2. 第1章 爪弾き者たち-3
大人しくなったネイトの作業台の隣では、ラッセル・ホッパーが騒ぎに動じることもなく黙々と針を動かしていた。
ラッセルは35歳、身長170センチ。
薄い茶色の髪は無造作にまとめられ、もみあげから口周りの髭と繋がっている。
灰色の目は穏やかだが、どこか疲れた影を帯び、柔和な顔立ちにうらぶれた印象が漂う。
グレーのコットンシャツは襟が少し擦り切れ、紺のスラックスは微かな皺が寄っていた。
ラッセルは主に女性向けの服を担当し、普段から華やかなドレスや上品なブラウスを仕立てていた。
作業台には、女性向けの紫紺のドレスの生地が広げられ、細やかな刺繍が施された裾が陽光にきらめく。
ラッセルは作業に集中して騒ぎに気が付かなかったのではない。
単に興味がなかっただけだ。
ラッセルはかつて自分の服飾工房を経営していた。
だが、妻が資金を持ち出し、目をかけていた弟子と駆け落ちしたことで倒産。
3ヶ月前からハーディプールで働き始めたが、腕は確かなものの自分から意見を出したりせず言葉少なく陰気な態度のため、ネイトとは別の形で周囲と馴染めていなかった。
12歳の双子の娘、エリノアとリネットを養うため。
ただ生活のために働いているというのが彼の現状だった。
そんなネイトとラッセルは、作業台が隣り合っているにも関わらず、ほとんど言葉を交わしたことがなかった。
ネイトは他の職人に興味がなく、ラッセルは自分から話しかけるタイプではなかったからだ。
2人の間には、互いの仕事に干渉しない暗黙の了解があった。
だが、ある日の午後、ネイトはラッセルの作業台に目を留めた。
ラッセルがカジュアルな少女用の服を作っているのに気づいたからだ。
スモークブルーに白のストライプ柄のウエストコートと揃いのロングスカート。
ウエストコートは少女の華奢な体に沿う細身のデザインだが、スカートはゆったりと広がっている。
スカートの裾には繊細なフリルが波打っており、ラッセルはちょうどその部分を仕上げていた。
陽光がフリルの縁に当たり、淡い影を落とす。
ウエストコートの側には胸元に控えめなフリルが施された白のブラウスが置かれており、ネイトはこの3つがセットアップだろうと判断した。
ラッセルの手先は淀みなく動き、縫い上げられた箇所に粗は見当たらない。
だが、生地は高級品ではなく、庶民が着るような柔らかなコットンであることをネイトは訝しんだ。
服のデザインもかなりカジュアルだ。
上流階級の客用ならもっと華やかなデザインにするはずだが、この服はあくまでもアクセント程度にしかフリルを加えていない。
ハーディプールの客が注文したものとは思えなかった。
「良い腕してるな。どこの客用だ?」
ネイトが珍しく声をかけた。
作業台に肘をつき、赤い髪を指でかき上げる。
声には軽い皮肉が交じるが、どこか興味も感じられた。
ラッセルは手を止めず、淡々と答えた。
「…自分の娘用だ。子供はすぐに大きくなるからな。2人いるから、手が空いた時に作っておかないと間に合わない」
彼の声は低く、どこか遠くを眺めるようだった。
「娘? お前、娘がいたのか?」
ネイトは少し驚いた顔で尋ねた。
ラッセルが工房に入ってきた時、自己紹介をろくに聞いていなかったのを思い出した。
ラッセルのうらぶれた見た目からは、彼が家庭を持っているイメージが湧かなかったという失礼な思い込みもあった。
「双子だ。12歳になる。エリノアとリネットだ」
ラッセルは軽く頷き、フリルの端を丁寧に縫い上げていく。
ラッセルは会話しつつも、ネイトの方を振り返りもしない。
他の職人ならその態度に苛立つかもしれないが、ネイトはむしろ運指を眺めていたいのか気にする素振りも見せなかった。
ラッセルの方も、ネイトの礼儀知らずな喋り方を咎めるようなことはしなかった。
2人はその後、娘たちの性格や服のデザインについて雑談を交わした。
双子の娘は見た目はそっくりだが性格は異なる。
姉のエリノアは活発でリーダー気質で、ラッセルには厳しいが妹には甘い。
妹のリネットは人をからかうのが好きだが、甘い物に弱く、ちらつかされると簡単に言うことを聞く。
ラッセルが話す声は普段より柔らかく、娘たちのことを話していると僅かに口元が緩むのにネイトは気がついた。
ラッセルも、ネイトが服のデザインについて貪欲に質問するのに驚いていた。
ネイトは主に男性服を担当しているため、女性服のデザインにそこまで興味を持つ理由が分からなかった。
だが、ネイトからすれば「どっちも同じ服だろ。アイデアを流用しちゃ駄目なんて話は無い」という話らしい。
その答えを聞いて、ラッセルはネイトの斬新なデザインが、どうやって生み出されているのかを理解した。
2人は初めてまともに会話を続けていたが、その途中でラッセルの視線がネイトの作業台に置かれたマネキンに向いた。
人形サイズのマネキンたちと、その隣に置かれた小さなハンガーラック。
マネキンは小さなスーツを着ており、ハンガーラックには同じサイズの服が数着かけられていた。
ネイビーにイエローチェックのコートや、深緑のウエストコートに赤いネクタイ、裾を短めに切り上げたブラックスーツ。
どれも精巧に作られ、まるで本物の服を縮小したようだった。
「これはなんだ?」
初めて見るものを指さしながら、ラッセルが不思議そうに尋ねる。
「俺のオリジナルデザインのサンプルだ。費用と手間を減らすためにこのサイズにしてる」
ネイトの声にはどこか自負が滲んでいた。
「面白いアイデアだ。技術力がはっきり分かるし、カタログ代わりにもなる」
ラッセルは青地に白のチェック柄のジャケットを手に取り、丁寧に観察した。
ジャケットの縫い目を指でなぞり、肩パッドの立体感や裾のラインを確認する。
縫い目は細かく、生地の張りが計算し尽くされている。
陽光がジャケットのチェック柄に当たり、白い線が僅かに輝いた。
実際、ネイトの小さなサンプルは、客にデザインのイメージを伝えるのに役立っており、評判が良かった。
仕立て服は特定客の要望を反映するため、吊るしのスーツとは違って完成形をイメージしにくい。
例えば、筋肉のついた軍人向けのスーツを作る際、「肩に厚めのパッドを入れて男らしさを主張し、胸周りに隙間ができないように立体的にカーブさせ、ウエストを低めにして重厚感を出す」と説明しても、着道楽の客でもなければ伝わりにくい。
仮縫いで調整するにしても、事前にイメージを共有できれば修正の手間は大幅に減るし、客の満足度も上がる。
カジュアルやモード寄りの服ではなおさらで、服の柄やフォルムといった修正できないデザイン面での食い違いを防げるというのは、客にしても非常にメリットの大きい話だった。
仕立て服は安くない上に納品まで時間もかかる。
客は好みでないデザインに対して容赦なく修正要望を出してくるが、時には明らかに止めておいた方がよい要望も出してくる。
職人はそういった要望に対処しつつ、全体のバランスが取れた服に仕上げないといけない。
つまり、服職人にとって、接客はなによりも重要な技術の1つだった。
客あしらいが下手なネイトだが、それでも注文を取れてこれたのはこのサンプルのおかげだった。
スチュアートがネイトのサンプルを着せたマネキンを店内に展示したり、このようなサンプルを見せながら説明することで、客も安心して注文できるのだった。
ラッセルは改めてジャケットのデザインを確認する。
肩周りは普通だが、ウエスト回りは身体に張り付くような絞ったラインで、裾は短めに切り上げられている。
モード寄りのデザインだが、シャツとネクタイを地味な無地のものにすればバランスが取れるだろう。
流行りのデザインではないが、ある程度のフォーマルさを保ちつつ遊び心が欲しい客は、この手のデザインの服を欲しがるかもしれない。
「興味深いデザインだ。サンプルは全て君のアイデアかい?」
「ああ、そうだよ。どうせこの工房の奴らは誰も認めやしないけどな」
ラッセルが聞くと、ネイトは自嘲気味に答え、体を傾けて椅子に体重を預ける。
ハーディプールの客はほとんどが上流階級である。
そして上流階級向けの高級服、特に男性向けであれば、そのほとんどがクラシックスタイルである。
伝統に裏打ちされたデザインの服は身元の保証であり、迂闊な真似をすれば相手から舐められマウントを取られてしまう。
少しでも不利になれば、それはその後の人間関係において足を引っ張る。
上流階級同士のコミュニケーションとは、いかにして相手より風上に立つかを競い合うものであり、身につける服は騎士の鎧のように鉄壁でなければならない。
よほど思い入れのある意匠やアイデンティティを示すものでなければ、遊び心を入れるにしても大半は細かな変更に留まっていた。
そのため、ネイトの斬新なデザインに顔をしかめる保守的な客も多かった。
クラシックスタイルのスーツであれば、ジャケットの裾は臀部を隙間なく覆い隠さなければならない。
切り上げられたジャケットの裾から臀部が露わになっているのを目にして、「このスーツは女装服か?」と真剣な顔で聞いた男性客もいたほどである。
そんな上流階級を相手にしている他の職人たちからすれば、ネイトがデザインした服のほとんどは嘲笑の対象でしかない。
「もっとマシな服を作れ」「お前は客を見ていない」という言葉がネイトを煽る常套句になっていた。
だが、ラッセルは違った。
「そうでもないんじゃないかな。少なくとも私は気に入ったよ」
ラッセルの声は穏やかだが確信に満ちており、ネイトの方を見て微笑んだ。
灰色の目が柔らかく輝き、髭の端がわずかに動く。
その言葉にネイトは一瞬驚き、少しだけ表情を緩めた。
「君には才能がある。ただ、その使い方と周りに伝える方法を知らないだけだ」
ラッセルはサンプルを返しながら、付け加えた。
その言葉に、ネイトは何か引っかかるものを感じた。
胸の奥で、僅かな苛立ちと好奇心がせめぎ合う。
「あんたは服のデザインをやろうと思わないのか?」
ラッセルは軽く笑って首を振った。
「もうそういうのは足を洗ったんだ」
彼の声には、過去の傷を隠すような響きがあった。
ラッセルはネイトの情熱を見て、かつての自分を思い出した。
自分だけのデザインを追い求め、夜通し針を動かしていた若かりし日々を。
その夢は妻の裏切りと工房の倒産で砕け散った。
あの時に精一杯足掻いていれば、もしかしたら今でも工房は残っていたかもしれない。
だが、そうするだけの気力は残っていなかった。
彼は内心でネイトの純粋な姿勢に羨ましさを感じていた。
しかし、今の彼の目標は、娘たちの笑顔のために生きることだけだった。