4.
あれから数日後。足を痛めてしまったことを電話で髙橋に伝えると、彼は驚いていた。佐井がついていながら怪我人が2人も出るとは思ってもいなかったようだ。腫れが引くまでパンプスを履くことができない美帆は優美林での仕事を休まざるを得なかった。その間、大学のレポート提出やら何やらで忙しかった美帆は、佐井のことを考えなくて済んだ分、気持ちはいくらか落ち着いていた。
直樹は相変わらず優しくて、美帆を心配して時々LINEで連絡をくれていた。ふたりが怪我をした原因が佐井であるわけではないが、支配人からはしばらく従業員同志で遊びに行くのを禁止にすると言い渡されたようだった。
一週間ほどで美帆の足は回復したため、シフトで他の従業員に迷惑をかけた分、気合を入れて挽回する心づもりで学校の帰りに優美林へと向かっていた。
「美帆ちゃん、足大丈夫?」
美帆の姿を見るなり、着替えを済ませた直樹が開口一番にそう言った。
「うん。もともと大したことないから、もう治ったよ。迷惑かけてごめんね。いろいろとありがとう」
さらっとお礼をして、彼女はすぐに更衣室に入っていった。
(直樹くん、ごめん…!)
ドア越しに心の中で直樹に謝っていたちょうどその時、友香も更衣室に入ってきたのだ。
「あ、友香さん。腕の火傷は大丈夫でしたか? あまり無理しないでくださいね」
美帆は微笑んでからすぐにユニフォームのワンピースに袖を通した。
「美帆ちゃんこそ、足怪我してたんでしょ、もう大丈夫なの?」
友香が逆に心配していたが、美帆は同じ笑みのままうなずいた。
「…そう。重症じゃなくてよかった」
「はい。休んだりしてご迷惑をおかけしました」
ワンピースのファスナーをあげながら美帆は務めて明るく謝罪した。
「美帆ちゃんって、雄一のこと好きだったよね? ボードの日、楽しかった?」
突然、友香が数日前のことを蒸し返すと、美帆はゆっくりと手を止め、眉をひそめながら友香のほうへ振り返った。しかし急に馬鹿らしくなり、美帆は、あんなに真剣な顔をして友香を助けていた佐井のことを思い出すと、ため息をつきながら再び口を開く。
「…佐井さんと友香さん、すっごくお似合いですよ。あたしの入る隙は無いほどに。だから、もういいんです」
「そんなこと聞いてないよ。単純に楽しかったか聞いてるの」
お似合いだ、と言われたのに、ケロリとしている友香。そんな彼女に、美帆の苛立ちが一気にマックスまで達していた。
「…楽しかったか、ですって? そんなの、楽しかったわけないじゃないですか! ほとんど一人で過ごしてたんですよ? 何が楽しいんですか?だいたい誘っておいて自分ばっかり滑っててちっとも教えてもくれないし、あたし、何しに行ったんですかね?!」
美帆が大声で捲し立てると、友香は目を丸くして驚いたかと思うと、腹を抱えて笑って出したのだ。
「ちょっ、笑わないでくださいよ!」
必死に抗議するも、友香は涙をこらえながら笑っている。美帆は面白くないと言わんばかりに彼女を睨んでいた。
「うん、ごめん。素直だなって思って」
「佐井さん、誘う相手を間違えたんですね。声掛けたら断らないって思ったんですよね、きっと。失礼しちゃいますね、まったく。だから、もう放っておいてください。怪我したってわかってからも、別に何にも連絡くれなかったし、誘ってくれたのも雪山に行きたすぎて、判断間違えたんですね、きっと」
佐井が自分を誘った理由を適当に並べて、美帆は自分を納得させようとする。目的は自分ではなかった。好きだ、という気持ちを利用されただけだった。そう思うことで心の傷を広げないように必死だった。
「アイツが女心なんてわかるわけないわよ。そういう男なんだから。美帆ちゃんはそういう男を好きになったのよ?」
しかし、そんな美帆にまるでなんでも知ってるふうに話す友香。美帆はますますムッとする。
「友香さんは何でも解ってるってわけですか。付き合い長いだけあって、さすがですね」
「そんなこと言ってないでしょ。じゃぁ、美帆ちゃんの雄一への気持ちって、その程度だったの? そんなに簡単になかったことにするの?」
その程度だったかと聞かれれば、自分が不甲斐なさすぎて、佐井と並んで歩くこと自体、おこがましいと自信を失くすばかりだった。
「好きって言っておきながら、美帆ちゃん、雄一に何にもしてないじゃない? 相手に期待しすぎなんじゃないの?」
「期待しすぎって…」
そう言い返してみたものの、言葉が続かなかった。確かに友香の言葉はいちいち美帆に刺さっていたからだ。美帆は自分がお荷物にならないようにすることだけしか考えていなかった。教えてほしかったら遠慮せずに素直に「教えてほしい」と言えばよかったのだ。
「それに、遠慮は美徳でも何でもないよ」
友香は優しい笑顔を浮かべながらそう強調した。その言葉に負けたと言わんばかりに、美帆は大きくため息を吐いた。
「…でも友香さんも見たでしょ? あの佐井さんが雪山見てテンション高かったの。あんなの見せられたら、「お荷物」はこれ以上大きい荷物になるわけにはいかないんですよ。だって、佐井さんはどう見てもあたしを誘ったわけじゃないですよね? 明らかに友香さんを誘うためでしょ?」
すると、友香の目が急に点になる。
「え? 今なんて言った?」
「だから、最初から佐井さんはあたしじゃなくて友香さんを…」
着替え終わった美帆はあからさまにはぁとため息を吐きながら、友香との会話を切り上げてドアを開けた。すると、そこには隣の事務所に入ろうとしていた佐井が立っていたのだ。バックヤードは表の造りより壁が薄い。ドアの前にいれば、中の会話は丸聞こえだろう。
いつもなら涼しい顔をして聞き流すくせに、友香との会話を聞いた佐井は、今回ばかりはその場に立ち尽くしていたのだ。
そんな佐井を押しのけて、美帆は更衣室から出ると、掃除用具入れのドアを開けた。
「おい。足は…、もう大丈夫なのか」
佐井のぶっきらぼうな口調は相変わらずだったが、いつになく心配そうな口調で彼が美帆の背中にそう問いかけると、用具入れのドアを力任せに締める彼女の肩は震えていた。しかし、くるりと振り返り、ニッコリと笑ってみせる。
「…ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫ですので、いつも通り仕事できます。でも、またお荷物になってしまったら申し訳ないので、もう二度と誘わないでくださいね。あと」
すぅっと息を吸い込み、一息ついてから彼女はもう一度口を開く。
「私が好きってみんなの前で言ったことは、もう忘れてください」
美帆は微笑みながら事務的にそう告げると、開店前の掃除を始めた。
勘違いした自分が恥ずかしい。髙橋の言葉を鵜呑みにした自分が悪い。片思いはそのままだから美しいのであって、叶うわけない恋なのに頑張ろうと背伸びをするからこうなるんだと、美帆は反省しながら一つ一つのテーブルをダスターで拭いていた。
その日の営業も滞りなく終了しようとしていた頃、23時上がりの従業員らは、各自持ち場の片付けを終えた者からタイムカードを押して仕事をあがる。美帆も個室の皿を下げ、洗い場でキッチンのスタッフにそれを引き渡すと、今日の仕事を終えた。
今日は久しぶりの出勤のせいか、はたまた開店前のことがあったせいか、一段と疲れを覚え、自然とため息を吐いていた。
今日は支配人が休みで、社員である佐井と髙橋はまだまだ事務作業が残っているのか、事務所から出てくる気配がない。タイムレコーダーの時計は23時5分だった。
(お風呂に入りたい。足が疲れた…)
そんなことを思いながら、美帆は更衣室で制服のワンピースを脱いでいた。
(あ、そうだ。新しいピン、買わなくちゃ)
お気に入りだった、あのリボン形のラインストーンの髪留めの代わりのものを買わないと、また中途半端な長さの横髪が出てきてしまう。今日は仕方なくアメリカピンで留めていたが、アメピンが好きではない彼女は、仕事が終わるとすぐに外してしまった。
明日の授業は午後からふたつあるだけだから、帰って風呂を沸かしてゆっくりと浸かろう。そう考えていた彼女はすぐにでもここから出ようとさっさと帰る準備をする。コートのボタンも留めずにバッグの持ち手を掴むと、更衣室から出た。
店の入り口のレジカウンターで、今日入った明日以降の予約の確認をしている友香の横を美帆が通り過ぎると、友香は彼女の姿を見るなり、呼び止めた。
「…まだ何か用ですか?」
無意識に眉をひそめ、美帆は足を止めた。
「あたしももう上がるから、一緒に帰ろうよ」
「嫌ですよ、帰ってお風呂に入りたいので」
「美帆ちゃん、一人暮らしでしょ? ちょっとくらい遅くなっても大丈夫でしょ?」
「そういう問題じゃなくて…」
友香がめげずにかまってくる様子に、美帆はあからさまにため息をついた。
「…もういいじゃないですか」
見かねた直樹が二人の間に入ってきた。
「直樹くん…」
「直樹には関係ないでしょ」
にこやかに友香が牽制するが、彼は美帆の手を取った。
「あまりしつこいと嫌われますよ」
彼は少しだけ振り返りながらそう言い残すと美帆を連れて店を後にしたのだった。彼らが出ていくのを眺めながら、友香は小さくため息をついた。すると、事務所に詰めっきりだった佐井が店のコーヒーカップを手に出てきたのだ。
「…もう、いい加減にしてくれない? あたしまで嫌われちゃったじゃない。直樹に取られるのも時間の問題なんじゃないの」
予約簿をパタンと閉じ、友香は立ち上がった。
「何でまた『期待はずれだった』とか言ったのよ。本当バカよね」
「……。」
友香の話を佐井は黙って聞いていたが、店の入り口を見つめるだけで、何か言葉を発することはなかった。
「そんなに心配なら追いかけたら?」
友香はレジカウンターから出ると、手に持った予約簿を佐井に押し付け、バックヤードへと下がっていった。
直樹が美帆の手首を掴んだまま、二人は駅までの夜道を歩いた。
「直樹くん、手…」
遠慮がちに美帆がそう口にすると、直樹は足を止めた。
「ねぇ美帆ちゃん、やっぱり佐井さんじゃなきゃダメ?」
「え…?」
車道を通り過ぎていく何台もの車のヘッドライトの光に照らされている直樹の顔は、真剣だった。そんな彼の表情に、美帆は目を見張った。
「あたしは、もう佐井さんのことは…」
目を伏せ、美帆はズキっと痛む胸を手で押さえていた。
「じゃぁ、本当に俺と付き合わない? 俺はいつも頑張ってる美帆ちゃんが好きだよ」
直樹の告白に、ボードに行った時の彼の言葉が嘘じゃなかったのだと、美帆は実感した。
「あの、直樹くん…、あたし…」
彼氏という存在に憧れていないわけではない。きっと彼氏がいたら学生生活にもっと彩りが添えられて、楽しくなるのだろう。しかし、誰でもいいわけじゃない。たとえ、直樹がどんなにいい男でも、それを簡単に受け入れられるほど、心は簡単ではない。
好きだ、と心から思っていなければ、好意を寄せてくれる人に失礼だ。簡単に応えることはできない。
(それとなく、そういう態度を示してきたはずなのに、彼はそれでも、あたしのこと好きだって言ってくれるの…?)
言葉を探している美帆の手を直樹はそっと放した。
「今すぐ答えてくれなくていいよ。考えておいて?」
いつも人を気遣うことのできる直樹は、こんな時でも笑顔だった。そんな彼の優しさに、美帆の胸は苦しくなるくらい締め付けられていた。
駅で別れた二人は、お互い背中を向けて、自分の使う路線へと向かった。
佐井のことをあんなに嫌になって、佐井本人にも、好きと言ったことを忘れるように言ったばかりだ。これ以上他人に振り回されるのが嫌で出た言葉だったが、佐井から何もアクションがない今、ただ独り相撲をとっているだけに過ぎないのだと虚しさが美帆を襲っていた。好きだと気持ちがバレても、佐井が何も言ってくれないのは、やはり相手にされていないからだと美帆は考えていた。
「本当にバカみたいだったな…」
駅の改札を抜けて、ホームへの階段を降りていった。0時前でもまだ人で賑わうホームに降りたった美帆は空いているベンチに座り、今日あったことを整理する。
なぜ友香があそこまでしつこくこだわってくるのか、美帆にはわからなかった。しかし、友香の言うことも、無視できないものばかりだったのは事実だ。事故とはいえ、自分は好きだと言ってしまったが、チャンスがあったのにアクションは起こせなかった。
『アイツが女心なんてわかるわけないわよ。そういう男なんだから。美帆ちゃんはそういう男を好きになったのよ?』
更衣室で言っていた友香の言葉だ。
(そうかな…?)
そんな人なら、ウェディングの忙しい時にわざわざ髪留めのこと、褒めたりするかな? と、無くしてしまったあの髪留めのことを思い出した。
(あぁ、そうだった。あれはもうないんだった…)
小さな幸せだった。似合うと褒められて素直に嬉しくて、あれから毎日付けていた。ハンドメイド品のため、同じものはもう買えない。似たようなものは売っているだろうが、なぜか気が乗らない。二番煎じみたいなことをしても、心はきっと満たされない。
(いや違う。好きでいることをもうやめるんだから、なんだっていいんだよ)
静かに片思いをしている時に戻れたら、こんなに苦しくなんかないのに…
乗るつもりだった電車をベンチで見送りながら、美帆は座ったまま膝に落ちる涙を指でなぞっていた。