パンドラの箱に希望はない 8
Chapter 8
43
がたがたと激しい音を立てながら馬車が街を疾駆している。黒塗りの憲兵用の馬車である。緊急時に使われることは街の住民は周知のことで、通り過ぎる馬車の姿に通りを歩く人々は何事かと振り返っている。しかし、興味を引くのはわずかな間のことで、人々はすぐに自分の目的地へ向けて歩みを進める。王都では憲兵による『緊急出動』は日常的なことなのである。
がたがた揺れる馬車の中では憲兵に交じってレトとメルルが座っていた。身体の軽いメルルは振動のたびにぴょこんぴょこんと跳ねている。彼女は服の端を一生懸命押さえ続けていた。向かいに座る若い憲兵にめくれた服の中が見えそうだからである。向かいに座る憲兵はそれを察してか、腕を組んで無言で目をつむっている。気を遣わせたことがわかるだけに、余計きまりが悪い。
「こんなに急がなくてもいいんじゃないですか、レトさん!」
振動で舌を噛まないように気をつけながらメルルはレトの耳元で声をあげた。
「僕だって、こんな演出は頼んでないよ! 所長はどんな要請をしたんだか……」
レトも振動で身体を上下させながら大声で返した。レトは剣を杖のように立てて持っている。
「気が急いているんです、みんな。ようやく事件解決に向かうって話なんですから!」
メルルとは反対側のレトの隣にはフォーレスが座っていた。彼もレトと同じように剣を立てている。憲兵たちが高揚しているのは確からしい。当のフォーレス自身が顔をやや紅潮させているからだ。
「盗賊退治から始まり、『箱』をめぐって混乱したこの事件もようやく終わろうとしている。気が逸るのはわかるけど、この揺ればかりは勘弁してほしいな」レトはぼやいた。
するとレトの言葉が馭者に届いたかのように、馬車の勢いが落ち着いてきた。正確には往来の多い商業区に入って、馬車はスピードを緩めざるを得なくなっただけだが、メルルはほっとした。
「箱と言えば、昔、教会の図書室で読んだおとぎ話を思い出したよ」
馬車が落ち着いたことで、レトもほっとしたのか、メルルに語りかけるともなく話し出した。
「おとぎ話ですか?」
「女神からとある箱を預けられた女の子の話さ。女神は女の子に箱を預けるときにこう言い渡した。『決して開けてはいけない』と」
「おとぎ話と言っても、ひどい話です。開けちゃいけない箱を女の子に預けた意味がわかりません」
「そう言うなよ。で、女の子は箱の中身が気になった。それで、開けてはいけないと言われた箱をそっと開けてしまった。すると、箱からは病気や悲しみ、苦痛など、人々を苦しめるものがこの世にあふれ出し、この世界は災いに満ちたものになってしまった。女の子は慌てて蓋を閉じたが、溢れてしまったものはどうにもならない。女の子が悲嘆に暮れていると、箱から『私も出してほしい』と囁く声が聞こえてきた。女の子は自分のせいで世の中を苦しめることになったから、もう何も外に出すわけにいかないと断ると、その声は『その苦痛を和らげるために私が世の中に出ましょう』と言ったんだ。それで女の子が箱を開けると、現れたのは『希望』だった、という話さ。君は読んだことはないのかい?」
「いいえ。でも、その話、ずいぶん暗示的ですね。この世界が苦痛に満ちているから、希望が存在しているってことですか?」
「おとぎ話では、そうだよね」
メルルはレトの横顔を見つめた。
「レトさんの考えは違うんですか?」
「そのおとぎ話では苦痛のない頃の世界は希望もなかったということになる。もし、今僕たちがいるこの世界が、魔族の脅威や、病気の苦痛からも解放されると、人々は希望を失っていくんだろうか。それこそ希望のない話じゃないか。僕は箱には初めから希望は入っていなかったと思う。『希望』は生きている僕たちの中から、自然に湧いてくるものなんだ。どんな苦痛や困難に遭ったとしても、僕たちが負けまいと思いさえすれば、きっと希望は湧いてくる。誰かに箱を開けてもらわなくてもいいんだ」
メルルは自分のひざ元に視線を落とした。「ふぅーん」
「何だよ、それ」レトは苦い表情になった。
「いえ、レトさんがそんなことを考えるひとだって思ってもみなかったから、意外だなって思って……」
レトは憮然として腕を組んだ。「ああ、そうかい!」
馬車の車輪の音が変わった。車道の石畳からそれて、砂利の混じった地面の上を進んでいるのだ。すぐに馬車は停止した。
「着いた」レトは立ち上がった。かたわらのメルルに顔を向ける。
「勝負だ」
44
扉を開けたベル・ブラウニーの表情はあからさまに不愉快そのものだった。
「いったい何ですか、皆さん。盗賊の被害については一切なかったとご報告しましたが、まだ、何か捜査の必要があるんですか?」
「今回うかがったのは盗賊侵入の件とは別です。実はこの商会に殺人事件の証拠が隠されている可能性があるため、急遽捜索することになったんです」
フォーレスは捜索令状をぱらりとぶら下げて見せた。書類を目にしたベル・ブラウニーの表情がみるみる青ざめる。
「さ、さ、殺人事件の証拠? いったい何の話なんです? ……って皆さん、ちょっと待ってください!」
ベル・ブラウニーを押しのけるように憲兵たちがずかずかと事務所の中へと入っていく。事務所の従業員たちは席から立ち上がって、次々と入ってくる憲兵たちを怯えた表情で眺めていた。全員一様に無言で発言する者はいない。ベル・ブラウニーは憲兵たちをかき分けるように奥へ駆け出すと、「代表に報告します!」と叫んだ。壁の通話機に手を伸ばそうとする。すると、フォーレスがすばやくその腕をつかんだ。
「ああ、それは私がマントン氏の部屋へうかがって話しましょう。マントン氏にもここへ降りていただかないといけませんし、直接説明させていただいた方がいいでしょうから」
思いのほか強い力で握られて、ベル・ブラウニーは完全に硬直していた。がたがた震えながら、わずかにうなづいただけである。
「では、あなたもこちらへ」フォーレスは入り口に向かって声をかけた。そこからは憲兵とは違う服装の男が入ってきた。両腕に腕輪をはめた紳士服姿の男である。
「代表の部屋はここの最上階です。よろしくお願いします」フォーレスの言葉に、男は無言でうなづいて奥へと歩いて行く。
「そ、そいつは魔法鍵師! 金庫を開けるつもりなんですか、代表の金庫を!」
ベル・ブラウニーは息を吹き返したかのように絶叫した。
「令状には、その権限も認められる旨が記載されています。もちろん、素直に金庫を開けていただければ我々もこの方に協力いただかなくてすみますが」
「横暴だ! 憲兵はいつも無茶苦茶をすると聞いているけど、今回のはサイアクだ!」
ベル・ブラウニーの抗議を無視するように、フォーレスは魔法鍵師の男とともに奥へ消えていった。
「ブラウニーさん、お騒がせして申し訳ありません。用がすめば、僕たちはすぐ撤収いたしますから、しばらくのご辛抱をお願いします」
新たに入り口から現れた人物の声に、ベル・ブラウニーは血走った目で振り返った。
「あんたは探偵! こ、これはあんたの差し金か!」
ベル・ブラウニーの大声に動ずる様子も見せず、レトはうなづいてみせた。
「どうしても急ぎ解決しなければならない問題がありまして、無理を通させていただいています」
「何の問題だって言うんだ。殺人事件の証拠って、いったい何だ?」
「少し時間をください。間もなくわかります」
レトは落ち着き払って言った。
「皆さんもそのまま席についてお待ちください」
ベル・ブラウニー以外の従業員たちは、レトの指示にあいまいにうなづくと、ゆっくりとそのまま自分の席に座った。互いに会話することなく、ただ目くばせで不安そうに見つめ合っているだけだ。
モール・マントンがフォーレスとともに事務所まで降りてきたのは間もなくのことである。彼は急な事態に困惑と憤慨の入り混じった様子を見せていた。努めて冷静な表情ながら顔は紅潮し、こめかみに血管が浮き上がっている。
「こちらの憲兵の方から言われて降りてきましたが、いったい何事なのですか? 令状をお持ちだが、あれだってすべての捜索権限があるわけではないでしょう? 権限外のことについて私は拒否する構えですからな。それは嫌でも承知していただきますぞ」
「権限外にあたることの拒否権については、こちらも承知しています。ですから、最後までお付き合い願えますか?」
レトは丁寧な口調で、マントンをなだめるように言った。かなり下手に出られて、マントンもそれ以上の抗議の言葉が浮かばなくなったようだ。彼は横を向いて沈黙した。
「では、ここで何を探しているのかという説明をしますが、ここに至る経緯を説明しなければ納得も理解も難しいことでしょう。長くはなりますが、最初から説明させていただきます」
レトの言葉に口を挟む者はいない。レトは話を続けた。
「まず最初は、バゴット・ハマースミスに盗賊が侵入した件です。ハマースミスは自分の屋敷を無防備にさらしていました。屋敷には金庫や値打ちものの調度品など、それなりに金目のものを置いていましたが、屋敷に得するものがないことを喧伝することで、無防備でも盗賊の被害に遭うことを避けていました。ですが、ここにマンセル・モットーなる人物が現れます。彼はかつての盗賊仲間にハマースミスが屋敷に金目のものを置いてあることを暴露し、盗みに入ることをそそのかしています。また、噂を流すこともしていたようです。その甲斐あってか、4日前の晩に、二組の盗賊団がハマースミスの屋敷に侵入したのです。同じ晩に盗賊の襲撃が集中したのは偶然ですが、その日は通いの家政婦さんが日中に業務を行ない、夕方以降は次の勤務日まで人の出入りがない日でもありました。偶然とは言いましたが、盗賊があの日を狙う必然的な理由はあったのです。ちなみに最初の襲撃した盗賊はガーベナの盗賊団と呼ばれている者たちで、ハマースミスの屋敷から、目につく金目のものは根こそぎ持って行きました。その際、ハマースミスは両腕を後ろ手に縛られて自由を失い、さらに猿ぐつわまでされています。もうひとつの盗賊団は元『イボック盗賊団』の幹部、ベンデルを頭とする盗賊団。モットーにそそのかされたのはこちらの方です。すっかり荒らされた後のハマースミスの屋敷に入り、先を越されたと知った彼らは、後に意趣返しとばかりにガーベナの盗賊団が盗んだ品をさらに奪っています。ベンデルたちがハマースミスの屋敷に侵入したとき、ハマースミスは喉を斬られて絶命したばかりのところでした。これが二つ目の件です。問題は誰がハマースミスを殺害したのか、ということですが、二組の盗賊団の手によるものではないと考えています」
「それはどうしてですか?」ベル・ブラウニーが手を挙げて尋ねた。
「行きがけの駄賃に、あるいは、何も盗めなかった腹いせにハマースミスを殺したってことにはならないんですか?」
「盗賊は別にハマースミス個人にうらみも何もありません。盗む用事さえすめば、彼がどうなろうと知ったことじゃないんです。何も得をしない殺人を彼らはわざわざ犯さないのです。これが第一の理由。次に凶器です。ハマースミスの喉を切り裂いたのは、猫の置物に仕込まれたペーパーナイフでした。盗賊が犯人なら、ナイフは持参しているはずです。殺害するならそのナイフを使用するでしょう。ガーベナの盗賊団で進んで自供していたブルガスという男に置物を見せると、値打ちがありそうだから盗んで行くと言っていました。盗む値打ちの品を凶器として使用するのは考えられません。それはベンデルの盗賊団についても同様です。ですから、ハマースミスを殺した犯人は別にいて、最初の盗賊が出て行った後、次の盗賊が来るまでの間に犯行が行われたのです。ただし、これは計画的なものではありません。仮に犯人をモットーだと仮定しても同様です。彼は盗みをそそのかしたが、いつ盗賊が行動に移すか知る立場にはありません。たまたまガーベナの盗賊団が襲撃した後に、そこを訪れてハマースミスを殺害することになるのです。それはさっき話した凶器がぺーパーナイフだったことからもうかがえます。最初から殺害するつもりなら、もっと確実性の高い凶器を用意したでしょうから」
「しかし、その話、変じゃないですか?」
再びベル・ブラウニーが話に割り込んできた。
「なんでペーパーナイフで殺そうなんて考えるんです? 両手を縛られて抵抗できない相手なら、両手でキュッと絞めてしまえば簡単でしょうに。そりゃあ、身体を左右に振ったり、多少の抵抗はするでしょうが、そんなの大した抵抗じゃないでしょう?」
「ご指摘の点はその通りだと思います。ですが、その点については後で説明いたします。ハマースミスを殺害した犯人は急な事態で急いで現場を離れなければならなくなります。それが、ベンデルたちの登場です。階下に何者かが入ってきたことを察した犯人はひとまず手に付いた血をハマースミスの服で拭き取り、ナイフを放置し、本体の置物はもとからあったかのように書斎机の上に置いて、そこから逃げ去りました。おそらく2階のテラスから外へ飛び降りたのでしょう。血の付いた凶器を持ち去ることも、その対となる置物を包み直して持ち去る時間はありませんでした。犯人はモットーだと思っています。モットーがハマースミスに関する情報を流していたのは、盗賊にあるものを盗ませたかったからなのです。そして思惑通りに盗ませることができたうえに、抵抗のできないハマースミスが転がっていた。モットーがその場に居合わせたのは偶然でしょうが、彼はそれを絶対の好機と捉えて犯行に及んだ。そうすれば、盗賊に盗ませた品物の情報も憲兵に伝わらないと思ったからです」
レトはそこで大きく息を吸った。
「モットーが考えたのは、盗賊たちは盗品を闇市場へ流して金に換えるだろうということ。自分はそこへ客として赴き、狙う品を買い取れば自分は盗みを働かずに品物を手に入れられる。その場合、ハマースミスは生きていて、盗賊の被害を訴えるだけで、自分に余計な疑いが向くことはないと踏んでいたのでしょう。つまり、初めハマースミス殺害計画は存在していなかった。最初からそのつもりなら、盗賊をけしかけるなんて手を使わずに、自分でハマースミスを殺害し、品物を強奪していたはずだからです。
ところがモットーの目論見はおかしな方向へ進んでいきました。闇市場で、ハマースミスの持ち物が売られていたにもかかわらず、肝心の目的の品が売られていなかったのです。まさか、そのとき、ベンデルが魔法の力で封印された箱を開けようと考えるなんて予想できなかったのです。そうです。モットーが狙っていたのは『エリファス・レヴィの小箱』と呼ばれる魔法の箱です」
「『エリファス・レヴィの小箱』だって?」ベル・ブラウニーは大声をあげた。
「ご存知ですか?」
「知ってはいるが、あれはいろいろ問題のある道具で……」
「そうですね。あの箱は危険な魔法が仕込まれているうえに、扱いの難しい点があります。モットーはその箱に隠された物に用があったのです」
「それは何ですか?」ベル・ブラウニーが尋ねた。
「それについては、ハマースミスが何者かという説明をしなければなりません。ハマースミスは高利貸しでありますが、奇妙な高利貸しでした。詳細は伏せますが、地位や身分が高く、金銭的に困っているとは思えない方々ばかりです。彼らは高利の借金をし、決まった利子をつけて期限内に返済をしています。帳簿上で問題はありませんが、なぜ、お金に困っていない人が高利の借金をするのでしょうか?」
レトはそこで話をやめて周りを見回した。今度はベル・ブラウニーも発言しようとしない。
「答えは『恐喝』です。ハマースミスは狡猾な方法で人々からお金を脅し取っていたのです。その方法は単純です。ハマースミスは偽の借用書を用意します。脅されている人物は利子の金額を支払います。そうすれば、書類上では確かな金銭の移動が行われたことになります。税関係の調査が入っても、金銭の移動そのものに矛盾がないから疑われない。ハマースミスは実際にお金を貸すことなく、利子だけ手に入れる金貸しをやっていたんです。もちろん金貸しという看板を掲げている以上、本当の金貸しも行なっていましたが、あまりに高利なので固定客はついていません。つまり固定客はハマースミスの被害者ということなのです。さて……」
レトはくるりと身体の向きを変えて、ある人物に話しかけた。
「ハマースミスに恐喝され、その元となる証拠の入った『エリファス・レヴィの小箱』を奪い取りたいと考えた人物。マンセル・モットーとはあなたのことですね」
レトが話しかけた人物は、マントン商会の代表、モール・マントンだった。
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「あなたはハマースミスに高利の借金を繰り返していました。それはあなたが本当はマンセル・モットーだったからです。そして、『エリファス・レヴィの小箱』にはその証拠が入っている。おそらく、ハマースミスはあなたにそのことを教え、さらに箱の恐ろしさも教えたのでしょう。本来であれば、あなたはハマースミスを殺し、箱を奪いたかったに違いない。でも、あなたにはそれが困難だった。なぜなら、あなたの左手首には大きな瘤があって、初めて会って話を聞いたときも痛そうにさすっていました。あれは『痛風』による瘤ですね? あなたが左手首を痛めている事実は、今回、この商会を襲撃した者からも聞いています。あなたの部屋にある書斎机の引き出しからは関節痛の薬が入っていましたから。あなたは片腕が痛みで使えないから、自分でハマースミスを殺す自信がなかったんです。それはハマースミスの殺害方法にも表れています。両手で首を絞めれば殺せたはずのハマースミスをわざわざナイフで殺したのは、片手で行なえるからです。逆に片手でないと犯行が行えないから、借金の形のふりとして持参した置物に仕込まれたナイフを使わざるを得なかったんです。屋敷に出入りしていた人物で、元妻のアジャーニ・パルマさんは両手が自由でした。家政婦のカミラ夫人も両手に不自由な点はありませんでしたし、彼女はハマースミスの書斎に凶器として使える刃物類があることも把握していました。わざわざ使い勝手の悪いペーパーナイフを使用する理由はありません。念のため、あなた同様に恐喝されていると思われる方々の両手の状態を確認したところ、両手、あるいは片手が不自由な人物はひとりも『該当なし』でした。つまり、あなただけがあの凶器を使用するしかない人物だったのです」
周りはしんと静まり返っている。レトの話を誰もが固唾をのんで聞き入っているのだ。
「話を戻します。あなたは闇市場で『エリファス・レヴィの小箱』を手に入れることができなかった。目論見が外れて困っているところに、ベル・ブラウニーさんから意外な報告を受けることになります。ベンデルがこの商会に盗みに入ろうと計画している話です。『エリファス・レヴィの小箱』を手に入れられるかはわからないが、自分を守る手として使えるかもしれない。あなたは僕たちにベンデルの企みを阻止させ、同時にベンデルから箱を奪う可能性を探った。それは、ベル・ブラウニーさんから聞いた犬型ゴーレムです。その犬型ゴーレムは犯人の追跡に使えるよう開発中のものでした。ただし、燃料にあたる魔法消費の燃費が悪いという問題点がありました。そのため、逃走したベンデルを犬型ゴーレムに追跡させたのですが、途中で燃料切れになって動かなくなったんです。それがたまたまノルドン氏という魔法鍵師の店の前でした。ただ、犬型ゴーレムは動作停止する前に、店の壁にx状の傷をつけてベンデルが立ち寄ったことを知らせています。そこであなたは店に入ったところ、ノルドン氏が『エリファス・レヴィの小箱』を手にしているのを見てしまった。魔法鍵師の手にあれば、いつか箱が開けられてしまう。焦ったあなたはノルドン氏に襲い掛かり、片手でノルドン氏の頭を机の角に叩きつけた。動かなくなったノルドン氏をそのままにして、あなたは箱を持ち去ったのです。犬型ゴーレムも立ち去る際に回収したのでしょう。店の前を通りかかった人物から犬の死骸があったという証言がありましたが、それは燃料を使い果たして動かなくなった犬型ゴーレムのことだったんです」
そこでモール・マントンに動きがあった。やれやれというように両手を挙げてみせたのだ。
「君の話は物語としては面白いと思うがね。まったくのでたらめだよ。第一、全部状況証拠の話であって、直接的な証拠は何ひとつ提示されていない。そんな話だけで私を裁きの場へ連れていくことはできないと思うのだが」
レトは唇の端を噛みしめた。やはりそう来たか。
「証拠は今探しています。間もなく見つかるでしょう」
そこへちょうど事務所の奥からひとりの男が現れた。憲兵に連れて来られた魔法鍵師の男だった。
「最上階の金庫を開けました。中にはこれが」
男の手には中心の宝石が赤く光る『エリファス・レヴィの小箱』があった。
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周囲からはどよめきが起こった。レトの言う証拠の品が現れたからだ。しかし、モール・マントンはそれを見ても動じる様子がなかった。
「私はいろいろな魔法道具を収集して、商品に生かしている。それは以前から私のところにあるものだよ。『エリファス・レヴィの小箱』は複数あることは知っているね? この箱はずっと私のものなのだよ」
「あなたにそれを証明することはできますか?」
モール・マントンは鼻で笑った。
「私が証明する必要はない。証明するのは君のほうだ。この箱が私のものでないということを」
「では、ここであなたが箱を開けてください。あなたが所有者であるなら開けることができるでしょう?」
「最初に申し上げた。捜索の権限外については拒否させていただくと。あなたがたはこの箱そのものを探す権限はあるだろうが、箱を強制的に開けさせることはできない。なぜなら、この箱には私の個人的なものが保管されているからだ。私の人権を侵害してまで箱の中身を調べる権限はあなたがたにはないはずだ。違うかね?」
ふたりはじっと無言で向かい合った。モール・マントンは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。「さぁ、どうかね?」
「では、僕がこの箱を開けてみせればいいでしょうか? あなたしか開けられないはずの箱を開けることができれば?」
「できるものなら。もし、それがハマースミス氏の箱であるなら、ハマースミス氏しか開けられない。君ではどうしようもないのだよ。わかるかね? もう詰んでいるのだよ、君は」
「今、たしかに『できるものなら』と言いましたね。それは許可したと解釈されますが」
「たしかに言ったが、この箱を持ち帰り、魔法鍵師などの手で開けることは認められない。断固拒否する。開けられるものなら、ここで開けてみせろと言ったまでだ」
「わかりました」
レトがあまりにもほっとしたような口調だったので、モール・マントンは面喰った表情になった。
「では箱を開けてみせましょう。どうぞ入ってください」
レトは事務所の扉に向かって大声をあげた。すると、入り口から魔法使いの格好の少女が、ほっそりとした少女をともなって入ってきた。メルルとティルカだった。
「ティルカさん。お願いします」
レトは箱をティルカに手渡した。モール・マントンは目をぱちくりとさせている。
箱を受け取ったティルカは両手で箱を手にしたまま、ほんの少し無言だった。箱の中心のルビーは青く輝いている。
ティルカはつぶやくように箱にはなしかけた。
「合言葉は『エルピス』」
ティルカの言葉と同時に箱は輝きを増し、赤い輝きは白いものへと変わっていく。あまりの輝きで事務所にいる者は誰もが両手で光を遮るようにして様子をうかがっていた。
「『エルピス』……。魔法の言葉で『予兆あるいは希望』……」レトが誰に言うともなくつぶやくのがメルルに聞こえた。
箱の輝きは間もなく弱まっていき、蓋と本体の間に吸い込まれるようにして消えていった。やがて箱からカチリという音とともに蓋が持ち上がっていった。箱が開錠されたのだ。
「ば、ば、バカな、バカな、バカなあああああ!」モール・マントンは絶叫した。何が起こったのか理解できないようだ。
「この箱はハマースミスのものではなく、魔法鍵師ノルドン氏所有の箱だったんです」
レトはモール・マントンに説明するように言った。
「そして今、この箱を開けたのはノルドン氏の娘、ティルカさんです。『エリファス・レヴィの小箱』は所有者をふたりまで設定できる仕組みなのです。ですから、ノルドン氏の娘であるティルカさんも開けられたのです。あなたはさっき言いましたね。『エリファス・レヴィの小箱』は複数あると。おっしゃる通り、この街には『エリファス・レヴィの小箱』はふたつあったんです。あなたはベンデルが立ち寄った魔法鍵師の店に『エリファス・レヴィの小箱』を見たので、それがハマースミスのものだと早合点してしまった。ハマースミスが所有していた箱はこちらの手元にあります。中はマンセル・モットーの手による手形詐欺の証拠でした。手形のサインと、こちらの書置きの筆跡を比べて、あなたのものであることは確認していますよ」
レトは懐から古ぼけた手形と、それとは違う紙きれを取り出した。それはハマースミスの屋敷にモール・マントンが残した、あの手紙だった。
「犯行時に逃げ出した後、あなたは不安になったのでしょう。あなたは2階には行かなかった、だから殺害事件とは無関係だと取り繕っておきたかったのでしょう。そこであんな手紙を残しに戻った。ですが、あれがやり過ぎだったんです。高利貸しにあんな手紙を残したって、利子をおまけなんてしてくれるはずないでしょう。あの手紙があまりに不自然過ぎたので、最初からずっと僕の心に引っ掛かっていたんです。やり過ぎと言えば、ベル・ブラウニーを通じて証言した、殺人現場でベンデルとすれ違ったという話。あれも失敗です。ベンデルがハマースミスの屋敷に現れたのは午後8時半頃のことです。子分が証言していました。そして、あなたがハマースミスの屋敷を訪れたのは8時頃のはずです。そして、すぐ立ち去ったと。時間が合わないんですよ。もし、あなたがハマースミスの屋敷を訪れたとき、2階に上がらず、両手を縛られたハマースミスを見つけて、尋問を行ない、目当ての箱が盗まれたのを確認した後で殺害するなどという時間のかかることをしていない限りはね」
モール・マントンは完全に打ちのめされていた。がっくりと両膝を床に落として、そのままで放心している。憲兵が両脇から抱えるようにして立たせた時も、力なくされるがままだった。モール・マントンは憲兵によって連れていかれた。
「事件解決ですね、レトさん」
メルルがレトに駆け寄って明るい声をかけた。
「まぁ、こちらはね」
レトはうなづくと、ティルカに顔を向けた。ティルカはこの騒ぎの中、じっと箱を見つめた姿勢のまま立っている。
「次はこっちだ」
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「賭けに勝ったな、レト」
所長はどんとレトの肩を強く叩いた。レトは身体をかしげながら、「ええ、まぁ……」と苦痛に顔をゆがませた。
「マントンはそんなに手形詐欺の証拠を消したかったのかねぇ」
ヴィクトリアはわからないというふうに両手を挙げた。
レトたち一同は探偵事務所の会議室に集合していた。事務所の面々以外にはティルカとアメデ隊長をはじめとするトランボ王国特務隊の隊員の姿もある。ノルドンの箱の中身はここで確認しようということになったのだ。全員、会議用テーブルを囲んで座っていた。
「マントンはマンセル・モットーと名乗っていた頃は詐欺であちこちから金を巻き上げていたようです。モール・マントンと名乗り、マントン商会を立ち上げてからはまっとうな商売で名を上げてきました。そんな彼にとってマンセル・モットー時代の過去は忌むべきものでしょう。それにその過去が暴露されると商会は終わりです。誰も手形詐欺の常習犯と取引なんてしません。たとえ、それが昔の話だったとしてもです。そんな破滅を避けるため、マントンは言われるがままに口止め料を利子の形で払い続けていたんです」
「動機の件は理解できたけど、あなたはどうして『エリファス・レヴィの小箱』がマントン商会の代表の金庫にあるって考えたの? あんな箱、運河に捨てるなり、燃やしてしまうなりすればいいでしょうに」
ヴィクトリアはもっともな疑問をぶつけた。レトはメルルが差し出したカント茶の入ったカップに口をつけると答えた。
「僕にとって、それが一番の賭けでした。マントンが箱を奪った後、その箱をどうするか、いろいろ可能性を考えたんです。一番手っ取り早いのが運河に捨てる方法。それに箱ごと燃やして証拠を消してしまう。どちらも可能性は高いかと思ったんですが、箱の製作者は伝説的な魔法使い、あのエリファス・レヴィです。もし、いずれかの方法を取ったときに何らかの魔法攻撃をされるかもと考えたら、そんなことはできないんじゃないですか?」
「箱の仕掛けの正体がわからないのに、うかつな真似はできないわよねぇ」
「そうなれば、ひとまず隠すしかありません。ですが、魔法の箱なんて代物を隠すうってつけの場所なんて、そうそうあるもんじゃありません。無難かつ、そこにあって自然な場所は代表室の金庫の中でしょう。結果、箱は金庫の中にあり、僕は賭けに勝ったと思いました」
「賭け、というより推理よね、それ」ヴィクトリアは感想をもらした。
「でも、見つかった箱が本当にマントンの持ち物だったらどうするんですか? ティルカを殺してしまうかもって考えませんでした? それともそれも『賭け』だったんですか?」
メルルがにこりともせずにレトに尋ねた。もし、レトが賭けでティルカを危険な目に遭わせたのなら承知しないと言いたげな目だった。
「ああ、あれは賭けでも何でもない。もし、マントンが自身で言っているように、ハマースミスが持っているのとは別の『エリファス・レヴィの小箱』を持っているのなら、盗賊をけしかけたりせずに、自分の箱とこっそり取り換えてしまえばいいんだ。そうすれば、もし、ハマースミスが箱を開けようとしたら、箱の魔法でハマースミスを殺せるし、証拠になる箱も回収できて一石二鳥だ。ハマースミスは屋敷に鍵をかけないぐらい無防備なことをしていたんだ。こっそり忍び込んですり替えるなんて簡単な話だろ? それをしなかったってことは、マントンはもともと『エリファス・レヴィの小箱』を持っていなかったってことになるのさ」
「レトさんのそういうお見通しってところ、好きじゃないです」
メルルはぶすっとして、ふくれ面をした。食えないひとだ、本当に!
「だから、ティルカさんに箱を開けてもらったのは、全く危険がないってわかっていたからだよ。信じてもらえるかい?」
メルルが驚くほど、レトは優しい声で笑顔も見せた。いつ以来かわからないほどの笑顔だ。
「箱と言えば、そんな無防備な屋敷に放置されていたのなら、それを盗んでしまえばおしまいじゃないの? マントンはなぜ、そんな簡単なことをしなかったの?」
ヴィクトリアはレトと同じようにカント茶を口にしながら尋ねた。周りの者も同様にうなづいた。
「ハマースミスの心理戦にやられたのです。箱に証拠を入れてあると言われても、それが本当なのか開けてみるまではわかりません。もし、ハマースミスの脅しが嘘で、実は証拠の入っていない箱を盗んでしまえば、ハマースミスによって証拠とともに告発されてしまいます。簡単に開けられる箱であれば、その場で確かめればいいのですが、『エリファス・レヴィの小箱』はそんな生易しい代物ではありません。ベル・ブラウニーさんもご存知でしたから、マントンも『エリファス・レヴィの小箱』の手ごわさを十分に認識していたはずです。マントンの大げさすぎるとも言える一連の行動は、それが理由だと思います」
レトの説明に一同はようやく得心がいったようにうなづいた。ハマースミスと『エリファス・レヴィの小箱』をめぐる事件はこうして解決された。
「それで、うむ……。我々をここへ呼んだのは、そちらのティルカさんのことだと聞いているのだが」
事務所の連中で勝手に盛り上がっている様子に、アメデが遠慮がちに声をあげた。
「ああ、どうもすみません。箱の中身をすぐティルカさんに確認してもらおうと思っていたんですが、実は……」レトが謝ろうとすると、ティルカがそれを遮った。
「私が皆さんと一緒に確認したいと言って、箱を開けていないんです。なんとなくですけど、そうしたほうがいいと思って」
「そ、そうであったか。では、我々もこうして参上したわけだし、箱の中身を確認してはいただけないかな?」
「わかりました」
ティルカはうなづくとテーブルの上に置いてあった『エリファス・レヴィの小箱』に手を伸ばした。役割を終えた箱の宝石は警告の光を放つことがなく、ありきたりの宝石箱のようだ。ティルカは蓋を開けた。
箱には数枚の紙が入っていた。「父さんからの手紙ですね」ティルカは取り出した紙を見ながらつぶやいた。箱の中身はそれだけではなかった。箱の底からは布の塊らしいものが顔をのぞかせた。
「これは……?」ティルカが持ち上げてみると、それはかわいらしい産着だった。
「アメデ隊長、確認していただけますか?」
レトに促されて、アメデは会釈して、ティルカから産着を受け取った。産着を手に取ると、ひっくり返したり、襟元に目を近づけたりして、真剣な表情であらためた。やがて、ふううと深いため息とともに産着をテーブルの上に載せた。「間違いない」
「確かですか?」
「双子で生まれることは出産前には判明していたので、産着は姉妹お揃いになるよう特別にあつらえさせているのです。上等な布も使用し、当時としてはかなり贅沢なものでしてな。特別あつらえだからこそ、ほかの産着にはない縫い方の跡があって、素人目にもわかりやすいのです。しかもワシはこれの判別ができるよう、しっかり頭に叩き込んでから任務についていますでな。さすがに見間違えようがない」
「……そうですか、ティルカさん。あなたの身元が確認できましたよ。あなたは……」
言いかけて、レトは口をつぐんだ。ティルカが周りのことなどまるで耳に入らない様子で手紙を読みふけっていたからだった。読んでいるティルカの手がわずかに震えていた。手紙はノルドンの告白の手紙だった。
――私の大切なティルカへ。
もし、お前が私から何も聞かずにこの手紙を読んでいるのであれば、私は結局、お前に直接告白しなかったということになる。そうであれば、何とも恥ずかしい限りだが、私はとにかく臆病な男だ。この手紙も何度も書き直して、ようやく今の形になった。それぐらい、これから伝える事実をお前に知られるのが怖かった。だが、真実を知り、お前に憎まれたとしても、当然のことと受け止めるつもりだ。この手紙はそんななけなしの覚悟で綴っている。
本題に入る前に、まず私のことから告白しよう。そのほうが後の話がわかりやすくなるだろうから。
私はかつて、トランボ王国の王立魔法学院で研究員として働いていた。既存の魔法術式の解析、新しい魔法術式の開発、または改良。現在、王都メリヴェールで魔法鍵師として働いているが、その技能はそのときに培ったものだ。研究員である一方、後進の育成として、教師としても働いていた。お前にも指摘されたが、教えるほうはさっぱりの教師だった。それでも、そのころの私は日々充実していた。好きな研究に打ち込み、教師として人々から尊敬を集め、妻を娶り、家庭もできた。私には娘がひとりいた。名前はティルカという。しかし、このティルカはお前のことではない。実は、私とお前との間に血のつながりはないのだ。ここで伝えるのはその話だが、もう少し私の話を続けよう。
私は典型的な仕事人間だった。朝早くに出勤し、授業を終えると、夜遅くまで研究室にこもる毎日。当然、家庭を顧みることなど全くなく、娘の面倒は妻に任せきりだった。本当にどうしようもない夫で、父親だった。今でも、当時のことを思い出すと胸を引き裂きたくなるほどの後悔に苛まれる。
ある日のことだ。私が報いを受ける日がやってきた。娘が突然死んだのだ。原因はわからない。ただ、医者は乳児には何人かにひとりにあることだと、まるで珍しくないといわんばかりだったことは覚えている。遺体安置所で会った妻は憔悴しきっていた。誰の目にも一番つらい思いをしているのは明らかだった。しかし、当時の私はそれが許せなかった。私は妻をなじった。なじって、なじって、なじり続けた。妻はひとことも言い返さなかった。いや、言い返す気力も私が奪い去ったのだと思う。娘を葬った翌日、妻は出て行った。それきり二度と会うことはなかった。数年後、彼女が実家で自らの命を絶ったことを知った。罪深い話だが、そのころの私は、その知らせを聞いても何の感情も湧かなかった。すでに私はすべてのことに気力を失い、研究室に足を運ばず、授業も行わなくなった。療養を勧められたが、私は退職するほうを選んだ。何もかもが空虚だった。仕事人間だったはずの私がこうまで動揺したのは、自分でも意外だった。思えば、すでに私は娘に依存して生きていたのだ。娘がいればこそ、私は猛烈な『仕事人間』を演じられたのだ。娘を妻に任せっきりにしておきながら、そんな自分にひとり悦に入っていたのだ。だからこそ、娘を失った私はその土台を失い、呆然としてしまったのだ。あのとき、たしかに私は死んでいた。
学院を退職してからは、別の職にもつかず、ただ自堕落な日々を過ごした。酒の飲めない体質のせいで、酒浸りにはならなかったが、気付けば私は盗賊になっていた。『イボック盗賊団』という凶悪な連中で、盗みのためなら何でもするという、堕ちた人間のたまり場だった。私はそんな集団に、まるで引き寄せられるように仲間になったのだ。
盗賊としての生活に、何の思い出もない。ただ、魔法で封印された扉や金庫を解いていくだけのことだ。盗賊団にとって、私の技能は重宝された。そういうこともあって、私はしばらくそこで過ごしていた。
盗賊団では誘拐や殺人を目撃することもあった。ただ、感情が死んでいた私は、そのことに何も感じていなかった。私自身が人を殺めることはなかったが、止めに入ることもしなかったから同罪だ。私はそこにいる間、ただ罪を積み重ねていたのだった。
いつのことだったか正確には思い出せない部分がある。ある日、病院を襲撃した連中が数名の赤ん坊を連れて帰ってきた。これまでも誘拐した者を、人買いに売り飛ばしたりしていたので、誘拐そのものは珍しいことではなかった。しかし、まだ起き上がることもできない乳児をさらうのは理解できなかった。それでは奴隷としても使えない。いったい、なぜ、こんなに赤ん坊を連れ去ったのか仲間に尋ねてみると、仲間は笑って答えてくれた。何でもどこかの魔術師が禁術の研究に、いけにえの赤ん坊を必要としているという話だった。集められた赤ん坊はそのためのものだったのだ。ただ、そのときの私は、話を聞いても、『そうなのか』と納得したぐらいで、それ以上の考えも感情も浮かんでこなかった。
だから、私が赤ん坊を寝かせている部屋に入ったのは、ほんの気まぐれのことで、明確な関心も持っていなかった。寝ていた赤ん坊の何人かは乳を求めて泣きわめいている最中だった。ある赤ん坊は私の顔を見るなり泣き出した。そんな中でひとりの赤ん坊に目が留まった。その赤ん坊は泣き出したりせず、周りを興味深げにきょろきょろ見回していた。私と目が合うと、まるで親に会えたかのように笑顔を向けたのだ。それがティルカ、お前だった。私がおずおずと手を差し伸ばすと、それを求めていたかのように小さな手で私の指をつかんだ。その力強さに私は戦慄した。そのときになってようやく、私はとんでもない現場に居合わせていることを悟ったのだ。私はそのとき、この盗賊団を抜けることを決意した。そう、あのとき、お前が私を生き返らせてくれたのだ。
盗賊団を抜けるにあたって、赤ん坊たちをそのままにして逃げ出すことはできなかった。しかし、誰にも気づかれずにすべての赤ん坊を連れ出すのは私には不可能だった。私の顔を見ただけで泣き出す赤ん坊や、ただただ泣き止まない赤ん坊は、やむをえず置いていくしかなかった。私は両腕に抱えられるだけの赤ん坊を連れて、この悪魔のような集団から逃げ出した。ティルカ、その時のお前はまるで恐怖を知らずに、ずっと笑顔だった。だからこそ、私は歯を食いしばって逃げ続けた。決して、この笑顔を失ってはいけないと思ったからだ。私はやみくもに逃げたわけではなく、ギデオンフェル王国を目指していた。同盟国であるという間柄のおかげで、通行証なしで国境を越えることができるからだった。国が違えば、奴らの目に留まる危険も減るだろうと思ったのだ。しかし、逃げはじめたときは大人しかった赤ん坊たちも時間が経つにつれて、お腹をすかせて泣き出すものが現れた。大声で泣いている赤ん坊を連れて逃げ続けるのは不可能だと考えた私は、途中で通りかかった教会の戸口の前に赤ん坊を置いていくことにした。捨て子と同様に保護してもらおうと考えたのである。すべての赤ん坊を並べ終えると、これまでずっと静かだったお前が急に泣き出した。まるで置いて行かれることを悟ったかのように。私が慌てて抱き上げると、不思議なほどすぐに泣き止んだ。道中、お前とは離れ難い思いでいただけに、この出来事はお前だけを連れて逃げることを決意させた。こうして、私はお前だけを連れて国境を越えたのだ。
新しい国での生活は、残念ながらまともな生活ではなかった。私はここでも盗賊として生きていたのだ。一度道を踏み誤った者が、まともな人生を歩むのは、相当に困難なことだ。私はこの国でそれを思い知らされた。ただ、盗みでもしなければ生きてはいけない。しかも幼い赤ん坊も食わしていかなければならない。私はそれを言い訳に、盗みをはたらき続けた。お前には『ティルカ』と名付けた。特に理由は思い浮かばない。無意識のうちにかつての罪滅ぼしの気持ちが湧き上がったのかもしれない。やがて、お前が自分で立ち上がるようになり、さらに木登りができるようになった。それを知った私は――ここでも自分が恥ずかしくなる――私はお前に盗賊の技術を教え始めていた。身体の小さなお前を高い所の小さな窓に潜りこませ、玄関の鍵を開けさせるという手口で、あちこちの屋敷で盗みを働いた。盗賊家業に慣れていた私は、それ以外に食っていく術が思いつかなかったし、そのことに何の考えも浮かばなかったのだ。だが、そんな私の目を覚まさせてくれたのも、お前だった。
お前は覚えているだろうか。たぶん、お前が7歳ぐらいのことだ。ある屋敷で盗みをはたらいた後、その屋根の上でふたり夕日を眺めていたことがあった。そのとき、お前は私に振り返って、『楽しいね、父さん』と言ったのだ。夕日の逆光でお前の表情は良く見えなかったが、私はその言葉にハッとさせられた。私はただ生きるために盗みを繰り返していた。楽しいなどと考えたことすらなかったのだ。それをお前は『楽しい』と言った。まだ善悪のつかない時期の娘に、私は盗みを遊びのようにさせていたのだ。今でも自分の罪深さを思い知ったときの恐怖が忘れられない。私は思わずお前を抱えて、その屋敷から逃げ出した。そして、二度と盗みはしないこと、娘にまともな生活を送らせることを誓った。忘れかけていた技能を学び直し、魔法鍵師になったのはそうした経緯だ。何となく、お前も覚えていることだろう。ただ、魔法鍵師になる決意をさせたのはお前の純粋さだ。その純粋さを汚したくない一心で私は本気で生まれ変わった。そう、10年以上かけて、私は真人間に戻ったのだ。ただ、それは私ひとりの力ではない。すべて、お前がいたからこそだ。これまでもずっと気にかけていた。私がお前を引き留め続けていることを。トランボ王国へ戻り、奴らが襲った病院を探し出し、本当の両親にお前を返す。それが私のするべき当然のことだった。しかし、そんな簡単なことができなかった。いや、したくなかった。すでにお前は私の人生の中心になっていた。自分勝手なことだと頭では理解できても、お前を手放すことはできなかった。もし、そうすれば、私は再び死人同然になってしまうだろう。それは実際に死ぬよりも恐ろしいことだった。私はその恐怖のために、答えのわかりきったことに答えを出せずにいたのだった。
お前はますます美しく、そして優しい娘と育ってくれた。やがて、当たり前のように自立して巣立っていくだろう。そのときまで引き留めることができれば私としては何も言うことはない。しかし、これはあくまで私個人の勝手な話だ。お前はいち早く本当の両親を探し出し、自分の無事を伝えるべきなのだ。時間が経つほど、その機会は難しくなる。こんなことを本当は私に言う資格はない。事態を悪化させてきたのは、この私自身なのだから。だから、この告白によって、私は許しを請うつもりはない。許されるつもりもない。ただ、お前の優しさにすがれるのであれば、これを読んで私から離れる気になったら、私には何も告げず立ち去ってほしい。真実を知ったお前と顔を合わせるのはやはりつらいからだ。ただ、これだけは信じてほしい。とことん堕ちた私をここまで引き上げてくれたお前にはずっと感謝し続けている。そんな私が願うのはお前の幸せ、ただそれだけだ。
もし、お前が両親を探すことになったら、手掛かりになればと当時お前が着ていた産着を同封しておく。すまないと思うが、私が提示できる手掛かりはこれだけなのだ。それでも、それが本当の両親のもとへ導いてくれるよう私は本気で祈っている。信心の薄い男では効果があるか疑問ではあるが。
改めて願う。これからのお前の人生が幸せに満ちたものであることを。一生の感謝をこめて。
ノルドン・ハーマイン
手紙を読み終えたティルカの両目から涙が頬を伝って滴り落ちていた。
「本当に馬鹿な父さん……。そんなことを知ったからって、父さんの娘を私が辞めるはずないのに……」
ティルカは手紙を握りしめ、声をこらえて涙を流し続けた。メルルはどうすることもできずに、ただそばにいるだけしかできなかった。
48
ティルカはいったん自宅へ戻り、支度をして翌朝再び病院へ向かうことになった。明日、ノルドンを荼毘に付し、そのままアメデたちとトランボ王国へ向かうのだ。ノルドンが望んだ、実の両親のもとへ帰ることになる。
事務所の外でティルカたちを見送ったレトは、表に見慣れた人影を見つけて歩み寄った。向かいの建物の陰に隠れるように、そっとこちらをうかがっていたのである。
「よう、レト。今回はお疲れさん」人影は、銀色の仮面を被ったルッチだった。
「ティルカはトランボ王の娘、オードリー王女でした」
「そうだってな。さっき所長から聞いたよ。本人はどういう反応だった? 驚いていたか?」
「驚いていたのは驚いていましたが、予想より冷静というか、どこか実感がなさそうでしたね」
「無理もない。しかし、トランボ王国も大変だぞ。公表されていなかったもうひとりの王女が現れるんだからな」
「これで彼女が幸せになれればいいんですが」
「少なくとも貧乏からは解放される。それを幸せと感じるかは人それぞれだがな」
「ところで、殿下がここにお越しになったのは何かあったのですか?」
ルッチは壁に背中をつけると空を見上げた。
「お前に会いに来たのさ、レト。ちょっと話があってな」
レトもルッチの隣に並んだ。同じように壁にもたれて空を見上げる。
「何ですか、話って」
「ひとつめは大した話じゃない。アメデ隊長がお前の剣を褒めていたよ。抜群の戦闘勘だってな。ただ、お前、以前よりちょっと身体が大きくなったんじゃないか? アメデ隊長はお前の剣にどこか窮屈さを感じたって言ってたよ。お前は戦争当時の剣技で戦っている。あのころより身体が大きくなったのなら、それに応じた剣の使い方に調整したほうがいい。アメデ隊長はそう伝えてほしいって言ってたんだ」
「達人からの忠告、しかと心に刻んでおきます」
「それと……、これもアメデ隊長から聞いたんだが、お前、アメデ隊長との戦いで『左手』を使ったな?」
レトは無言でうなづいた。
「アメデ隊長は鎧の性能だと勘違いしていたが、俺はそうじゃないことを知っている。『左手』の能力を使ったんだってことをな」
「『左手』の力を解放したわけではありません。『左手』本来の力だけで戦いました」
「……まぁ、お前がそう言うのなら信じるが。ただ、気をつけてくれよ。もし、お前が『左手』に飲み込まれでもしたら」
「そうならないようにします。信じてください」
ルッチはもたれていた壁から身体を離すと、レトに身体を向けた。
「俺はお前を信じているさ。ただな、万一、万一のことが起こったら……」
「そうなったときの覚悟はできています」
「いいか、俺に『親友を討て』なんて命令を出させるなよ」
ルッチはその場を立ち去った。レトは無言で自分の左手を見つめた。左手は相変わらず身体に不釣り合いなほど大きな鎧で覆われている。
「万一なんてことは起こさない。僕は飲み込まれたりなどしない……」
レトは小声でつぶやいて、再び空を見上げた。
49
メルルはベッドの中でごろごろ寝返りしながら、眠れない夜を過ごしていた。
ティルカといろいろと話をしたかったが、ティルカは大勢のひとに囲まれて、その対応で手いっぱいの様子だった。おかげで別れるまで声をかけるきっかけすら見つからなかったのだ。ティルカは明日、王都を離れてトランボ王国へ行ってしまう。ティルカがトランボ王国の姫君なんて今でも信じられないことだが、周りの騒ぎぶりを見ると、信じるしかない。メルルは父親を失ったティルカのこれからを心配していたから、ティルカがお姫様として迎え入れられるのは願う以上のことだ。しかし、一方で何とも言えない寂寥感に襲われる。ティルカと過ごした日々はほんのわずかでしかなかったが、今まで持ちえなかった友愛をティルカに抱くことができたのだ。まだ、ティルカは王都にいるのだが、心にぽっかり穴が空いたような気持ちだ。
明日はきっと忙しくなる。事件解決と言っても、事務処理的なことは全部明日回しにしてしまっている。明日が来るのが憂鬱だ。でも、寝不足の状態で書類関係の仕事なんて危なっかしいことはできない。早く睡眠を取らなければ……。日頃は寝つきがいいはずなのに、全く眠りに落ちてくれない自分自身に苛立ってしまう。これではますます眠ることができない。メルルは枕を自分の頭にかぶせて、無理に目を閉じた。
どれだけ時間が過ぎたのかわからない。いっこうに眠りにつけない自分自身に、メルルはすっかりげんなりしていた。そのおかげでしばらく窓をコツコツと叩く音に気付いていなかった。
コツコツと叩く音は規則正しく続いている。ようやく、音に気付いたメルルはベッドから跳ね上がると、窓際にそっと歩み寄って外をのぞいてみた。窓の外では、まだ明るい月の光に照らされて、ひとりの少女が窓を叩き続けている。メルルは慌てて窓に駆け寄った。
「ティルカ! どうして!」メルルは窓の留め金に手を伸ばして外そうとすると、ティルカは手を挙げて、それを制した。
「ごめん、窓は開けないで。あなたとはこのままで話がしたいの」
「どうして、入って来てよ、ティルカ!」
「だめ。窓は開けないで」ティルカはそっと窓ガラスを押さえるように両手を押し当てた。決して窓を開けさせまいとしているようだった。メルルは留め金から手を離して、ティルカの言う通りにした。
「ごめんね、メルル。起こしちゃって」ティルカははにかむような笑顔で詫びた。
「いいの。全然寝付けなくって困っていたところだから。ねぇ、ティルカ、どうしたの。こんな夜更けに。明日の準備は終わったの?」
「出かける準備は父さんがしてくれていた。私のほうで準備することなんて何も残ってなかった」
「……そう。明日なんだけど、私はたぶん仕事で……」メルルは見送りに行けないことを伝えようとすると、ティルカはさえぎるように話しかけた。
「メルル、私、これから行くわ」
メルルは言葉を失って、ティルカの顔を見つめた。言われた意味がわからなかった。
「行くって、どこに?」
ティルカは首を振った。
「わからない。でも、とにかくここから遠いところ。私、トランボ王国には行かないと決めたの」
メルルは目を見張った。「トランボ王国には行かない?」
「アメデさんには申し訳ないんだけど、書置きを残しておいた。私は今、オードリーにはなれない。もうしばらくノルドンの娘、ティルカでいたい。だから、皆さんの前から姿を消しますって」
「でも、ノルドンさんはどうするの? 明日、最後のお別れをしなくちゃいけないでしょ?」
「父さんとは、あの安置所でお別れを済ませておいたわ。それに、最後のお別れをしたら、私はそのままトランボ王国へ連れていかれてしまう。ここを離れるには今しかないの」
「ティルカ……」
「だって、急にあなたはトランボ王国の王女、オードリーです。アーニャ王女の双子の姉妹です、なんて言われて、『わかりました。今日から私はオードリーです』って簡単に受け入れられるわけないじゃない。家族のことでもそう。本当のお父さんは私のことを一生懸命探してくれていたのだろうけど、やっぱり実感なんて持てない。アーニャ王女だって急にお姉さんが現れたら、きっとどうしたらいいか困ってしまうわ。だって、私自身が妹に対してそう思うんだもの」
「でも、ご両親はずっとティルカを探し続けていたんだよ! ノルドンさんだって、本当の家族のもとで暮らしてほしいって願っているはずだよ!」メルルは思わず大声になった。
ティルカは小さくうなづいた。その表情は寂しそうな笑顔だった。
「そうね、わかるわ。あなたが言っているのが正しいってことは。それでも、やっぱり、だめ。王国には行けない。私は父さんにしてあげたいこと、何ひとつしてあげられなかった。取り返しのつかない後悔しか、今の私にはないの。今の気持ちのままで、新しい家族と暮らすなんてこと、私にはできない。だから、ここを離れて、一度自分のことを見つめ直そうと思うの」
ティルカの口調は優しいものだったが、強い決意を感じさせた。その気持ちを翻させる言葉を、今のメルルには思い浮かばなかった。メルルはただ、力なくうなだれるしかなかった。
「そんな顔をしないで、メルル。私、ここを離れる前に、あなたにだけはどうしても会っておきたかった。ちゃんとお別れをして出て行きたかったの」
メルルは少し顔を上げた。見ると、窓ガラスに押し当てられた手は握りこぶしに変わって、小刻みに震えている。メルルはハッとして顔を上げた。ティルカは両目に涙をたたえながらも笑顔を続けている。
「ありがとう、メルル。こんな言葉しか出てこないけど、私、あなたには本当に感謝している。ありがとう、私の最初の友だちになってくれて」
「それは私のほうだよ! 王都に来て、あなたが初めての友達なの。私にとって大切な……」
「でも、お別れよ、メルル。その前にあなたにお願いしたいことがあるの」
「お願いって?」
「私の部屋に絵が残っているの。好きなものをもらってくれる? 良かったら全部」
「ティルカ……」
「メルル。私ね、絵を描き続けようと思うんだ。あなたが薦めてくれた公募展に応募することも考えてるの」
「そうだね、続けてよ。私、あなたの絵が大好きなんだから」
ティルカはにっこりと笑った。
「展覧会に選ばれたりしたら、直接会えなくても、私たち、絵で会えるわね」
「そうなったら必ず会いに行くわ。あなたの絵に!」
ティルカはそれを聞くと満足したように瞳を閉じた。口もとに微笑みをたたえながら。
「じゃ、またね。メルル……」
窓の外には、もう誰の姿もなかった。窓の下でうずくまりながら、メルルは嗚咽を続けた。メルルは泣きじゃくりながら言葉を絞り出した。
「本当に、本当に、『またね』なんだからね……」
50
窓ガラスが破壊される音が響き渡った。
破れた窓から狭い路地へ、ふたりの男が転げだした。
「て、手入れだ!」
「どうしてここが?」
「わかるか。とにかく逃げるぞ!」
口々に叫びながら、こけつまろびつ、大通りへ逃げ出そうとする。
しかし、その前にはひとりの少女が立ちはだかっていた。三角帽子に黒いローブ。手には大きな樫の杖。
「な、なんだ。あのちっちゃいのは!」
帽子に隠れた目がきらりと光り、少女は杖を掲げて呪文を唱えた。
「脱力の陣!」
男たちの足元に魔法陣が浮かび上がり、男たちはへなへなと膝から崩れ落ちる。
「ち、力が入らねぇ……」
男たちは地面に這いつくばってしまった。ひとりは顔だけを何とか持ち上げて、少女を見上げた。
「あ、あんた、いったい何だ。何者なんだ……?」
少女は杖ですっと帽子を持ち上げて、顔を見せる。もじゃもじゃ髪の下にくりりとした瞳がのぞいた。
メルルは首を傾けて満面の笑顔で答えた。
「メリヴェール王立探偵事務所のメルルです!」
【あとがき】『メリヴェール王立探偵事務所』をやり始めて、すぐ、最大の弱点にぶち当たった。『夜咲く花は死を招く』は当初、探偵役のレトが主人公だったが、彼では個性に乏しく、面白みに欠けていたのである。ワトソン役のメルルのほうが感情豊かで感情移入もしやすい。そこで、急遽、メルルを主人公、レトは準主役に「降格」することになった。『パンドラの箱に希望はない』はメルルが主人公であることを改めて明確にするべく描いた物語である。レトのような人物ではティルカと心を通わせることは難しい。その点ではメルルはその役割を果たせたと思っている。この作品では、いかにキャラクターの描き分け、そして内面への掘り下げができるか。そこを重点的に考えて取り組んだ。その分、ミステリとしては弱い内容のものになったかもしれない。一方で、ティルカやノルドンの絆の物語。皮肉屋っぽい悪役ベンデルのふてぶてしい駆け引きなど、物語としての面白みは濃くできたと思う。当初は10万字程度と考えていたが、どの登場人物も掘り下げるように描いたため、倍のボリュームになってしまった。かかった時間も倍である。産みの苦しみを味わった分、個人的には思い入れのある作品となった。読者にとっては必ずしもそうではないということが、相変わらず課題ではあるのだが……。