2.
あれから2週間ほど経ち、5月12日。怒涛のゴールデンウィークの勤務を乗り切り、世間も通常通りになりつつあるそんな週末。太陽が高く登り始めている午前中、友香がいたのは、自然あふれる公園墓地の一画だった。
手桶に柄杓を差し、水場でその手桶に水を注ぐと、目的の墓石の前へと立つ。墓石が綺麗に掃除がされているのを見て、彼の両親が先に訪れて、掃除したのだなと彼女は理解した。気を取り直して、友香は墓前にしゃがみ込み、目を閉じて手を合わせた。
供えられた花に目を遣ると、それはまだ新しかった。彼女は立ち上がり、柄杓で墓石に水をかけてから、自分が買ってきた仏花の花束を先に供えてあったものと一緒に置いて、目の前の墓石を見つめていた。
今井家の墓。そう彫られている文字をぼうっと見つめている。あたたかい風が彼女の頬を掠めると、葉が揺れて擦れた音が響めくように背後から広がった。長い髪はその風になびき、頬に伝う涙を乾かそうとする。
一年前にも考えたことだ。なぜ彼は病気に命を奪われなければならなかったのか? そんなことを考えても仕方ないことくらいは頭では分かっていても、どうしてもその運命を受け入れがたい友香には今もなお消化することができず、ずっと心に取り残されたまま疑問としてのこっていた。どうして彼だったのか。
「幸雄がいない世界がこんなにつまらないなんて、思いもしなかったよ…」
ポツリと呟いたその声は、風に溶けていった。ずっとそばにいてくれた人がいないその穴を、どうやって埋めたらいいのか、友香は未だに分からない。いや、まだ分かりたくなかった。忘れたくない。その一心で、次の場所に行くことを拒んでいるのだ。
しばらくの間その場に留まり、彼女は一方通行の会話をしながら、幸雄のことばかり考える。こんな話をしたら、きっとこんなふうに返してくれるだろう。そんなことを想像しながら、幸せだった頃を思い出していた。
唯一今日だけは幸雄のことだけを考え、その思い出に耽ってもいい日だ。この後、とんでもない虚無感に襲われることすらも忘れて、今日という日を過ごす。それでも、誰にも邪魔をされることもない時間を、彼女は目一杯過ごしていた。
14時半過ぎにビルに入り、30階まで上がってきた友香は、店の通用口の扉を開けていた。そしていつものように更衣室に直行すると、白いブラウスに黒いスカート姿に着替え、上着を持ってホールに出る。
店で契約している清掃会社の作業員が店内の床の掃除をしているのを見て、「お疲れ様です」と声をかけた。以前は、これを毎日従業員だけでやっていたのだが、なかなか骨の折れる作業だった。それを高橋が支配人に提案し、外注することによって、今では掃除にかかっていた人件費を削減し、さらにプロによる仕事は、店の美化を保てると社内でも評判は上々だ。1週間に3日業者に外注し、あとは営業終了後に0時上がり組のスタッフが簡単に掃除する。髙橋はこの提案で、支配人から表彰されていたことを、友香は思い出していた。
髙橋は、いろいろなところに気が付き、何気なく配慮することに長けている。いつもは優し過ぎるほどのエンジェルスマイルを浮かべながらさらりと鬼畜なことを言う食えない男だが、彼のその笑顔見たさに訪れるマダムたちも多い。
「みんな、顔に騙されてるだけなんだけどね…」
レジカウンターでつい口に出して笑っていると、カウンター越しに長い手を伸ばして、笑う彼女の頭をコツンと軽く叩いたのは
「なんか言ったか?」
顔は笑っているのに、メガネの奥にある目だけは笑っていない髙橋がそこにいたのだ。
「別に、隠すようなことは言ってないわよ?」
負けじと友香も営業スマイル全開で対抗すると、目だけ笑っていなかった髙橋は、三日月のように細くして笑っていた。
「いつも思うんだけどさ」
友香の上着のポケットからカエルのマスコットの顔がはみ出していた。
「そのカエルはなんなんだよ」
笑いながらそれを指を差すと、友香はポケットからスマホを取り出し、ぶら下がっているカエルと見ながら「可愛いでしょ」っと自慢げに笑った。
「いや、面白いけど可愛くはない」
笑っているのに、バッサリとそう言い切る髙橋に向かって、友香はグーパンチを繰り出した。彼はそれを手のひらで難なく受け止める。
「今日は元気そうだな」
さっきは指の関節で小突いてきた彼だったが、彼女の頭をふわっと触れた。急に触れられ、ドキッとした友香だったが、すぐに体を引いた髙橋は事務所のドアをくぐっていた。
(元気…なのかな、あたし…)
いつもと大して変わらない毎日を過ごす友香にとって、幸雄のいない世界は2年前と同じように美しく映らない。
(幸雄のいない世界で、あたしは何年生き続けるんだろう…)
そう思いながら、レジのチェックを始めた友香だった。
今日の予約のチェックをし、友香は直樹に予約席の指示をした。2週間前に、常連の吉田からの予約も抜かりなく準備されようとしている。直樹は、テーブルセットを施したあと、Reservedと書かれた札を次々に置いていった。
金曜日とあって、今日はなかなかの混み具合だ。開店から1時間半程度で、予約席以外は満席となっている。髙橋も佐井も忙しく店内を動いていると、まもなく19時になろうとしていた。
すると、入り口の自動ドアが開き、革靴が大理石の床をコツコツと叩く音が耳を掠めると、友香はニッコリと微笑みながら「いらっしゃいませ」と口にして正しい姿勢で頭を下げる。
「友香ちゃん、久しぶり!」
笑顔で現れた吉田は、右手を挙げながら挨拶する。連れがいるという話だったが、目の前にいるのは、吉田1人だった。
「ご無沙汰しております。…お一人ですか?」
「うん。ちょっと遅れちゃうみたいで」
「左様でございますか。では、先にお席にご案内いたしますね」
変わらず微笑みながら、友香はインカムのボタンを押して、フロアに散り散りになったスタッフに業務連絡する。
「案内に入ります」
友香が案内に入るときは、フロアで手が空いているスタッフが入り口のレジカウンターに待機することになっている。会計や案内を待たせないようにするためだ。友香は吉田を連れて、窓際席とは反対側の4人席の半個室ブースに向かい、相変わらずの美しい立ち姿で中へと案内した。
「10分、20分遅れてしまうようだから、先にビールをお願いしていい? 食事は相手が来てからでいいから」
席に腰を下ろしながら、吉田は早速そう注文した。
「承知しました」
頭を下げ、友香は近くにいた美帆に吉田の席の注文を引き継ぐと、その足で持ち場に戻ろうと歩き出した。
その時、「あと、ごめん!」とブースから顔を出した吉田が、友香を引き止める。
「はい、なんでしょう?」
振り向きそれに応答すると、吉田が小声で彼女にごにょごにょとさらに注文する。しかし、その趣旨が分からず、友香は困惑した顔を浮かべていた。
「えっと、あの…?」
すると、吉田に手を引かれてブースに引き込まれてしまった。
「だから、連れが来たら友香ちゃんもここに来て欲しいの」
「いえ、でも勤務中ですので…」
常連客の機嫌を損ねたくはないが、なかなか断りづらい状況に加えて、インカムから髙橋の指示が聞こえてきて、彼女は余計に焦っていた。
『友香、早く戻れ』
『友香さん、今、吉田さんに捕まってて…』
少し離れたところから美帆が代わりにインカムで答えると、髙橋は短く『了解』と答えていた。もちろん友香にも聞こえている。
「すごいいい男だから、君に紹介したいんだよ! ね? 損はさせないから!」
いつも気さくに話をしてくれる吉田が、いつにも増しておせっかいを焼こうとしている。しかし、日が悪すぎる。なぜ、よりによって今日なのか。
(やっぱり、こういうことだったのか…)
予約を受けた時、髙橋が何気なく言った言葉が当たっていた。なんとか吉田の気を悪くさせないように気を遣いながらあれやこれやと言葉を並べてなんとか断ろうとする友香だったが、吉田もなかなか引き下がってくれない。こんな客の対応さえもそつなくこなせないのかと、髙橋や佐井に馬鹿にされてしまいそうなほど、自分の不甲斐なさに失望してしまう。
「吉田様、失礼します。お連れ様がお見えです」
吉田のブースに突然声をかけたのは、髙橋だった。
「おぉ、ありがとう」
「では、私は一旦失礼させていただきますね」
「いや、もう、友香ちゃんもそのままいてよ」
吉田は強引に友香をその場に留まらせようとするが、ブースにはゆったり4人が着席できるテーブルと椅子でいっぱいなため、彼女が中にいたら連れの客を席に通せない。
「吉田様、どうしても楢橋の同席をお求めになるようでしたら、店側は営業妨害とみなしますが…?」
髙橋は決して穏やかではないことを、笑顔で吉田に告げると、彼は苦笑いを浮かべながら「そんなことするわけないでしょ〜」と焦りながらその場を繕い始めた。
「では、彼女は持ち場に戻させますので」
髙橋のその言葉で友香がブースから出ると、気を取り直した髙橋は、連れの客を席に案内した。何とかブースの外に出て一安心していると、吉田の連れだというその客の顔を通り過ぎさまに見た時、友香の動向が驚きで開いた。そしてここが自分の職場だということを一瞬にして忘れてしまったかのように、素で立ち尽くしていたのだ。
(え…? なんで…)
その男の顔が彼女の瞳に映った時、固まっていた友香だったが、一瞬だけ、その男と目が合ったのだ。すると、その男は少しだけはにかみながらも優しい笑みを浮かべて、小さく会釈した。ほんのその一瞬の出来事がきっかけで、目の前の男と彼女がいつも頭の中で追いかけていた面影と重なっていた。
「幸雄…」
身体がその衝動に圧されて勝手に動いていた。気付けば、友香はその男の腕を掴んでいたのだ。しかし男の微妙な表情で、一気に現実に引き戻された。
「もっ、申し訳ありません…! 知り合いに似ていたもので、つい…。大変失礼を…」
咄嗟に掴んでしまった腕を即座に放し、必死に頭を下げる。その場にいた美帆も髙橋も彼女の行動に驚いていた。
「いえ、こんな美しい人に勘違いされちゃうなんて。その人に似ててよかった」
腕を掴まれた時は微妙な顔をしていたその彼が再び優しく微笑むとブースの席に着いた。すると、髙橋は改めて友香に持ち場に戻るよう指示する。美帆も友香から引き継いだ注文の飲み物を用意するためにその場を離れ、何事もなかったかのような顔して髙橋はメニューの説明など、接客に戻っていった。
吉田が紹介したい人、というのが今の彼なのか。
友香はホールの喧騒から離れ、レジ前に待機していた直樹と持ち場を交代する。
「ごめん、ありがとう」
そう口にしながら、彼女は少し疲れた様子でレジカウンターに入ると、直樹がその様子を見て何かを感じたようだった。
「大丈夫ですか?」
彼も、友香が吉田に捕まっていた様子をインカムで聞いていたのだろう。
「うん。別にセクハラされたわけじゃないから。大丈夫」
手のひらを見せてそう答えると、いくらか安心した直樹がホールへと戻っていった。客足が一瞬途絶えていただけで、すぐに店の外からこちらへ向かってくる足音が聞こえると、友香はぎゅっと目を閉じて気持ちを切り替えようとした。
(とりあえずは、仕事しないと…)
深く息を吐きながら目を開けると、それと同時に店内への自動ドアが開いた。そしていつもの笑顔で訪れた客を出迎えた彼女は、この4年間の経験でカバーしていた。
吉田の接客はほとんど髙橋が担当し、彼らは2時間ほどで退店していった。
「友香ちゃん、本当は時田さんを紹介したかったんだけど、髙橋君にことごとく邪魔されちゃって」
レジでの会計で、すぐそばにいる髙橋に目をやりながら、悪びれることなく笑う吉田に、彼の名が『時田』であることを知る。
(幸雄と全然違う名前だ)
友香はもう一度吉田の横に並ぶ時田のことを見た。
「また来店させてください。吉田さんによると、ランチもすごいいいとのことですので」
時田は、そう口にしながら一枚の名刺を差し出した。友香は、そっと受け取った。
「さ、先ほどは、本当に大変申し訳ございませんでした。ぜひまたいらしてください。スタッフ一同、お待ち申し上げております」
動揺を隠しながら負けじといつもの営業スマイルで友香がそう告げると、「はい」と穏やかに時田は答えた。その顔を見たとき、さっきと同じように昔の記憶と重なり合い、友香の心臓は跳ねていた。
「…っ」
口ごもる彼女に背を向け、彼らは上機嫌で店の自動ドアの向こうへと歩き始めていた。遠ざかる彼らのその様子を友香はなんとなく眺めていたが、感傷に浸っている場合ではない。仕事は山ほどあるのだ。9時を過ぎても客足は止まらない。今日は金曜日、まだまだ昼間の様に明るく照らされているこの街は眠らない。ここはそんな眠らない街の中にあるレストランだ。
「しっかり頼むぜ」
ホールに戻る髙橋に小声でそう告げられると、自分はまだまだなんだと、友香は肩を落とした。
(さっきのは、ホントにないよね…)
髙橋の後ろ姿を眺めながら、ため息をついた友香は、時田からもらった名刺をジャケットの上着のポケットにしまってから、来店してくる接客に集中した。