第6話「......」
馬車の中は、静かだった。
ルシアは無言のまま、窓の外を眺めている。
レイヴンもまた、外の景色に視線を向けていた。
だが、彼の胸の内は、ほんの少しだけ浮ついていた。
(……すげぇ、マジでゲームで見た景色そのままじゃないか!)
道沿いに広がる草原、遠くに見える小さな集落、そして王都へと続く壮大な城壁――。
それらは、かつて彼が画面越しに見ていた『エターナルクレスト』の世界そのものだった。
(いや、冷静になれ。これは当たり前のことだろ……ゲームの世界に転生してるんだから)
そう言い聞かせながらも、実際にこの目で見ると、どうしてもテンションが上がってしまう。
思わず、窓ガラスに映る自分の顔を見てしまう。
(……レイヴンとして生きてるんだよな、俺)
自分がクロイツァー家のレイヴンとしてこの世界に存在している事実を、改めて実感する。
どこか不思議な気持ちだった。
そんな思考を巡らせていると、突如、遠くから不穏な音が響いた。
「――きゃああああっ!!」
御者が驚き、急ブレーキをかける。
馬車が急停止し、ルシアがすぐに剣に手を掛けた。
レイヴンも無言のまま、馬車の扉を開ける。
そこで彼が目にしたのは――巨大な魔物と、それに立ち向かう二人の人物だった。
体長は三メートルを超え、黒い毛並みが赤黒く光を帯びている。
その身体には、不気味なの紋様が刻まれていた。
(……暴食の魔狼!?)
ゲームで何度も戦った強敵。
高い知性と強靭な肉体を持ち、魔法攻撃に一定の耐性がある。
通常の魔法ではダメージを与えるのも難しく、厄介な敵だった。
だが、それ以上にレイヴンの目を引いたのは――魔狼に立ち向かう二人の人物だった。
剣を構える青年と、杖を握る少女。
(……ん?)
どこかで見たことのある顔。
いや、どこかどころではない。
見覚えがありすぎる。
(おい、待て待て待て!)
レイヴンは思わず目を凝らした。
そんなはずはないと、自分に言い聞かせるように。
(……なんで主人公が二人いるんだ!?)
ゲームの主人公は本来一人のはずだった。
それなのに、今目の前には剣士と魔法使いの二人の姿がある。
しかも、互いを「兄さん」「リリア」と呼び合っている。
(兄妹!? ……いや、いやいやいや!そんな設定、なかっただろ!!)
脳内で警鐘が鳴る。
『エターナルクレスト』の主人公は、プレイヤーが男女のどちらかを選ぶ仕様だったはず。
(選ばれなかった方はストーリーに登場しない……はず……だよな?)
しかし、今目の前にいる二人は、兄妹という形で共存している。
ゲームの仕様が、根本から変わっていることに気づく。
(……俺がいるからか? それとも、最初からこういう世界だったのか……?)
訳が分からない。
状況が理解できないまま、戦いは動き出した―—。
*
魔狼の赤黒い瞳が獲物を捉えた瞬間、空気が凍りつく。
それは、まさに”狩り”の目だった。
次の瞬間――地面が弾ける。
「――速い!」
ルシアが呟くと同時に、魔狼の姿がかき消えた。
ほとんど音を立てず、疾風のごとく跳躍する。
狙いは、兄であるレオン。
「くっ……!」
彼は咄嗟に剣を構え、魔狼の爪を弾いた。
衝撃音と共に、強烈な圧が周囲を揺るがす。
だが、そのままでは耐えられず、彼は吹き飛ばされた。
「兄さん!」
リリアが叫び、杖を握りしめる。
その口から、滑らかな詠唱が紡がれる。
「水の理よ、我が願いに応じたまえ!」
――その直後だった。
『承認。第二階梯まで許可する』
(……!?)
それは、リリアの声ではなかった。
(今の、なんだ......?)
彼女の杖先に水の魔力が集まり、青白く輝きながら凝縮されていく。
やがて、鋭い弾丸のように成形されたそれが――
「清流にて穿て!『アクアバレット』!」
魔狼へと撃ち放たれる。
だが――
「……グルルァ!」
魔狼の身体が赤黒く発光すると、魔力障壁が展開される。
水弾は弾かれ、霧散した。
「くっ……!」
リリアが悔しげに唇を噛む。
(詠唱した後の声は誰のものだ……!? それが魔法の使用に許可を出していた......?)
レイヴンの脳内で、考えが交錯する。
(俺が知ってる『エターナルクレスト』に、こんな設定はなかった……!)
しかし、考えている暇はなかった。
「なら、こっちでどうだ!」
兄が剣を構え、雷光を帯びながら詠唱する。
「雷皇よ、天上の雷霆を請う!」
——『雷霆は汝を導く。第二階梯まで許可する』
「我が願いに雷光を纏わせよ!『ヴォルトストライク』!」
雷撃を纏った斬撃が魔狼を襲う。
雷光が炸裂し、地面が焦げる――だが、魔狼はそれでも倒れなかった。
(……このままだとマズイ!)
だが、レイヴンはその場で硬直する。
恐るべき事実に気づいたのだ。
(……俺、詠唱できないじゃないか)
言葉を発せない。
となれば、詠唱もできない。
当然、“謎の声”が応じることもない。
(じゃあ、俺は魔法を使えない......?)
焦りが広がる。
魔力を感じることはできる。
だが、それをどう引き出せばいいのか分からない。
だが、状況は待ってくれなかった。
魔狼が次の獲物を定めた。
狙いは――リリア。
(――危ない!)
魔狼の身が沈み込むのを見た瞬間、レイヴンの体は勝手に動いていた。
助けなければ、という意識が生まれるよりも早く、足が地を蹴る。
(間に合え!)
視界が流れ、世界が一瞬遅れてついてくるような感覚。
リリアが驚いた表情でこちらを見ているのが見えた。
彼女の足元には影が伸びている。
魔狼の鋭い爪が振り下ろされようとしていた。
レイヴンはその場に飛び込むが、思考が凍りつく。
(どうする!?――魔法を使わないと!)
反射的に、脳内で言葉を紡ぐ。
(大地母よ、我は不動なる守護への感謝を捧げる!)
――何も起こらない。
(……やっぱり駄目なのか?)
詠唱はした。だが、沈黙したままだ。
焦燥が喉を焼く。
このままでは間に合わない――!
『大地は揺るがぬ。第三階梯まで許可する』
(……っ!?)
不意に響く声。
それは、レイヴンの思考を飲み込むように告げた。
(詠唱できたのか……?)
確かに”許可”を受けたと感じた。
迷っている場合ではない。
やれるのかどうかではなく――
(やるしかない!)
脳内で技名を唱える。
(我が願いに地の鎖を結べ!『グラビトン・ケージ』!!)
魔狼の足元が突然崩落する。
重力が一瞬にして変化し、その場に縛りつけられた魔狼は呻き声を上げた。
「今だ!」
レオンの剣が光を帯び、雷の奔流が刀身を駆け巡る。
「雷皇よ、天上の雷霆を請う!」
——『雷霆は汝を導く。第二階梯まで許可する』
しかし、その瞬間、魔狼の全身が赤黒く輝いた。
(まだ動けるのか!?)
魔狼は本能的な危機を察知し、最後の力を振り絞る。
身体に残る魔力を限界まで高め、一瞬だけ重力を振り払った。
だが、すでにリリアが動いていた。
「水の理よ、我が願いに応じたまえ!」
——『承認。第二階梯まで許可する』
「氷結をもって万象を封じよ!『アイスバインド』!」
リリアの魔法が発動した。
彼女の杖から放たれた冷気が瞬時に広がり、魔狼の四肢を絡め取るように凍らせていく。
氷の鎖が足元から這い上がり、黒い毛並みを白く染めていった。
「グルル……ッ!!」
魔狼は必死に暴れようとするが、凍結の魔力はすでに全身を包み込んでいた。
爪が振るわれる前に、その関節ごと凍りつき、砕ける音が響く。
逃れる術を失い、魔狼の赤黒い瞳に焦りが宿った――だが、すでに遅かった。
「我が剣に極雷を宿せ!『ヴォルテクス・ストライク』!」
レオンの雷剣が、青白い光を帯びながら振り下ろされる。
雷撃の軌跡が閃光となり、魔狼の胸元を貫いた。
雷の力が氷の内部へと伝わり、魔狼の体内で爆ぜる。
凍結した肉体に雷撃が駆け巡り、魔力の奔流が内側から炸裂する。
「……グ、グルルル……ッ!」
魔狼の咆哮は、断末魔の悲鳴と化し――次の瞬間、氷と共に砕け散った。
*
静寂が訪れた。
魔狼の巨体は沈黙し、空気にはまだ雷と氷の残滓が漂っている。
レイヴンは、自分の手をゆっくりと開いた。
指先が微かに震えている。
(……俺、本当に魔法が使えた)
喉から言葉は出ない。
だが、それでも、確かに “魔法を発動させた” という実感があった。
何も喋らずに、ただ脳内で詠唱しただけで――それでも、世界は応じた。
この感覚は、単なるゲームのコマンド入力とは全く違う。
(……なるほどな)
身体の奥底で、何かが微かに熱を持つ。
魔法を使えたことの嬉しさか、それとも――
「……珍しいわね」
不意に、ルシアの声が耳に入る。
彼女は剣を収め、じっとレイヴンを見つめていた。
「あなたが、少し楽しそうにしてるなんて」
その言葉に、レイヴンは一瞬だけまばたきをした。
――楽しそう。
自分では気づかなかった。
けれど、今の自分は、そんなふうに見えていたのかもしれない。
ほんの一瞬だけ、唇がわずかに動く。
微笑というほどでもない。
けれど、どこか満足げな表情だった。
それを見たルシアは、何かを言おうとしたが――
結局、何も言わずに目を逸らした。
そして、戦場には、ただ冷たい風だけが吹き抜けていた。