第11話「……」
ティースペースに腰を下ろした瞬間、レイヴンは自分がとんでもないミスを犯したことに気づいた。
(……やっちまった)
誘ったのはいい。
だが、ここからどうする?
静かにティーカップを手に取るルシアの向かいで、レイヴンは軽く息を吐いた。
何か話そうと口を開きかけるが、言葉は出ない。
(……何を言えばいい?)
前世なら「お疲れ」とか「今日はありがとう」とか、軽く言葉をかけるくらいはできたはずだ。
けれど、今の自分にはそれができない。
喋れない――いや、厳密には喋ることを許されていない。
(……せめて、感謝の気持ちだけでも伝えないと)
この学院に入学するにあたって、ルシアにはすでに世話になっている。
馬車での移動中、入学手続きでの振る舞い、周囲の目を気にせず行動してくれたこと。
何も言わずにそれを受け取るだけでは、不誠実だと思った。
(……ありがとう、そして、これからもよろしく)
言葉にはできない。
だが、何かしら伝えなければ。
レイヴンは考えた末、静かに手を伸ばし――テーブルの上に小さな包みを置いた。
ルシアがそれを見て、少し目を瞬かせる。
「……何かしら?」
レイヴンは何も言わず、その包みを押しやった。
それは、小さな菓子だった。
ティースペースの売店でふと目に入った焼き菓子。
どうやって感謝を伝えるか考えていた時、なんとなく目に留まり、それを選んだ。
(……まあ、少しくらい気持ちは伝わるだろう)
だが、ルシアは予想外のものを出されたかのように、一瞬だけ戸惑いを見せた。
「……?」
彼女は焼き菓子とレイヴンを交互に見て、困惑したように首をかしげる。
「これは……?」
当然の反応だった。
唐突に何かを渡されても、意味が分からないのは当然だろう。
(……いや、違うか? これ、もしかして伝わってない?)
レイヴンは少し焦ったが、ここまで来た以上引き下がれない。
改めて、彼女の方へ小さく押しやる。
ルシアはますます混乱したような表情を浮かべたが、やがて軽くため息をついた。
「……つまり、これは私に?」
レイヴンは無言で頷く。
ルシアは少し考え込むようにそれを眺め、ふっと微笑んだ。
「……ふふ、ありがとう。よくわからないけれど、もらっておくわ」
そう言うと、彼女はそのまま焼き菓子を手に取る。
そして、少しだけ表情を緩めながら言った。
「あなたから何かをもらうなんて、少し意外ね」
レイヴンは何も答えなかったが――その心の中では、少しだけ安堵していた。
*
ティースペースに穏やかな時間が流れていた。
だが、それを壊すように、突然、不遜な声が響いた。
「ヴェルディナ嬢、こんな陰気な男とお茶とはな」
レイヴンとルシアが視線を向けると、数人の貴族生徒がこちらを見下ろしていた。
中央に立つのは、豪奢な刺繍の施された制服を纏った青年。
その後ろには、取り巻きの二人が控えている。
青年は笑みを浮かべながら、ルシアを値踏みするような目で見つめた。
「お前ほどの女が、こんな陰険で無口なやつに時間を割くなんてな。婚約なんてさっさと破棄して、俺の女になれよ」
言葉を投げつけながら、青年はレイヴンを一瞥する。
その表情には、侮蔑と退屈そうな色が滲んでいた。
ルシアは眉をひそめ、静かにカップを置いた。
「……くだらないわね。お断りするわ」
「まあ、そう言うなよ」
青年はルシアの言葉を軽く受け流しながら、馴れ馴れしく手を伸ばす。
――その瞬間だった。
ガッ!!
鋭い音が響き、青年の手が弾かれる。
空気が張り詰めた。
レイヴンの手が、いつの間にか動いていた。
青年は驚き、そして顔を歪めた。
「……貴様、なにしやがる」
レイヴンは何も答えなかった。
だが、確かに胸の奥に苛立ちが広がっていた。
(……俺は今、怒ってるのか?)
だが、それを深く考える余裕はなかった。
「……おい、やる気か?」
青年の目が鋭さを増す。
取り巻きの二人が、一歩前に出る。
「へぇ……ただの腑抜けかと思っていたが、案外やる気はあるんだな?」
青年は嗤いながら、腰の剣に手をかけた。
周囲の生徒たちがざわめく。
(……これはまずいな)
学院内での私闘は禁止されているとはいえ、貴族同士の小競り合いが黙認されることは珍しくない。
このままいけば、確実に剣を抜くことになる。
レイヴンは視線を鋭くし、いつでも動けるように身構えた。
だが――
「そこまでにしておけよ〜」
気の抜けた声が響く。
レイヴンは反射的に声の主を見た。
そこには、先ほど入学手続きを担当していた――学院の教師の一人が立っていた。
彼は青年たちを見下ろしていた。
「学院での私闘は禁止されているぞ。知っているよな?」
「……チッ」
青年は舌打ちをし、剣を握っていた手を離した。
取り巻きたちも、慌てて身を引く。
だが、去り際に青年はレイヴンを鋭く睨みつけた。
「……覚えてろよ」
そう吐き捨てると、彼は取り巻きを引き連れ、その場を去った。
レイヴンは、ゆっくりと拳を開く。
無意識のうちに、力が入っていたことに気づいた。
隣で、ルシアが静かに呟く。
「……今日は驚いてばかりだわ。あなたがこんなふうに感情を出すなんて」
レイヴンは何も言わず、深く息を吐いた。
貴族生徒たちが去った後も、周囲にはまだ緊張感が残っていた。
レイヴンは静かに息を吐き、握った拳をゆっくりと開く。
すると、不意に肩越しから声が飛んだ。
「――思ったより動けるんだな、お前」
軽い口調。
振り返ると、例の気だるげな教師が立っていた。
彼は適当な席に腰を下ろし、テーブルに肘をついたまま、ちらりとレイヴンを見た。
「学院に入ったばかりで、もう目をつけられるとは……いや、大したもんだよ」
それだけ言うと、彼は欠伸混じりに肩をすくめた。
レイヴンは何も答えなかったが、教師は特に気にする様子もなく、コーヒーカップを手に取る。
「……ま、あまり派手にやらかすなよ。めんどくさいことになったら、俺まで巻き込まれる」
適当な調子で言いながら、カップを傾ける。
レイヴンがじっと彼を見ていると、教師は薄く笑った。
「……何だよ、そんな目で見るなって。俺はお前の味方でも敵でもない。ただの教師さ」
そう言うと、彼は面倒くさそうに立ち上がった。
「じゃ、そろそろ引き上げるか。お前らも寮に戻れよ」
飄々とした態度のまま、教師はひらりと手を振ってその場を去っていった。
レイヴンはしばらく彼の背中を見送り――やがて静かに席を立った。
*
学院の敷地を歩きながら、レイヴンとルシアは言葉を交わさなかった。
しかし、ルシアは時折レイヴンの横顔を盗み見るようにしていた。
そして、寮の門が見えてきた頃、不意に口を開く。
「……さっきは、ありがとう」
レイヴンは足を止めた。
ルシアは彼を見上げ、ふっと微笑む。
「あなたが私のために動くなんて、少し意外だったわ」
茶化すような口調ではなく、素直な感謝の言葉だった。
レイヴンは少し考えた後、わずかに頷く。
それだけのやり取りだったが、それで十分だった。
ルシアは軽く会釈をし、「じゃあ、また明日」と言って寮の中へ入っていく。
レイヴンはそれを見送り、静かに自分の部屋へと向かった。