青いキャベツの再加熱
ポストに挟まっていた一枚の葉書には、時を巻き戻す力があったらしい。
差出人は高校時代の知り合い。知り合いと言うのは、少し他人行儀すぎるだろうか。
でも、彼がイタリア留学に行ったきり、私は一度も会っていない。
そんな人からの便りだった。
「拝啓」
かしこまった書き出しで始まるそれは、印刷ではなく、彼らしい癖のある字で書かれていた。
内容を要約すると、「イタリアンレストランを開いたから、プレオープンに来てほしい」というものだ。
――なぜ、今さら。
彼はイタリアへ行くと決めた時、私に相談ひとつせず、まるで私から逃げるように旅立った。そんな彼からの誘いなど、行く理由もない。もう何年経ったと思っているんだろう。彼の真意がわからない。
けれど、捨てきれない感情のようなものが胸に引っかかって、私は結局、閉店間際にその店を訪ねてしまった。
その店は外から見ても落ち着いた雰囲気で、けれど小さな店だった。窓からそれとなく店内を覗く。カウンターの奥にはシェフが一人。
彼だ。
ドアノブに手をかける。このドアを開けなければ、彼と会うことはない。今更彼と会っても何にもならない。会わない方がいいのかもしれない、いや、会わない方がいいに決まっている。けれど、ここまで来て引き返すなんて、とも思う。今日はずっと考え事をしていたから、昼食をとっていない。ここに来るために使った電車賃も、安くはなかった。お腹が空いているから、電車賃がもったいないから、だから、入るんだ。
一つ息を吸う。
ドアノブを思いっきり押す。ドアについていたベルがチリン、と鳴った。
その音にびっくりして、思わず肩をすくめたところで、カウンターの奥の彼と目が合った。
彼はらしくない作り笑いを浮かべ、接客口調で言った。
「いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました」
ああ、やっぱり来るんじゃなかった。
「……久しぶりだね」
彼は気まずそうに言った。それでも作り笑いはやめなかった。
「久しぶり」
私も気まずそうに言った。気まずそうな顔だけを作って、笑顔は作らなかった。
カウンター席に案内された。客が1人しかいないのに、シェフの彼と距離を取るのもおかしい気がして、彼の目の前の席にしてしまった。
こんなことなら、うじうじと悩んでいないで、すぐに行くのか行かないのか決めるべきだった。そうすれば他の客もいて、少しはこの気まずさから逃れられたかもしれないのに。
いや、行かないという選択肢を選んでいるべきだった。
私はまた間違えてしまったんだ。高校最後の日のみたいに。
あの時も、私は結局彼に流されてしまった。今回もまた、ただ流れに飲まれたにすぎない。
メニューを見る時間を少しでも削りたくて、私は一番安いコースを頼んだ。イタリアンレストランなんて縁がなかったから、とりあえず食べられれば何でもよかった。
彼は丁寧に料理の説明をしてくれたのだが、残念ながら頭には入ってこなかった。彼と同じ空間にいるというそれだけで心音は乱れ、過去に頭が支配される。大丈夫だと、覚悟を決めてきたというのに。情けない自分が嫌になる。
料理はどれも美味しかったが、昔彼が作ってくれた料理とはまるで違った。洗練されているけれど、知らない味。ああ、やっぱり来なければよかった、と心のどこかで思った。
しかし彼は、メインを終えた後、不意に言った。
「ごめん、コースだともうデザートなんだけど……一品だけ、サービスしてもいい?」
断るのも悪い気がして、私は頷いた。
そして出されたのは、派手さのないスープ。
トマトが入っているのか、赤みを帯びてはいるが、ほとんど緑と茶色が混じった素朴な色。
「リボッリータ。イタリア語で『再び煮る』っていう意味の、トスカーナの郷土料理」
私は首をかしげる。彼がコースを中断してまで出す料理には見えなかった。
それでも一口スプーンですくって、口に運ぶ。
その瞬間、私は思わず目を閉じてしまった。
特別な味じゃない。むしろ地味で、家庭的で、飾り気のない味。
けれど――これだ。
私の知っている、あの頃の彼の味だ。
優しくて、少し頼りなくて、でも確かに寄り添ってくれる味。
胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。
忘れていたわけじゃない。思い出すのが怖かったんだ。
「美味しい」と口にしたら、きっと何かがほどけてしまう。
それでも、言葉は勝手に零れていた。
「……美味しい」
顔を上げると、彼は一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。
接客のための笑顔ではなく、昔と同じ不器用な笑顔。
あの頃と違うところもあるのに、この笑顔だけは変わっていない。
彼は少し照れながら言った。
「『Cavolo riscaldato non fu mai buono.』――再加熱したキャベツは美味しくないっていう、イタリアのことわざなんだ。本当の意味はもう少し違うんだけど、直訳するとそんな感じの意味。でも、俺はそうじゃないと思う。こうして煮直したスープが美味しくなることもあるんだから」
私はつい呟いていた。
「美味しい」
彼ははにかみながら謝った。
「高校のとき、ごめん。夢に必死で、君のこと全然考えられなかった」
「私こそ。応援できなくて、ごめんね」
互いに言い合いかけた後で、「もういいでしょ。お互い様だよ」と笑い合った。
続いて出されたドルチェは苺ソースのパンナコッタ。懐かしい味だった。全く同じものを、昔、彼が作ってくれた。私が「お店みたい」と言ったら、彼は本気で店を開く夢を語り始めていた。あの時の冗談の延長が、今ここに現実となっている。
食後、コーヒーを飲みながら尋ねてみた。
「ねぇ。『再加熱したキャベツは美味しくない』って、本当はどういう意味なの?」
彼は顔を赤くして言った。
「……昔の人間関係をやり直しても、うまくいかないって意味。でも、俺はそうじゃないといいなって思ってる」
「もしかして、そのリボッリータ……私と……」
問いかけると、彼は真っ赤になった。思わず笑ってしまう。恥ずかしがり屋なのは、昔から少しも変わっていない。
私たちの約束ですらない約束を、彼は律儀に守ってくれた。
彼は少ししか変わっていないところも、大きく変わったところもある。私もきっとそうだ。
変わってしまった二人同士。
あの約束は、私たちの関係が崩れるきっかけになってしまった。けれど、今また私たちをつなぎ直したのも、やっぱりあの約束だった。
もし、再加熱したキャベツが本当に美味しくならないものだとしても、このスープのみたいに例外はある。私たちも、もう一度、少し違う味を見つけられるのかもしれない。
そんな気がして、私は空になったカップを静かにテーブルに戻した。