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第5話「......」

 朝の光がクロイツァー家の重厚なカーテンの隙間から差し込み、静寂の屋敷をゆっくりと照らしていた。


(……ついに、この日が来たか)


 レイヴンはベッドから静かに起き上がり、鏡の前で制服の襟を整えた。

 今日から学園生活が始まる。それは家族を守るための第一歩であり、避けては通れない運命の舞台だ。


 ドアをノックする音が響いた。


「お坊ちゃま、お支度は整いましたか?」


 メイドのアルナ・フィンレイが、いつもの明るい声で呼びかけてくる。

 レイヴンは小さく頷き、ドアを開けた。


「ふふ、今日も相変わらず無口でクールですね。でも、お顔の調子は良さそうです!」


 彼女は無邪気な笑顔を浮かべる。

 レイヴンは心の中で(いや、喋れないだけなんだって……)と叫びながらも、表情ひとつ変えずに廊下へと歩き出した。


 屋敷の前には、豪奢な装飾が施された馬車が停まっていた。

 その傍らに立つ少女――レイヴンの婚約者、ルシア・ヴェルディナが彼を待っていた。


 彼女は名門貴族の令嬢で、整った顔立ちに気品を漂わせている。

 淡い金色の髪をなびかせながら、レイヴンに視線を向けると、軽く眉を寄せた。


「ようやく来たのね」


 その声は冷たく響くが、それは怒りではなく、どこか距離を置いた慎重なものだった。

 レイヴンは無言のまま彼女の前に歩み寄ると、軽く頭を下げる。


「……」


 ルシアはそれをじっと見つめ、しばらく沈黙が流れた。


「……本当に、いつもそうなのね。あなたは」


 ため息混じりに言いながら、馬車の扉を開く。


「言いたいことが何もないのか、あるけれど喋らないのか、私にはわからないわ。でも、こうしてずっと無口でいると、さすがに不安になるのだけれど」


 彼女の言葉には、純粋な疑問が滲んでいた。

 レイヴンはもちろん返答したかったが、口を開いても「……」しか出てこない。

 仕方なく、静かに馬車に乗り込んだ。


 扉が閉まり、馬車の中は静寂に包まれた。

 ルシアは窓の外に視線を向けており、レイヴンの方を振り返ることはない。

 かすかな馬車の揺れと、車輪が石畳を滑る音だけが響いている。


(……ルシア・ヴェルディナ)


 彼女の名前を思い浮かべた瞬間、元のレイヴンの記憶が呼び起こされた。



 婚約が決まったのは、レイヴンがまだ幼い頃のことだった。

 クロイツァー家とヴェルディナ家はかつて親交があったが、クロイツァー家の研究する魔法が「異端」とみなされ始めて以降、その関係は微妙に変わりつつあった。


(それでも、婚約が結ばれたということは、まだクロイツァー家に一定の信頼があったということだ)


 最初にルシアと会ったのは、彼が10歳の頃。

 彼女は当時から礼儀正しく、それでいて芯の強い少女だった。

 気位の高い貴族令嬢らしい態度はあったものの、傲慢ではなく、むしろ常識的で聡明な子だったと記憶している。


 彼女は最初から、レイヴンの無口さを不思議がっていた。


『無口なのは構わないけれど、あなたが何を考えているのかくらいは、知っておきたいわ』


 彼女の言葉は真剣で、表面的な興味ではなかった。


(……元の俺は、それにちゃんと応えられなかった。別に無関心だったわけでもない)


 むしろ、ルシアのことは嫌いではなかった。

 気高く、誇りを持ち、それでいて驕らない彼女は、貴族社会の中でも特別な存在に思えた。


(好意がなかったわけじゃない。だけど……どうすればいいのか分からなかった)


 レイヴンは、もともと言葉を交わすのが得意ではなかった。

 幼い頃から、口数の少ない父を見て育ち、貴族としての振る舞いを教えられる中で、自然と沈黙が当たり前になっていた。


 自分の言葉を相手に伝えるということに、あまりに不器用だった。


(話しかけられるたび、何か言わなきゃと思っていた。でも、何を言えばいいのか分からなかった)


 結果として、何も言わないまま時が流れ、ルシアは次第に距離を取るようになっていった。


 そして、彼女の中で「レイヴンは理解できない人間」という認識ができあがったのだ。


 回想が終わり、レイヴンは静かに息を吐いた。

 隣に座るルシアは相変わらず窓の外を見つめている。


(……そりゃ、彼女も不信感を持つよな。)


 彼女からすれば、何も語らず、何を考えているのか分からない相手と婚約させられたのだから、不満があって当然だった。

 ましてや、貴族社会での悪い噂もある。

 彼女がクロイツァー家に対して抱いている半信半疑の疑念が、レイヴンへの距離感を作り出しているのだろう。


(元の俺は、きっとこのままでも仕方ないと思っていたんだろうな)


 だけど、今のレイヴンは違う。

 彼はルシアとの婚約をどうこうしようとは思っていないが、誤解され続けるのは避けたいと考えていた。


(……この関係も、いずれ変えていかなきゃならない。)


 喋れない以上、直接説明することはできない。

 でも、何か別の形で、彼女に伝えていくことはできるはずだ。


 レイヴンは静かに、馬車の揺れに身を預けた。



 馬車の中は豪華な装飾が施され、座席はふかふかのクッションで覆われている。

 しかし、居心地の良さとは裏腹に、車内の空気は微妙に張り詰めていた。


 ルシアは窓の外を眺めながら、静かに口を開く。


「あなたとは、ほとんど話したことがないわね」


 彼女の視線は窓の向こうへ向けられたままだ。


「婚約が決まってから、何度か顔を合わせてはいるけれど……私にとって、あなたは正直、何を考えているのか分からない人よ」


 ルシアはふっと息をつくと、レイヴンへと視線を移す。


「他の貴族の間では、あなたの家に関するあまり良くない噂が流れている。……このままでいいの?」


 その言葉に、レイヴンは少しだけ目を見開いた。


(……噂を信じきっているわけじゃない、か)


 ルシアの態度は冷たく見えるが、明確な敵意ではない。

 彼女は貴族社会において、無口で何も語らない婚約者という存在をどう捉えればいいのか、まだ判断をつけかねているのだろう。


「あなたが何を考えているのか、本当に知りたいわけじゃないけれど……何か言葉があれば、少しは理解できるかもしれないのに」


 レイヴンは視線を落とし、口を開く。


「……」


 当然、何も言えない。


 ルシアはしばらく沈黙していたが、やがてふっと小さく笑った。


「……まぁ、期待するだけ無駄ね」


 諦めたように言いながらも、その表情はどこか複雑だった。

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