3.
この日帰り旅行で、本当にダシに使われているだけなら、邪魔者はそれに徹しなければ。
(佐井さんも、あたしの相手をしてくれるわけでもなさそうだしな。…ホントしょうがない人)
しかしゲレンデに来た時の佐井のあの嬉しそうな顔を見たら、本当にウインタースポーツが好きなんだな、ということは美帆でも理解できた。
ただいくら親しくしていても、変な噂が立つことは避けなければならないだろう。だから佐井が友香とふたりで行くわけにもいかないのだろうというのもわかる。こういう遊びはグループで行くことに意味がある。そして自分は”誘っても断らない”というところを利用されただけで、ただそういう要員だったということだ。そう考えると、次はもう誘われることはないだろうし、脈ありでもなんでもない。美帆はつい、髙橋の言葉を本気にしていた自分を恥じながらフフフと声を出して笑っていた。
食事を終えた後、名残惜しそうにしていた直樹と別れ、美帆はトイレに寄ってから外に出ようと準備をする。その時、右足首にピリッと違和感を覚えた。
(あれ… 痛いな。…あの時かな)
リフトで上に到着した時にうまく降りられなくて、その場にいる人たちが美帆の手を引っ張ってくれたのだが、その時にバランスを崩して転んだのだ。足についているボードに足首を持っていかれ、変に足に体重がかかった時に痛みが走ったことを思い出した。すぐに体勢を変えてすぐに痛みからは解放されたはずだったのだが、右足にはかなりの負荷がかかっていたようだった。念のため、さっきまで履いていたブーツを履いてみようと足を入れてみようと試みる。しかし、右足首だけ腫れてしまっているのか、入らなったのだ。
(湿布、持ってきておいてよかった…)
はぁ、と深いため息をつき、踵を返してロッカーへと戻る。
「痛っ…」
思わず声が出てしまうほどの痛みを感じ、顔をしかめていた。
(とりあえず、レストハウスで待ってることを伝えておくか…)
しかしすぐに美帆の手が止まった。自分が怪我をしたと連絡したら、みんな心配するだろうと考えた彼女は、本当に自分がお荷物になってしまうと危惧したのだ。
(せっかく来たのに、それは申し訳なさすぎる)
美帆は再びスマホでLINEを起動する。そして、4人のグループLINEに「ちょっと疲れてしまったので、レストハウスで休んでます」とだけ入れて送った。
すると、直樹からすぐにレスがあった。「暖かくしててね」というメッセージとスタンプだった。友香からも「了解★」と簡単に返信が来たが、佐井からはメッセージはない。それも想定済みの美帆は、たいして気にも 留めていなかったのだが、しばらくレストハウスで暖を取っていると、握っていたスマホが着信を知らせていた。ディスプレイを見ると、まさかの佐井だった。
「…もしもし」
美帆が電話に出ると、電話をかけてきた主は雰囲気で不機嫌そうなオーラを醸し出しているのがわかる。
「お前、もう諦めるの?」
「え…」
佐井の第一声に戸惑いがなかった訳ではないが、『精進しろよ』と言われていたことを思い出し、どう説明しようかと言葉を選んでいると、痺れを切らした彼はまた、美帆に厳しい言葉を浴びせるのだ。
「なんか、思った以上に期待外れだったな」
さすがにそれには、美帆もムッとした。
「…そう、かな。それはごめんなさい…?」
美帆がそう答えると、受話器の向こうで舌打ちしているのが聞こえてきたのだ。するとざわついていた美帆の心は、急に凪いでしまった。期待すらされなくなった今、彼に何を告げても無駄だと、美帆はついに諦めてしまったのだ。
「電話してくれるほどには、気にしててくれたんだね」
つい苦笑いを浮かべながら美帆は電話の主にそう漏らした。
「はぁ?」
その言葉が癇に障ったのか、佐井の口調は強くなるばかりだ。
「まぁ、あたしのことは気にせず、楽しんできて」
せいぜい美帆が言えたのはそれだけだった。言い返す気力さえももうなく、本当のことを言ってこれ以上お荷物として疎まれるのも辛い。せっかく来たのに彼も楽しめなくなるだろう。
一方的に切れてしまった電話の切断音を聴きながら美帆は無理やり自分を納得させていた。そして左足首と明らかに太さが違う右足首を見ながら、たった今交わされた会話が頭の中で何度も繰り返される。彼の『期待外れ』という言葉はさすがに美帆の心に傷を付けた。
(あんなに機嫌悪くならなくてもいいのに)
はぁ、と大きなため息を吐きながら、美帆はうな垂れた。
トイレに立った美帆は、鏡を見たときに髪に付けていた髪留めが無くなっていることに気付いた。
(あ、うそ…)
邪魔な横髪をちょっと留めていた、小さなリボン型のピンクのラインストーンの髪留めが無くなっていたのだ。この前のウエディングの時に付けていて、佐井が突然褒めてくれたあの髪留めだ。
(上で転んだときかな…)
しかし、この足ではゲレンデを歩いたりリフトに乗ったりするのは無理だ、と判断すると諦めるしかない。すると、美帆はさっきの佐井の言葉が蘇ってくる。
『お前、もう諦めるの?』
(えぇ。諦めますとも)
強がりながらも、残念に思う気持ちは消えず、美帆はトボトボとさっき座っていたソファへと戻っていった。スマホで時間を確認すると、まだ午後1時半過ぎだった。壁際に雑誌のラックが置いてあることに気付くと、その雑誌に手を伸ばして手に取った。あまりスマホをいじっていると電池がなくなってしまう。モバイルバッテリーを持って来なかった美帆は、電池の消費を抑えなければならない。
(佐井さんから連絡あるかもしれないし…)
さっきのやり取りからよくそんなことを考えられるな、と自分で突っ込みを入れながらも、彼女は持て余していた時間を潰そうと手に取った雑誌のページを開き始めたのだった。
「美帆ちゃん」
午後3時を回った頃、雑誌を広げたままウトウトしていた美帆は不意に名前を呼ばれ、大きく振り向いた。するとその視線の先にいたのは、直樹だった。
「あ、直樹くん」
「佐井さんじゃなくてごめんね」
困ったように笑って謝る直樹に、美帆は首を横にふった。
「さっきもおんなじこと言って。そんなことないのに」
「そう?」
「うん」
「よかった」
小さく笑いながら直樹は美帆の隣に腰を降ろした。
「もういいの?」
「うん。4時集合だから、そろそろ帰る準備しないと。友香さんはトイレに行ったよ。佐井さんは、途中で初心者コースの方を見てくるって言ってて。美帆ちゃんを探しに行ったのかもね。ここにいるよって連絡したほうがいいかな」
(あ…)
「その様子だと、午後はずっとここで過ごしてたみたいだね。ボード、嫌になっちゃった?」
直樹は決して頭ごなしに怒らない。むしろ相手を気遣って相手の顔を見て話してくれる。そう思うと、美帆は申し訳なさでいっぱいになる。目を伏せ、首を横に振る。
「ううん、違うの。教えてくれるって言ってくれたのに、教え甲斐もなくてつまんないよね。本当にごめんね」
「美帆ちゃんが謝ることじゃないでしょ。そもそも佐井さんが美帆ちゃんのこと考えずに誘ったから」
「そのことだけど…」
美帆は、佐井が自分とここに来ることを目的に誘ったわけではないことを告げた。
「え?」
驚く直樹に、美帆は諦めたように笑っていた。
「もし、佐井さんがあたしとここに来たいと思って誘ってくれたんだったら、もっと違った展開があったのでは、と思う…。でも、もういいの」
「…なんだ」
直樹が口を尖らせて不満を口にした。
「俺、やっぱり遠慮しなきゃよかった」
「え?」
聞き間違いかと思い、美帆は真顔で聞き返す。
「佐井さんに遠慮しなきゃよかった、って話」
直樹がハッキリそう口にすると、思わず美帆の顔が赤くなる。
「やめて、冗談でそういうこと言うの!」
「冗談なんかじゃないよ」
真剣な顔をして、直樹は美帆の瞳を覗き込んだ。その視線に耐えきれず、先に目を逸らしたのは美帆の方だった。
「…困っちゃうよね。ごめん」
困ったように笑いながら直樹がそう言うと、美帆は熱くなった顔を手のひらで仰いでいた。
「美帆ちゃーん、直樹―」
友香が手を振ってこちらに近づいてくるのが見えると、美帆はその声に反応して振り向いた。すっかりウエアを脱いだ友香も帰る準備を進めているようだった。
人の波を横切ろうとしている友香は、時折人とぶつかりそうになりながらこちらの方に来ようとする。その矢先のことだった。
よそ見をしていた男性二人組に当たられた友香は、彼らが手に持っていたコーヒーの蓋が外れ、思いっきり腕にかかってしまったのだ。
「あっつ…!」
顔を歪めながらバランスを崩して床に倒れ込む友香のまわりに人が集まってくる。美帆も駆け寄ろうと足を踏み出したが、腫れている右足首に痛みが走り、動けないでいた。
「あ…、佐井さん…」
直樹も美帆と同じように友香の元へ駆け出していたが、一足早かった佐井が友香のそばに駆け寄り、倒れた彼女を立たせると、自分は知り合いだからとまわりの人に説明しながら、スタッフに連れられてその場を後にしたのだ。水道のある所へと向かったのだろう。
「火傷、してないといいけど…」
「そうだね」
騒然とした現場には床にこぼれたコーヒーだけ残され、慌てて別のスタッフの人が掃除している様子を美帆は直樹と眺めていた。騒ぎは収まったものの、美帆の心はソワソワしていた。
友香の火傷騒ぎで少しだけバスの出発が遅れてしまったが、もちろん佐井は抜かりなくバスツアーのスタッフに連絡して出発を待ってもらっていた。火傷の応急処置をしてから急いで帰る準備を終えた佐井と友香もなんとかバスに乗り込み、出発した。
「友香さん、火傷大丈夫…?」
通路側に座っていた美帆が心配そうに前の席に座る友香に声をかける。すると、友香は笑ってうなずいていた。
「ごめんね、心配かけちゃって。たいしたことないと思うわ。すぐに冷やしたし」
「ならいいんですけど…」
美帆は顔を引っ込め、自分のシートに深く座り直した。横に座っている直樹が気遣い、ずっと美帆に話しかけている。しかし、美帆の耳には届いてはいなかった。
(友香さんに駆け寄っていった佐井さん、カッコよかったなぁ。まるでふたりは恋人同士みたいで… 知らない人はみんなそう思っただろうな…)
あたしは何しに来たの?
このふたりの仲を見せつけられるため?
遠回しに、諦めろって言ってるわけ?
(あー、もぉ、…もうどうでもいいや)
大きなため息を吐かずにはいられなかった。しかし、ため息を吐いてから美帆はハッとして直樹の方を見た。彼は軽い寝息をたてながら、いつの間にか眠っていた。その寝顔を見て、美帆は安堵した。
(直樹くん、優しかったな…)
彼の思いがけない優しさを知ってしまった美帆は、確かに心が救われていた。
(私のことちゃんと考えてくれるし、気持ちもちゃんと言ってくれて、必死になって庇ってくれた…)
その時、美帆の胸にズキッとした痛みが走った。思わず胸を押さえてしまう。
(なんで? なんで…?)
目が熱くなり、目の前が霞んでいく…
(なんで直樹くんじゃ、ダメなの…?)
隣に座っている直樹が眠っていてくれてよかったと、美帆は心底そう思った。
焼けていく空が、ハイスピードで流れて行く。美帆はひたすらあふれ出る涙をただただ黙って、流していた。
夜10半頃、バスが無事新宿駅に到着した。
「友香さん、バッグ持てそうですか」
直樹も心配そうに友香に声をかけるが、友香は微笑みながらうなずいていた。その時美帆は、友香に駆け寄り水場へ向かって行く佐井の姿が、脳裏にちらついた。しかし美帆はそれを振り切るようにして気持ちを立て直すと、自分の降ろされた荷物を取りに行く。
「じゃぁね。またお店で」
一番最初に美帆が自分の荷物を持って、駅の改札に向かって歩き出したのだ。ところが荷物の重さが右足にかかった時、足首に電気が走るような痛みが走ったのだ。思わずその痛みに美帆は顔を歪めた。
「美帆ちゃん…?」
直樹が美帆の異変に気付き、思わず美帆の名を口にしたが、美帆は笑いながら手を振って、構わず改札に向かっていた。
(明日は病院だな、これは…)
刺すような痛みに耐えながらも改札を抜けようとカバンから定期入れを出したその時、誰かに腕を強く捕まれ、美帆は驚いて定期入れを落としてしまった。
「お前、足…」
真剣な目で佐井が彼女に訊ねる。しかし、彼女はそんな佐井の視線に耐えられず、目を伏せた。
「別に何ともないよ」
「何ともないわけないだろ、靴が履けないくらい腫れてるじゃねぇか」
靴のかかとを踏んだまま歩いていたことがついにバレてしまった。すると、美帆は大きく息を吐いた。
「…湿布も貼ってたし、たいしたことないって」
「タクシー捕まえるから、お前も乗れ。そんな足じゃ」
そんなふうに優しくされると、期待しないようにしようとしても期待してしまう。ただ怪我してるから親切にしてくれているだけだと頭では解っているのに、どうしてもそれ以上のことを期待してしまうのだ。美帆は胸が苦しくて、涙が出そうになっていた。そんな時に限って最悪な言葉を思い出してしまうのだ。
『なんか、思った以上に期待外れだったな』
美帆の足の怪我のことを知らない佐井の言葉だったが、それを解っていても心をえぐられるような痛みを伴ったのは間違いなかった。
「だって期待外れだったんでしょ」
「え」
急にそんなことを持ち出され、佐井の瞳孔が動揺して揺れていた。
「こんな『お荷物』になんか構ってないで、友香さんを早く送っていってあげたら」
美帆はそれだけ言うと、佐井をその場に残して改札を抜けた。