幕間「教師たちの報告」
学院の職員室は、校舎の北側、生徒の立ち入り禁止区域に位置していた。
高い天井と大きな窓を持つ広い部屋には、それぞれの教師の個性が表れた机が並んでいる。
ガイウス・ヘンドリックは大きく欠伸をしながら、乱雑な書類の山で埋もれた自分の机に向かって歩いていた。初日の案内を終え、やっと一息つけるところだ。
「ふぅ——毎年この時期は疲れるな」
椅子に深く沈み込み、天井を見上げる。入学手続きの書類、明日からの授業準備、クラス編成の最終確認……山積みの仕事が彼を待ち受けていた。
「おや、生きて戻ってきたか。学生たちにしごかれなかったか?」
皮肉めいた声が聞こえてきた。声の主は、窓際のデスクで何やら複雑な魔法陣の設計図を広げていた男——イシュメル・ラムダクス。Aクラスの担任であり、学院随一の魔法理論の権威だった。
彼は若く見えるが、実際の年齢は五十を超えている。黒髪に僅かに混じる白髪、鋭い知性を宿した瞳、そして常に皮肉めいた微笑みを浮かべる表情が特徴的だ。
「まあな。お前なら初日から生徒たちを恐怖に陥れただろうが、俺にはそんな趣味はないよ」
ガイウスは肩をすくめて返した。
イシュメルは小さく笑い、ペンを置いた。
「恐怖ではなく、敬意を教えているだけだ。Aクラスは優秀な生徒が揃っている。その才能を最大限に引き出すには厳しさも必要だろう」
「相変わらず容赦ないな」
「それが教師というものだ」
イシュメルは優雅に茶を一口すすり、続けた。
「それで、君のBクラスはどうだい?」
ガイウスは椅子に深く腰掛けたまま、天井を見上げた。
「ああ、いつもの感じだよ。貴族は貴族で固まり、平民は平民で緊張している。でも……」
少し考えるように言葉を切り、続ける。
「今年は面白い生徒がいるんだ」
「ほう?それは珍しい」
イシュメルが少し身を乗り出す。
「クロイツァー家の跡取り息子だよ。レイヴン・クロイツァー」
その名前にイシュメルは眉を上げた。
「クロイツァー?あの非元素魔法研究の家系か。実に興味深い」
彼の目に鋭い光が宿る。
「何が気になる点なのかね?」
「無口でな、自己紹介すら口頭ではしなかった」
ガイウスは少し笑みを浮かべる。
「代わりに結界魔法と水魔法を組み合わせて、文字で名前を表示したよ。詠唱なしで、だ」
「詠唱なしだと?」
イシュメルの表情が一変する。
「それは……興味深い。単なる才能か、それとも……」
彼は何か考え込むように言葉を切った。
「どうした?何か知っているのか?」
「いや、噂でしかないが……クロイツァー家の魔法研究は、常識的な範囲を超えていると聞く。特に非元素魔法は、通常の魔法理論では説明できない現象を引き起こすことがある」
イシュメルは魔法陣の図面に視線を戻しながら続けた。
「詠唱なしの魔法というのは、一般的な魔法理論では不可能とされている。だが、クロイツァー家なら……」
その時、職員室のドアが勢いよく開かれた。
「皆さんお疲れ様です!初日はいかがでしたか?」
明るい声と共に入ってきたのは、金色の短髪に青い瞳を持つ若い女性——シエラ・ブルーウィンド。Cクラスの担任であり、学院で最も若い教師だった。
彼女は去年まで王国騎士団に所属していた実力者だが、怪我のため教職に就いたばかりの新任教師である。明るく活発な性格で、生徒たちからの人気も高い。
「シエラ、声が大きい」
イシュメルが眉をひそめる。
「だって初日ですよ!興奮しますよね!」
シエラは弾むような足取りで近づき、二人の間に立った。
「私、初めてのクラス担任で緊張したんですよ。でも、生徒たちはみんなとても良い子たちでした!特に剣術の才能がある子が何人かいて……」
彼女の熱意は止まらない。イシュメルは溜め息をつき、ガイウスは苦笑するだけだった。
「それにしても」
シエラは少し声を落とし、真面目な表情になる。
「クラス間の緊張感は感じましたね。貴族と平民の関係以前に、学年内の派閥争いが始まっているようで」
ガイウスは眉をひそめた。
「派閥争い?まだ初日だぞ?」
「でも、すでに話は回っているようです。特に……」
シエラは周囲を見回してから、小声で続けた。
「グランツ家の息子が、クロイツァー家の跡取りに敵意を向けていると」
「ああ、ヴィルヘルムか」
ガイウスは肩をすくめる。
「あー、食堂で小競り合いがあったらしいな」
「問題はそれだけではないわ」
新たな声が響いた。
職員室の隅、静かに佇んでいた女性——リーゼロッテ・シュバルツが、静かに歩み寄ってきた。学院の教頭であり、その存在感は他の教師たちとは一線を画していた。
漆黒の長髪と、常に冷静な赤紫色の瞳が印象的な彼女は、生徒たちからは畏怖の念を持って見られている。
「ヴィルヘルム・グランツは単なる問題児ではないわ。彼の背後には、貴族社会における保守派の意向がある」
彼女の声は低く、しかし明確に響く。
「彼がクロイツァー家の跡取りに敵意を向けるのは、単なる若者の傲慢さだけではない。貴族社会における勢力争いの前哨戦よ」
ガイウスは眉をひそめた。
「大げさな。クラス内のいざこざを、そこまで大袈裟に」
「侮ってはいけない」
リーゼロッテは冷静に言い切る。
「クロイツァー家を取り巻く状況は……複雑よ。彼らの魔法研究は一部の貴族から異端視され、最近では王城内にまで噂が届いている」
イシュメルが鋭く視線を向ける。
「王城内に?つまり……」
「まだ確かな情報ではないわ。ただ、目を光らせておく必要がある」
リーゼロッテはそれ以上は語らず、静かに元の席へと戻っていった。
シエラは困惑した表情で、ガイウスとイシュメルを交互に見る。
「あの……つまり、どういうことなんですか?」
ガイウスは深いため息をつく。
「要するに、我々教師は単なる学問を教えるだけでなく、学院内の政治情勢にも目を配る必要があるってことだ」
イシュメルは魔法陣の図面を丁寧に畳みながら言った。
「教育とは常に政治と隣り合わせだ。それが王立学院の実態だよ」
シエラは少し暗い表情になるが、すぐに明るさを取り戻した。
「でも、私たちは生徒たちを守る立場ですよね?彼らの才能を伸ばし、正しい道に導くのが私たちの役目です!」
彼女の純粋な熱意に、ガイウスは思わず笑みを浮かべた。
「ああ、その通りだ。だから我々は——正直に言えば面倒な仕事だが——教師を続けているんだろうな」
イシュメルも皮肉めいた笑みを浮かべる。
「確かに。才能ある若者を見出し、その可能性を広げる——それが教師という職業の魅力だ」
三人はそれぞれの思いを胸に、明日からの授業の準備を進めた。
遠くで鐘の音が鳴り、一日の終わりを告げる。
ガイウスは窓から外を眺め、学院の敷地内を歩く生徒たちの姿を見た。
彼らの中に、未来の王国を担う人材がいる。
特に、あの無口な少年——レイヴン・クロイツァーが、この学院でどう成長するのか。
どんな道を選ぶのか。
(……面白くなりそうだな)
そう思いながら、彼はゆっくりと足を進めた。




