1.
駅の改札を抜けると、そこはきらびやかで賑やかで、眠ることのない街の入口だった。駅前に広がる沢山の高層ビルの中のひとつに、30階建てのビルが我が物顔のごとく鎮座する。その最上階に、本格中華を堪能できるレストラン『優美林』があった。
エレベータがホールに着くと、そこは洗練された高級感溢れる落ち着いた雰囲気の店の入り口が現れ、扉を開けば美しい案内係の笑顔とともに、メートル・ド・テルがお客様をお迎えする。
…という触れ込みなのが、このレストラン『優美林』だ。大安の休日にもなれば、そのレストランはウェディングの披露宴会場にもなる。
「ちょっとぉ、誰かレジの電卓持って行ったまま、戻してないでしょ〜」
「あ、すいません! 今、持ってきます」
「誰か、ビールグラス運ぶの手伝え!」
「今、行きます!」
土曜日の開店前。今日は11時から、レストランブースを貸し切りで披露宴が行われる予定になっており、その準備で店の中はてんやわんやしていた。
「美帆、これ新郎新婦のテーブルの上に飾って」
先ほど近所の花屋から届いた花を持った社員の佐井は、美帆にそのまま花瓶ごと渡して手早く指示を出す。
「はい」
彼女がそう返事をしたと思ったら、佐井はもうすでにそこにはいない。
「直樹、シルバーの位置が間違ってるぞ! いつになったら覚えるんだ!」
美帆の後ろから佐井の怒鳴り声が聞こえてくると、他のテーブルをセッティング中だった直樹がすぐさま反応してすっ飛んで行く。
「すいませんっ!」
「肉用がこっちだろ」
相変わらず仕事のできる佐井だったが、言葉が強い。それでも皆が彼について行くのには理由があった。表情が乏しくぶっきらぼうだが、彼はよくまわりを見て的確に指示をしながら人を動かせる。美帆はそんな真剣な佐井の顔をテーブル越しに見ていた。
「美帆ちゃん」
はっと我に返り、声のする方に振り返る。そこにいたのは、何段にも重なったグラスのラックと白いプレートを台車に載せて運んできた髙橋だった。彼も佐井と同期で、このレストランの社員だ。
「グラスとプレートをセットするの手伝ってくれる?」
眼鏡越しに優しい笑顔を浮かべている髙橋は、まるで佐井とは正反対だ。
「はい、もちろん手伝います」
髙橋と美帆は、各席に白く大きいプレートとシャンパングラス、ビールグラスを所定の位置に素早くセットする。
「ねぇ、美帆ちゃん」
その作業中、美帆に話しかけたのは髙橋のほうだった。
「はい」
グラスの位置を丁寧に確認しながら何気なく返事をする美帆だったが、髙橋の顔はどこか二やついている。彼女は少しだけ嫌な予感がした。
「美帆ちゃんて、直樹のこと好きでしょ」
さっきの優しい笑顔とは違い、髙橋の目は意地悪に満ちていた。すると、美帆は頭から湯気が出るほど顔を真っ赤になってしまったのだ。
「な、な、な…!」
突然何を言い出すのかと思えばと、思わず手からグラスが滑り落ちそうになり、慌てて握り直す美帆。
「分かりやすいね。若いって、いいな〜」
楽しそうに笑いながら、満足したようにうなずきながら上機嫌でプレートを並べていく髙橋に、美帆は首を大きく横に振った。
「ち、違いますよ!!」
しかし、髙橋の目は変わらなかった。
「だって、さっきぼーっと直樹のこと見てたじゃん」
(えぇぇぇ?!)
「付き合っちゃえばいいじゃん。お似合いだよ?」
無駄口を叩きながらも佐井と同期の社員でもある髙橋は、手だけは完璧な動きで働いている。余裕をかましながら意地悪を言う彼は、その整った顔をくしゃっとさせながら笑っていた。
「な、何言ってるんですか?! あたしが好きなのは直樹くんじゃありません! 佐井さんです!!」
フロアに響き渡るほどの声を張り上げ、美帆は必死になって否定すると、誰もが作業の手を止めた。そして、目の前にいる髙橋でさえも意外な答えを聞いて一瞬動きが止まったが、すぐにさっきの笑顔に戻る。
「だってさ」
髙橋は美帆の頭上を越えた先に視線を送って、そう言ったのだ。
(もしや…)
彼女が恐る恐る振り返ると、そこにはドリンクバー用のウーロン茶の原液を何本も持った佐井が立っていたのだ。
「た、髙橋さん!!」
美帆はリンゴのように顔を赤くしながらつい大声で叫んでいた。しかし髙橋は腹を抱えて笑っている。
「うっせぇなぁ。無駄口叩いてないで、仕事しろ、仕事」
しかし佐井は面倒臭そうにそう口にして、キッチンに向かって歩いて行ってしまった。
(え… 反応それだけ?!)
自分の気持ちを期せずして知られてしまった美帆は、佐井の素っ気ない態度に呆気にとられていた。そんな彼女に「美帆ちゃん、ガンバ!」と、髙橋はウィンクしながらとてもさわやかに勇気付けていたのだが、美帆は悔しさと恥ずかしさで言葉にならず、ボヘっとしていた。
「え、美帆ちゃん、雄一のことが好きなの? やめといたほうがいいわよ?」
美しく伸びた黒髪にゆるいウェーブが自慢の案内係の友香が、横から口を出す。
「な、なんなんですか…」
すっかりと脱力した美帆は、やや力なしにそう呟いた。
「だって、雄一は女心をなーんにも分かってないって有名よ? 美帆ちゃんが入る前にいた女の子だって、アイツに惚れて、大変だったんだから!!」
(まぁ、何となく想像付くけど…)
「でも、友香さん、佐井さんと仲がいいですよね…」
「そう? まぁ、和志も含めて一緒に仕事して長いからね」
友香はウインクしながら、最後のテーブルのプレートを並べている髙橋を指差しながらそう答えていた。美帆が前に聞いたところによると、4年前にこのレストランに就職した佐井と髙橋だったが、友香もほぼ同時期にアルバイトとして入ってきたのだ。友香と佐井は同い年であることもあり、この3人は傍から見ても仲が良い。
「こら、美帆! いつまでもしゃべってんじゃねぇよ!」
突然、美帆の首根っこをつまんだのは、佐井だった。
「す、すいません…!」
「友香も早く準備しろ」
佐井は手で友香を追い払う。そんな佐井に友香は面倒くさそうにレジへと戻っていった。
制服の首元が絞まるのもよそに、間近に迫る佐井に美帆の心臓はバクバクと爆音をとどろかせていたのだが…
(佐井さんは、なんともないみたい…)
彼は、至って普通。すぐに美帆の首根っこを放すと、準備のためにフロア中を駆け回っていた。美帆は思わずブルーの溜息を吐いてしまったのだった。
時間通り披露宴が始まり、従業員はあらかじめ打ち合わせ通りの位置につく。
新郎新婦のそばで段取りのサポートなど、式を派遣されてきた司会者とともに進行する佐井。料理のタイミングや、ドリンクの補充の指示を出したりと、裏方に徹する髙橋。そのふたりの息の合った運営で、今日も無事に仕事を終えることができそうだった。
しかし、美帆の頭の中は…
(はぁ… 集中しなくちゃ…)
歓談中、ドリンクバーのカウンター前で招待客の希望の飲み物を作りながら、式の様子を逐一気にするも、気付けば準備している時のあのことを思い返し、自分の失態を後悔していた。よりによってみんなの前であんなことを口走ってしまった挙句、本人に聞かれてしまうとは…。しかも、事故とはいえ聞いた本人はしれっとそつなく仕事をしている。
彼に限って失敗はない。冷静かつ確実に、また忙しくも優雅に動き回る彼をつい目で追ってしまう。思わず、彼女の口から小さな溜息が漏れた。
「こんな席で溜息なんか吐くなよ、バカ」
耳元で囁かれ、いつの間にか自分の横に並んでいた佐井に気付いた美帆は、思わず身を翻した。
(ちょっとぉ〜! ビックリするじゃん…!!)
そんな目を佐井の横顔に向けた。しかし、一瞬でそんな気持ちが吹き飛ばされる。高級レストランとしての屋号を背負っている社員として従業員への注意はするが、決して彼は無駄なことはしない。仕事モードの彼は、真剣に室内のことに気を配りながら集中し、いつもでフォローに回れるよう動いている。
(…キレイ。佐井さんの真剣な横顔…)
言葉はいつもぶっきらぼうだが、仕事をしている時の真剣なその眼差しを見ると、美帆はいつも言葉を失ってしまうのだ。
(なんかズルいんだよな…)
…なんて彼女が考えていると、急に佐井が美帆の耳に口を寄せる。
「その髪留め、お前に合ってるな」
彼が美帆の耳元でそう囁くと、彼女の背中をぽんと叩いて、佐井はその場から離れて行ったのだ。
(え?)
思わず褒められた髪留めを手で押さえてしまった美帆は、放心していた。
(急に褒めるとか…何? …っと集中)
平常心を思い出しながら胸の高鳴りを抑えようと必死になる。あんな彼の何気ない行動でさえも、美帆はいちいちドキドキしてしまうのだった。
「今日も無事に済んだね」
いつもの優しい笑みを浮かべ、片付けながら髙橋が口を開いた。
「今日のウェディング、ちょっとホロッとしちゃいましたね」
直樹が昼間の仕事を思い出しながら髙橋の後を続けると、皆がうんうんとうなずいている。
「そぉかぁ〜?」
それなのに、ひとりだけ怪訝そうな目で、佐井が口を挟んだのだ。
「いつもとたいして変わんねぇよ」
大型のバケツに飲み残しのドリンクをどんどん捨てながら、佐井はそう続けたのだった。
「どうせ雄一は興味ないでしょ、ウェディングに。『仕事』として淡々とやってるだけなんだから」
フロアの入り口で友香が横から茶々を入れる。
「この男は『感動』なんて言葉を知らないのよ。どんなに素敵で感動する結婚式に招いたとしても、ただあくびして座ってるだけよ、きっと。」
友香の発言に、その横で美帆も「うんうん」と頷く。
「なんだ、お前、『うんうん』って」
美帆の全身からの肯定に少しムッとしたのか、すかさず佐井は美帆に突っ込んでいた。
「だって、その通りじゃないですか」
(人の気持ちを聞いて、何にも思わないんだから…)
心の中でそう思ったが、もちろん口にはしなかった。
「フン。まぁ、確かに結婚式なんて興味無ぇな。仕事じゃなけりゃ、関わらないだろうし」
ハハハ、と大きく笑いながら佐井は台車に乗せたバケツをキッチンへと運ぶためにフロアを後にした。
(佐井さんらしい…)
それぞれ口にはしなかったが、心の中で同じことを思っていたのは間違いないだろう。
ウェディングが終わった後は、普通にレストランとして営業をする。佐井と髙橋の役目はシェフ・ド・ランに戻り、彼らが主に客の給仕を務めている。中堅とは言い難いが、ふたりの仕事のできを信用してる支配人が彼らをそう采配しているのだ。また髙橋は、友香の仕事であるレジや予約などの案内係の補佐もし、一方で佐井はソムリエの資格を持っており、ワインや酒の知識が豊富だった。美帆と直樹のアルバイト組の立ち位置はコミ・ド・レストランで、直接客の給仕に当たるわけではなく、主にシェフ・ド・ランである髙橋や佐井のサポート役に徹するのが主なのだが、直樹は閉店後に髙橋から指導を受けているようだった。
ラストオーダーが午後10時半。その30分後が、閉店時間だ。
それぞれ決まった仕事をこなしていると、いつの間にか時計の針が11時を示している。
「終わった…」
「お疲れ様」
最後の客がエレベータに乗り込むところを見届けた後、11時で上がるアルバイト組は、無事に今日の仕事を完遂できた安堵感から個々にそう口にしていた。
軽く自分の持ち場を掃除し、美帆も11時で上がる準備を始めていた。美帆の今日のシフトは午前10時からで、ウエディングスタッフとして勤務し、後片付けをしてから15時ごろ昼休憩を取る。そして、夕方からの通常営業で給仕補助を行いながら20時ごろに2回目の夜休憩を取って、11時に上がるといったスケジュールだった。大学生の彼女の大安の休日はたいてい、佐井か髙橋に頼まれてこんな感じのシフトになることが多い。滅多にあることではないが、この店は大学生をこき使うブラックな店だった。
(12時間以上も店にいるよ…)
そう思いながら、美帆は長時間履いていたヒールのせいで疲れた足を引きずりながらロッカーに向かった。
(あぁ、髙橋さんさんのせいで、今日はキモチ的にもしんどい…)
「友香さん、お疲れさまでした…」
バックヤードに引っ込む途中、レジカウンターでレジ点検をしている友香に美帆は声をかけた。
「うん、お疲れ! 今日は久しぶりのウェディングで、長丁場だったものね。美帆ちゃんもなんか事故があったし」
ニヤッと笑う友香に、美帆は苦笑いを浮かべていた。
「ホント、勘弁してください…」
眉を八の字にしてそう口にする美帆の口からは、大きなため息をこぼしていた。
「佐井さん、事務作業ですかね」
「休憩室でコーヒーでも飲んでサボってるんじゃない?」
今、フロアに出てきているのは髙橋だけで、彼はフロアの忘れ物を確認しているようだ。
「会いたくなっちゃった?」
意地悪く笑う友香に、美帆は慌てて否定する。
「違いますよ! 恥ずかしいからさっさと着替えて帰ろうかと思って!」
「そっかそっか。はい、お疲れー」
美帆をからかう友香に、彼女は顔を赤くしながら「お先に失礼します!」と声をかけてから店のバックヤードへのドアを開けた。
(友香さんはいつもからかってくるんだから…)
プリプリと怒りながら美帆は廊下を歩いていた。途中にある休憩スペースには寄らず、こそっと更衣室へ入っていった。
佐井を好きだと知られてしまったのがおなじみのメンバーだったからまだ傷が浅いと思える美帆だったのだが、やはり自分の失態を恨めしく思うのは変わらない。こんな日は、狭いけど湯船にお湯を溜めて、ゆっくりとお風呂に入るのが一番だ。そう考えながら、ささっと身支度を終えた美帆は、足早に店を去ろうとと歩き出した。そして最後、裏のスタッフ専用の出入り口から店を出ようとドアノブに手をかけた時、急に後ろからパシッと誰かに反対側の腕を掴まれたのだ。
「?!」
ビックリして振り返ると、美帆の腕を掴んでいたのは佐井だった。
「何、佐井さん…?」
「お前、今度の店休日、ヒマ?」
ただでさえ背が大きくて威圧感のある男なのに、小柄の美帆に真剣な顔をしてそう迫ってくる佐井はちょっと怖い。圧倒されてよく分からないまま美帆は頷く。
「よし。ボード行くぞ。直樹と友香にも連絡しておいて」
佐井はそれだけ言うと、すぐに美帆の手首を放し、くるりと踵を返して残っている仕事をしに店へと戻って行ったのだ。
(え? え? えっ?!)
美帆はよく理解できないまま、その場から遠ざかる佐井の背中を見ることしかできなかった。