幕間「ルシア・ヴェルディナの回想」
馬車の扉が閉まり、柔らかな振動が座席に伝わる。
ルシア・ヴェルディナは窓の外に視線を向けながら、静かに息をついた。
(……やっぱり、何も喋らないのね)
隣に座る婚約者――レイヴン・クロイツァーは、いつものように黙ったままだった。
無表情で、何を考えているのかまったく読めない。幼い頃からずっとそうだった。
彼とは婚約関係にあるが、まともに会話を交わしたことはほとんどない。
話しかけても、短く頷くだけ。何か尋ねても、長い沈黙の後にぽつりと簡単な返答が返ってくるだけ。
礼儀として対応はしてくれるものの、それ以上の関係にはなり得なかった。
(無口なのは別に構わないけれど、もう少し何か示してくれてもいいのに)
そう思いながら、ルシアはふと視線をレイヴンに向けた。
彼は窓の外をじっと見つめている。
静かで、落ち着いていて、それでいてどこか冷めたような印象を受ける。
(でも、彼が冷たい人だとは思えないのよね)
クロイツァー家は、貴族社会の中でも少し異質な存在だった。
代々「非元素魔法」の研究を続けてきた一族で、その特異な在り方から、さまざまな良くない噂が流れていた。
「クロイツァー家は王に反逆を企てている」
「彼らの研究する魔法は、不吉で恐ろしいものだ」
「クロイツァーの者は冷酷で何を考えているのか分からない」
そういった話は、貴族たちの間でよく囁かれていた。
しかし――。
(実際に彼の家に行ってみれば、そんな噂が大げさなものだとすぐに分かるわ)
レイヴンの父は寡黙ながらも誠実で、母は穏やかで優しい女性だった。
屋敷で働く使用人たちも、彼を恐れているどころか、むしろ親しみを持って接しているように見えた。
(それに、彼自身も……)
ルシアは馬車の振動に身を預けながら、これまでの記憶を振り返った。
数年前、彼の屋敷を訪れたとき。
使用人の一人が花瓶を落としそうになった際、レイヴンは何のためらいもなく手を伸ばし、それを支えていた。
驚いた使用人が恐縮するのを、彼は何も言わずに軽く首を振るだけだった。
また、まだ幼い頃、庭を散歩していてルシアが足を滑らせたときも――
彼はすぐに支えてくれた。
『……』
そのときも、彼は何も言わなかった。
けれど、手の温かさと、そっと支える仕草には確かな優しさがあった。
(言葉にしないだけで、本当は気遣いができる人なのよね)
ただ、それを知っているのは彼の周囲にいる一部の人間だけだった。
社交の場ではほとんど話さず、貴族としての印象は淡泊で冷たいものに映る。
それが誤解を生み、噂を強めているのだろう。
ルシアは窓の外を見つめながら、ため息をついた。
(私だって、レイヴンのことをもっと知ろうとしたことはある)
幼い頃から何度も話しかけたし、何か興味を引きそうな話題を振ったこともあった。
だけど、彼は決して会話を広げようとはせず、結局沈黙が続くだけだった。
クロイツァー家のことを信じているとはいえ、彼が何も語らないことだけは、どうにも理解しがたい。
(何か隠しているのか、それともただ話す気がないだけなのか)
どちらなのかは分からない。
でも、それを確かめようにも、レイヴンが話してくれない限り知る術はないのだ。
(それが、私が彼に対して抱いている唯一の疑念)
ルシアはふっと息をついた。
窓の外には、まだ見慣れた街並みが広がっている。
(……学園に行けば、少しは何か分かるかしら)
貴族たちが集まる学園で、レイヴンがどんな風に振る舞うのか。
そして、彼との関係も、このまま続いていくのか――それはまだ分からない。
ちらりと横目でレイヴンを盗み見る。
彼は相変わらず、静かに窓の外を見つめていた。
(せめて……もう少し何か、示してくれればいいのに)
そんなことを考えながら、ルシアは再び窓の外へと視線を戻した。