表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

言葉遊びをご飯に添えて

青いキャベツの再加熱

作者: 雪解雫

ポストに挟まっていた一枚の葉書には、時を巻き戻す力があったらしい。

差出人は高校時代の知り合い。知り合いと言うのは、少し他人行儀すぎるだろうか。

でも、彼がイタリア留学に行ったきり、私は一度も会っていない。

そんな人からの便りだった。


「拝啓」


かしこまった書き出しで始まるそれは、印刷ではなく、彼らしい癖のある字で書かれていた。

内容を要約すると、「イタリアンレストランを開いたから、プレオープンに来てほしい」というものだ。


――なぜ、今さら。


彼はイタリアへ行くと決めた時、私に相談ひとつせず、まるで私から逃げるように旅立った。そんな彼からの誘いなど、行く理由もない。もう何年経ったと思っているんだろう。彼の真意がわからない。


けれど、捨てきれない感情のようなものが胸に引っかかって、私は結局、閉店間際にその店を訪ねてしまった。


その店は外から見ても落ち着いた雰囲気で、けれど小さな店だった。窓からそれとなく店内を覗く。カウンターの奥にはシェフが一人。


彼だ。


ドアノブに手をかける。このドアを開けなければ、彼と会うことはない。今更彼と会っても何にもならない。会わない方がいいのかもしれない、いや、会わない方がいいに決まっている。けれど、ここまで来て引き返すなんて、とも思う。今日はずっと考え事をしていたから、昼食をとっていない。ここに来るために使った電車賃も、安くはなかった。お腹が空いているから、電車賃がもったいないから、だから、入るんだ。


一つ息を吸う。


ドアノブを思いっきり押す。ドアについていたベルがチリン、と鳴った。

その音にびっくりして、思わず肩をすくめたところで、カウンターの奥の彼と目が合った。

彼はらしくない作り笑いを浮かべ、接客口調で言った。

「いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました」


ああ、やっぱり来るんじゃなかった。


「……久しぶりだね」

彼は気まずそうに言った。それでも作り笑いはやめなかった。

「久しぶり」

私も気まずそうに言った。気まずそうな顔だけを作って、笑顔は作らなかった。


カウンター席に案内された。客が1人しかいないのに、シェフの彼と距離を取るのもおかしい気がして、彼の目の前の席にしてしまった。


こんなことなら、うじうじと悩んでいないで、すぐに行くのか行かないのか決めるべきだった。そうすれば他の客もいて、少しはこの気まずさから逃れられたかもしれないのに。

いや、行かないという選択肢を選んでいるべきだった。


私はまた間違えてしまったんだ。高校最後の日のみたいに。

あの時も、私は結局彼に流されてしまった。今回もまた、ただ流れに飲まれたにすぎない。


メニューを見る時間を少しでも削りたくて、私は一番安いコースを頼んだ。イタリアンレストランなんて縁がなかったから、とりあえず食べられれば何でもよかった。


彼は丁寧に料理の説明をしてくれたのだが、残念ながら頭には入ってこなかった。彼と同じ空間にいるというそれだけで心音は乱れ、過去に頭が支配される。大丈夫だと、覚悟を決めてきたというのに。情けない自分が嫌になる。


料理はどれも美味しかったが、昔彼が作ってくれた料理とはまるで違った。洗練されているけれど、知らない味。ああ、やっぱり来なければよかった、と心のどこかで思った。


しかし彼は、メインを終えた後、不意に言った。

「ごめん、コースだともうデザートなんだけど……一品だけ、サービスしてもいい?」

断るのも悪い気がして、私は頷いた。


そして出されたのは、派手さのないスープ。

トマトが入っているのか、赤みを帯びてはいるが、ほとんど緑と茶色が混じった素朴な色。


「リボッリータ。イタリア語で『再び煮る』っていう意味の、トスカーナの郷土料理」


私は首をかしげる。彼がコースを中断してまで出す料理には見えなかった。


それでも一口スプーンですくって、口に運ぶ。

その瞬間、私は思わず目を閉じてしまった。


特別な味じゃない。むしろ地味で、家庭的で、飾り気のない味。

けれど――これだ。

私の知っている、あの頃の彼の味だ。

優しくて、少し頼りなくて、でも確かに寄り添ってくれる味。


胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。

忘れていたわけじゃない。思い出すのが怖かったんだ。

「美味しい」と口にしたら、きっと何かがほどけてしまう。

それでも、言葉は勝手に零れていた。


「……美味しい」


顔を上げると、彼は一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。

接客のための笑顔ではなく、昔と同じ不器用な笑顔。

あの頃と違うところもあるのに、この笑顔だけは変わっていない。


彼は少し照れながら言った。

「『Cavolo riscaldato non fu mai buono.』――再加熱したキャベツは美味しくないっていう、イタリアのことわざなんだ。本当の意味はもう少し違うんだけど、直訳するとそんな感じの意味。でも、俺はそうじゃないと思う。こうして煮直したスープが美味しくなることもあるんだから」


私はつい呟いていた。

「美味しい」


彼ははにかみながら謝った。

「高校のとき、ごめん。夢に必死で、君のこと全然考えられなかった」

「私こそ。応援できなくて、ごめんね」

互いに言い合いかけた後で、「もういいでしょ。お互い様だよ」と笑い合った。


続いて出されたドルチェは苺ソースのパンナコッタ。懐かしい味だった。全く同じものを、昔、彼が作ってくれた。私が「お店みたい」と言ったら、彼は本気で店を開く夢を語り始めていた。あの時の冗談の延長が、今ここに現実となっている。


食後、コーヒーを飲みながら尋ねてみた。

「ねぇ。『再加熱したキャベツは美味しくない』って、本当はどういう意味なの?」

彼は顔を赤くして言った。

「……昔の人間関係をやり直しても、うまくいかないって意味。でも、俺はそうじゃないといいなって思ってる」


「もしかして、そのリボッリータ……私と……」

問いかけると、彼は真っ赤になった。思わず笑ってしまう。恥ずかしがり屋なのは、昔から少しも変わっていない。


私たちの約束ですらない約束を、彼は律儀に守ってくれた。

彼は少ししか変わっていないところも、大きく変わったところもある。私もきっとそうだ。

変わってしまった二人同士。

あの約束は、私たちの関係が崩れるきっかけになってしまった。けれど、今また私たちをつなぎ直したのも、やっぱりあの約束だった。


もし、再加熱したキャベツが本当に美味しくならないものだとしても、このスープのみたいに例外はある。私たちも、もう一度、少し違う味を見つけられるのかもしれない。


そんな気がして、私は空になったカップを静かにテーブルに戻した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ