3.
あの予約の日から数日後の平日のことだった。
「こんにちは!」
店を訪れたのは、時田だった。
「…いらっしゃいませ」
いつもの笑顔を浮かべていたつもりの友香だったが、店頭に現れた彼の姿を見てから声をかけるまでに微妙な間があった。今週だけで、直接時田の顔を見たのは3回目だった。しかし、彼自身、友香が一瞬微妙な顔をしたことなど気にしていない様子でニコニコしながら彼女の前に立っている。ちょうど昼の12時である。
「今週は月曜日から金曜日まで、お前の顔を見るためにランチに来る暇な男か」
一緒に早番で入っていた佐井が、席に案内を終えて戻ってきた友香にボソッと耳打ちする。
「…やめてよ、もう」
「やめてよ、ってお前、完全ロックオンされてるじゃん」
ニコリともせず、佐井はそう口にすると、憂いのこもったため息が友香の口からこぼれていった。
土日を挟み、彼女が月曜日に公休で休んでから火曜日に早番で出勤すると、彼は12時ごろ店に現れたのだ。前日にも友香を訪ねて彼が来店したことを後から他のスタッフから聞かされた。それから水曜日のランチで会い、木曜日公休、そして今日、金曜日に早番でシフトに入ると、来店した時田を出迎えることとなった。
あの時、時田のことを「幸雄」と呼んでしまったあの出来事が、こんな展開になると誰も思わず、佐井の言葉を借りるならば、「完全ロックオン」状態が続いているのだ。いくらこの店のランチもいいからと、社交辞令なのだろうと誰もが思う場面であったはずだ。
(毎日中華で飽きないのかしら…)
まさか、本当に自分に会いにきてくれているとも思っていない友香は、何がどうしたらこうなるのかと不思議に思っていた。当然、素直に向こうの好意を受け取れず、とりあえず当たり障りのない接客をする。仕事中にどうも視線を感じ、ちらっとその方向へ目をやると、彼女を見ているのは時田だった。友香は、困惑するしかない。
食事を終えると、伝票を片手に嬉しそうにニコニコしながらレジにやって来た時田は、友香の顔を見れるだけで嬉しそうにしていた。少なくとも今週3回とも同じような反応で、戸惑い半分、少しだけざわつく胸の内がくすぐったい。
(話しかけたらどんな反応をするのだろう)
少しだけ興味を覚えた友香はクレジットカードを返すついでに、あくまでも世間話をする体で話しかけてみる。
「何かお気に召したものはありましたか?」
そこに自分の感情を乗せず、お決まりの営業トークではあったが、彼は真剣に考えながら、口を開く。
「やはり、店の売りにしていらっしゃる海老チリは絶品ですね」
満足そうにはにかみながら笑ってそう答える彼に、自分からいたずらに声をかけたのに、その様子を素で見ている自分に気づく。
「あ、ありがとうございます」
すぐに我に返り、友香は丁寧に頭を下げた。そこには営業スマイルを浮かべる余裕はすでになく、好奇心を丸出しにしたことを少しだけ後悔した。
(心臓が、うるさい…)
時田の笑顔は、彼女の胸の鼓動を激しく動かす。ふわりとした柔らかい表情につい既視感を覚え、いつの間にか視線を奪われているのだ。
「あ、そうだ」
時田は思い出したかのようにポンと手を叩く。
「今日は何時にあがられますか? こんな時間からお仕事なら、先週よりも早いのでは?」
受け取ったクレジットカードを革の長財布にしまうと、時田はそう尋ねてきた。すると、領収書を書いていた彼女の手が止まる。
「えっと…?」
「時田様。うちの従業員を口説くのはおやめください」
困惑した笑顔を浮かべながら言い淀んでいると、すかさず髙橋が二人の間に割り込んできたのだ。すると、顔は笑顔なのに髙橋の眼鏡の奥の目が笑っていないと気付いた時田が少しだけたじろぎ、苦笑いを浮かべていた。
「楢橋さんには、髙橋さんというナイトのガードが固いですね」
愉快そうに笑いながら、時田は領収書を受け取るために手のひらを友香に向けた。彼女はその手のひらに書き上げた領収書を渡すと、時田はそのまま上着の内ポケットにしまい、颯爽と店を去っていったのだった。
「…誰が誰のナイトだよ」
髙橋は苦笑いをしながらポツリと呟いた。
「…フォローしてくれてありがと」
友香が素直にそう口にすると、髙橋は冷ややかに友香を見据えた。
「あれくらい、テキトーに流せよ。いちいち戸惑うな」
全くその通りで、友香は反論できなかった。しかし、時田のあの笑顔が、どうしても過去に引き込まれそうになり、いちいち反応してしまう自分がいるのも事実だった。しかし、仕事なのだからそうは言ってられない。
「…はい」
友香が返事をすると、小さくうなずいた髙橋はまだまだランチタイムで騒がしいホールに戻っていった。
家に戻り、家族と夕飯をとった後、友香は自室のベッドにごろんと横になりながら、枕に近くに転がっていたスマホを手に取り、何気なく写真のフォルダを開いた。最初にディスプレイに表示された写真は、1週間くらい前にひとりで食べた喫茶店のケーキセットだった。スワイプしてみると、ここ2年の写真は余り撮っておらず、少ないデータのほとんどは優美林の仲間と適当に撮ったものばかりだった。佐井も髙橋も積極的に写真には入ってこないが、カメラを向ければみんなと一緒に写ったりしてくれる。写っている仲間の笑顔に自然と友香も笑顔を浮かべていた。あとは食事やカフェに行ったとき注文した食べ物や、近所の夕日の写真、空の写真、花の写真などそんなものばかりだった。撮った写真を眺めながら、その時のことを思い出していた。
さらにスマホの画面を上にスワイプして遡っていくと、幸雄の姿を写した写真が現れ始める。遡るほどに、健康な笑顔で写っている彼の姿を流れるように眺めていると、さらに2年遡っていた。
いつでも一緒にいたのに、付き合っていない時期にはふたりの写真はそれほどなく、また友達の写真や遊びに行った時の写真などが中心となっていく。それでも、何枚かは彼を含めた何人かでカラオケで一緒に遊んだときに撮ったものもあった。高校の制服を着た、少し幼い幸雄がマイクを握って歌っているところを激写したら、笑いながら怒っていた。みんなでたくさん笑っていたあの頃。まだ異性として好きだとも思っていなくて、この時も確か女友達から幸雄を誘ってほしい、と頼まれてセッティングしたことを思い出した。
文化祭の時は、帰りが遅くなると、家が隣だからという理由でいつも一緒に帰っていた。それでも別に甘い関係にもならず、ふざけながら過していた。彼はずっと友香のことを好きだったと告白したが、長い間どんなふうに彼女のことを見ていたのだろうか。友香には想像もつかないことだった。
しかし、そんな彼はどこを探しても、もういない。それを知って2年が経つ。友香は、未だにふたりが付き合っていた時の写真を今もまともに見ることができなかった。彼が病気で寝たきりになるまで、彼は友香のやりたいことを精一杯叶えてくれた。海も映画も遊園地も水族館も野球観戦も一緒に行って、同じ景色を見て、同じ風の音を聞いて、同じ空気を体感して、共有して、これから先もふたりでやりたいことの話をしたりして過ごしていた。泊りで九州旅行に行って食い倒れようとか、いつかオーロラを見に行こうとか、彼女はふたりだったら何でもできるとさえ思っていた。
実際、ひとりになってしまうと、自分から何かすることが億劫で、この2年間のアップデートは特にない。彼のいないこの世界は何もかも冷たくて寂しくて、彼女の心を震わせる要素が見つからず、新しい一歩を踏み出そうとは思えなかった。
そんなある日突然、しかも2回目の命日を迎えたその日に、時田が彼女の前に現れた。背格好も、立ち姿も、はにかむように柔らかく笑うその顔も、まるでコピーロボットが使われているのではないかと思うほどに、そっくりな時田という男。どういう運命で彼は彼女の前に現れたのか。そして、彼は少なからず自分に好意を持っている。他の男の名を口にした女のどこを見て好きになったのだというのか。
(誰が招いた奇跡なんだろう。…奇跡なのかな)
友香の頭の中で、時田の笑う顔が記憶の中の幸雄の笑顔とぴったりと重なっていく。その瞬間に、目の奥が熱くなるのを感ぜずにはいられなかった。見ることもかなわなかったものが、思わぬところで見つかったのだ。しかし、それをおいそれと手の伸ばしていいものか、躊躇してしまう。何かの罠ではないのか、疑心暗鬼になるのは当然だった。
友香は写真フォルダを閉じて、スマホを枕元に置いた。
(あたしはどうしたいんだろう…)
この世界に絶望して、幸雄を追いかけて自殺する勇気もない。しかし、このまま目的もなく生きていてもただ老いていくだけだ。唯一、友香と繋がっている外の世界とは、優美林までの道のりと、その仲間だけだった。
(次の恋…)
春が明ける前の冬に、友香はひとつの恋が生まれて、別の恋が消えてなくなったところを見た。佐井が美帆と一緒にいるだけであんなに嬉しそうな顔をしているのを見て、彼女の冷めた部分が、その恋が永遠に続くことなんてないのに…と思ったことを彼女は思い出した。かつて永遠を当たり前のように望んでいたというのに、そんなものは存在しないと思ってしまうほどに、ふたりが羨ましいとも思ったのだろう。つまるところ、彼女は嫉妬していたのだ。そのことに気付くまで、何日か要した。そしてそれに気づいた時、たまらなく幸雄に会いたくなったのだ。
生きる意味がほしい。
それは、友香の切実な願いだった。
店の端から端までを行ったり来たりして目を光らせる正社員の男がふたり。滞りなく店の運営をしていくためにお互いの長所で補い合って協力しているのがよくわかる。佐井は酒の知識を生かし、ソムリエとしての地位を固めつつある。そして髙橋は持ち前のカリスマ性で従業員をまとめている。ふたりがいないと、この店はまとまらないことは誰もが知っている。支配人はそんな彼らに信頼を寄せている。
地方から東京の大学に通うために一人暮らしをしている美帆。文学部で英語を勉強している。ツアーコンダクターになって、世界中を歩いてみたいと目を輝かせて話をしていたことを思い出した。
実家の和菓子屋を継ぐために経営学部で学ぶ直樹は、今はホテルマンに憧れていると笑っていた。もしかしたら、大学を卒業したら、ホテル関係の専門学校に通うかもしれないと髙橋たちと話をしていたのを聞こえてきた時があった。彼はもう3年生だ。そろそろ本格的に将来のことと向き合わないといけない時期が早々に来るのだろう。
他のスタッフも、子育てだ、手芸の特技を生かしてネットに店を開いているだ、調理師免許を取るなど口を開けば当たり前のように目標や夢の話が出てくる。
「友香さんは?」
そう聞かれるのが一番しんどかった。優美林で働くことしか、今の自分にはない。そのくせ、正社員になることを拒み、過去にしがみついている。
(ホントにどうしようもないなぁ…)
窓から見える真ん丸の月が白い光を静かに放ちながら浮かんでいる。予定のない夜は、本当に余計なことばかり考えてしまう、と彼女の口からはため息ばかりがこぼれていた。