするべきなのだと。
軽くしか考えていない発言ではないのだと。
ここで違う道を示したところで、きっと娘は自ら行動に移るだろうと悟ってしまったからこそ両親はすぐさま入れる修道院として心当たりのある場所へ馬車を向かわせる事にした。
途中であまりの厳しさに心が折れて戻りたい……そう言った時に改めて他の道を示そうと。
マリナの両親はそんな風にマリナの今後を考える事にしていたのだが……
――結論として、マリナが戻ってくる事はなかった。
命を落としたとかではない。
確かに最初の頃、マリナはその修道院でついていけないのではと思う事もあったけれど、しかしそれでも乗り越えて――ここで終生過ごそうと、そう決めたのだと両親へ手紙を出したのだ。
その修道院の近くには魔物が度々出没する森や山があり、そこは決して安全な場所ではなかった。
そんな場所に何故修道院が……と思われがちだが、そこはかつて僧兵たちが己を鍛え上げ、人々を守る砦として機能していたのである。
時が流れ今では修道院となっているが、その実態は昔からほとんど変わっていない。
つまりその修道院にいる修道女も修道士も、皆戦うための力を身につけるのである。
今の今までそんなものとは無縁だったマリナからすれば、そこでの生活は途轍もなく厳しく辛いものではあった。
だが、それくらいの場所でなければ自分はきっと心のどこかで救いを求め、他者へ甘えや依存というものをしてしまうかもしれないと思ったのだ。
ミゲルを忘れようとして、他の誰かにミゲルの面影を重ねるように、代わりにしてしまうかもしれないという恐怖もあった。
だからこそマリナは、何があっても自らの足で立って前に進み続ける事ができるだけの力を求めたのである。
そしてその力で一人でも多くの人を救えるようになれば。
そうすれば、きっと。
己の弱い心も少しは鍛えられるのではないかと。
そう信じて。
そしてそこでマリナは新たな運命と出会う。
修道士ではない。
自分に色々と教えてくれた先輩修道女である。
彼女は時として弱音を吐きそうになるマリナを叱咤し、励まし、決して見捨てるような真似はしなかった。
最初はあまりの厳しさに苦手意識を持っていたマリナであったが、しかしその厳しさ全てがマリナのためであったと知ってからは、一転してマリナは彼女に全幅の信頼を置いた。
彼女のように自分もなりたい……!!
そんな憧れから、マリナは彼女に少しでも近づくために寝る間を惜しんで努力し続け――
いつしかマリナはただ守られるだけしかできないような、頼りない貴族令嬢などではなく、弱きものを守るだけの力を得たのだ。
そうして後から修道院に身を寄せた者たちから憧れの眼差しを向けられるようになり、憧れ、近づきたいと願っていた彼女と同じような存在になれた事に、マリナ自身もどこか誇らしげであった。
憧れであった修道女は残念ながら寿命を迎え既に天の国へ旅立ってしまったけれど、それでもマリナの心の中には常に彼女の存在が息づいている。彼女に教わったものを、自分もまた伝えていこう。
それは、勇者が魔王を倒し世界が平和になった後もだ。魔王以外の脅威がいつ訪れるとも限らない。
そんな風に、マリナの人生は最後まで修道女として在り続けたのであった。




