2. 第1章 爪弾き者たち-1
ロックミア共和国の首都オックストンは、1940年頃のイギリスを彷彿とさせる煤けた魅力に満ちた都市だった。
石畳の道が網の目のように入り組み、朝霧が石畳の道を這うように漂い、ガス灯の淡い光が黄昏の薄闇を柔らかく照らし出す。
馬車の車輪が石畳を叩く乾いた音と馬の鳴き声、街角で新聞を売りさばく少年の甲高い叫び声、路地裏から漂う焼きたてのパンの香り。
それらが絡み合い、街に命を吹き込んでいた。
街の中心にはライムストーンでできた壮麗な王宮がそびえ、その白亜の外壁は陽光を浴びて眩しく輝く。
王宮を取り囲むように、貴族や権力者たちの邸宅が整然と並び、磨き上げられた鉄製の門扉や窓が彼らの富と地位を誇示していた。
そこから少し離れた一帯には、上流階級のための高級服飾店やレストラン、ホテル、化粧品店などの多種多様な店が軒を連ねる。
石造りによる美しさと重厚感のある店構えが並び、店の前にもゴミ1つ許さない徹底ぶりから、店の自負心と日頃相手にする客の階層が見て取れた。
高級服飾店のガラス張りのショーウィンドウには、ビロードのドレスや金糸の刺繍が施された軍服が飾られ、庶民には手の届かない豪奢さが漂う。
隣の化粧品店のショーウィンドウでは、様々な大きな花の絵を背景にして、香水やスキンケアクリームが宝石のごとく飾られていた。
店の前を歩く紳士は帽子を傾け、貴婦人はレースの手袋をはめた手で扇を優雅に揺らし、笑顔を取り繕いながらも互いの装いを品定めするように視線を交わす。
そんな人々の後ろを、黒い制服の従者が荷物を持って従う姿が日常の光景だった。
この一帯の店であれば、1本のワインや1瓶の香水だけで、庶民の月収の半分を超えることなど珍しくもない。
店は庶民など最初から相手にしておらず、庶民も記念品や贈り物を買う時くらいしか足を伸ばさない場所だった。
身なりが悪ければ門前払いされるだけではなく、店の前をうろついているだけで警戒されて警察を呼ばれることもあった。
だが、都市の中心から離れるにつれ、風景は一変する。
煤けたレンガ造りの建物がひしめき、狭い路地では洗濯物が風に揺れ、子供たちが汚れた足で駆け回る。
商店街は雑多な看板で溢れ、魚の匂いとパンの香りが混ざり合い、商人たちの威勢のいい掛け声が響く。
下町に暮らす人々の生活は、華やかさとは無縁だった。
彼らの服は、継ぎはぎだらけのコットンシャツや色あせたスカートで、貴族のドレスの華やかさとは対極にあった。
ガス灯の光も届きにくく、夜になると薄暗い街灯が僅かに道を照らすだけ。
裏路地に入れば素性の知れない人間がたむろっており、身なりの良い人間が迷い込めばただでは済まない。
そんなオックストンの空には、今日も工場の煙突から吐き出される薄い煙がたなびいていた。
この世界に魔法は存在しないが、技術と産業は独自の進化を遂げ、特に服飾や工芸品の生産は国家の威信を象徴する柱となっていた。
優れた商品は国家の力を示すとともに経済力をもたらす。
経済力は他国より優れた軍隊を生み出し、それがより大きな国土の獲得を実現する。
そうして獲得した国土と人口から、次なる優れた商品が生み出されていく。
このループを繰り返すことでロックミア共和国は勢力を拡大し、長きにわたり繁栄を謳歌してきた。
だが、その裏では不穏な影が忍び寄っていた。
国土の東に隣接するヘザーリン帝国との間には、長い国境線を挟んで緊張が絶えなかった。
ヘザーリン帝国もロックミア共和国と同様に勢力を拡大してきた大国である。
両国はその成長過程において、軍事や政治、商売とあらゆる分野においてたびたび衝突してきた歴史があった。
最初はよくある隣国に対する競争心だったのかもしれない。
だが、邪魔されるたびに「あの国がいなければ...」という感情を抱くことは至極当然の流れであり、過去多くの国が辿った道である。
いつの間にかその感情は、隣国との交流機会が多い国境付近の都市部から、国中へと広がっていった。
「あの国にだけは負けてはならぬ」という声が街の酒場や議会の廊下で囁かれ、経済や文化の競争が火花を散らしていく。
そして、各所に撒き散らされた火花が、少しずつ燻り始めていたのだった。
両国は周辺国に比して大国と呼べるほどの国土と経済力を誇っていた。
この先、国家の安全を確保し、覇権を握るためには隣国を叩くしかない。
そう信じる国民や権力者が増えるのも致し方なかった。
それはまるで、国民や権力者を馬とし、敵対心と競争心を両輪とした、御者不在の古代の戦車のようだった。
水が上から下に流れるように、両国の外交関係は悪化の一途を辿っていった。
両国は様々な嫌がらせを繰り広げ始める。
重要物資の輸出入規制、関税の急激な引き上げ、第三国を介した貿易妨害、国内政治家の買収、果ては反政府的な市民団体の資金援助まで。
両国は手段を選ばなかった。
しかし、軍事力に差がないため、正面衝突は互いに回避していた。
戦争になれば勝利は不確実で、被害は国家を揺るがす規模になる。
弱ったところを周辺国のハイエナに食い荒らされるリスクすらあった。
相手が他国と戦争して消耗するのは歓迎するが、自らが当事者になるなど馬鹿げている。
出費と利益が見合わない戦争など、絶対に回避しなければならない。
幸運にも残っていた最後の理性がそう囁き、両国が最後の一線を踏み越えるのを留めていた。
だからこそ、はけ口を失った感情はいつまでも燻り続け、いつ爆発してもおかしくない状態にあったのだった。
そんな中、ヘザーリン帝国は嫌がらせの一環として、国産の高級ぬいぐるみ「ベアトリス」をロックミア共和国向けに輸出禁止にした。
ベアトリスは、ヘザーリン帝国の著名なぬいぐるみ工房であるティムクラフトが手掛ける、熊をモチーフにしたぬいぐるみである。
全長50センチほどで、デフォルメされたフォルムは手足が少し長めにデザインされ、フワフワの毛並みと愛らしい表情が特徴だった。
超がつくほど高級な生地は、撫でると絹のようにスベスベとして滑らかで、その手触りの良さもあって非常に人気が高い。
ベアトリスは1体で庶民の月収が吹き飛ぶほどの高級品だが、それでもベアトリスを求めるファンは世界中に存在した。
予約から納品まで数ヶ月であれば早い方で、場合によっては1年以上待たされることもあるほどの人気商品だった。
この小さな嫌がらせが、両国の関係に思いもよらぬ波紋を広げることとなる。
しかし、嫌がらせを始めた側も受けた側も、この段階ではそのような未来を予想していなかった。