第11話 コータとアンジェリカ、お別れの日を思い出す。
「おい、コータ!」
僕は『帰りの会』が終わると、彼らの遊びの誘いを無視してランドセルを掴み、一目散に教室を飛び出した。
「逃がすかよ!」
そんな僕を捕まえようとする手が伸びてくるが、何とかそれをすり抜けようと試みる。だけど所詮多勢に無勢。
逆上がりもできない運動神経では、すぐに捕まってしまう。
だけどこの日の僕は必死だった。メチャクチャにもがいて突き飛ばす。
捕まえていた子がびっくりした顔をしていたが、やがて目を吊り上がらせて僕を睨みつけた。
「テメェ、コータ!」
その恐ろしい声を聞きながら、僕は家へと走った。
その日は、その日だけはどんなことがあっても絶対に早く帰らなければいけなかったのだ。
もう日も暮れるのかと思える程に薄暗い梅雨空の下、僕は傘を差すのももどかしくて全力で走った。
――今更、濡れるのがどうしたというのだ!
そんな些細なことよりも、早く、もっと早く!
僕は苦しさなんか何とも思わず、ランドセルをがちゃがちゃ言わせながらひらすら家路を急いだ。
「――モモ! モモ!」
玄関の扉を乱暴に開けて靴を脱ごうにも、濡れた靴が頑固で中々脱げなかった。
行儀が悪いのを承知で玄関で靴も並べず、やっとの想いでモモに駆け寄った。
そんな僕をきゅんと一声鳴いて出迎えてくれる彼女。
尻尾を一回だけパタンと振った。
「ただいま、モモ! ……帰ってきたよ!」
彼女は苦しそうに荒い息をしながら、布団の上で横たわっていた。
その弱弱しい姿に胸が痛くなる。
今日だけは学校を休んで、ずっと彼女の側にいてやりたかった。
もう目が見えているのか見えていないのか分からない。
僕が優しく撫でると、モモはほのかに口角を上げた。
こんな苦しい時でも彼女は僕に笑いかけてくれる。
そんな健気なモモの横には母さんが付いていた。
無理を言って会社を休ませてもらっていたのだ。
母さんが目に涙を溜めながら彼女を撫でる。
「モモよかったね。コータが帰ってきてくれたよ。……もう少しでお父さんも帰ってくるからね」
その言葉に反応したモモが微かに頷いた。
梅雨時の夕暮れの中、もう部屋に差し込む光も鈍くなってきていた。
それでも二人とも部屋の電気を付けようとしない。
その時間すら勿体なかった。
僕も母さんも彼女から目を離さず、じっとその場で彼女を撫でていた。
やがて玄関の扉が乱暴に開いて、父さんが荒い息で飛び込んできた。
ようやく部屋の電気が付く。
モモが光を感じたのか、緩慢な動きでまばたきを繰り返した。
これで家族全員が揃った。
父さんがスーツのまま涙をポロポロとこぼしてモモに近づく。
そして震える手で彼女の体をさすった。
「モモ、……待っていてくれたのか!? ……ありがとうな。つらかっただろう? ……もういいんだよ。もう楽になってもいいんだよ」
「モモ、よく頑張ったね、本当に偉い子。……ウチに来てくれてありがとうね」
母さんも涙をこぼして彼女の頬にキスをする。
「モモ、……大好きだよ。いっぱい遊んでくれてありがとう。いっぱい慰めてくれてありがとう。お姉ちゃんをしてくれてありがとう」
僕も涙が止まらなかった。
みんなのありがとうの言葉の中、彼女は息を引き取った。
きゅんきゅんと鳴くコータの声で目が覚めた。
震えている彼を抱き寄せる。
私は召喚者だからだろう、彼が何を言っているのか分かった。
――モモありがとう、大好きだよ。
だからどんな夢を見ているのかも分かった。
あのときのことだ。私の一番幸せな記憶。
コータやパパさんママさんからすれば、悲しい記憶なのだろう。
だけどあんな満ち足りだ時間は無かった。
河川敷で繋がれたまま死んでいたかもしれない私には望むべくもない。
あの穏やかな瞬間を思い出すだけで今も胸が温かくなる。
私の為に仕事を休んでくれたママさん。
びしょ濡れになりながら、急いで帰ってきてくれたコータ。
いつも帰りの遅いパパさんも仕事を切り上げて帰ってきてくれた。
大好きなみんなにありがとうと言われながら安らかな眠りにつく。
私は役目を全う出来たのだと満足感に浸ることができた。
生きてきた意味があったのだと。
みんなを悲しませたのは少し気に病んだけれど。
――そしてこの気が付いたらこのセカイに生を受けていた。
このセカイに来てから初めて『寂しい』という感情を覚えた。
寂しいというのは『寂しくない』という状態を経験して、初めて知るモノだった。
コータたちに出会うまではそんな感情があることすら知らなかったのだ。
ここはいわゆる天国だけれど、私には苦痛しか与えてくれなかった。
いつもコータとの満ち足りた日々を思い出して泣いていた。
コータにもう一度逢いたくて仕方がなかった。
撫でて貰いたかった。
抱っこしてほしかった。
せっかく人間の言葉を覚えたのだから、いっぱいお喋りしたかった。
そんな風に泣き暮らす私が、召喚術を心得たシンシアに出会えたのはきっと『システム』が用意してくれた奇跡だったのだろう。
学園で出会ったシンシアは、犬だった私と距離を置くことは無かった。
そもそも彼女は誰とも親しくならなかった。皆も彼女から距離を置いていた。
理由は彼女が抱く猫にあったが、それは当時の私には知る由もないことだった。
彼女が心を開いていたのは学園理事長の祖父と、猫のゴローだけ。
そういう意味では私と彼女は似た者同士だった。
私は獣の本性で彼女は大丈夫だと見抜き、するっと彼女のお気に入りの中に入り込むことが出来た。
シンシアはこのセカイの生き方や、人としての常識を教えてくれた。
彼女と親しくなる中でゴローがただの猫ではないことも知った。
――そして私は召喚術の勉強も教えてもらえないかと願い出たのだった。
城の外の雨音が部屋の中にも響いている。
――もうこんな季節だ。
だからこそコータはあの日のことを思い出したのだろう。
きっとこの季節が来るたび思い出してくれていたのだろう。
愛おしさが胸に込み上げてくる。
私はコータに頬ずりした。
「こちらこそ、ありがとう。……コータ」
ようやく穏やかな呼吸になってきた彼を抱きしめながら、私は眠りについた。