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Restaurant  作者: 夜月暁
美帆の場合
5/16

5.

「美帆」

 電車がホームから出て行き、ホームにいる人が居なくなった時だった。

「佐井さん…」

 彼女に声をかけたのは、軽く息を弾ませていた佐井だった。仕事着にダウンジャケットを羽織ったような格好のまま、彼は美帆の前に立っていた。しかし、美帆にはもう何を話せばいいかわからない。なぜここまで追いかけてきたのかも、期待するのが怖くて聞けない。

 佐井は黙ったまま、美帆の隣に腰を下ろした。

「…佐井さん、あのね。迷惑なら迷惑だってはっきりとそう言ってくれたらよかったんだよ?」

 本当の気持ちはもう口にしないと決めた美帆は、苦笑いを浮かべながら佐井に言った。

「悪かった」

 佐井は美帆の頬に触れ、自分の方に顔を向けさせると、彼女の目をじっと見つめたままそう口にしたのだ。


「それは、何についての謝罪?」

 期待しないようにと呪文のように何度も自分に言い聞かせながら、美帆は疑問を口にする。

「全部だよ。山に誘ったことも、酷いこと言ったことも、怪我に気づいてやれなかったことも、傷つけたことも、全部」

「全部、ね…」

 美帆を山に誘ったことを謝るなら、髙橋の言う、佐井が誰かと付き合うための条件に自分は合っていないのだろう、と美帆は思った。

「お前の気持ちを聞いた時に、流してしまったことも、な」

 あの時佐井は、なんの反応も示さなかった。いつも通りのマイペースで、まるで美帆のことは興味がないと言わんばかりの態度だった。その癖、思ったことを思いがけないところでポロッとこぼすから、心をかき乱されてしまうのだ。

「じゃぁ、全部無かったことにしようってわけだね?」

 美帆自身が始業前に言ったことだ。覚悟を持って口にしたことに嘘はない。

「…違う。お前はなんで俺から離れようとするんだ」

「そうさせてるのは、佐井さんでしょ」

 期待はずれ、とまで言われたんだ、と勢いで言ってしまいそうになるのを美帆は我慢した。


「…違うなら、もっと必死になってよ」

 美帆の最初で最後の抵抗だった。

 その時、回送電車が警笛を鳴らしながらホーム内を通り過ぎて行った。冷たい風がホーム内に吹き込み、美帆は思わず目をギュッと閉じた。その瞬間に、佐井の冷たい手が彼女の頬に触れた。そのゴツゴツとした大きな手は、冬の空気に晒されて冷たくなった頬を引き寄せると、躊躇なく唇をそっと塞いだ。ひんやりとした感覚は次第に熱を帯びるように熱くなっていく。まるで唇から熱を吹きこまれているかのような感覚が美帆を支配していた。

(え…)

 電車がホームからすり抜けて行ったのと同時に佐井が唇を離すと、驚きで先に瞼を開けてその瞳を揺らす美帆の顔を彼は覗き込んだ。

「直樹のとこには行くな」

「え…?」

 さらに驚く美帆の顔を閉じ込めるように、佐井は彼女の背中に腕を回し、抱きしめていた。

「お前を追いかけてたら、直樹がお前に告白してるのを見たんだ」

「……」

「俺は、お前が思っているほど器用じゃねぇ」

 言葉を慎重に選びながら、佐井は口を開いた。


「あの日の午後、お前はひとりで練習するって合流してきた直樹から聞いてたのに 『休んでます』って連絡きて、一緒に滑りたくないのかよってイライラした。でも、また練習してるかもしれないって思って滑り終えて初心者コース行ったけど、やっぱお前いなくて。リフトに乗って上の方行ったら、お前の髪留めがリフトの近くに置いてあってさ。ほれ、あのピンクの。俺が見てたら落とし物だっておじさんが教えてくれて」

 ジャケットのポケットからそれを取り出すと、佐井は美帆の手のひらにそれを落とした。

「リフトのおじさんが心配してたぞ。足を捻ったんじゃないかって。お前、盛大に転んだらしいな」

 佐井にそう言われ、美帆は目を伏せた。

「だって、ひとりで怖くて…」

 前の人に習って降りようとしてもボードの角度が悪かったのか、うまくボードが雪の上を滑らず転んだことを思い出していた。

「でもみんな楽しんでるのに、水を差すようで言えなかったんだよ…」

「うん…。悪かった」

 美帆の冷たくなった髪を撫でながら、佐井はまた彼女に謝った。 


「早く一緒に滑りたかったんだよ。だから初心者でも教室に入れとけば、大丈夫だと思ってて。でも、お前の気持ちを無視したには変わらないよな」

 初めて、佐井の気持ちを彼自身の言葉で聞いた。いつも読み取れない表情をして、何を考えているのかわからない彼が、静かに自分の胸の内を明かしていること自体、美帆は奇跡だと思った。

「…だけど、あたしがあんなんで、残念だったでしょ? 誘い甲斐もないよね。バイト休んでる間も連絡くれなかったし、やっぱりあたしの一人相撲だったなーって…」

 休みの間、悲しかったことを思い出さないように蓋をした。あの時の自分の不甲斐なさや佐井に対する絶望感が今になってひしひしと思い出されて美帆の喉を通り、吐き出されている。

「考えないようにしてたけど…。やっぱり寂しくて、何のために誘われて、何しに行ったんだろうって…」

 美帆の頬がまた涙で濡れた。言葉を吐きながら、胸が潰れてしまいそうなほどに痛かった。足の怪我はそのうち治るのに、あの胸の痛みを忘れることなどできそうにないと思うほど、柔らかい棘は思っていたよりも奥の方に刺さっていたのだ。


「連絡しなかったのは、直で話さないと意味がないと思ったんだ。お前がどんな顔をして聞いてるのか、電話で失敗したからな、俺は」

 ゲレンデから電話をかけてきた佐井が、本当のことを言えなかった美帆を責めた時のことを言っているのだろう。

「…佐井さん、友香さんのことが好きなんじゃないの?」

「だから、友香は関係ねぇって」

 佐井はじっと美帆の目を見つめていた。そこには嘘偽りなどなく、真っ直ぐな目が美帆の瞳を捉えていたのだ。

「だって、友香さんが知らない人とぶつかってコーヒーかけられた時、本当に恋人みたいで、なんだか遠くに感じてしまって。なぜ今ここに自分がいるんだろうって、もうわからなくなってたよ…」

「お前が同じことになってても、俺は同じことをしたよ」

「まさか」

 美帆は佐井の即答に、自嘲的に笑いながら首を振った。

「あの時、もし友香じゃなくてお前だったら、もっと感情的になってたかもしれない」

「そんなこと…」

 顔を伏せ、ホームの地面に並んだ小さい自分のスニーカーと佐井の大きな革靴を何となく眺める美帆。そんな彼女の肩を抱き寄せて、佐井は「あるんだよ」と口にしたのだ。


「…友香には昔、フラレてるんだ」

 佐井の思いがけないその告白に、美帆はポカンとしている。

「は…?」

 確かめるように顔を上げ聞き返す美帆に、佐井はもう一度溜息を吐いたのだ。

「俺と和志があの店に就職して間もなく、アイツがバイトとして入ってきて。半年くらいしてから告白されたんだけど、俺はまぁどっちでもよかったから… つき合って、すぐに俺がフラれたんだよ」

(あの… ものすごく想像できちゃうんですけど…)

「友香さんのこと、…好きじゃなかったの?」

「わからん。でも別れた後も、別に何も変わらなかったし」

 佐井は不意に思い出したかのように、「顔だけはキレイだからな、アイツは」と、付け加えた。

『だって、雄一は女心をなーんにも分かってないって有名よ? 美帆ちゃんが入る前にいた女の子だって、アイツに惚れて、大変だったんだから!!』

 美帆の気持ちがバレたあの日、友香の口から出た言葉だ。

(あれ、友香さん、自分のことだったんだ…)

「だから…」


 佐井はもう一度、美帆を射抜くような真っ直ぐすぎる目でしっかりと彼女の顔を見つめると、言葉を続けようと口を開いた。

「俺と付き合ってくれ」

 照れもせず、大真面目でそう告白する佐井に美帆は頭の中が真っ白になっていた。

(佐井さんが、今、付き合ってくれって、言った…?)

「あ、あの…」

「なんだよ」

 顔が赤くなるのを見られたくなくて、美帆は咄嗟に手のひらで自分の顔を隠した。

「夢じゃないよね…?」

 美帆が恐る恐るそう尋ねると、佐井はニコリともせず、顔を覆う美帆の手をそっと外した。手と手の間からのぞく佐井の目と視線が交わると、美帆の視界はゆらゆらと霞んでいった。美帆の頬に涙が落ちた時、佐井はもう一度美帆の唇にキスをした。今度は、軽く触れ合うような短いキスだった。

「…俺がこうしたいんだよ」

 一呼吸置いた後、不意にそう口にした佐井の顔を、美帆はゆっくりと見つめていた。彼の意志の強いまっすぐな瞳を見た時、彼女の体に電気が走るのだ。


(あ…、その表情。あたしの好きな佐井さんの顔…)

 美帆はすくりと笑った。

「ねぇ、佐井さん」

 美帆の呼びかけに、彼は目で答える。

「大好きです」

「…ん。知ってる」

 不器用なひと。

 口下手なひと。

 ちょっとぶっきらぼうで、でも本当は素直でまっすぐで、芯のあるひと。

 それが佐井雄一という人だった。




 久し振りの柔らかな陽射しが眩しい静かな午後。窓際の席には、休みの美帆と遅番の佐井がお茶を飲みながら日向ぼっこを楽しんでいた。二人だけのティータイムだ。

「美帆」

 佐井は、不意に美帆の名を呼んだ。

「ん?」

 ミルクティーのカップをテーブルに置きながら、美帆は目線を上げて佐井の顔を見た。

「次の休みは、行くぞ」

「え? 行くって、どこ?」

「そんなのボードに決まってるだろが!」

 佐井は、ほくほくした顔で美帆にデコピンした。

「あいたっ」

 痛がる彼女を気にもせず、「連休取れないから、また日帰りだけどな、いい山あるんだよな〜」と言いながら、スキーツアーのパンフレットをテーブルに広げたのだ。

「こんなに…!」

 さっきまで手ぶらだったはずの佐井が、いつの間にこんなにパンフを手にしていたとは、と美帆は驚いていた。


「え、でも支配人にバイト仲間でもう行ったらダメって言われなかったっけ?」

 前回の旅行で、美帆と友香が怪我をしてしまい、美帆は仕事に穴をあけてしまった。

「あれはもう撤回されたから、もう大丈夫」

「えぇ? そうなの? ホントに?」

 にわかに信じられないと言わんばかりに、美帆は眉をひそめて聞き返すが、佐井の耳には届いていない。美帆は苦笑いを浮かべた。

「ねぇ、佐井さん…」

 パンフを眺めていた彼は、視線だけ美帆の方に向けた。

「今度は、ふたり…?」

 彼女は恐る恐る尋ねる。

「…他、誰を誘うんだよ?」

 怪訝そうな目をした佐井とバッチリと目が合った。

 一秒…

 二秒……

 三秒………

 彼女はコクンと頷いた。

「よし」

 佐井は美帆の頭をクシャっとした。


「…でも、ひとりで滑りに行かないでよ」

「…お前も早く滑れるようになれよな」

 美帆の目は泳ぐ…

「…ハイ」

「よし」

(あ… その表情…)

 美帆の心がほんわかとなる。唯一、美帆しか見ることができない佐井の細くなるその目は、柔らかくて暖かい、そんな目だった。

「ねぇ、なんで佐井さんはあたしを好きなの?」

 ニコッと笑いながら美帆がさらっと尋ねると、コーヒーカップに口をつけていた佐井が大きく咳き込んでいた。

「なっ、ちょっ、何?!」

 美帆が慌ててカバンからハンドタオルを出し、激しく咳き込んでいる彼に手渡した。

「そんな動揺すること?」

 噴き出したコーヒーを拭いている佐井に今度は美帆が怪訝そうな目を向けた。

「…お前、頑張ってるじゃん」

「え?」

 借りたタオルで口を拭きながら佐井は遠くに視線を投げながらそう口にした。

「入ってきたばっかの時、ヒョロすぎてここの仕事務まるのか心配してたけど、案外芯が強くて」

 コーヒーの入ったカップを口に運び、ひとくちそれを飲むと、小さく息を吐いた佐井は続けた。


「…頑張ったら、褒めたくなるだろ。でも俺はあのメガネ野郎みたいに鳥肌が立つような褒め言葉は言えないわけ」

(メガネ野郎って…)

 言うまでもなく、髙橋のことだ。

「でも、頑張ってるお前は…」

 そこまで言って、急に佐井の言葉が途切れた。どこか一点を眉間にしわを寄せながら見つめているのだ。

「佐井さん…?」

 その向かいから様子のおかしい佐井に美帆は不安げに呼びかける。

「お前らっ!!」

 彼は急に立ち上がり、顔を引きつらせながら、怒鳴りだしたのだ。

(え、なに??)

 美帆は後ろを振り向いた。すると屋内の端の席に、見慣れた面子が揃ってこちらを見ていたのだ。

(髙橋さんと、友香さん…。それに直樹くんまで…)

 驚く美帆をよそに、直樹を除く他の二人は悪びれることもなく、美帆たちに手を振っていた。

 あの夜が明けた翌日に、美帆は直樹に連絡した。佐井とのことを美帆に聞かされた直樹はもちろんショックを受けていたが、これからもバイト仲間であることは変わらないからと、笑顔で受け入れてくれたのだ。


「偶然、あたしたちは遅めのランチしてたんだけどぉ。ほら、直樹の残念会! なのにあんたたちがいるからびっくりしちゃった〜」

 友香がわざとらしくニヤニヤしながら美帆と佐井のテーブルにやってくると、髙橋と困った笑顔を浮かべた直樹も美帆たちの隣の席に移動して腰を下ろしたのだ。

「で、雄一は美帆ちゃんのどこが好きなの?」

 意地悪く笑いながら友香が銀のスプーンをマイク代わりにして佐井の口元に持っていく。しかし、彼はそれを軽く払いのけると、「絶対に教えてたまるか」と、伝票を掴み、席を立ったのだ。

「え〜っ?! ちょっ!!」

 一番大事なところを聞けず、一番残念がっていたのは美帆だった。そして美帆は、怒り狂っている佐井の背中を追って喫茶店を後にしたのだった。



美帆の場合 END



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