第1話「......」
深夜二時。
部屋の中は、静寂とパソコンのファンが回る低い音だけが支配していた。液晶モニターの青白い光が、薄暗い室内をぼんやりと照らしている。
神谷蓮は、顔をモニターに近づけながらキーボードとマウスを操作していた。目の下には薄くクマができ、疲れの色が見えるものの、その瞳は画面に映る世界に釘付けになっている。
「……よし、あと少しでクリアだ」
蓮の指がキーボードを叩く音が静寂を破る。
モニターには、彼が高校生活のほとんどを捧げてきたお気に入りのRPG――『エターナルクレスト:運命の聖戦』の画面が映し出されていた。
蓮はすでにこのゲームの全てのエンディングを制覇しており、通常のストーリーにはもう飽きていた。
だが、今日は特別だ。数日前にリリースされた新しいDLCが導入され、彼の興奮は最高潮に達していた。
「クロイツァー家のサイドストーリー、どんな展開になるんだ……?」
蓮が今プレイしているのは、ゲーム内で悪役として知られる貴族――クロイツァー家に焦点を当てたサブシナリオだ。クロイツァー家は王国に反逆したとされる貴族で、ストーリーではプレイヤーに討伐される存在だった。
蓮はクロイツァー家の設定に特に興味を持っていた。彼らの特徴は無口あること。台詞のほとんどが「……」だけで表現される異質なキャラクターだった。
当初は「開発手抜きか?」と笑っていたが、プレイを進めるうちに、その無言のキャラクターたちが妙な存在感を放っていることに気づいた。
しばらくプレイを続ける中で、蓮はふと違和感を覚えた。
キャラクターの台詞が、これまでのプレイ経験と微妙に違うのだ。仲間キャラが言うはずのない台詞、選択肢の順番もどこかおかしい。
「……ん? こんなイベント、前にあったか?」
画面には、クロイツァー家の当主とその息子が王の前で罪を問われるシーンが映し出されている。しかし、これまでのプレイではこの場面は単なるカットシーンとして流れ、ほとんど詳細に描かれることはなかった。
『クロイツァー家の者たちよ。お前たちの罪は明白である……反論はあるか?』
クロイツァー家の当主とその息子は、無言のまま頭を下げていた。
その沈黙に対して、王は顔を歪めながら言葉を続ける。
『……ふん。黙して語らぬということは、己の罪を認めたと見なす』
「いやいやいや、違うだろコレ……。」
蓮は思わず画面に向かって声を漏らした。これまでのシナリオと全く違う展開だった。
本来ならクロイツァー家は明確な悪役として描かれ、断固として反抗的な態度を取るはずだった。だが、このシナリオではまるで冤罪のように描かれている。
クロイツァー家の当主と息子は、最後まで何も言わなかった。ただ「……」というテキストが画面に表示され続けるだけだった。それが、なぜか胸に引っかかる。
「これって……バグか? それとも新シナリオの伏線か?」
不安と興奮が入り混じった感情が蓮の中で渦巻く。新しい隠しルートを発見したのかもしれない――そんな期待もあった。
だが、その瞬間だった。
画面が突如としてフリーズした。
キャラクターの動きがピタリと止まり、音楽も途切れる。
蓮は眉をひそめ、キーボードを何度も叩くが、反応はない。
「うわ、マジかよ……。ここまで進めてフリーズとか、ふざけんなよ……」
ため息をつきながら、PCの電源ボタンに手を伸ばす。
しかしーー
電源を切る前に、モニターが真っ白に光り輝いた。
目を覆うほどの強烈な光が部屋中を満たし、蓮は反射的に目を閉じた。
「な、なんだこれ……!?」
耳元でキーンという耳鳴りが響く。
次の瞬間、視界が暗転し、体がどんどん沈んでいくような感覚に襲われた。
*
どれくらい時間が経ったのか分からない。
意識が徐々に浮かび上がると、蓮は柔らかな布団の感触を感じた。身体の節々に違和感はあるものの、明らかに現実の感覚とは違う。妙に重厚な布の感触、そして漂うどこか異国の香り。
目を開けると、そこには見知らぬ天井――いや、どこかで見覚えのある天井が広がっていた。
重厚な装飾が施された天蓋、繊細なデザインのシャンデリア。それはまさしく、貴族の屋敷といった雰囲気がにじみ出ていた。
(……ここは、どこだ……?)
反射的に声を出そうとした瞬間――異常に気づいた。
確かに口は動かしている。喉も震わせている。だが、耳に届いたのは、「……」という音にならない沈黙だった。
言葉が消えたのではない。最初から存在していなかったかのように、何も発声できない。
(……あれ? おかしい。もう一度……!)
「……」
(お、俺は――)
再び声を出そうとする。しかし、やはり口から漏れるのは、無音の沈黙。空気が喉を通る感覚すらない。息を吐き出しても、音として外に出ることは決してなかった。
(……は? なんで?)
焦りが胸を締め付ける。何度も何度も試みる。
「俺は誰だ」「ここはどこだ」「何が起きたんだ」――叫ぼうとするたびに、「……」という無音の虚無が返ってくる。
喉が詰まっているわけではない。声帯が壊れているわけでもない。ただ、発声という行為そのものが存在していないのだ。
(これ、夢か? いや……違う!)
混乱と恐怖が頭を駆け巡る。だが、現実は冷酷だった。蓮は言葉を失ったのではなく、最初から喋ることができない存在に変わってしまったのだ。
その時、扉が静かに開いた。
一人のメイドが部屋に入ってきた。
彼女の顔はどこか見覚えがある。ゲーム内で何度か見たキャラクター。だが、今目の前にいるのはただのデジタルデータではなく、確かな実在感を持つ人間だった。
そして、思い出した。
(もしかして、クロイツァー家のメイド――アルナ・フィンレイ!?)
アルナはレイヴンの顔を見て一瞬驚き、すぐに安堵の表情を浮かべる。
「お坊ちゃま!お目覚めですね!」
その声に反応して、蓮――いや、レイヴンは再び声を出そうとした。
「……」
(お、俺は――)
声は出ない。いや、正確には「……」という静寂だけが口から発せられる。
「……」
(俺の名前は!?)
「……」
(ここはどこだ――!)
喋ろうとすればするほど、無音の空白が口から溢れ出る。
もう一度。もう一度。何度繰り返しても結果は同じ。蓮の意思とは無関係に、「……」というテキストだけが現実に刻み込まれる。
だが、アルナはそんな彼の葛藤には全く気づかない。むしろ、その沈黙を当然のものとして受け入れていた。まるでそれが自然なことであるかのように。
「……ふふっ、今日も相変わらず無口でクールなんですね。昨夜から高熱を出されていたので心配しておりましたが、いつも通りで安心致しました!」
(違う! 違うんだって!! 俺は喋りたいんだよ!!!)
心の中で叫ぶ。しかし、現実に反映されるのは無音の「……」だけ。
蓮はようやく理解した。自分は単に言葉を失ったのではない。言葉を発するという機能自体が存在しない存在――レイヴン・クロイツァーになってしまったのだ。
(マジかよ……!? 無口キャラっていうか本当にしゃべれないのかよ!!!???)