パンドラの箱に希望はない 6
Chapter 6
34
ほうほうのていでレトから逃げ出した三人組は、ようやく自分たちの宿に戻ってきた。わざわざ遠回りして戻ってきたわけだが、それだけ時間をかけた甲斐があったと言うべきか、口ひげ男も意識を取り戻し、自力で歩くことができるまでになっていた。
レトにしてやられたことがよほど腹に据えかねたのか、男たちは皆しかめ面で無言だった。レトにあごを切られた男は、どこかで絆創膏を手に入れて貼り付けていた。ひとりが疲れたようにため息をつきながら部屋の扉を押し開いた。
扉を開けると、正面には長いソファが据え置いてあったが、そこには顔の上半分に銀色の仮面をつけた男が足を組んで座っていた。三人の姿を見ると、「やぁ、やっと戻ってきたか」と言って笑顔を見せた。
「な、何者!」三人は部屋になだれ込むと、仮面の男に剣を突きつけた。仮面の男は「まぁ、慌てんなよ」と鼻先に突き付けられた剣を指でどかした。
「久しぶりだな、アメデ近衛隊長殿。……いや、今は特務隊隊長殿とお呼びするべきだったか」
口ひげ男は殺気立つ部下たちを抑えるように手を上げた。両側に立っていた部下たちは少し剣を下げたが、警戒心あらわで構えを解かない。
「どなたか存ぜぬが、誰かと勘違いしてここに参られたのかな? あいにくワシはアメデという者では……」
背後のバタンという音で、三人は慌てて振り返った。扉の前には軍服姿の女性と左腕だけ大きな鎧をつけた若者が立っている。軍服姿の女性はヒルディー所長で、若者はレトだった。
「き、貴様! どうやってこの場所を!」絆創膏の男はレトに向かって怒鳴った。
「あんたたちがこの国に入ったときから知っていたんだよ」仮面の男の声に、三人は再びソファのほうに向いた。ソファの男は仮面を外したところだった。切れ長の目がいたずらっぽく三人を見ている。
「アメデ隊長、俺だよ。それとも俺の顔を忘れちまったのかな?」
口ひげ男の顔色が変わった。
「ル、ルチウス王太子殿下!」
両側の男たちは驚愕の表情を浮かべると、上司と王太子を交互に見やった。ふたりとも言葉も出なくなっている。アメデと呼ばれた口ひげ男は呆然とした表情だったが、慌てたように頭を下げた。それを見て、部下たちも頭を下げる。
「トランボ王国に留学させてもらっていた頃は、あんたにもだいぶ世話になったな。腕がなまらないよう、剣の練習相手もしてもらったしな」
王太子は当時を懐かしむように天井を見上げた。一方、アメデは頭を下げたままだ。額から汗が滴り落ちていた。
「で、殿下がこんなところまで出向かれるとは、一体どのようなことで……」
「どのようなことも何も、あんたたち特務隊がこっそりと王都に来たもんだから、これまで監視させてもらっていたのさ。トランボ王国は長年の盟友だ。その関係に配慮して、あんたたちが何もせずに国を出るなら不問にするつもりだったんだ。だが、あんたたちは国民のひとりを拉致しようとした。この国を守る立場の者としては見過ごすわけにいかなくなったんでね。それで問いただすことにしたのさ」
「ら、拉致ですと?」アメデは動揺したように声を震わせた。
「そこに控えている者が、はっきりと現場を目撃している。それどころか、こいつと一戦交えてさえいるじゃないか。さすがに不問にするわけにはいかないだろ。それに、こちらは、あんたが今は特務隊で活動していることを知っている。トランボ王国の特務隊の実態は知らないが、ここでどんな工作活動をするつもりだったんだ? 悪いが白状してもらうぜ」
アメデは顔を少し上げて王太子の顔を見つめた。顔面は汗でびっしょりだ。
「で、殿下。失礼ながら私の一存でお話しすることなどは……」
王太子は手を振って遮った。
「今、あんたはとんでもないことをしでかしているって自覚はないのかい? あんたの行動は両国との同盟関係を終わらせ、紛争を起こそうとしているんだ。それがあんたの目的なのかい?」
アメデは深々と頭を下げた。
「け、け、決して、そんなつもりは! た、ただこれを公に話すわけには」
「公じゃなくていい。ここで話せ。ここにいる者たちは、俺がもっとも信頼している者たちだ。ここでの話を口外される心配はない」
「い、いや、せめて。場を外していただきたく……」
「どうせ俺がふたりに話す。だったら、ここで話しても一緒だ」
王太子の声は冷徹の響きがした。このような話し方をレトは久しぶりに耳にした。
アメデを含めた三人は頭を下げた姿勢のまま硬直している。じっと顔を床に向けたままぶるぶると震えていた。
「アメデ隊長。選択を間違えるな。あんたの仕事は母国を危機に陥れるものなのか。それとも守るものなのか。どちらにせよ、選択なしにこの国から出られるなんて思わないことだ」
アメデはぎゅっと目をつむり、口がへの字になるぐらい食いしばった。やがて決心したように顔を上げた。
「殿下、お話しいたします」
「た、隊長!」両側の男たちも顔を上げて叫んだ。
「良い。こうなったのは私の失態だ。まずは王太子殿下に真実を申し上げて、ギデオンフェル王国に対し、何ら悪意がないことをご理解いただく。我が国の秘密を洩らしたことの責は私一身が負えばよいのだ」
部下たちはまだ何かを言いたそうな表情だが、アメデは両手を上げてそれを抑えた。
「しかし殿下。ひとつお約束いただきたい。この一件は我がトランボ王国そのものを揺るがしかねないのです。この話は特に慎重に扱っていただきたい」
王太子はうなづいた。
「こちらもトランボ王国に不利益なことは望まない。秘密は守ろう。あそこに控えている者たちは秘密を取り扱うのが専門だ。あのふたりからも秘密が漏れないことを約束しよう」
すると所長が扉を開け、アメデたちに背を向けた。レトは不思議そうに声をかけた。
「所長、どちらへ?」
「外で控えている。誰にも立ち聞きされないよう、辺りを警戒しておく」
「そういうことは僕が……」レトが言いかけると、所長が手で遮った。
「お前は残って話を聞いておけ。詳細はお前から報告しろ」
「了解いたしました」
所長は出て行って扉を閉めた。
「じゃあ、話してもらおうか」王太子はアメデに促した。
アメデは辺りを少し見渡すと咳払いした。
「うむ。ではまず……、いや、やはり、その前に」
アメデはレトのほうへ振り返った。
「若者よ。さきほどの少女はどうされている? どこかにおられるのか?」
「彼女は僕たちの事務所にいます。頼もしい護衛に守られていますよ」
「そうか……。それならば良い。それと、さきほど剣を交えたときには我々が特務隊だと気付いていなかったようだが、どのあたりで気付いたのかね?」
「戦っている途中からです。あなたはあまりにも基本に忠実な型で剣を振るっていました。だからこそ、あなたの剣技には近衛兵団の剣術が混じっているのがわかりました。優雅かつ華麗さを併せ持つ近衛兵剣術。クセはありませんが、基本の動きに特徴がありますから。さらに、あなたが残した剣を拾って調べてみました。柄にあったはずの刻印は削り取られていましたが、あれはトランボ王国の工房で造られたものです。職人たちは自分の仕事に誇りを持っていますから、刻印以外にどの工房の製品かを示す符丁を柄の模様に混ぜるんです。近衛兵の技量を持ちながら、姿を偽っている者。そのとき、王太子殿下から聞いていたトランボ王国の特務隊のことを思い出したのです」
レトの説明にアメデは苦笑した。
「何ともお粗末なことであったか。隠密行動のはずが、そこまで手がかりを残しておったのか、ワシは。これではもう王国には戻れぬな」
アメデは再び王太子に向き直った。
「では、申し上げます。実は、我々は彼女を探していたのです。10年以上も前から」
「ティルカって言ってたな、その娘。その子がトランボ王国と何の関わり合いがあるんだ?」王太子は腕を組んだ。
アメデは一瞬口ごもった。が、背筋を伸ばすと決心したように口を開いた。
「我々は、彼女が我が国のオードリー王女ではないかと考えているのです」
35
部屋の中はしばらく沈黙に支配されていた。アメデの告白にレトも混乱した表情を見せた。王太子も同様の表情だったが、やがてそれはしかめ面に変わった。
「あんた、何を言っている? トランボ王に娘はアーニャ王女ひとりだけだ。俺がトランボ王国に留学している間、王も王女も、ほかに姉妹がいるなんて話はしなかったぞ」
「アーニャ王女はご存知ありません。知っているのは国王陛下、王妃殿下。あとはごく限られた少数の者だけです」
王太子はレトに顔を向けた。まったくの予想外の話に、レトは無言のまま立っているしかなかった。
「一体、どんな事情なんだ? なぜ、王女がもうひとりいるなんてことが……」
王太子は途中で口をつぐんだ。
「この間、街でひとりの女の子とぶつかりかけたことがあった。そのとき、彼女の顔に見覚えがある気がしたんだが、あれがティルカって娘だったんだな? 今やっと思い出したが、あの娘は髪型や服装が違うだけで、顔はアーニャ王女にそっくりだった。どうもどこかで会ったことがあると思っていたが…」
それからアメデのかたわらの男に顔を向けた。
「そして、彼女の近くをこいつが後をつけるようにしていたのを見た。あのとき、ティルカがあんたがたが探しているオードリー王女とやらかどうか探っていたんだな?」
アメデはうなづいた。
「オードリー王女はアーニャ王女にとって、双子の姉なのです。オードリー王女が行方不明になられたとき、我々の手がかりはそのとき着ていた産着と、アーニャ王女と一卵性双生児であるという事実だけだったのです。我々はアーニャ王女の顔立ちに似た少女を探して各国を渡り歩いて参りました」
王太子は呆れたような顔つきになった。
「それで誰にも聞き込みなどせず、自分たちの目視だけで探し出そうとしたのか。非効率なうえに確実性もない。よくそんな人探しをしたもんだな」
「やむを得なかったのです。オードリー王女が行方不明になった経緯が経緯だっただけに」
王太子は両手を上げた。
「まさか、そんな話が飛び出すとは思わなかった。たしかに外に漏れ出たら大変な騒ぎになるだろう。改めて秘密は守ることを保証しよう。だから、その経緯とやらを詳しく話してくれ」
「お話しするにあたっては、国王陛下および王妃殿下の名誉に関わる点がございます。なにとぞ、今後のご配慮にもご留意いただきますよう……」
「わかった」
「まずは、オードリー王女のことですが、王女は国王陛下と王妃殿下との間に生まれた姫君ではございません」
「……待て。さっきオードリー王女はアーニャ王女と双子だと言ったよな? ということは……」
「左様でございます。アーニャ王女も王妃殿下がお産みになった姫君ではございません」
王太子は黙り込んでしまった。
「実は国王陛下と王妃殿下との間にはお子様はできなかったのでございます。国王陛下には弟君もおられるので、お世継ぎにこだわってはおられませんでしたが、王妃殿下はかなりお気になされたようでございます。そんな中でございます。王妃殿下に仕える侍女が国王陛下のお子様を身ごもったのです。そのようなことに至った詳細は私にもわかりません。ただ、この件で王妃殿下がお怒りにならなかったのは確かです。さらに、その侍女が生む子供は王妃殿下が生んだ子としてお育てになるとのことでした。国民に偽りを伝えることは、国王陛下も気が進まぬご様子ではございましたが、結局『王妃ご懐妊』と発表いたしました。そして、身ごもった侍女は王宮に暇を申し出たことにして、王宮より離れた病院で出産することになったのです。王妃殿下にはお腹に詰め物を入れて妊婦のふりをしていただき、出産の日までのお芝居をお願いすることになりました。王妃殿下はお子様がお生まれになるのを自分のことのように楽しみにしておいででした。やがて、出産の日となり、侍女は双子の女児を出産したのであります」
「それがアーニャ王女とオードリー王女ってわけか」
「はい。ただ、双子の出産は侍女にとって重荷だったらしく、そのまま臥せってしまいました。双子の女児もお身体の具合がすぐれず、しばらく病院から動かすことができなくなりました。ですが、医師たちの努力もあり、女児のほうは順調に快方に向かい、アーニャ王女がオードリー王女より先に退院できる運びとなりました。万一のことも考え、王女が双子であることは伏せられ、まずはアーニャ王女のお披露目をすることで、王女誕生を心待ちにしていた国民を安心させることにしたのです。オードリー王女も退院できれば、正式に双子として発表されるはずだったのです。ところが、オードリー王女と生みの母である侍女が入院している病院に、あのイボック盗賊団が襲ってきたのです」
「盗賊団が病院を?」
「奴らは病院から赤子や幼児をさらっていったのです。その中にオードリー王女も含まれておりました。その騒ぎの中、娘をさらわれたことに衝撃を受けた侍女が息を引き取ったのです」アメデは沈痛な表情になって両目をつむった。
「イボック盗賊団は、なぜ子供をさらったのですか?」レトが質問した。
「奴らは金品を奪うだけでなく、人身売買も行なっておりました。人手の足りない貴族の荘園に農奴として売り飛ばしたりしていたそうですが、子供は臓器を取り出されたり、いけにえとして使われていたようなのです」
「移植手術の臓器の提供者にされていたのですか!」レトは思わず大声を出してしまった。
「臓器の移植手術は最近始められた医療術ですが、臓器の提供者不足は今も続く問題です。さらに子供の臓器は貴重ですから、闇市では高値で取引されているそうです。奴らはそこに目をつけ、襲撃した村などで金品以外に子供をさらう悪行も行なっていたのです」
「ほかにいけにえにも使われていたって……」
「現在、トランボ王国ではいけにえを使った魔法の使用や研究を禁じております。ですが、いけにえ魔法は強力なので、密かに研究する魔法使いが後を絶たないのです。奴らはいけにえの調達として盗賊団に依頼することもあったようです」
「オードリー王女は臓器提供者にされるか、いけにえにされるところだったんだな。だが、どうして生き延びることになったんだ?」王太子が口を挟んだ。
「事態を知った国王陛下はただちに盗賊団殲滅をお命じになり、軍の精鋭がイボック盗賊団を追いました。軍は国内のイボック盗賊団に打撃を与えましたが、殲滅には至らず、大部分はギデオンフェル王国に逃げられてしまいました。その際、盗賊団は逃亡の足手まといになる子供を捨てて逃げたのです。しかし、救出された子供たちの中にオードリー王女の姿はございませんでした。奴らに子供を売り飛ばす余裕はありませんでした。ですから、子供の何人かは盗賊団に連れられているものと考え、ギデオンフェル王国の協力の元、ギデオンフェル王国内での盗賊追討作戦が行われたのです。その結果、盗賊団の頭領イボックを捕らえ、盗賊団を壊滅に追い込めたのですが、王女は見つかりませんでした。捕らえた盗賊どもを尋問したところ、盗賊団は逃亡の際、子供はひとりも連れずに逃げたことがわかりました。こちらが考えた通り、病院襲撃後から人身売買は行なわれていなかったとのことなので、王女はすでにトランボ王国内で行方不明になっていたのです」
「盗賊団が知らないうちにいなくなっていたということか」
「そうなのです。ですが、それで諦めるわけにはまいりません。国王陛下は王女探索のための特務隊を編成し、秘密裡に王女を探し出すようお命じになりました。私もその一員として、任務にあたることになったのです」
「王女の件は父上からもリシュリューからも聞いていない話だ。盗賊団殲滅の協力を要請したとき、その話は出さなかったのか?」
「ええ。とても詳らかにお話しできるものではありませんから。あくまで凶悪な盗賊団が貴国に侵入したので、殲滅にご協力したいとの一点でお話しさせていただいております。国王陛下と宰相閣下にさえ秘密にしていたこと、まことに申し訳ございません」
王太子は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「トランボ王国で行方不明になった王女が、我が国におられると知ったのはどうした経緯だ?」
「捨て置かれた子供たちのほかに数名、すでに連れ出されていた者がいたのですが、見つかったのはこの国との国境付近の教会からでした。赤ん坊が教会の入り口に置かれていたのです。もともと子供たちが囚われていたところと教会を結ぶ延長上にこの国があったのです。そこで我々は付近を探すとともに、ギデオンフェル王国内にも探索の手を広げる必要があると考えました。さきほど殿下よりご指摘のあった通り、藁の中の針を探すような困難で効率の悪い探索です。何名かが交代で王国内を探しましたが、最近まで手がかりひとつ得ることができませんでした」
「そりゃそうだろうな」
「ですが十数年諦めずに探し続けた結果、先日、『王都内でアーニャ王女と顔立ちが酷似した娘を見つけた』と報告があったのです。その報告の真偽を確認すべく、最もアーニャ王女のおそばで仕えてきた私が出向くことになったのです。そこから先のことは、殿下はもうご存知のことかと存じますが……」
「レト」王太子の声は静かだった。
「はい、殿下」
「俺は王宮に戻り、この件を親父と宰相に報告する。さすがに俺の勝手で処理すべき問題じゃない。レトは事務所に戻って、オードリー王女……、いや、まだ確定はしていないか。彼女に事情を確認してくれないか。さっき、メルルのお嬢ちゃんがややこしいことを言っていたそうだが、そのあたりも合わせて、アメデ隊長の話と合うのか確認を頼みたい」
「了解いたしました」
「アメデ隊長」
王太子はアメデに向き直った。
「悪いが、しばらくはこの宿で待機してもらいたい。こちらの許可なしに国を出ることも控えてもらう」
アメデは再び頭を下げた。「殿下の御意のままに」
「もし、ティルカって娘がオードリー王女であれば、しかるべき手続きに則って、トランボ国王の元へお送りすることは約束しよう。アメデ隊長の話を疑っているわけではないが、ティルカって娘がオードリー王女であるとは、現時点で断言できないわけだからな。慎重に確認を取っていく」
レトはアメデの後ろ姿を複雑な気持ちで見つめていた。ティルカを事務所まで連れて来ると、メルルは大粒の涙を流しながらティルカに抱きついた。詳しい事情を聞ける状態ではなかったが、それでもティルカが昨夜のマントン商会襲撃事件の容疑者であることだけは聞き出せた。マントン商会を狙っていたのがベンデルという盗賊であれば、ティルカは『イボック盗賊団』で繋がっている。それは誘拐された赤ん坊が盗賊になったという話になる。もしそうであれば、忠誠心篤いアメデは卒倒してしまうだろう。
「では、先に事務所に戻ります」レトは扉を開いた。すぐ前には所長が背中を見せて立っていた。
「レトとやら」アメデはレトを呼び止めた。
「先ほどの娘のことだが、もし、オードリー王女であると確認できれば、すぐに知らせてはもらえないだろうか? 我々はこの十数年もの間、王女の無事を願い探索を続けてきた。早まった行動をしたと今は思っている。だが、どうしても焦りを抑えられなかったのだ」
「彼女の出自が何であれ、速やかにご報告いたしましょう」レトは約束すると扉を閉めた。
「急いで事務所に戻るぞ」所長は大股で廊下を歩き出す。
「聞こえていたんですか、さっきの話」レトは急いで所長の後ろについた。
「少しだが、内容がわかるぐらいにはな。しかし、殿下も仕事を増やしてくれる。盗賊の取り締まりから殺人事件、それに王女誘拐事件までときた。こちらの人数を知っているだろうに」
「殺人事件については、憲兵団で裏付け調査をしてもらっています。結果がわかれば、そちらは解決できるでしょう」
所長は立ち止まった。「犯人がわかったのか?」
「現時点で確証はありません。ただ、あの事件の構造自体は単純だと見ています。ややこしくしているのは、盗賊の襲撃事件が混ざりこんでいるせいです。それを取り除いて考えれば、少なくとも捜査の方向性は見えてきます」
「相変わらず食えない奴だ。お前にはこの世の中がどんな風に見えているのだろうな」
「周りのひとが世の中をどのように見ているのか。それがわかりません、僕には」
「そういう答え方が食えないって言っているんだ、私は」
所長はレトにしかめ面をして見せると再び歩き出した。
36
レトたちが戻ってくるまでずいぶんと時間があったが、その間メルルはティルカとずっと無言のまま事務所のソファに座っていた。コーデリアはもともと口数が少ないからひと言も口をきいていないし、ヴィクトリアは奥の部屋で何か調べ物をしている最中で、こちらにはまったく顔を見せなかった。
どれぐらい時間が経った頃か、ティルカが事務所の壁に目をやった。壁には時計がかかっているが、時刻は正午近くを指している。
「お家のことが気になるの?」メルルは尋ねた。
「昨夜から一度も家に帰っていないの。父さんにずいぶん心配させてしまってる……」
「憲兵さんがここに連れてくれるって。たぶん、もうすぐだよ。ティルカの顔を見たら安心するって」
ティルカはため息をついた。
「安心なんてするわけないじゃない。私はこれから裁かれる身になるんだから」
「……そのことなんだけど、詳しいことを聞いていいかな? 私、そうだとわかった今でも、あなたが盗賊なんて信じられないの。何か事情があるんじゃないかって」
「私は自分の身軽さを生かせることをしたいと思っただけ。それだけよ」
ティルカはやや投げやりに答えた。メルルはそれを嘘だと言えずに口をつぐんだ。こんなときに、どう話せばティルカは真実を口にしてくれるのだろう? レトが戻って来たら、真実を引き出してくれるだろうか。
メルルがうつむきかけたとき、扉が開いた。
「待たせたな、今戻った」所長とレトが戻って来たのだ。
メルルは立ち上がった。「レトさん!」
レトはメルルを制するように手を上げた。「さっそくだけど、話がある」
所長がティルカの肩に手を置いた。「すまないが奥の部屋まで来てくれないか」
ティルカはすっと立ち上がった。表情は冷静そのものだが、顔色は青白かった。
「ここで尋問するつもりですか?」メルルはやや抗議するような口調だ。
「いいから君も来るんだ」レトはメルルの腕を取った。メルルは思わずレトの横顔を見つめた。レトの声に緊張したものを感じたからだった。
奥の部屋ではヴィクトリアが一冊の本を読みふけっていた。かなり分厚いもので、メルルはそれが魔法事典だと気付いた。レトが部屋に入ると、ヴィクトリアはすぐに気付いて顔を上げた。
「あらぁレト君、お帰り。例の箱が何かわかったわよ……」ヴィクトリアは途中で口をつぐんだ。レトが自分の口の前に指を立てて、さらに後ろからティルカが入って来たからである。
レトはティルカを打ち合わせ用のテーブルの椅子にかけさせた。ティルカは大人しく座った。メルルはティルカの隣に腰を下ろした。
「大事な話をする前に、少しだけ質問させてほしい」レトは重苦しい口調でティルカに話しかけた。
「君の家族のことだが、ご家族は何人?」
「……私のほかには、父ひとりです」
「お父さんの職業は?」
「魔法鍵師です。仕事内容もお聞きになりたいですか?」
「いいえ。そのお仕事は始められて何年になります?」
「だいたい8年ぐらいだと思います」
「それ以前は?」
ティルカは答えなかった。
「ご存知ないですか?」
「今回私のしたことと、父の話が何か関係あるのでしょうか?」
ティルカはまっすぐにレトを見つめた。とげとげしさはないが挑むような口調に、隣のメルルはハラハラしどおしだ。
「今、尋ねているのはあなたのこととは関係ありません。お父さんの話です」レトの冷たい口調に、メルルは思わずレトの顔を見上げた。
「父は間もなく憲兵に連れられてここに参ります。詳しいことは父に直接聞いて下さい」
ティルカは不機嫌そうな調子で言い放つと、拳を握りしめ下を向いてしまった。
「お父さんにお話を聞くことはできません」
レトの答えに、ティルカは弾かれたように顔を上げた。
「それって……、父に、父に何かあったんですか?」
「事務所の前で、憲兵から報告を受けた」入り口付近から所長が答えた。
「『ノルドン魔法鍵店』の中で血を流して倒れている男性が見つかった。すぐに病院に搬送されたが、そこで息を引き取った。搬送される前に少しだけ意識を取り戻して、『男に襲われた』と『箱を奪われた』の2点を言い残したそうだ」
ガタンと椅子が大きな音を立てて倒れた。ティルカは真っ青になって立ち上がっていた。隣ではメルルが顔を真っ赤にしてレトを睨みつけた。
「レトさん! ティルカにそんな大事な話を伏せて、尋問をしようとしたのですか? いったい何考えてるんです!」
「緊急の話だ。先にこの話をしたら、彼女は何も答えるどころじゃないだろう。だが、ノルドン氏を襲った人物が遠くに逃げないうちに捕まえなければならない。手がかりは彼女に答えてもらうしかないんだ」
「だからって!」
「いいの、メルル」ティルカの落ち着いた声にメルルは振り上げかけた拳が宙で止まった。
「私は父に会わせてもらえるんですか、後で?」
「約束します」レトはうなづいた。
ティルカは一瞬目を閉じた。再び開くと、レトをまっすぐ見つめた。今度は挑むようなものではなく、何かの強い意志でレトと対峙しているかのようだった。
「父に手をかけた人物に心当たりがあります。名前はベンデル。昨夜、私と一緒にマントン商会に忍び込んだ盗賊のひとりです」
「ティルカ……」
「あなたは、なぜ、ノルドン氏を襲ったのがベンデルだと思うのです?」
「私がしくじったからです。ベンデルは父に盗賊の片棒を担がせようとしていました。私はそれを止めたかった。父の過去はどうであれ、今はまじめに働いていたのです。それも魔法鍵師です。魔法鍵師はその技能のために、犯罪に利用されないよう、身体に特殊な円盤を埋め込まれます。もし、魔法鍵師の技能を犯罪に使用した場合、円盤から協会に報告が飛び、すぐ発覚する仕組みのものです。父はあえてそのような職に就くことで過去と決別したのです。そんな父にベンデルは接近してきました。私は父から手を引くようベンデルに迫りましたが、ベンデルは父の代わりに私が盗賊になれば、父を巻き込まないと約束したのです。ですから、私は盗賊の一員として、昨夜マントン商会に行きました。ですが、探偵事務所の方や憲兵の待ち伏せに遭い、盗みは失敗に終わりました。おそらく、私が下見に忍び込んだのに気付かれてしまったのでしょう。ベンデルは失敗の原因が私にあると気付いたに違いありません。父への襲撃は、私に対する報復なのです」
「なるほど、ね」レトはうなづいた。
メルルは急に立ち上がった。
「れ、レトさん、聞いたでしょ? ティルカは脅されて、あの一件に関わったのよ。ティルカに罪はないわ。そうでしょ? レトさん!」
「罪はない、という話にはならないな」所長が答えた。「情状が認められるかどうかという話だけだ」
「所長……」
「ティルカさんが罪に問われるかどうかの話は後回しだ。ティルカさんに絡んで、ややこしい話はほかにもある」
「それって何です?」メルルは目をぱちくりとさせた。
「それこそ、今、話している場合じゃない。ティルカさん。あなたのお父さんは『箱を奪われた』と言い残しています。その箱とは何なのか、ご存知ですか?」
ティルカは少しうつむき気味になって、言葉を選ぶように答えた。
「たぶん……、仕事の依頼で預かっていた箱だと……思うのですが……。魔法で封印された箱を預かっていました。持ち主の方が開けられなくなったので、術式の解除を求めて。その箱は父さんの作業机の上にありました。作業にかかっていないときは布をかぶせて周りに見られないようにしていました。『箱』と言われれば、思い当たるのは、まずそれです。ただ、同じような箱は父さんも持っていました。店の奥に手提げ金庫を置いてある机の引き出しにしまっているんですが……」
「箱の形状は説明できますか?」
「ごく当たり前の宝石箱の大きさで、蓋には魔法石が十字状にはめ込まれていました。中心は赤い宝石、たぶんルビーがありました」
レトは反射的にヴィクトリアと目を合わせた。ヴィクトリアはぱくぱくと口を開けて何か言いたそうにしている。しかし、レトはヴィクトリアに話しかけなかった。
「いろいろと調べなければならないようです。少し整理して、次の行動を考えましょう。僕たちは、まずベンデルを追わなければならない。ティルカさん、奴らのアジトは知っていますか?」
「ひとつだけ知っています。ステイヴニィ区のスラム街にあります」ティルカは続けて詳しい番地を口にした。
「急いで行きましょう」メルルは入り口に走りかけた。
「待った。ティルカさん、ベンデルはほかにアジトがあることを話しませんでしたか?」
「いいえ、私には何も。……まぁ、たしかに仲間ではありませんから、ほかのアジトの場所なんて私に教えるわけはないのですが」
「慎重なベンデルのことだ。ティルカさんに知られているアジトへ戻ることは考えにくい。一応、手がかりがないか調べる必要はあるけど、ほかのアジト探索も考えて行動するべきだ。そこで所長」
「何だ?」
「先ほど聞いたアジトの場所の件はコーデリアさんに捜査していただき、僕は憲兵本部でベンデルの情報を集めてみたいと思います。昨夜から検問を敷いていましたから、その報告確認も兼ねて」
所長はうなづいた。「いいだろう、任せる」
レトはメルルに向き直った。
「メルル。君はティルカさんを王立総合病院まで連れて行ってくれないか。ノルドン氏は地下の安置所だ」
「病院へは私も同行しよう。レトの言っていた『ややこしい話』のこともあるからな」所長がティルカを見つめた。
「で、私は?」置いてけぼり感を漂わせて、ヴィクトリアが自分を指さした。
「事務所を無人にはできない。君はここで待機だ」
「……ですよねぇ」ヴィクトリアは腰を下ろした。
ティルカは部屋の出口をそわそわと見ている。父のことを聞いて居ても立ってもいられないらしい。メルルはそっとティルカの腕を取った。
「では、病院に行ってきます」メルルは出口へティルカを案内するように出て行った。所長はメルルの通りぎわに「すぐ追いつく」とだけ囁いて後に残った。コーデリアも部屋を出ようとしない。所長はしばらく腕を組んだまま無言でレトを見つめていたが、メルルたちの足音が聞こえなくなるとようやく口を開いた。
「レト、お前。彼女の父親の件を伏せて、まるで父親が容疑者のような質問をわざとしたな?」
「ノルドン氏が襲われた話を聞いて、真っ先に浮かんだのは仲間の報復です。そうであれば、ティルカさんは報復が自分にも向けられることを恐れて口をつぐんでしまうかもしれません。そこを伏せて尋問調に父親のことを振れば、父親をかばうためにも自白が引き出せると考えました。実際は所長が先に話してしまい、どうなるかと思いました。ただ、ティルカさんは案外、心がしっかりした方のようで、すぐベンデルのことを話してくれましたが」
「私はお前のそういう食えないところが好かん。それと、こっちが頼みもせんのに、ひとから嫌われたり、憎まれたりする役を勝手に引き受けようとするところもだ」
「……それで、僕が話している途中に口を挟まれたのですか」
「お前がひねくれものだということを、私たちは十分わかっている。だが、メルルはここに来て日が浅い。お前が周りの者をどう気遣い、どう思い遣っているかなど知らないんだ。あまり弟子を失望させる態度を取るな。あの子はお前を師と慕って王都までやって来たんだからな」
レトはうつむき気味に「わかりました」と答えた。
コーデリアは立ち上がると、レトの肩に手を置き、「レトはいい子」とつぶやくとそのまま部屋を出て行った。
ヴィクトリアはテーブルの上で頬杖をついてレトを上目遣いで見上げた。
「コーデリアはレトのことを実の弟のように思っているのよ」
「コーデリアさんがですか?」
「いつも冷静に見えるのに、逆に危なっかしいんだもん。お姉さんたちはキミが心配なんだよぉ」ヴィクトリアのからかうような口調に、レトは少し顔をしかめた。
そこへアルキオネがばさばさと羽音を立てて入ってきた。レトの頭に降り立つと、翼は広げて「かぁああ」と鳴いた。
「ほら、彼女もそうだって言ってるわよ」ヴィクトリアは笑いながらカラスを指さした。レトはやれやれという表情でため息を吐く。
「私はメルルたちの後を追う。それと彼女の出自に関することは私が確認しよう」
所長はそう言い置くと部屋を出て行った。
「では、僕は憲兵本部へ向かいます」
レトが部屋を出て行きかけると、ヴィクトリアが呼び止めた。
「待って。さっき言いかけたんだけど、ハマースミスが持っていた箱が何なのかわかったわよ」
「ああ、そうでしたか。で、何の箱なんです?」
「『エリファス・レヴィの小箱』よ。知ってる?」
「エリファス・レヴィの……。いえ、知りません」
「エリファス・レヴィの傑作であり、失敗作よ」
ヴィクトリアは魔法の箱の能力と問題点を簡潔に伝えた。それはノルドンがベンデルに解説したものと同じだった。レトは説明を聞き終わるとあごに手をかけた。
「所有者の合言葉でのみ開く箱。蓋には十字状の魔法石がはめ込まれている……。ティルカさんの証言によれば、ノルドン氏が言い残した『箱』は『エリファス・レヴィの小箱』かもしれません。そして、その箱を預けたのはベンデルではないでしょうか」
「ティルカって娘の話だと、可能性は高いわよね」
「ティルカさんはお父さんが盗賊の片棒を担がされるのではないかと恐れていましたが、魔法鍵師が盗賊と手を組めないよう、身体に仕かけを施されていることは、ベンデルも知っていたでしょう。ですから、ベンデルがノルドン氏にさせようとしたのは直接盗みに関わることではなく、ハマースミス氏が命よりも大切にしていた『魔法の箱』を開けさせることだったのではないでしょうか? ベンデル一味に魔法使いはいません。それは、先日、コーデリアさんが倉庫の捜査をしたときに確認したことです。ですから、魔法の箱を開けるには仲間以外の誰かに開けてもらうしかありません。ベンデルはそれでノルドン氏に接触したのではないでしょうか。では、ベンデルがなぜ魔法の箱を持っていたのか、ということになりますが……」
「コーデリアが、ブルガスたちが盗んだ品物を横取りしたのはベンデルだって突き止めていたわ。横取りした品物の中にあの『箱』が混ざっていた……」
「ようやく繋がりましたね……」
「この間、メルルが推理してみせたように、ベンデルはハマースミスさんの屋敷に侵入していた。そのときにほかの盗賊に先を越されたことを知った。ベンデルはハマースミス氏から『箱』の情報を手にし、品物を横取りした。ただ、箱の開け方は聞き出せなかったから、かつて仲間だったノルドンさんに箱を開けさせようとした。だいたい、こんなところじゃないかしら」
「その可能性はあります。ただ、それだとハマースミス氏の殺害犯もベンデルになりそうですが、僕は腑に落ちないんです」
「何が引っかかっているの?」
「殺害動機です。すでに盗みの行なわれた現場に行き当たってしまったのであれば、早々に立ち去るでしょう。ハマースミス氏のことなど、縛られるがままに放置していくはずです。それを殺害するなんて、これまで聞いてきたベンデルの姿と重なりません。ベンデルは慎重な男なのですから。ハマースミス氏殺害は突発的に起こった出来事です。犯人にはとっさではあるが、殺害に至る切迫した事情があったんです。ベンデルにそんな事情があったとは思えません。さっき言ったように立ち去るだけで良かったのですから」
「じゃあ、ベンデルは高利貸殺害事件とは関りがないの?」
レトは首を横に振った。
「今の時点では何とも。ただ、ベンデルという男はここ数日の間、僕たちが関わったすべての事件に何らかの形で関わっています。ハマースミスの事件にも無関係ではないでしょう。ただ、どういう関わり方をしているのか、今は見当もついていませんが」
レトはそこで再びヴィクトリアに背を向けた。
「僕は当初の予定通り、憲兵本部に向かいます。ベンデル一味の誰かを逮捕しているかもしれませんし」
「ねぇ、レト」ヴィクトリアはレトを呼び止めた。
「今度は何です?」
「あなた、ハマースミスの殺害犯に見当がついてるんじゃないの?」
「所長にも同じことを尋ねられましたが、正直なところ確信的なものはありません。ただ、今はあらゆる可能性をひとつひとつ確認しているところです」
レトはそう言い残して部屋を出て行った。
「やっぱり食えない男よね」
ヴィクトリアは頬杖の姿勢のままため息をつくと、アルキオネがヴィクトリアの頭に留まって、こくこくとうなづいた。
37
「ちょうど良かったです。実はこれから伺うつもりだったんです」
レトが憲兵本部に顔を見せると、フォーレスが入り口でレトに声をかけた。何かをファイルした書類を小脇に抱えている。
レトはフォーレスとともに入り口から大階段へと通じる道を逸れて、人通りの少ない脇に並んで歩いた。周りに聞き耳を立てている者がいないことを確認すると、フォーレスから口を開いた。
「あなたから頼まれていた件はすべて調べました。それと、例のマントン商会に侵入した盗賊のひとりと思われる男を確保しています」
「確保、ですか。その男は今ここにいるのですか?」
レトは小声で囁いた。
「ええ。昨夜、挙動の怪しい男を非常警戒にあたった者が発見し、尋問途中で逃走を図りました。その男は逃げ場を失い、最後の賭けとばかりに胸壁から飛び降りました。あいにくそこはかなり高い所だったため、男は着地時に両足を骨折し意識不明になりました。男はここに運ばれて治療を受けています。大けがではありますが、命に別状はありません。さきほど意識を回復しましたが、少し朦朧としたところがあるので、医師が様子を見ているところです」
「尋問できる状況ではなさそうですね」
「今は無理でしょう。ですが、あとしばらくで尋問できるはずです。男は両足を骨折していますので、逃亡される心配はありません」
レトは考え込んだ。
「その男はひとりきりだったのですか? ほかに仲間は見当たらなかったのですか?」
フォーレスはうなづいた。
「そうですね。報告では男はひとりきりで歩いていたとのことです。男は最初に尋問を受けたときに地図を見せて道を尋ねていました。いったん仲間と別れて、後で落ち合うつもりだったようです。その地図ですが、男が飛び降りたときに男の手から離れたらしく、取り押さえたときには持っていませんでした。今朝明るくなってから仲間が周辺で地図を探しています。地図を見た者は、おおよそリンカンシャー区のパンドン教会のそばだというところまでは覚えていたのですが、アジトの正確な位置までは覚えていなかったんです。昨夜は、風はほとんど吹いていませんから、地図が遠くに飛ばされていることはないと見ています」
「男の身元はまだ不明なのですね」
「ええ。これまで前科のある者やお尋ね者の似顔絵に該当するのは見当たりませんでした。今回初めて捕まったようですね」
「ベンデル一味かどうかは確証無し、か。その男については後で改めて確認させていただきます。まずはフォーレスさんが調べた報告をお聞かせ下さい」
レトはフォーレスが小脇に抱えているファイルに目をやった。フォーレスはファイルをレトに見えるように広げると、一角を指さした。
「ここにあるのはハマースミス氏の顧客名簿の写しです。この名簿で見る限り、顧客は驚くほど少数です。モール・マントンのほかに顧客は6名です。あとは飛び込みの客がいないわけではありませんが、いずれも返済を終えて以降、ハマースミス氏と関りを持っていません。あなたからは『ある特徴』を備えている人物が、この名簿の中にいるかどうか調べるよう指示されましたが、結論から申せば該当者は『ひとりもなし』です」
「ひとりもいませんでしたか」
「あまり落胆されていませんね。ただ、顧客名簿を調べて気付いたと言うか、感じたのですが、6名の顧客には奇妙な点があるのです」
「奇妙な点?」
「例えば、名簿の一番初めにある『マーゴット・ヘラー』ですが、これはヘラー男爵の夫人なのです。男爵は上流階級の中でも裕福な方です。その夫人が高利貸しに金を借りる必要があるでしょうか?」
「それは確かに奇妙ですね」
「ほかに、この『ダフ・ボーネス』。彼は中央劇場の二枚目俳優です。売れっ子ですよ。ご存知でしょ?」
「い、いいえ。僕はお芝居を見に行ったことがなくて……」
「ボーネスはこの王国に留まらず、周辺諸国でも名が知られていますので、ほうぼうの公演で大勢の観客を集めていますよ。相当収入があると思いますが、金遣いが派手という話は一切なく、彼が高利貸しに借りなければならないほど金に困っていたのは意外でした」
「ハマースミス氏の事件について質問はされましたか?」
「もちろんです。ヘラー夫人とは直接お会いできませんでしたが、間に執事を立てて話を聞いています。ボーネスを含めて残り5名も同様に確認しました。いずれも事件当夜は所在についてはっきりしており、事件現場に行っていないことが判明しています。それについてはそれぞれ複数の証人から裏付けが取れました。例えばヘラー夫人は夫とともにサロンに赴いていたことが、また、ボーネスは劇場で舞台に立っていました。ボーネスは主演であるため、舞台には出ずっぱりでしたので、芝居の途中に抜けてハマースミス邸に向かうことは不可能です。少なくとも、この6名に犯行可能の者はいませんでした。ただ、ハマースミス氏から高利の金を借りた事情については全員口をつぐんでいるのです。帳簿を確認しましたが、入出金に不審な点はなく、彼らが高額の借金をした後、きちんと利息を含めて返済しています。ただ、それをほぼ定期的に行なっているのです。ヘラー夫人の場合は毎月5百万リューを借り、月末には6百万リュー返済しています。月百万の利子がつく借金です。これを毎月繰り返しているのです」
「毎月借金をしていたのですか……」
フォーレスは小さくうなづいた。その顔つきは真剣なものになっている。
「どうです、奇妙でしょう? わざわざ高利の借金を毎月するなんてどうかしている。しかも、その借金は夫に内緒なのです。話を聞いた際、くれぐれも夫には内密にするよう念を押されましたから」
「……フォーレスさん。あなたはこのことが何を示すのか気付いてらっしゃるんでしょう? たった6名の顧客でハマースミス氏が高利貸し業をやってこられたのかも」
「そのおっしゃり方だと、あなたも予想はしていたのですね。だから顧客名簿の確認の際に、それぞれの顧客がどのような借金をしているのか、具体的に調べるよう指示されたのでしょう?」
「あくまで予想だったんです。あの殺人事件は盗賊の手による突発的なものではないと考えていました。そうであれば、殺害の動機がある者の犯罪です。ハマースミス氏の元細君と話をしましたが、ハマースミス氏は人間関係には淡白なところがあるというか、必要以上に関わろうとしない面がありました。その一方で、『盗む価値のあるものはない』と豪語して、戸締りに気を配らない挑発的な面を見せています。それだけで断定はできないでしょうが、僕はハマースミス氏が『人間』を侮っているひとだと感じました」
「高利貸しには、誰もがお金に支配される愚か者に見えるってことですか」
「高利貸しが、ではなく、ハマースミス氏が、だと思います。ハマースミス氏にとって、大切なのはお金であって、それ以外には何の価値も見出せなかったんだと思います。だから、お金目当ての女性と結婚をしています。女性からの愛情など期待していなかったのでしょう。ですから、離婚についてもお金の面で折り合いさえつけば、何も言うことはなかったわけです。そういうことですから、ひとから好かれはしないでしょう。ですが、殺害しようと思うほどの憎しみも持たれなかったでしょう。ハマースミス氏がただの高利貸しであれば、ただお金を貸し、回収する。それだけの人物のはずですから。『ただの』高利貸しであれば、ね……」
「そこでハマースミス氏はただの高利貸しではない、と考えたのですか」
「高利貸しには『借金を踏み倒される』という危険がつきものです。にも拘わらず、ハマースミス氏はひとりで事務所を構えていた。回収にあたる用心棒の類をそばに置いておかなかった。まるで踏み倒される心配がないと信じているかのようにです。実際、フォーレスさんが調べていただいた名簿にあるように、顧客は返済能力に何の問題もないひとたちばかりです。そもそも借金の必要もないようなひとばかりです。それがわかってようやく、あの事件の背景がつかめた気がします」
「あなたの考える背景とは?」
フォーレスの問いに、レトはひと言で短く答えた。答えを聞いても、フォーレスは意外とも思わなかったようにうなづいた。「やはり、そうですか」
「フォーレスさん。この考えが正しければ、先に報告のあった魔法鍵師が殺害された事件も関連があるかもしれません。もともとベンデルを追うためではあるのですが、魔法鍵師が襲われた現場を確認したいと思うのです」
「わかりました。現場の案内は私がいたします。私もこのファイルをそちらへ届けた後、そのまま現場に向かうつもりでしたので」
「そうでしたか。では案内をお願いします」
ふたりは憲兵本部を後にした。
38
病院地下にある遺体安置所で、父と娘は無言の対面を果たした。父は寝台の上で胸の上に両手を組んで沈黙していた。その表情は穏やかで、ただ眠っているように見える。死に瀕してどんな苦痛がノルドンにもたらされたかはわからないが、今はそうした苦痛のすべてから解放されたのは確かだ。
ティルカは何の表情も浮かべず、ただ父の顔を見つめていた。病院へ急いでいる間はただ父の顔を見たい一心だったが、それが果たされるとティルカは何も考えられなくなっていた。感情さえどこかへ吹き飛んだかのようで、この場面を悲しいと思うことすらできなかった。
メルルはじっとノルドンを見下ろすティルカのすぐ後ろで、沈痛な面持ちでティルカの首筋を見つめていた。最も親しい者を失うことの辛さは、自分自身も最近に味わったものだ。この辛さをティルカも味わっているのだと思うと居たたまれなかった。それにティルカに何と声をかけられるというのか。メルルは音を立てないように後ずさりすると、安置所を出ようとした。
「メルル」
まるで後ろに目がついているかのように、ティルカは顔も向けずにメルルを呼び止めた。
「え? 何?」メルルはあたふたしながら尋ねた。
「ごめん、そばにいて。私、今、どうしたらいいのかわからない。泣きたいけど泣きたくない。怒りたいけど怒りたくない。そんな変な感じなの。だから私のそばにいて、何か変なことをしそうになったら、私を止めて。お願い」
メルルの両眼に涙があふれてきた。「わかった」
そこへ所長が現れた。「少し、失礼をする」
所長はティルカが立っているのとは反対側に立って、ノルドンを見下ろした。胸の前に手を当てて黙とうをする。
「ノルドン氏のことをあなた以外のご家族や、親戚の方にお伝えしたほうが良いと思うが。あなたの母君など、ほかのご家族はいないのですか?」
ティルカは弱々しく首を振る。
「私、父以外の身内は知らないんです。物心ついたときには、すでに母はいませんでしたし、親戚の類といったものが父にいたのかわかりません。これまで親戚と呼べるひとと何かやりとりがあった記憶がありませんから」
「ノルドン氏はあなたを除けば家族がいなかったと?」
ティルカは無言でうなづいた。
「母君について何か聞いていることはありませんか? 生きているのかどうかなど」
今度は左右に首を振る。
「本当に知らないんです。聞いたこともありません」
「何かあなたの出生を証明する書類などを保管してはいませんか。それがあれば、あなたの身内を探して今後のことをお話しすることができます」
「お気遣いありがとうございます。ですが、父はそんなものは残して……」
ティルカは言いかけて口をつぐんだ。
「どうかしましたか?」
「い、いえ。ただ、父が以前、私にひとつの箱を見せて話したことがあります。もし、自分に何かあれば、その箱を開けなさいと」
「……箱、ですか」
「ええ。たしか『エリファス・レヴィの小箱』だと言っていました」
「その『エリファス・レヴィの小箱』に、あなたの出自についての資料が入っていると」
「中身については何も聞いていません。ただ、私がもしものときに困らないように、みたいなことを言ってましたので、お金が入っているだけかもしれません。私と父だけが開けられるように、合言葉と開け方を教えられました。さっき探偵事務所で聞いた話では、父が息を引き取る前に『箱を奪われた』と言い残したそうですが、ひょっとしたらその箱かもしれません」
「この病院には、ノルドン氏の最期に立ち会った憲兵は来ていません。後で確認しましょう」所長はそう言うとティルカに頭を下げ、安置所を出て行った。
その場にはティルカとメルルのふたりが残された。しばらく、沈黙の時間が続いた。
「私ね、少し嘘を言ったかもしれない」ティルカがふいにつぶやいた。メルルはそっと隣に並んだ。
「嘘って?」
「さっき、所長さんが私の身内のことを聞いてきたとき、『知らない』って言ったけど、本当は『知ろうとしなかった』、なの」
「知ろうとしなかった?」
ティルカはうなづいた。
「物心ついたとき、私はすでに父さんとふたりで生活していた。そのときは街から街へ渡り歩く生活。今のように、まともな生活じゃなかったわ。ただ食べていくことを考えるだけで一日が終わる。そんな毎日。母とか親戚とか、そんなこと尋ねる心の余裕もなかった。でも、何となくわかってた。私は父さんの……、ノルドンの実の娘じゃないって」
「ティルカ……」
「たぶん、どこかで捨てられていたのを父さんが拾ったのよ。そして私を育ててくれた。最近、父さんは私に何か話したいことがあったみたいだけど、何となくはぐらかしてきた。本当のことを知るのが、何となく怖くて……。箱の話もそう。父さんはいつでも箱の中身を見ていい、なんてことを言っていたけど、私は見たくなかった。だって、変な話でしょ? 箱の中身が何かを教えないで、箱の開け方だけ教えてきたのよ。その箱の中身は結局知らないままだけど、今でも知りたいとは思わないわ。だって、父さんは見て良いとは言っていたけど、私が箱の中身を知ることを望んでなさそうだったから」
ティルカはそっとノルドンの手に触れた。伝わってくるのは体温を失った冷たさだけだ。
「父さん、あの箱には何が入っていたの? 私に何を残したかったの?」
もちろん、ノルドンから応えはない。ふたりはただ立ち尽くしているだけだった。
39
「探偵さんではないですか!」
大声で呼び止められ、レトは苦い表情になった。
大通りの、しかも大勢の人々が行き交うところで、「探偵」などと大声で叫ばれるのは迷惑だ。仕事上、あまり目立ちたくないのだ。もともとレトには「目立ちたい」という願望はないのだが。
どたどたと慌ただしい様子でベル・ブラウニーが走ってくる。レトはますます浮かない表情になった。まずい。盗賊団を取り逃がした失態を責められそうだ。
「いや、良かった。そちらへ伺う途中だったので」
レトのそばで立ち止まると、ベル・ブラウニーは息をはぁはぁさせながら額の汗を拭いた。
「それはわざわざすみません。で、ご用向きは何でしょうか?」
レトはフォーレスに手を上げて待ってもらうよう合図を送った。フォーレスは少し離れたところでうなづいた。
「いや、昨日は本当にご苦労様でした。おかげで我が商会の商品は何ひとつ奪われずに済みました。探偵事務所の皆さまのご尽力あってのことで、モール・マントン代表をはじめ、一同感謝いたしております。とにかく一刻も早くお礼を申し上げようと出向いた次第です」
レトは力無げに手を振った。
「いいえ。肝心の盗賊団を取り逃がしてしまいました。少しでも早く全員を逮捕して、皆さんには安心してお仕事できるようにしたいと思います」
「我が商会のゴーレムが逮捕の邪魔をしたそうで、それについてはこちらも申し訳なく思っています。まさか、盗賊の逃亡の手助けをするなんて、想定していませんでしたから」
ベル・ブラウニーの口調にはレトを非難する様子も皮肉る様子も感じられない。レトはひそかにほっとした。
「こんなことなら、代表から追跡犬人形をお貸しするよう話すべきだったと思います」
「追跡犬人形? 魔法道具ですか?」
「ええ。試作品ですがね。簡単に説明すれば、犬型のゴーレムです。匂いを辿ることに特化させています。多少実績はあるのですが、魔法消費の燃費が悪いとかいろいろ改善すべき点もあるので、商品化はまだ先の代物です。ですが、今回の盗賊追跡であれば、ある程度は役に立てたと思うんです」
「そんなものを開発して、憲兵団に売り込むつもりなのですか?」
「いいえ。犯罪者追跡もそうですが、山で遭難した者を探すなど、救助支援が主な目的です。ギデオンフェル王国では自然災害は少ないほうですが、遭難などで行方不明になるひとは大勢います。各都市や山の警備隊に配備されるようになれば、良い戦力になれると思っているんです」
「マントン商会の商品開発の姿勢には感心させられます。ですが、魔法道具の開発をするより、実際に犬を訓練するほうが早いのではないですか?」
「一応、犬も家畜ですから、家畜繁殖業の許可を取らなければなりません。ですが商法上、うちのような輸入販売を取り扱う商会に許可は下りないのですよ」
博覧強記で知られるレトだが商法の知識は強くない。レトは「なかなかご苦労されているんですねぇ」と無難な相づちを打った。
「ひとつの方法がダメでも、ほかの方法を探す。これが商売人の思考法です。簡単に諦めたりしていたら、商売なんて何ひとつ上手くいきませんよ」
「勉強になります」
「いいえ。ああ、こんな講釈垂れるつもりなんてなかったんだ。お礼を言いに来たのに。あと、代表から探偵事務所にお伝えしてほしいと言付かってることもありまして」
「マントン代表から?」
「この間そちらの事務所で、ベンデルという盗賊の名前を耳にいたしましたが、代表に報告したところ、ベンデルという男に心当たりがあるようでして」
レトの表情に緊張が走った。しかし、それは一瞬のことで、その表情の変化にベル・ブラウニーは気付いていないようだった。
「どのような心当たりです?」すでに冷静な表情のレトが尋ねた。
「あまり大したことではないのですが、かつて代表はトランボ王国で商人をしていたそうですが、イボック盗賊団の被害に遭ったことがあるそうです。そのとき店に踏み込んできたのがベンデルという男で、左目の横に大きな傷跡があったのを覚えているそうです」
「こちらで聞いているベンデルの特徴と一致しますね」
「で、実はハマースミス氏が殺された晩のことですが、ハマースミス氏の屋敷から帰る途中、代表はその左目に傷跡のある男とすれ違っていたのです」
「それは確かですか?」
「おそらく間違いないだろうと。ただ、過去に怖い思いをしているので、改めて男の正面に回って顔を再確認することはしなかったそうですが」
「すれ違った正確な場所は説明できるんですか?」
「屋敷の門を出て右手へ進み、最初の角を曲がったところだそうです。向こうはこちらの顔を覚えている様子はなかったと思うと申しておりました。事件に関係あるのかわからないが、お伝えだけはしてほしいとのことです」
レトは目を閉じて額に手を当てた。その様子からは何を考えているのかをうかがい知ることはできなかった。
「お話しは参考にさせていただきますとお伝えください」
ようやく目を開けたレトはベル・ブラウニーに頭を下げると、フォーレスが立っているところへ進んでいった。フォーレスは離れたところで、じっとふたりのやり取りを見つめていたのだった。
「お話しはもういいのですか?」
歩き出しながらフォーレスが尋ねると、レトは無言でうなづいた。まだ何か考えている最中のようだ。フォーレスは思考の邪魔をしてはいけないと考え、無言のままレトをノルドンの店まで案内することにした。レトは黙ったまま、フォーレスの後をついて歩いている。
ノルドンの店は探偵事務所からはそれほど離れていなかった。ふたりは間もなくノルドンの店の前に到着した。店の前ではひとりの憲兵が見張りとして立っていた。フォーレスは敬礼して二言三言話すと、見張りの憲兵は扉の脇に移って、ふたりを通した。その間、レトはずっと無言だった。
店の中は椅子が倒れていたり、床にリュックが落ちていたりと、何か異常事態が起きたことを匂わせているが、部屋の状態はそれほど荒れたものではなかった。
「ノルドン氏と襲撃者はここで争ったようです」
フォーレスは倒れている椅子の脇に立って、椅子を指さした。そこはノルドンが作業に使う机があるところだった。
「ノルドン氏に致命傷を負わせた凶器は残っていますか?」
レトは床にかがみこんで椅子に顔を近づけた。椅子の脚には、ノルドンの血と思われる赤い小さなしみが点々と付いている。指でそっと撫でるとパラリと脚から剥がれ落ちた。すっかり乾いているのだ。ノルドンは昨夜遅くに襲撃にあったようだ。
「凶器はありません。あえて言うなら、作業机ですね。ノルドン氏はこの作業机の角に激しく頭を打ち付けられたのです」
フォーレスの説明に、レトは視線を上げた。目の前にある作業机のへりに、血がこびりついている部分があった。
「この角に頭をぶつけられたんですか」レトは机の血の跡を指さした。
「はい。ここでの出血量は少量で、外傷は大したものでありませんでした。ただ、頭がい骨が陥没骨折していて、脳に傷を負ったのです。今朝、ここを訪ねた憲兵が発見したとき、ノルドン氏はその机脇の引き出しに頭を預ける格好で横たわっていました。憲兵が意識の有無を確認したとき、そのときノルドン氏は生きていました。発見されるまで意識を失っていた様子でした。憲兵の呼びかけに意識を取り戻したノルドン氏は、そこで男に襲われたこと、そして持っていた箱を奪われたことを伝えたのです。それから間もなくノルドン氏は再び意識を失ったのです」
「自分を襲ってきたのは『男だ』と言ったのですか? それとも男の名前を言ったのですか?」
「『男だ』だそうです。憲兵は男の名前を尋ねましたが、それには首を横に振っただけだとのことです」
「ノルドン氏は犯人の名前を知らなかった、ということか。それとも……」
「わざと名前を伏せる事情があったとは考えにくいのですが」
「そうですね。僕もそう思います」
フォーレスの意見に賛成しつつも、レトの口調は歯切れが悪かった。
「そうだとすると、ノルドン氏は初対面の男に殺されたということになる。そして、箱を奪われたんですね? ノルドン氏の言う『箱』とは何ですか? そのことについて何か説明はありましたか?」
フォーレスは首を横に振った。
「いいえ。それから間もなくノルドン氏は意識を失ったのです」
レトは床に落ちているリュックに手を伸ばした。
「これはノルドン氏の持ち物ですか? 中は確認されていますか?」
「あくまで推定ですが、そうだと思われます。こちらで先に中も見ています。どうぞ、ご覧ください」
レトは袋口を広げると、中身を検めた。替えの下着らしきものと携帯用のコップとやかん、そして中身の詰まった革袋が入っている。レトは皮袋を取り出した。皮袋はズシリと手ごたえのある重さがあった。そちらの口も開いてみると、そこから金貨や銀貨が顔をのぞかせた。レトはフォーレスの顔を見つめると、反応を待っていたかのようにフォーレスが口を開いた。
「そこにはおよそ30万リュー入っています。この店の二月か、三月分の売り上げ金ではないかと」
「襲撃者は何らかの箱は奪ったが、現金には目もくれなかったということか。いや、金がここに入っているとわからずに金銭は諦めたのか……」
レトはそう言いながら、奥にあるもうひとつの机に向かって歩き始めた。そちらの机の上には小さな手提げ金庫が置いてあったのだ。手提げ金庫は蓋がしっかり閉められている。
レトは手提げ金庫を手にすると蓋に手をかけた。すると、金庫の蓋は何の抵抗も見せずにぱかっと開いた。「鍵がかかっていない」レトは顔をしかめて中をのぞいてみた。手提げ金庫の中は空っぽだった。続いて、レトは机の引き出しに手をかけた。ティルカの話では、引き出しの中に『エリファス・レヴィの小箱』が入っているはずだ。しかし、引き出しの中も空っぽだった。レトはノルドンが倒れていた作業机に視線を移した。作業机の上はきれいに片付けられていた。ノルドンはまめに整頓する人物だったらしい。作業に使われる道具類はペン立てに立ててあった。細かい所を見るためだろう、小さな手持ちランプも置いてあった。しかし、そこにも『エリファス・レヴィの小箱』は見当たらない。
「ノルドン氏はどっちの箱を『奪われた』と言ったんだろう?」レトはひとりごちた。
レトは部屋の中央に顔を向け、店の中全体を見渡した。窓際のテーブルにもうひとつリュックが置いてある。レトはそちらへ歩み寄ると、そのリュックの口も開いてみた。
こちらの袋に入っているのは女物の服や着替えらしかった。おそらくティルカのものだろう。レトは慌てたように袋を閉じた。
「まるで、どこかへ出かける準備をしていたようですね」レトは額に手を当てた。
「周辺に事件の目撃者がいないか、聞き込みはされていますか?」
「はい。ただ、事件発生時間が特定できていないので、だいぶ大雑把なものになっていますが」
「何か情報はありましたか?」
「事件そのものの目撃者や、店の出入りした者の目撃証言は得られておりません。争うような物音を聞いたという人物もいません。ただ、事件に関係があるのか、少し妙な話をする者がいました」
「どんな話ですか?」
フォーレスは手帳をめくった。
「証言者はこの近所で製材商を営む経営者です。昨夜、居酒屋の帰り、この店の前を通りかかったとのことですが、店の前に犬が一匹倒れていたということです」
「それは何時ごろです?」
「あいにく正確な時間までは……。ただ、居酒屋が閉まるまで飲んでいたそうなので、おそらく深夜にあたる時間帯、つまり0時から2時あたりのことではないかと」
「わかりました。続けてください」
「彼は犬が不自然な姿勢で横たわっていたので、そばによって胸の辺りを触ったそうです。犬の身体は冷たく、全く鼓動がなかったので、死んでいると判断しました。ただ、どうせ、翌日には衛生局が犬の死骸を撤去するだろうからと、そのままにして家に帰ったそうです。朝に憲兵がここを訪ねたときに、犬の死骸はありませんでした。衛生局が片づけるにはまだ早い時間の出来事です。つまり、衛生局以外の何者かが犬の死骸を持ち去ったようなのです」
「犬の倒れていた場所は聞いていますか?」レトは扉に向かいながら尋ねた。
「案内します。こちらです」フォーレスはレトより先にすばやく扉を開けると、店の外に足を踏み出した。
ノルドンの店の前には大勢の人々が行き交っている。陽はだいぶ高く昇っており、街は活気に溢れている。店の前で立っている憲兵に目をやる者はいるが、いずれも関心がなさそうに通り過ぎていった。
フォーレスは扉を開けたすぐ脇の壁を指さした。「あそこだそうです」
レトは壁の前にしゃがみ込んで辺りに視線を走らせた。犬が倒れていたというところには何の痕跡も見つけられなかったが、そのすぐ前の壁でレトの視線が止まった。レトは壁に顔を近づけてその一点を見直した。壁にはX状の傷が刻まれているのが見えた。レトはその傷に指を当ててなぞってみた。傷は細く、小さなものだった。
「何か見つかりましたか?」フォーレスがレトの肩越しに尋ねた。レトは首を横に振る。
「今、確信できるようなものは何も」レトは立ち上がると、店の扉に手をかけた。
「現場に戻ります」
レトたちは再び店の中に戻った。扉の鈴がからんからんと涼しげな音を奏でるのを聞きながら、レトは室内を見渡した。
「ノルドン氏は作業机の前にいたところで襲撃者が現れた。店には鈴が付いているから、訪問者が現れると音ですぐわかる。ノルドン氏は訪問者の姿を見た。しかし、その人物はノルドン氏の知らない人物だった。ノルドン氏は客のひとりだと考え、歩み寄ろうとした。しかし、訪問者はここからノルドン氏に突進して襲いかかった……」
レトはそう言いながら、作業台へと小走りで駆け寄る。
「襲撃者はノルドン氏につかみかかると、おそらくノルドン氏が手にしていたであろう箱を奪い、ノルドン氏を突き飛ばした……」
「なぜ、ノルドン氏が箱を手にしていると?」
レトはフォーレスに振り返った。
「ノルドン氏はほぼ襲われたときの状態で見つかりました。襲撃を受けてすぐ気を失っていたのです。ですが、『箱を奪われた』ことを知っていました。それはノルドン氏が襲撃されたことと、箱を奪われた行為が同時に行なわれたことを意味します。であれば、箱はもともとノルドン氏が手に持っていたと考えるのが自然です」
「なるほど」
「襲撃者から勢いよく突き飛ばされたノルドン氏は後ろに倒れ込み、運悪く頭を作業机の角に激しく打ち付けてしまい、致命傷を負ってしまった。襲撃者は箱を手にすると、倒れたノルドン氏をそのままに、店を出て行ってしまった」
「それは、倒れたり、動いたりしているものが、この店の出入り口から作業机の間のものであること。それ以外では店が荒らされていないから、そのように状況再現なさったんですね?」
フォーレスは念を押すように尋ねた。レトはうなづく。「おそらく、そのようにして事件が起こったんだと思います」
「その説明だと、突発的に起こった事件のように聞こえますが」
「ノルドン氏は一撃しか攻撃を受けていない。しかも、突き飛ばす形のものです。殺害するには確実性がありません。箱を奪おうとする執念はすごいものがあったんだと思いますが、襲撃者が明確な殺意を持っていたかは疑問です。計画性も感じられません。ノルドン氏を標的とした犯行であれば、凶器を用意していたはずですし、不意を衝く気であれば、もっと相手に近づいてからするでしょう。そのいずれも行なわれていないのですから」
「しかし、犯人はなぜ、『箱』にそこまでの執着心を示したんですかね?」
レトはすぐに答えなかった。「答えなかった」と言うより正しくは「答えられなかった」ようだ。フォーレスのひと言に考え込む表情を見せたのだ。
「フォーレスさん。僕はこの事件が、どうも辻褄が合わないので悩んでいるのです」
「辻褄が合わないとは、どういうことですか?」
「僕はノルドン氏がベンデルに『エリファス・レヴィの小箱』に仕かけられた術式を解くよう要請されたと考えています。そして、昨夜の襲撃事件で逃亡する羽目になったベンデルが箱の回収にここへ立ち寄ったのだと思うのです。ですが、この後の展開が合わないのです。そのままでいけば、ベンデルはノルドン氏に襲いかかって箱を強奪し、結果的にノルドン氏を死に至らしめた、という話になりそうです。でも、そんなことにはならない。ノルドン氏がベンデルに箱を渡すのを拒否したとは考えにくいからです。ノルドン氏から箱を奪ったのは、ベンデルとは別の人物ではないかと思います」
「では、ベンデルはここに立ち寄らなかったと?」
「いいえ。たぶん立ち寄っています。それは箱が二つとも残っていないからです。ノルドン氏の娘、ティルカさんから『エリファス・レヴィの小箱』は依頼で預かっているものと、もともと所有しているものの二つがあること、そして、ノルドン氏所有の箱は金庫の乗ったテーブルの下の引き出しにしまわれていることを聞きました。ですが、箱はそこに入っていませんでした。そして、ノルドン氏が言い残した『箱を奪われた』という言葉。そこから想像するに、ノルドン氏は依頼の箱をベンデルに渡した後、自分の箱を引き出しから取り出した。その箱を手にしているところへ、別の人物が現れた。その人物はノルドン氏が持っている箱を見るや襲いかかって箱を奪い、ノルドン氏を殺した。推理とは呼べませんが、この考えが一番しっくりします」
フォーレスは自分よりかなり若い青年の顔をまじまじと見つめた。レトの評判は以前から耳にしていたが、どちらかと言えばそれは悪評だった。下級市民の出で、飛び級で上級市民の地位を獲得した。討伐戦争で名の残る手柄を挙げたわけでもないのに、だ。王太子肝いりで設立された探偵事務所に入り、憲兵と同等の権限を持つ探偵として、こちらの職域に入ってきた男。憲兵たちからすれば、それだけで気に入らないが、さらにいちいち癇に障る物言いをするとかで、人格面でも否定的な意見が多かったのだ。今回たまたま一緒に事件を追う機会を得て、レトの仕事ぶりをじっくり見ることができたのだが、フォーレスは聞いてきた悪評はレトを貶めるための意図的なものだと考えるようになっていた。憲兵の中でも、ここまで事件に対して冷静かつ公平に考える者はいない。自分でさえ、『ベンデルすなわち殺人犯』という図式以外、頭に浮かんでいなかったのだ。レトは事件現場を確認し、自分なりの考えをまとめている。周りがどんな考えであろうと、自分が納得できないかぎり、その考えを認めないのだ。簡単に周囲に同調しない姿勢は、たしかに敵を作りやすい。しかし、レトは孤立することを恐れず、自分を曲げることをしない。考えの組み立て方も論理的で理解しやすい。同僚が吐き捨てるように言った「癇に障る物言い」も、レトから聞いたことがない。少なくとも自分に対して失礼に当たる言動はしていない。
「どうかされましたか?」
フォーレスがずっと無言でいることが気になったのか、レトはいくぶん居心地悪そうに言った。
「ああ、どうもすみません。あなたが『ベンデル以外の何者かによる犯行』と言うものですから」
「何か異論があるようですね」
「いいえ。今までが『ベンデルが犯人』論者だったんです。ですが、あなたの話を聞いて、考え方が変わったようです」
「考え方が変わった?」
「犯行現場の目撃者がいない限り、真相は基本的にやぶの中です。そうなれば、我々憲兵は真相究明より、事件の解決……いや、事態の収拾が優先されるようになるのです。今回のような事件の場合、ベンデルを逮捕し、ベンデルを裁けば事態は収まります。ベンデルは裁かれるべき悪党ですし、おそらく、そのことが民衆の望む解決でもありましょう。しかし、あなたはそれを良しとしていない。状況を分析し、冷静に真相を追及している。それによってベンデルが犯人でないという結論になろうと、その考えを捨てようとしない」
レトの表情はきょとんとしたものだった。ずっとかたわらで捜査に協力してくれたフォーレスがそんな考えをしているとは思ってもみなかったのだ。やがて、少し険しい表情になって、レトは口を開いた。
「フォーレスさん。あなたは頭の回転も速く、現場の観察眼も優れています。それでも、あなたは事件の解決に、真相の解明は必要ないと考えているんですか?」
「真相解明には限界があります。すべて解明できるわけではありません。しかし、我々はすべての事件解決を求められている。解明部分が中途半端でも、これで良いと言える解決があれば、それを選択する。それが憲兵の考え方です。例えばある殺人事件で犯人ははっきりしているが、動機が不明という事件に遭った場合、我々は犯人が口をつぐんでいるかぎり、動機について追及しません。ただの怨恨であろうと、やむにやまれぬ事情があろうと、殺人は殺人ですから。今回の場合、どっちにしろベンデルは裁かれる身です。殺人についてベンデルが犯人であるという確証がなくとも、憲兵の中で気にする者はいないでしょうね。真相の価値は高くはない。重要なのはどう解決するか、なのです」
そこで、フォーレスは軽く咳ばらいをした。
「ですが、私は考え方が変わった、と申しました。あなたは真相解明に対し、真摯で誠実だ。そして、状況分析は論理的だ。こちらが考えもしなかった筋道で、この事件の真相に迫っている。我々は簡単に真相究明を諦めてきたのかもしれない。我々も、もう少し捜査の技術や思考方法を身につけていけば、真犯人を見つけ出す精度を上げられるはずです。私は、今はそのように考えています」
レトの表情から険しさが消えた。
「では、もう少し、真相究明にお付き合いいただけるんですね?」
「もちろんです」
「では、もう一度、現場の状況を検証してみましょう。ノルドン氏はリュックに外出の用意を詰め込んでいた。それは自分ひとりだけでなく、娘の分も用意していた。さらに『エリファス・レヴィの小箱』を引き出しから持ち出して、手に持っていた。それが、事件発生直前までの、ここの状況だった。そう見て間違いないですね」
フォーレスはためらいなくうなづいた。
「そう思います」
「ここから想像するに、ノルドン氏は娘の帰宅と同時に、この部屋を出るつもりだった。荷物の中身と、所持金から考えて、長期間ここを離れるつもりだった。離れるのは長期間どころか『ずっと』かもしれません」
「私も、ノルドン氏は『夜逃げ』を企んでいたものと思います」
「夜逃げ……ですか」
「言いかたが気に入らなければ、『逃避行』を行なうつもりだった、と言い直します」
「いえ、どちらにせよノルドン氏がここから逃げるつもりでいたことは間違いないでしょう。フォーレスさん、ノルドン氏は何から、また、なぜ逃げようとしていると思いますか?」
「ベンデルからでしょう、もちろん。……なぜかって、ことになると……」
「単純にこれ以上ベンデルと関わり合いになるのが嫌だから、というのがわかりやすいのですが、そうであれば、逃げるのを急いだ理由は何か、ということになりますね。ベンデルから別の無理難題を押しつけられたのならわかりますが、それはたぶん違います」
「どうして、そう考えるんです?」
「ベンデル自身がすでに逃亡者だからです。箱の回収を行なったのは、王都から離れるつもりだったからです。そんなベンデルにはノルドン氏に次の依頼を課す考えがないはずです」
「ベンデルが逃げるつもりであることを知って、自分も憲兵に追われると考えて逃げようとした、とか」
「いいえ。ベンデルはノルドン氏に自分が王都から離れることを知らせたりはしないはずです。あわよくばノルドン氏が逮捕されれば良いと考えていたかもしれないからです」
「その意図は?」
「自分たちが逃げる間に誰かが誤認逮捕でもされれば、その取り調べの間に逃げる時間が稼げます。ノルドン氏は箱の開錠だけを依頼されたと思われるので、ノルドン氏はその事情の説明をするでしょう。しかし、その話を裏付ける肝心の『箱』はありません。ノルドン氏の取り調べは時間がかかるはずです。ベンデルにすれば、ノルドン氏はうってつけの『いけにえ』なのです。ベンデルは自分が憲兵に追われていることを『おくび』にも出さずに箱を引き取ったと思います」
「なるほど、そうなるとノルドン氏の行動は謎ですね。ノルドン氏が急に逃亡を図らなければならない事情は何でしょう?」
レトは頭を左右に振った。「そこはまだわかりません」
そこへ扉の鈴がカランと鳴った。ふたりが振り返ると、外で立ち番をしていた憲兵がもうひとりの憲兵を伴い入ってきた。新たに現れた憲兵はかなり若い男だった。髭が薄く、まだあどけない顔に度の強い眼鏡をかけている。その若い憲兵はレトたちを正視せずにあちこちに視線を走らせながら、ぎこちなく敬礼をした。
「ご、ご報告にまいりました!」弱気そうに見えて声は大きい。
「どうぞ、お願いします」レトは先を促した。
「は、はい! 実はベンデルと思われるアジトを発見いたしました!」
「それは確かですか?」
レトは思わず大声になった。それに委縮したのか、若い憲兵は小声で「はい」とだけ答えた。
「これで捜査が進展します」レトはフォーレスにほっとしたような顔を見せた。
「あの……、実は……」若い憲兵は言いにくそうに話を続けようとしている。
「あ、ああ、すみません。まだ、報告事項があるのですね? それは何です?」
再び話を促されたものの、若い憲兵は話しづらそうだった。かたわらに立っていた立ち番の憲兵が肘で軽く脇を小突く。
「え、ええと、実は、さきほどベンデルのアジトに踏み込んだのですが……」
小突かれて身体を不自然に歪ませながら、若い憲兵は報告を続けた。
「全員、死んでいました!」