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Restaurant  作者: 夜月暁
友香の場合
6/16

1.

 優美林は規模の大きいレストランではないが、客席のほとんどが半個室になっているため、快適に食事ができると評判である。それとは別に、平日のランチタイムはビジネスマンをターゲットにし、ウェディングでも使用するオープンスペースに、2人席を充実させ回転を良くし、土日はお値打ちの価格で家族層をターゲットにしているため、テーブルとテーブルの空間を広めに取り、開放感溢れる空間を演出していた。もちろん、完全な個室もあり、休日には結納や接待などで使われている。


 そんな職場にやってきて4年。友香は、いつもの様に黒いひざ丈のスカートから伸びる足には他の従業員よりも少しだけ高いヒールを履いて、笑顔でお客様をお迎えする案内係を務めている。


 優美林では社員ではなくアルバイトだが、彼女は学生でもない。今はフリーターで、将来の夢のために何かの活動中というわけでもない。もちろん、優美林で仕事をして4年とベテランの域に達しており、支配人からは幾度も社員になることを打診されている。それなのに、友香は首を縦に振らなかった。


 別にこのレストランに就職したくないわけではない。しかし、まだ心のしこりを消化できず、今の生活スタイルを変えることができないでいた。


 平日のランチタイムが終わり、クローズ中の店内はとても静かで、ちょうど早番の佐井が昼休憩に入った頃。遅番の髙橋が出勤してくるのが大体昼の2時ごろだ。レジカウンター内の電話が鳴り、いつものハイトーンで応対する。予約の電話だ。

「あら、吉田様。いつもご贔屓にありがとうございます」


 吉田とは、友香が勤め始めた頃に一度、飛び込みでランチで食事に来て以来、何度もこの店で接待や会社の懇親会等で利用している常連客だ。気さくな人柄で、友香に会うといつも嬉しそうに世間話をしてくれる。世話好きで、よく若手を連れて来店する彼は、商社勤めで営業部部長という肩書を持っている。


「はい、再来週の5月12日の金曜日で、19時でございますね。少々お待ちくださいませ」

 予約簿を開き、5月12日の部分にボールペンで丸を付ける。

「何名様ですか。…はい、2名様ですね。お席の用意は可能です。窓際のテーブルか半個室の4名テーブルの方かご希望はございますか。…はい、さようでございますか。承知いたしました」


 半個室で空いている席に丸を付け、名前と時間を記入する。

「では、5月12日金曜日の19時にご来店お待ちしております。…え?」

 最後、予約の日時の反復をして電話を切ろうとした時、友香は吉田からの質問に、戸惑いを隠せなかった。

「…そうですね、金曜日でしたらおそらくは出勤しておりますけれど…」


 眉をひそめながらそう答えると、吉田は上機嫌で電話を切ったのだった。

(え、なんなんの?)

 首を傾げながら友香も店の電話を置いた。

「ん? どうかした?」

 事務所から出てきた髙橋が、不思議そうな顔をした友香に声をかける。

「ううん。吉田さんから予約の電話…」

「それにしたって、鳩が豆鉄砲をくらったような顔して」


 言ってもいいのか迷ったが、相手は社員の髙橋だ。友香は、さっきの出来事を髙橋に話した。

「なんだそれ。お前を誰かに紹介したいのかね」

 高橋も首を傾げながらそう漏らしていたが、「嫌だったらその日、休みにしてもいいよ」と付け加えた。

「嫌ではないけど…。というか、そういうことじゃないかもしれないし…」


 煮え切らない返事をすると、髙橋はそのまま店の備品点検をするために、彼女に背中を向けて歩き出した。

「…ま、俺にはどうでもいいことだけど、変なことにならないように気を付けろよ」

 足を止め、少しだけ振り返って髙橋がそう言い残してその場を去って行った。

「う、うん…」

 そう返事した友香は、予約簿に目を落とした。


(5月12日…)

 日付の印字を指でなぞると、つい彼女は頭の中で2年前のことを思い出していた。桜の季節もすっかり終わり、新緑の眩しい季節の風が吹き抜ける4月の終わり。誰もが浮かれてしまうそんな季節だというのに、この2年、この季節になると心に靄がかかり、彼女にとっては苦い季節だった。

(お墓参りの準備もしなきゃ…)


 今年も春が来てしまった。あの時と気持ちが薄らぐこともなく、むしろ自分の時間があの時から止まっているのかさえ思うほど、何も変わっていない日々を過していた。新しい一歩が踏み出せず、何も手につかない。変化が怖い。今までと変わらない仕事をこなすことで、忘れないようにしているのかもしれない。


 友香は3月中ごろに、支配人から4月より正社員で働くことを打診され、断ったばかりだった。彼女の母親からも早く就職してちゃんとして自立してほしいと日々言われている現状もあり、本来ならありがたい話であることは明白なのに、今以上に仕事が増えて、忙殺した毎日を送るようなことになったら、いつの間にか命日のことも忘れてしまうかもしれない。それが怖くて踏み切れなかったのだ。

(幸雄が亡くなってから、もう2年も経つのね…)

 友香の記憶は、2年前に遡っていた。




「え、今なんて?」

「だから、俺が友香のそばにずっといるよ。だから、俺たち付き合おうよ」

 恋人になったのに、恋人のような甘さもなく彼女よりも仕事を優先する佐井に嫌気が差し、佐井と別れた後のことだった。家の近所の馴染みのカフェでその愚痴を幸雄に聞いてもらっていた秋の柔らかな日差しの射すある日。幸雄が友香にそう口にしたのだ。


 まさに唐突ではあったが、その口調は自然な流れで口に出されたものだった。しかし、今まで友香に対して幸雄はそんな態度を示したことがなかったというのに、友香の頭の中は混乱していた。

「私たち、小さいころからの幼馴染みだけど、今までそんなふうに考えたことあった?」

 眉をひそめながらコーヒーカップに口を付ける友香に、幸雄は「俺はいつでもそう思ってたよ」とにっこりと微笑みながらそう答えたのだ。


「嘘。だって、高校の時彼女いたじゃない」

「いたけど、長く続かなかったの知ってるでしょ」

 彼の答えに納得しかけた友香は、それでもカップをソーサーに置いて、さらに追求しようと彼の顔をじっと見た。それでも彼の微笑みは変わらない。友香はスッと目線を落とした。

「だって、今までそんな素振り全く…」

 カップにかける自分の手を見つめながら、落ち着かない様子でポロっとこぼす。すると、幸雄の長い腕がテーブルに伸びてきて、その大きな手で友香の手をそっと包み込むと、彼女は背筋をビクッとさせた。


 いつの間にか大きく感じたその彼の手に、彼女はびっくりしていた。こんなふうに幸雄の手に触れたのはどれくらいぶりだっただろうか。温かくて、いつの間にか焦っていた心が落ち着いている。視線をあげてチラリと彼の顔をもう一度見る。そこには、冗談でもない優しい笑みを浮かべている幸雄の顔があったのだ。

「俺は、子どものころからずっとお前に片思いしてたよ。関係が壊れるの嫌で、今まで言わないでいたけど、20歳になってお前が誰のものじゃなければ、告白してもいいかなって決めたんだ」

「小さいころからずっとって…」


 考えたことがなかった。しかし、何故考えたことがなかったのか。それは、幸雄が意外にもモテることを知っていたからだ。友香は自分の友達に、幸雄のことを好きだと言う子がいたこともあり、「付き合ってないなら協力してほしい」などと言われることがあった。


 背が高くてスラリとした体型に、誰にでも優しく、気遣いのできる彼がモテるのは当たり前で、気が強い自分は疎まれることが多い。それでも気兼ねなくものを言ってもいつも怒らないで聞いてくれる彼に心地よさを感じていた友香にとって、それが恋だったかと問われれば、そんな次元の話ではないと思っていた。いつでも特別な存在だったが、それは親友みたいなもので、この先男女の関係になることはないんだろうな、と勝手に決めつけていた。


 それなのに目の前の男は、子どものころから自分のことを好きだったという。そして、自分は男だということを、友香の手を握って確信させようとしている。

「友香は、俺じゃ不満?」

 切れ長の目が、彼女の戸惑いで揺れる瞳を捉えながらそう尋ねると、彼女は首を横に振っていた。

「というか、あたしなんかでいいの?」


 今まで男と付き合っても長続きしなかった友香は、最短記録を更新したばかりだ。幸雄は高校の頃に自分と正反対のおとなしめでしとやかな性格の女の子と付き合っていたこともあり、自分のことは全くタイプではないのだと思っていた。

「俺は、ずっと友香がいいの」

 それでも主張を変えない幸雄は、さらに彼女の手を握る自分の手に力を込めた。今まで幸雄に手を握られてこんなにドキドキしたことがなかった友香は、徐々に顔を赤く染めていく。

「…後悔しても知らないからね」

 友香の赤くなった顔を見て、幸雄は嬉しそうに微笑んでいる。いつもに増して、満足そうにしている様子に、今までになかった感情が友香の中で芽生えようとしていた。


 そうして幼馴染みの関係だったふたりは恋人として付き合うようになったのだ。今までふたりで会ってた時と基本幸雄の態度は変わらなかったが、今までにはなかった「手つなぎ」をさりげなくしてきたり、肩を抱き寄せたりと積極的にスキンシップをしてくれる。その度に今まで感じたことのない「男」の幸雄がいて、友香はそれだけでクラクラしてしまうのだ。自分にだけ甘い、恋人に昇格した幸雄。そんな彼を愛しいと思い始めたのは、特別な関係になってからさほど時間はかからなかった。


 そして、彼らが付き合い始めてから1年ほど経った頃。友香はバイトを続けながら将来的役に立ちそうな資格を取りたいと思うようになり、経理の専門学校へ通おうかと考えていた。そんな折、大学に通っていた幸雄は、体調を崩すことが多くなったのだ。食欲不振から始まり、下痢の症状が出ていた身体は徐々に痩せ始め、彼は何度も検査をしに病院にかかった。その度に心配する友香だったが、胃カメラの検査では異常なしとの診断だった。それでも体調がすぐれない幸雄は、学校で倒れてしまったのだ。


 すぐさま入院が決まり、細かい検査が行われた。彼は糖尿病を発症していた。その隅々まで行われた検査で、すい臓がんであると診断されたのだ。


 すい臓がんは初期症状がないことで知られている。何かしらの症状が出ている時には、かなり進行していると考えていい。それは、幸雄たちにとって、医師から余命宣告をされたようなものだ。若年性の癌を患った幸雄は、病気がわかってから亡くなるまでが本当に早くて、病気が友香との時間を奪っていった。

「俺と付き合ったこと、後悔してない?」

 病床で横たわる彼が、ベッドサイドに座って彼の手を握りしめている友香に声をかけた。その声はもうしがれていて、そばにいる友香の耳に届くのが精一杯だったが、友香は首を思いっきり横に振った。


「そんなわけないでしょ」

「そう? 友香は気が強い割には結構我慢しちゃうしな」

 弱々しいながらも笑う幸雄の顔を見て、友香はその笑顔を守りたいと心底思っていた。しかしどんなに抗っても病気を止めることはできなかった。痩せ細った腕や足が力強く友香の手を握ることはなく、目の周りは窪み落ちこけた頬が元に戻ることはなかった。時間だけが無常にも過ぎ去り、幸雄は手術する時間もなく、帰らぬ人となったのだ。それは、桜の花が終わり、新緑の葉でいっぱいになった頃だった。眩しい春の光に召されるように、静かに息を引き取った幸雄を前にして、友香の刻は止まってしまった。


 お互いに自立したら、結婚しようと話していた時もあった。もう離れられない存在になっていたというのに、友香はひとりだけ取り残されてしまった。そして、今に至る。

 この話を知っている優美林のメンバーはいない。佐井も髙橋も、友香がなぜ正社員になろうとしないのか、理由は知らなかった。


「友香」

 髙橋が店内の備品チェックを終えて戻ってくると、決まって友香を呼ぶ。

「美帆ちゃんたちが来るまでに、これらの備品の注文していて」

 髙橋から手書きのメモを渡され、友香は黙ってそれに目を通す。

「あれ? トイレ用の液体石鹸、もうなかった? 頼んだばっかなのに」

「棚にはもうなかったよ。変なところにしまってないだろ?」

「いつものところに入れたわよ」

「じゃぁ、ないな」


 首を傾げながら、「了解」と答えると、友香はレジカウンター内にあるノートパソコンのブラウザから、いつもの消耗品を購入するサイトへとアクセスして、言いつけ通りのものを次々にカゴに入れた。そして最後、注文ボタンを押して終了した。あっという間だ。これも友香のいつもの仕事だった。


「お前さ、なんで社員にならないの?」

 カウンターに寄りかかり、友香の作業を眺めながら髙橋が不意に口にした。

「え」

「何度も支配人から打診されてるだろ?」

 先月もあったばかりだ。しかし、彼女がそれを蹴ったのは記憶にも新しい。

「なんかの勉強で学校とかに行ってるような感じでもないし、ここでのバイトだけだろ?」

「そうだけど…」

 友香は振り向きもせず髙橋の話を聞いていた。


「お前がもし社員になってくれたら、経理系の仕事を任せたいと思ってるんだ。あと、消耗品とかの注文、在庫管理とか。引き継ぎたい仕事が山ほどあるのになぁ、楽になりたいなぁ」

 眼鏡の奥にある切れ長の目が、パソコンの画面を眺めている友香の横顔を捉えている。

「…ムリ」

 ポツリと呟く彼女は、それ以上何も言わなかった。

「なんでだよ。まぁ、仕事は今よりも増えるから忙しくなるけど、その分今より給料だって上がるし、福利厚生も整ってるし、やりがいだって、…多分あるぞ?」

「……」


 ブラウザを終了させて、デスクトップ画面に戻すと、友香は立ち上がった。

「この時期になるとお前、表情が暗くなるよな。なんかあった?」

 くるりと振り返り、カウンターに肘をつくと、髙橋は友香の目をじっと捕まえていた。まさか、そんなことを言い当てられるとも微塵にも思っていなかった友香は、一瞬だけ驚きで目を見張ったが、すぐに逸らしてしまった。髙橋のその視線はなんでも見透かされてしまうほど真っ直ぐで、耐えられなかったのだ。

「トイレ掃除してくる」

 そう告げて、逃げるようにカウンターを出て行った友香だった。




 掃除用具入れからモップを出して床の掃除から始めた友香は、まだ動揺していた。つい、髙橋の勘の良さについため息をついていた。

 春は、嫌いじゃない。しかし、まだ好きにもなれない。今感じている感情がこの胸からなくなった時、それは自分が変わってしまった時だ。それが怖い。幸雄のことを忘れてしまう自分が…


 モップで床を拭き、ブラシで丁寧に便器の掃除を済ませると、最後に液体石鹸を補充して終了だ。手袋を外し、掃除用具入れのドア側に濡れた手袋をかけると、静かにドアを閉めた。

 時計を見ると、もうすぐ午後4時半を回ろうとしている。5時からの美帆や直樹の大学生組がそろそろ出勤する頃だ。今日は佐井が休みで、支配人と髙橋がフロアを回す。


 5時からのオープンまでに店の前を掃除し、従業員トイレで化粧を直す。そして最初の客を迎えるために友香は所定の場所で美しい立ち姿で待機した。


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