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パンドラの箱に希望はない 5

Chapter 5


24


 礼拝日の朝は気持ちがいいほど晴れ渡っていた。夜中に少し雨が降っていたのだが、それがかえって空気を澄んだものにし、路地に生えている雑草ですらみずみずしい輝きを与えていた。

 メルルは目覚めるとすぐ出かける支度を整えた。髪をとかし、三角帽子をちょんと載せて、鏡に映る自分の姿をあちこち角度を変えながら確認した。朝食に用意しておいたパンを口に放り込むと、自分の部屋から飛び出した。ウキウキする気持ちを抑えられないのだ。夕方からは夜勤で張り込みの仕事が待っている。本当は昼過ぎまで寝ていたいところだがティルカとの約束も大事だったのだ。

 約束の場所――ふたりが初めて出会った場所は、夕方とはまた別のすがすがしい光景が広がっていた。青空の下に、大聖堂の鉄塔や建物が朝日でくっきりと良く見える。夕方のやや煙った景色も美しいが、朝のすっきりと見渡せる景色も悪くない。ティルカは胸壁の狭間に腰かけて、スケッチブック片手にこの風景を眺めていた。

 「おはよう、ティルカ。もう来てたのね」

 ティルカは振り返った。口の端に満足そうな笑みが浮かんでいる。

 「おはよう、メルル。この間見た、夕方の景色がきれいだったから、朝の景色もスケッチしたいと思って早めに来たの」

 「わぁ、どこまで描けているの? 少し見せて」

 両手を突き出すメルルに、ティルカは少し苦笑いしながらスケッチを手渡した。正直なところ、このメルルの反応は予想通りだったのだ。

 スケッチブックを受け取ると、メルルはさっそくスケッチブックに描かれた街の風景に目をやった。青空の下、大聖堂を中心に広々とした街の風景が色鉛筆で再現されている。以前にも思っていたが、ティルカの色彩感覚はメルルの予想を上回っている。実際の街の建物は青色の屋根瓦で統一されている。景観の統一性のためだ。ティルカはその屋根に青色だけでなく、緑色と赤色の鉛筆も使って、屋根瓦の微妙な陰影を再現していた。影だったら黒色を使うことしか思いつかないメルルには、それだけで新鮮な驚きがあった。

 「やっぱりすごい、ティルカの絵は……。あなたにはこの街がこういう風に見えているんだね……」

 メルルの感嘆のため息に、ティルカはクスっと笑った。

 「まさか。見えているまんまを再現するなんて、出来っこないわ。ただ、私は見た印象を出来るだけ絵にしているの」

 「見た印象を絵にする? どういうこと?」

 ティルカはすとんと狭間から飛び降りると、メルルの脇からスケッチブックを手前にめくった。

 「この間見た夕方の風景は赤色が中心だけど、赤色だけでは何の形もわからなくなるでしょ? 街の風景はいろんな色で出来ている。夕方の赤色に抵抗するような色もあるの。私はそれを拾って、スケッチブックの上に置いてあげる。そうしたら、その色は建物の影になったり、雲の形になったりするわけ。今朝のこの風景だっら……」

 ティルカはスケッチブックのページをまた戻す。

 「青色中心の中に抵抗する色を拾っているの。それが赤色や緑色になるわけ」

 「それが屋根瓦の影になるのね」

 「そう」

 ティルカは力強くうなづいた。

 「これが油絵になったら、どうなるんだろう。早く油絵のほうも見せてよ」

 メルルは気持ちが抑えられないようにせがんだ。

 「わかってるって。こっちよ」

 ティルカは通りを下る道を指さす。ふたりは並んで歩き始めた。ティルカの住む区まではだいぶ下らなければならない。それでも、ふたりは早く着くのが惜しいかのように、急ぐふうでもなく話しながら歩いていった。何人かふたりを追い越していったが、ふたりは気にも留めなかった。それほどおしゃべりに夢中だったのだ。

 ティルカの住む区は通りをまたがる脇道へ下った、その先にある。小さな店舗が肩を寄せ合うように密集しているため、どこかごみごみとした印象を持たれるところだ。『ノルドン魔法鍵店』があるのは、さらに細い道が入り組んだ狭い並びにあった。

 「メルルのところのように眺めは良くないけど」

 ティルカが店の看板を指さしながら、

 「ここが私の家」

 「魔法鍵店なんて、あったんだ……」メルルは看板を見上げた。

 「父さんのお店よ」

 「じゃあ、お父さんも魔法使いなの?」

 ティルカはちょっと困ったような表情になった。

 「魔法の学校を出ているみたいだけど、魔法使いにはならなかったんだって。昨夜も言ったけど、教師をしていたんだ」

 「あ、そうだったね」

 「魔法の術式の知識は豊富なんだけど、父さんが魔法を使うところって見たことないわ。メルルのような魔法が使えるかどうかも私は知らないわ」

 扉の取っ手に手をかけながらティルカは振り返った。

 「父さんの姿を見たら、元教師なんて思えないんじゃないかな。だって、あんまり『理知的』に見えないんだもの」

 「お父さんをそんなふうに言うなんて……」メルルは苦笑いをした。

 扉の鈴がカランと鳴ると、ノルドンは席から飛び上がるようにして立ち上がった。慌てた表情で戸口に目をやる。そこにティルカの姿を認めると、胸を撫でおろして深いため息を吐いた。

 「やぁ、お帰り。ティルカ」

 「ただいま、父さん」

 扉の陰からメルルがひょっこりと顔を出す。

 「お邪魔します」

 「おや、こちらは?」

 ノルドンは眼鏡をかけ直して、メルルの顔を見つめる。

 「昨夜、話したでしょう。お友達のメルル。今日、私の絵を見に来るって」

 「あ、ああ、そうだったな。聞いていたよ、もちろん。いらっしゃい、メルル。特におもてなしはできんがゆっくりして下さい」

 「ほんと何もないの。ごめんね」

 「いいえ、勝手に押しかけているんですから」

 メルルは両手をぶんぶんと振った。

 「こっちよ」

 ティルカに促されるまま、メルルは2階へ通じる階段を登っていった。途中でノルドンを見ると、ノルドンは作業机の前で立ったままでこちらを見ている。作業机の上はノルドンの身体に遮られて、何の作業中なのか見ることができない。メルルはノルドンに軽く会釈して2階へ上がった。

 ティルカたちの居室に上がったメルルは、ふたりが住んでいる部屋が思った以上に狭いことに驚いた。自分の部屋よりは広いが、ふたりが住むにはいろいろ不便だと思えた。

 「ここがティルカの家なんだ……」

 「狭くて驚いた?」

 ティルカはメルルに笑顔を向けると壁際の棚へ歩み寄った。

 「え? ううん、そういう意味で言ったんじゃないよ」

 「いいのよ、私自身がそう思っているんだから」

 ティルカはそう言いながら棚の扉を開いた。棚の中には何枚かのキャンバスが収められている。ティルカはそれらを抱えるとベッドまで運び、そこに置いた。

 「これが油絵」

 「これ全部?」メルルは油絵を手に取ってみた。

 「そう」

 メルルが油絵に顔を近づけると、ぷぅんと独特と匂いがした。何かの工場の近くで嗅いだ匂いと似ているが、その工場ほど化学的な刺激臭でもない。

 「何の匂いがするのかな?」

 「テレピン油ね。絵具を溶かすのに使うの」

 ティルカは説明しながら再び棚に戻ると、今度は棚の上に手を伸ばす。

 「そして、これが今までのスケッチ」

 メルルは手渡されたスケッチをベッドの端に腰かけながらのぞき込んだ。

 「あ、この絵、さっきの油絵と同じ構図だ。このスケッチを油絵にしたの?」

 「そうよ。色鉛筆と油絵具じゃ、雰囲気がかなり変わるでしょ?」

 メルルはキャンバスとスケッチを両手で持ち上げて、交互に見やった。

 「とても変わるんだね、同じ風景なのに違うものみたい」

 絵はどちらも大聖堂を正面から描いたものだ。周りを圧倒するほどの巨大建築物である大聖堂を少し離れたところから見上げるような構図だ。色鉛筆では爽やかな青空の下、大聖堂は穏やかに鎮座しているように見える。一方で油絵は、重厚かつ荘厳な大聖堂が青空に突き刺さらんとそびえ立っているようだ。見るものを圧倒するような迫力がある。

 「すごい、やっぱり、ティルカはすごい」

 メルルは感嘆の声をあげた。期待はしていたが、予想を上回っている。

 「ふふっ。褒めてくれるのはあなたぐらいよ」

 ティルカはメルルの隣に腰を下ろした。

 「お父さんは褒めてくれないの?」

 「父さんは絵のことはさっぱりみたい。悪いと言われたことはないけど、いいって言われたこともないわ」

 「それは寂しい」

 メルルのひと言にティルカは再び笑ったが、

 「でもね、このキャンバスも、スケッチブックも、油絵具も、全部、父さんが買ってくれたの。お願いも、おねだりもしなかったのに。絵のことはわからないけど、応援してくれたんだよ」

 そう答えてベッドに倒れ込んだ。そして、天井を見上げた姿勢でつぶやいた。

 「父さんは、そういうひとなんだ……」

 メルルは無言でスケッチブックを眺めた。少し前のことが胸の奥に甦ってくる。メルルの父親は、魔法の修行に一番強く反対していた。しかし、メルルが先生とともに村を出ることになると、旅に必要なものをいち早く取り揃えてくれたのは父だった。ティルカの言いかたを借りれば、『お願いも、おねだりもしなかったのに』だ。

 「『お父さん』って、そういうものなんだろうね。たぶん」

 メルルはしんみりとつぶやいた。

 「今、あなたのお父さんは魔法の修行をしていないことを知っているの?」

 ふいに思いついたようなティルカの質問にメルルはどきりとした。

 「あ、あはは。先生が亡くなったことは手紙で知らせたんだけど、その後のことは詳しく伝えていないんだ……」メルルは正直に白状した。

 「やっぱり、村に帰ってこいって言われるから?」

 「それもあるけど、今、新しい目標で頑張ると決めているから」

 「そう言えば、昨夜、中途半端で聞きそびれたわね。今、何の仕事をしているの? それが新しい目標と関係あるの?」

 メルルはスケッチブックとキャンバスを脇に置くと、困ったような表情で頭をかいた。

 「う、ううんとね……。今、私が働いているのは『メリヴェール王立探偵事務所』ってところなの」

 ティルカはさっと身を起こした。顔が少し青ざめる。

 「探偵事務所?」

 メルルはぎごちなくうなづいた。

 「先生が魔族に襲われて亡くなったとき、その事件を解決してくれたのがレトさんだったの。レトさんって、剣士なのに魔法も使えるすごいひと。いろんなことも知っていて、どんな難事件も解決しちゃうの。私はレトさんに先生と同じようなものを感じたんだ。自分にとっての損得で行動なんかしない。自分の力をどう正しく使おうか、それをずっと考え続けているひと。それがレトさん。目標を失ったと思っていた私には、先生から引き合わされたような気さえしたわ。それで、無理を承知で王都までついて行って、事務所の所長さんに雇ってほしいって頼みこんだの」

 「……で、雇ってもらえたんだ」

 「助手見習いなんだけどね。何の資格も免許も持っていないから、ここの探偵になりたければ魔法使いの免状を手に入れなさい、それができれば探偵にしてやってもいいって言われてるの。だから、今、働きながら魔法の勉強をして、2年後には魔法学院に入学するつもりでいるの」

 「2年後に?」

 「魔法学院に入学できるのは、18歳からだから。2年もの間、独学で魔法の知識を増やすのは大変だし、その間、働いてなきゃ生活できないし。その点、あの事務所だったら、働きながら魔法のことも身につくから一石二鳥よね。仕事上で必要になるからって、レトさんやヴィクトリアさんが魔法を教えてくれるんだ」

 「そうだったんだ……」

 ティルカは混乱する気持ちを抑えながら、努めて平静な声を出そうとした。

……この子が探偵事務所に? なんてこと……。

 「ティルカ、どうかしたの?」

 メルルはティルカの顔をのぞき込んだ。少し心配顔になっている。

 「あ、ごめんなさい。ちょっと、びっくりしちゃったんだ。メルルが探偵だなんて」

 「探偵じゃないの、探偵助手見習い。でも、魔法使いの免状を手に入れたら、正式に探偵になるつもり」

 「……そ、そう。叶うといいわね、あなたの夢」

 「ありがとう。でも、ティルカは私よりすごい才能があるんだから、本気で絵描きになること、考えてみない?」

 ティルカは苦笑いをするしかなかった。

 「考えてみるわ」

 それから、ふたりはしばらく語り合ったが、ティルカは自分の動揺を悟られまいとするのに必死で、何を話したのか覚えていないほどだった。メルルもその様子に気付いたのか、話もそこそこでベッドから立ち上がった。

 「そろそろ、お暇するわ、私」

 「あ。そ、そう、じゃあ」

 ティルカも立ち上がった。メルルを階下へ送る途中も、メルルに何か不審に思われていないか、気が気でなかった。

 「お邪魔いたしました」

 階段を降りると、メルルはぴょこんとノルドンに向かっておじぎした。ノルドンはメルルたちが階段から降りる音にすばやく反応して、メルルの視界から作業机を遮るようにして立っていた。

 「ああ、もう、お帰りかね。本当に何のおもてなしもできずに……」

 「お気になさらないでください。今日はティルカの絵を堪能できたので、本当に来て良かったです」

 メルルの笑顔にノルドンの顔もほころんだ。「それは良かった」

 メルルはくるりとティルカにも笑顔を向けた。「また、遊びに行ってもいい?」

 「も、もちろんよ。こんなところで良ければいつでも」しかし、これは半分嘘だった。

 「またね」とメルル。

 「またね」ティルカも応じた。

 カランと扉の鈴が鳴り響き、メルルは店を出て行った。ティルカは閉じられた扉の前でしばらく立ち尽くしていた。

 「どうかしたかね」

 ノルドンが心配顔でティルカに歩み寄った。ティルカは弾かれるように扉から離れた。

 「何でもないわ、父さん」

 「……そうかね」ノルドンの声は少し疑わしげだった。

 「本当に何でもないわ。それと、父さん。今夜、少し出かけるわ」

 「今夜? 一体何かね?」

 「さっき、メルルと約束したの。メルルの部屋から、王都の夜景をスケッチさせてもらうって。昨夜見た景色は本当にきれいだったの。いいでしょ? もう約束しちゃったし……」

 ノルドンは力無げに首を振った。

 「もう約束したのなら、仕方ないじゃないか」

 「ごめんね、父さん。できるだけ早く帰るわ」

 ティルカはそのまま2階へと駆け上がっていった。今度はノルドンが立ち尽くしている。やがて肩を落とすように作業机へ戻ると、疲れたようにどかりと椅子に座った。その音は2階のティルカの耳にも届いていた。

 「本当にごめんなさい、父さん」

 ティルカは目を閉じて小声でつぶやいた。

 

25


 王都に夕闇が降りてきている。

 メルルはマントン商会を近くに望むことができる運河沿いの貸倉庫にいた。マントン商会の建物は、運河を挟んで向かい側にある。この貸倉庫は張り込み拠点のため、急遽借り上げたものだった。メルルはここでレトから張り込みの引継ぎを受け、さらに商会近くの張り込み現場へ向かうのだ。

 「お疲れ様です」

 レトはあまり疲れた表情を見せずに現れた。

 「ご苦労、報告を」

 所長は労いの言葉もそこそこに報告を促した。貸倉庫の中には所長のほか、コーデリアとインディ伍長の姿もあった。所長からの要請を受け、憲兵隊も動いていたのだ。倉庫に居る者は全員、小さなテーブルを囲むように座って、レトの到着を待っていたのだった。

 「昨夜に関して言えば、完全な空振りでした。辺りの探索も慎重に行いましたが、何者かに監視されている様子もありませんでした」

 レトは淡々と報告を始めた。肩にアルキオネの姿はない。張り込みには連れて来ていないようだ。

 「まったく動き無しか」

 「ええ」

 「しかし、狙われているのは、確か、何だろう?」インディ伍長が口を挟む。

 「今朝、盗賊が下見に登ったとみられる雨どいを調べました。確かに誰かがよじ登った形跡がありました。屋根までは相当な高さがあります。よほどの怖いもの知らずか、自分に自信がなければ、あそこをよじ登るなんてできませんね。誰かが気まぐれで登るようなものではないです。はっきりとした目的がある者の行動です」

 「昨夜が空振りであれば、今夜の可能性は高まったな。盗賊確保に有利な位置は確認できたか?」

 「はい。盗賊たちは、おそらく下見に使った仲間を再び侵入役に使うと思います。その人物が屋根から侵入し、1階の大扉を内側から開けて仲間を入れる計画ではないかと。一網打尽にするには、最初の侵入者が仲間を建物内に招き入れた瞬間を狙うのが一番だと思います」

 「そうだな」

 「そこで人員の配置ですが、1階商品の山の陰に数名を分けて配置。商会代表の部屋にも数名。これは上の階に逃走する者対策です。それから、商品運搬用の荷馬車を用意してあります。荷台全体に幌をかけてあるので、そこに隠れられます。荷台には6から7名は配置できます。馬車はそのまま商会敷地に入って、建物の大扉脇に待機してもらいます。これらの人員に所長たちを入れて、総勢20名で待ち伏せます。昨夜はこれと同じ態勢で待ち伏せていました」

 「その人数で足りるんですか?」メルルは思わず質問した。

 「百人を超えた『イボック盗賊団』のような規模の盗賊団は、今はいないからな。10名程度であれば、我々で制圧できるはずだ。それに相手の不意を衝くんだ。それだけでもこちらに有利だ」

 所長の声は力強く、自信に満ちていた。

 「細かな配置については、こちらの図面に記しておきました。詳しくはこちらをご覧ください」

 レトは所長たちが座っているテーブルの上に図面を広げて置いた。

 「改めてご苦労だった。レトとヴィクトリアはここから引き揚げて休んでくれ」

 「はい、失礼します」

 レトは頭を下げると部屋から退出した。レトは去り際にメルルに向かって「気をつけて」とだけ声をかけた。

 「お、お疲れ様ですぅ」メルルは慌てたように頭を下げた。

 「今夜もレトがいないけど、メルルは大丈夫よね?」

 背後から突然声がして、メルルは思わず飛び上がった。

 「だ、誰?って、ヴィクトリアさん! いつの間に私の後ろに?」

 「えー? ずっと後ろにいたよー」

 「あからさまな嘘をつかないでください……」メルルはげんなりした表情になった。

 「ヴィクトリアは裏口から入ってきたわ。それから、あなたの背後にそっと回ったの」

 「コーデリア。簡単にネタばらししないでよ」

 インディ伍長が咳払いをした。

 「あ、ええっと……。お前らは、いつも、じゃれあって、仕事してるのか?」

 「申し訳ない、あとで叱っておく」

 所長が詫びると、ヴィクトリアは首をすくめた。「どうぞ、お手柔らかに」

 「お前はさっさと帰って休んでいろ」

 所長にじろりと睨まれ、ヴィクトリアは「じゃあ、お先。お疲れさまぁー」とのんきに手を振って出て行った。扉が閉まると、残った者たちからため息が漏れた。

 「……まぁ、これで変な硬さは取れた。すぐ現場へ向かおう」

 所長の言葉にメルルは反応した。

 「……ひょっとして、ヴィクトリアさん、私たちから余計な緊張を解こうとしてふざけたんですかね」

 全員、無言でメルルを見つめる。周囲の視線に、メルルは小さくなった。

 「やっぱり、違いますよね……」


 一行を乗せた荷馬車はガラガラと派手な音を立てながら、石畳の道を急ぐでもなく進んでいる。馬車にはメルル、コーデリアと所長のほか、数名の憲兵が同乗していた。インディ伍長は本部に残った。現場の指揮は所長が行なうことになる。

 「礼拝日に馬車が入ったりしたら、連中に怪しまれないですか?」

 メルルは所長に小声で話しかけた。

 「たまたま礼拝日に仕入れ商品が届いた、という触れ込みになっている。荷物を運び入れるふりをして交代人員を運び入れ、今まで商会に居た者たちは本当に解散してもらう。全員が商会から出て行ってしまうので、離れたところから監視している者がいれば、きっと人が出払ったと思うだろう。そういう手筈だ」

 「なるほどです」

 盗賊に監視されているかもしれない状況で、大勢を交代で入れ替えるのはどのようにするのだろうとは思っていた。しかし、憲兵隊も探偵事務所の者たちも慣れた様子で態勢を整えつつある。メルルの心配は杞憂と言えそうだ。

 荷馬車のガラガラという音が別の音に変わった。荷馬車が石畳の道を外れ、商会の門をくぐり抜けたのだ。荷馬車は商会の建物の脇に停まると、馭者はすばやく馬車から降りた。商会の前には何人かの男たちが待ち構えており、荷馬車から大きな包みを次々と建物の中に運び込み始めた。もちろん、包みの中は商品ではない。交代の憲兵が隠れているのだ。

 『荷物』をすっかり運び入れると、「今日の荷物はこれで最後です!」と大きな声が響いてきた。その声にあちこちから「お疲れ様です」の声が返ってくる。

 商会の大扉はギリギリときしむ音を立てながら閉じられ、「では、解散!」という声が聞こえてくる。男たちが商会から立ち去るザクザクという足音が遠ざかると、辺りはすっかり静かになった。

 「さぁ、これから持久戦だ」

 所長は小声でメルルに囁いた。メルルは所長たちと一緒に荷馬車の幌の中に隠れていた。幌には小さな穴が開けられて、外の様子をうかがうことができた。メルルは緊張した面持ちで外に目を向けた。

 「持久戦」という言葉は、大げさなものではなかった。日が暮れて、辺りがすっかり暗くなっても、周囲に何の動きもなかったのだ。メルルは辺りにひと気がなくなったら、盗賊たちはすぐに動き出すと踏んでいたのだが、まったく当てが外れた。たまに人影が見えると、『来た!』と思うのだが、その人影はそのまま商会の前を通り過ぎていくばかりだった。メルルはじりじりとしながら『その時』を待った。

 夜がだいぶ更けてきた。たまに通り過ぎていた人影は、今ではほとんど見られない。辛抱強いことを自負しているメルルも、『今夜はもう来ないだろう』と考えるようになってきた。

 「そろそろ来そうね」

 ふいにコーデリアの声が聞こえたので、メルルは少し飛び上がった。

 「ど、どうして、そう思うんです?」

 メルルはコーデリアに囁いた。

 「さっき通り過ぎた人影。あれはここの前をもう3回通り過ぎている。こちらに動きがないか探っているんだ」

 メルルは驚いた。

 「影で見分けがつくんですか?」

 「大体でわかるわ」

 コーデリアは何でもないことのように答える。

 「しっ!」所長が警告した。

 メルルが外へ目をやると、商会をぐるりと囲む塀から次々と影が乗り越えてくるのが見えた。影の大きさは大小さまざまだった。影の数は全部で5つ。その中の一番ほっそりした影が商会の建物の前に進み出てきた。

……まさか。

 メルルが思った瞬間、影はとい(とい)を伝って上に登り始めた。まるで重力を感じさせないほど軽々と登っていく。メルルは呆気に取られて見つめていた。

 影は間もなく屋根に到着した。そこには盗賊用の『ねずみがえし』が行く手を遮っている。しかし、その影は慌てる様子もなく、長い紐にくくりつけられた鉤を取り出すと、屋根の上に放り投げた。鉤が屋根のどこかに引っかかったようだ。影は紐にぶら下がると、するすると屋根の上へと姿を消した。

 メルルは相手の身軽さに舌を巻いた。自分では、こんな高いところはとても登れる気がしない。半分も登らないうちに力尽きて、下へずり落ちていることだろう。

 仲間が屋根の上に上がったのを見届けた残りの影たちは、商会の建物へと移動を開始した。商品の搬入に使う大扉の前に整列するように並んで立っている。

 メルルは突撃の合図が来るのを、杖を握りしめながら待った。そろそろ合図が来ると思ったからだ。だが、この時点では、所長からの合図はなかった。

 ごとりっ、と大扉のほうから大きな音が響いてきた。今までが静寂だったため、異常に大きく聞こえる。

 大扉はさらにごとりごとりと音を響かせて、ゆっくりと開きだした。先行した者が内側から大扉を開いているのだ。

 待機していた影たちは大扉が開ききる前に建物の中へ入り込んだ。最後の一番小さな影も建物の中へ姿を消すと、「今だ!」所長が小さく叫び、荷台の幌を上に弾き上げた。メルルは憲兵やコーデリアとともに荷台から飛び降りた。


 ピィー!

 

 夜の空気を切り裂くように呼子の笛が鳴り響いた。


26


 ティルカは18時きっかりにベンデルのアジトに姿を現していた。アジトにはルゥの姿が見えなかった。偵察に出かけているようだ。

 「おい、嬢ちゃん。背中の袋は何だ?」

 ティルカはノルドンに「スケッチに出かける」と言っていた手前、手ぶらで外に出るわけにいかず、スケッチの用意をリュックに入れていたのだ。ただ、そのことを説明したくなかったティルカは黙ってリュックを下ろすと、荷物の中から紐に括りつけられた鉤を取り出して見せた。先日、商会の屋根に登るのに使った、あの鉤だ。

 「なるほど、用意がいいな。嬢ちゃん」

 ベンデルは機嫌が良さそうだった。

 「兄貴、こっちも用意できましたぜ」

 ジョン・ペリー

が袋を背負いながら声をかけてきた。

 「よし、じゃあ出かけるとするか」

 ベンデルは勢いよくアジトの扉を押し開けると、仲間たちを引き連れて出て行った。ティルカはその最後尾について外へ出た。ベンデルたちとはやや距離を空けて歩く。可能性は低いが、知り合いにこんな連中と一緒に歩いている姿を見られたくなかった。出来れば、早く黒装束に着替え、覆面を被りたいところだ。まだ日が明るくて人通りの多い中では、不審すぎて目立ってしまうだろうが、ベンデルたちと歩いているティルカにとっては、覆面姿でいるほうがはるかにマシだと思えた。

 だから、商会の建物が近くに見えるところまで来た頃に、あたりの人通りがほとんどないとわかって、ティルカは少しほっとしていた。

 あとひとつ角を曲がれば商会というところで、ルゥが待っていた。これまで見ていたときとは違う、いかにも一般の町人のような地味な服装だ。これまでは黒い皮服に身を包み、腰にナイフをぶら下げた、いかにも怪しい恰好だった。ルゥは町人姿になると、思っていた以上に普通の人に見える。ティルカはそれがわかって少しぞっとした。

 「よぉ、ルゥ。様子は?」

 「あぁ、兄貴。商会の前を2回やり過ごしてみましたがね。まったく動きはみられなかったっすね。今日は18時まで人がいたんですが、もう全員帰っちまったようです」

 ベンデルの眉がぴくりと動いた。

 「礼拝日に仕事をしていたのか?」

 「え、ええ。それとなく探りを入れてみたら、本当は昨日に着いてなきゃいけない商品が、今日着いたってことだそうで。運送屋に預けたままだと、今日の礼拝日の分も保管料を取られるってんで、商品を運び込むことにしたそうです」

 「商売人だねぇ。保管料の節約のためには礼拝日も仕事するってか」ベンデルは感心したような口ぶりだが、その表情はいかにも馬鹿にしているようだった。

 「一応、出入りの人数を数えて、全員出て行くのは確認しました。それから商会の周りを歩いてみたんですが、あれから人の気配はまったくありませんでしたぜ」

 「本当に臨時の仕事だったみたいだな。しかし、船はつけることができたのか? 人の出入りがあったんじゃ、船を寄せられなかっただろ」

 「いえ、運河のほうは誰も近づいちゃいませんでしたので、連中が出て行ってすぐ、運河側の搬入口の前につないでおきました。船の準備は万端ですぜ」ルゥは胸を張った。

 「じゃあ、俺たちも仕事を始めるとするか。ルゥ、最後にもう1周、商会の前を歩いてみてくれ。今度は俺が死角から様子を見てみる」

 「へい」

 ルゥは素直にうなづくと、ぱたりぱたりと足音をたてながら商会への道を歩き出した。ベンデルは目の前の壁からそっとルゥの後ろ姿をのぞき見た。ルゥの周囲に誰かいないか、監視している者はいないか、慎重に確かめているようだった。

 「考えすぎか」

 ベンデルがつぶやいた。ティルカは何を考えすぎだと言っているのだろうと思っていると、同じ考えだったのかジョン・ペリーが尋ねた。

 「兄貴、何を考えすぎと思ってるんですか?」

 「なぁに、急な商品の搬入がな。俺たちが把握している中に、そんな予定はなかったはずだと思ったからな」

 「本当に兄貴は慎重なひとですね」

 「そうじゃねぇ。長年の経験ってやつさ。予定外なことが起きると、たいていロクなことになってねぇからな」

 「脅かさねぇでくださいよ。何かあるってんですか、あそこに?」

 ジョン・ペリーはいかにも不安そうだ。スターキーが無言なのも気になる。どうも緊張しているらしい。身体は大きいのに、意外と肝は小さいのかもしれない。

 ぱたりぱたりという足音が近づいてきた。商会の前を横切ったルゥが戻ってきたのだ。

 「どうだ?」

 ベンデルが尋ねると、ルゥは肩をすくめてみせた。

 「何にも。何の動きもなかったっすよ。まったく人の気配は感じなかったですね」

 「決まりだ。やるぞ」

 ベンデルはそういうと覆面を被り始める。ティルカもすばやく黒装束を着込むと覆面を被った。

 ティルカのすばやい行動に、ベンデルが呆れたような表情になった。

 「着替えも鮮やかじゃねぇか。こりゃ、本当に俺たちの仲間にしておきたいところだな」

 「服は着込んだだけ。着替えたんじゃないわ。それに、私がこんなことをするのもこれっきりよ、絶対に」

 「わぁってるって、冗談さ」

 ベンデルの表情は覆面でわからなくなったが、それでも、口の端を釣り上げるようにしてニヤついているだろうことは想像できた。

 5人は人相を隠す準備が整うと、すばやく商会の塀の前に移動した。スターキーが両手を組むと、それを足がかりにベンデルたちは次々と塀を乗り越えていく。ティルカはスターキーに触れられるのが嫌だったので、塀の上に両手をかけてぶら下がると、すぅっと塀を乗り越えてみせた。スターキーは舌打ちした。スターキーはジョン・ペリーとルゥに引き上げられて塀を乗り越えた。ほとんど時間をかけない早業だった。

 ティルカは地面に降り立つと、すばやく周囲を見回した。街灯の明かりで、商会の敷地の様子はある程度見渡せられる。先日、下見に行った時とだいたい同じ風景だった。商会の建物の脇に、馬車の荷台が幌をかけた状態で置かれているのが以前と異なるところだ。それが急な搬入に使われた荷台なのだろう。ティルカはそう見当をつけた。

 ベンデルは事務所の入り口に駆け寄ると、扉の蝶つがいに顔を近づけた。

 「何しているの?」ティルカは小声でジョン・ペリーに尋ねた。

 「扉の隙間から明かりが見えるか確かめているのさ。誰かいるなら明かりを点けているだろうからな」

 ティルカが下見に行ったときには、そんなことをしなかった。というより、こういう方法で室内の様子を探る方法を知らなかった。

……やっぱり、私は盗賊に向いていない。

 ティルカは自分に対して少しほっとした。盗賊向きの思考が出来ないことが、今、この不愉快な事態の中で自分を許せる事実だった。

 事務所の様子を確認したベンデルは、そっと扉の取っ手に手をかける。

 「やっぱり鍵はかかってるな。嬢ちゃん、出番だぜ」

 ティルカはため息を吐くと、事務所のすぐ脇の雨どいに手をかけた。もう一度深い息を吐くと一気に雨どいをよじ登り始める。まるで空へ滑り落ちるかのようにティルカはするすると登っていった。

 「すげぇ……」ジョン・ペリーが思わずつぶやいた。

 「本当に仲間にしたほうがいいようだな」

 ベンデルが見上げたままつぶやいた。覆面で表情は読み取れないが、口調からは笑っているようだ。

 「本気ですかい、兄貴」

 スターキーが不安そうな声をあげる。仲間にするのであれば手出しできなくなると思ったらしい。

 「本気にするな、馬鹿」

 ベンデルはとたんに不機嫌な声に変わった。

 スターキーが縮こまると、上からガチンという金属音が響いてきた。ティルカが鉤を投げ、屋根の上に引っかけたのだ。

 「手際もいい」ジョン・ペリーはさっきから感心しきりだ。

 ティルカは紐に身体を移すと、そのまま屋根の上に姿を消した。

 「おい、入り口に移動だ」

 盗賊たちは商会の巨大な搬入扉の前に移動した。そのまま待っていると目の前の扉がきしむ音とともにじりじりと開き始めた。

 大人ひとり入れるほど開くと、ベンデルが仲間に顔を向けた。

 「おい、仕事だ」

 ほかの者たちは無言でうなづくと、ベンデルとともに建物の中へ入っていった。室内に明かりは見えなかった。外からわずかに入る街の明かりで、かろうじて辺りがうかがえるぐらいである。

 ティルカはこの薄暗い中で、見当をつけて入り口に辿り着き、大扉の錠を外して開いていたのだった。

 「嬢ちゃん、ご苦労」ベンデルはねぎらいの言葉もそこそこに、商品の山に近づいていく。後ろからジョン・ペリーがランプに明かりを灯して、辺りを照らし出した。

 「打ち合わせでも言ったが、運びやすいやつで魔法道具中心に集めるんだ」

 ベンデルの指示にルゥが尋ねた。

 「さっきも聞こうと思ったんすが、これだけ大量に魔法道具をかっさらうと、さばくのは難しくなりませんか? こないだのように盗賊から盗むと訳が違うんですぜ。商会の連中も憲兵に訴え出るでしょうし、闇市も調べられるでしょうからね」

 「商品をそのまま流すんじゃねぇよ。狙っているのは、これさ」

 ベンデルはひとつの箱を開けると、小さな樽状のものを取り出した。生ごみ処理のできるゴミ箱だ。ベンデルは胴の部分に埋め込まれている魔法石を指さした。小さな宝石はランプの明かりでキラリと光った。

 「ここについている魔法石や宝石を外して、これを売るのさ。俺が生ごみを肥料にする魔法道具に興味を持つと思ったのか」

 「なるほど、それなら足が付かねぇ」ルゥは納得したようだった。

 「魔法道具用の宝石だから、1個あたりの単価はそれほどでもないが、集めりゃ大金になる。俺は初めからそれを狙ってたんだ」

 「どうりで。商会を狙うなんて、兄貴も変なことを考えるなぁって思ってたんすが」

 「アタマ使えよ、頭。割のいい獲物なんて今どき簡単に見当たらねぇだろが」

 「じゃあ、大きいものより、小さいのをかき集めりゃいいんすね?」

 「あんまりショボいのはよせよ。かえって率が悪くなる」

 ベンデルたちのやりとりをティルカは離れたところで黙って見ていた。ここまで手助けはしたものの、ここにある商品に手をかけると、自分は本当に盗賊の仲間になってしまう気がしたのだ。連中は獲物に夢中でこっちに意識を向けていない。今なら、そっとここから抜け出すことができるかもしれない。そして、こんな連中とは手を切るのだ。永遠に。

 「何してんだ、お前。お前もさっさと獲物を集めるんだよ!」

 脇から大声が飛んできてティルカは飛び上がった。スターキーが監視していたようだ。

 ティルカは覆面の下で、ぎゅっと唇を噛んだ。もう、駄目だ。やるしかない。絶望的な気持ちの中で、ティルカがこわごわと商品のひとつに手をかけようとしたときだった。

 

 ピィー!

 

 表から呼子の笛が響きわたった。

 「な、何だ?」

 スターキーは手に品物を持ったまま棒立ちになる。

 ベンデルは持っていた商品を投げ出すと入り口へ駆け出した。しかし、すぐ立ち止まると今度は逆に奥へと走り出す。入り口はさらに大きく開かれて、黒々とした影がわらわらと室内へと入ってくる。

 「中央憲兵隊だ! 全員、投降しろ!」影のひとつから大声が聞こえてきた。

 「憲兵だと!」ルゥが叫び声をあげた。そして、ティルカのほうへ顔を向けた。

 「てめぇ、俺たちを売りやがったな!」

 「ち、違う! 私は何も知らない!」ティルカは叫んだ。

 急に辺りが明るくなった。誰かが建物の明かりを点けたのだ。すると周りの商品の陰からも数人ずつ軍服姿の男たちが現れた。ティルカは自分たちが待ち伏せに遭ったと理解した。

……でも、どうして?

 一瞬、メルルの顔が浮かんだが、頭を振ってその考えを払いのけた。

 今はそんなことを考えている場合ではない。憲兵たちはティルカのすぐそばまで迫って来ていた。

……屋根に向かうんだ!

 ティルカはベンデルの後を追うように奥へと駆け出した。ティルカが考えたのは、手洗いの前の階段から上の階へ駆け登る。屋根から外へ出て、運河へ飛び込む。あの高さから飛び込んで無事でいられるかわからないが、それ以外に逃げる方法が思いつかなかった。しかし、そんな考えはすぐ諦めるしかなかった。階上からこちらへ降りてくる憲兵の姿が見えたのだ。

……完全に囲まれている!

 ティルカはその場で立ち尽くしてしまった。背後にはティルカを取り押さえようと憲兵のひとりが飛びかかってきた。そのときである。絶望で無気力に憲兵を振り返ったティルカの上に大きな影が明かりを遮った。

 

27

 

 メルルは所長たちとともに商会の入り口の前で待機していた。万一、憲兵が取り逃がした盗賊をここで押さえるためである。

 室内からは怒号が聞こえる。不意を衝かれた盗賊たちが慌てふためいて逃げ惑っているのだろう。このままでいけばメルルたちの出番はないはずだ。

 「何だ?」

 所長が室内をのぞこうとした。

 「どうしたんです?」

 「室内の様子がおかしい。騒がしすぎる」

 所長につられるようにメルルも中をのぞきこもうとした。

 商会の建物の中は明かりが点いているが、商品の山が邪魔で奥が見えない。すると、その目の前の商品の山が崩れだし、ひとつの大きな影がこちらへ飛んできた。

 「危ない!」

 メルルたちは思わず後ろへ飛びずさった。影は彼女たちの足元にごろごろと転がってきた。メルルがそこへ目をやると、それは憲兵のひとりだった。

 「何事だ?」

 転がってきた憲兵は腰をさすりながら立ち上がった。腰を強く打った以外はたいしたケガはないらしい。

 「所長、奴らとんでもないものを起動しました!」

 「何?」

 「ゴーレムです!」

 憲兵の指さす方向を見ると、扉を大きく開いてゴーレムが外へ出るところだった。肩の上には覆面姿の盗賊がふたり乗っている。憲兵たちはゴーレムに飛びかかって、上によじ登ろうとするが、ゴーレムは群がる憲兵たちを払いのけるか、憲兵をつかむと無造作に放り投げるかしている。

 「報告ではゴーレムは人間を攻撃できないようにしているはずだったが……」

 所長は疑問を口にしたが、まだ腰をさすっている憲兵を横目で見ると納得したようにうなづいた。

 「主の盗賊を守るために、防衛行動を取っているんだ。人間を攻撃するのではなく、ただ排除しているってわけだ。『人間を攻撃しない』という術式はちゃんと機能しているようだな」

 「何、感心してるんですか! こっちに来ていますよ!」メルルが叫ぶ。

 「コーデリア。ゴーレムを止められそうか」所長の声は冷静だった。

 「やってみる」

 コーデリアはゴーレムの前に進み出た。今回も黒いドレス姿のままだ。貴婦人がするような白い手袋で握りこぶしを作り、戦いを挑むように身構える。

 ゴーレムはコーデリアを無視するようにくるりと向きを変えた。

 「……戦わないんだ」コーデリアはぼそっとつぶやいた。

 「どこへ逃げるつもりだ?」所長は腰から剣を抜くと後を追った。メルルも続こうとする。

 そこへ開いた扉から2体目のゴーレムが両腕に憲兵をぶら下げて現れた。それにも盗賊が2人乗っている。憲兵はゴーレムから盗賊を引きずり降ろそうと試みているが、ゴーレムの怪力に次々と振り払われている。さらにゴーレムの脇から小さな影が飛び出してきた。ほっそりとした小柄な体形で、ぴったりとした黒装束に身を包んでいた。こちらも顔は覆面で隠されている。

 小柄な人物は外へ飛び出すと、辺りをすばやく見回した。2体目のゴーレムも最初のゴーレムの後を追うように建物の角を曲がろうとしている。すると、小柄の影はゴーレムとは逆の方向へ走り出した。その先には高い塀がある。

 「逃げちゃう!」メルルは小柄な影の正面に回って杖を身構えた。しかし、魔法を唱えるためのわずかな時間もない。影は腰からナイフを抜き出すとメルルに切りかかってきた。相手の勢いに押され、メルルは後ろへひっくり返った。そこへ影がメルルに馬乗りになる。相手がナイフを振り上げ、ナイフの刃が夜空にきらめく。

……刺される!

 メルルはぎゅっと目をつむった。すると、身体が急に軽くなり、メルルは目を開いた。馬乗りになった人物はメルルをその場に残して、駆け去っていたのだ。その人物は塀に駆け寄ると飛び蹴りするように跳ね上がった。片足が塀に着くや、そのまま塀の上に駆け上がって反対側へ飛び降りてしまった。一瞬の早業にメルルはただただ呆気に取られてしまった。

 「メルル!」所長はメルルのかたわらに駆け寄った。

 「どこをやられた?」

 メルルは力なくかぶりを振った。

 「どこも刺されていません。勢いに押されて、ひっくり返っただけです」

 「そうか……」所長の口から安堵のため息がもれた。

 「ゴーレムは?」メルルは気付いたようにゴーレムたちが向かったほうに視線を向けた。

 ゴーレムは肩の盗賊たちを持ち上げると、次々に塀の向こうへ放り投げているところだった。ゴーレムの投げた先は運河だ。

 「運河へ逃げる気か!」所長が叫び声をあげた。

 メルルがコーデリアを見ると、コーデリアは足元に投げつけられた二名の憲兵に遮られ、ゴーレムのそばに近づけられずにいた。2体のゴーレムは肩に乗った「にわか主人」の脱出を助け終えると、その場で両腕を下ろして動かなくなった。任務を果たして停止したのだ。

 塀に飛びつき、運河を見下ろした憲兵から「船だ。奴ら、船に乗っているぞ」という叫び声が聞こえてきた。ゴーレムに乗っていた4人はまんまと脱出に成功したようだった。

 「……なんて失態だ。全員取り逃がすなんて」

 所長は剣を腰に戻すと、まだ塀にしがみついている憲兵のもとへ駆け寄った。

 「船の特徴はわかるか? 運河沿いに奴らを追えそうか?」

 「運河沿いは道じゃありません。細いへりがあるだけです。大人が走って追うには狭すぎますね。船はありきたりの運搬船です。運河でよく使われているものです」

 憲兵は遠ざかる船をよく見ようと首を伸ばしながら報告した。

 「こんな夜更けに動いている船はあれだけだろう。急ぎ、運河を封鎖するんだ」

 所長の指示を遮るようにがらがらと大きな音が起こり、運河側の扉が開きだした。憲兵のひとりが扉の錠を外して開いたのだ。扉を開いた憲兵は足元を確認すると、所長に顔を向けた。

 「何とか走れそうです。私はここから奴らを追います。あと何人かついてきてくれ」言うが早いか、憲兵の姿は扉の向こうに消えていた。声につられるように数名が後に続く。

 「運河の封鎖は我々で行ないます!」残りの憲兵たちからさらに名乗り出るものが現れ、門へ向かって駆け出していた。門はすでに開けられていて、さきほど4人とは別の方角へ逃げたひとりをまた別の憲兵隊員が追いはじめているようだった。

 「ヒルディー。私も船を追うわ。私の体格ならあそこを走れる」

 コーデリアが所長の横に並ぶと、運河への出入り口を指さした。

 「任せる」所長の返事は簡潔だった。

 コーデリアの姿が運河へと消えると、所長はメルルの姿を探した。メルルはさきほど倒れていた場所から突っ立ったまま、自分の服をつまんで鼻に近づけていた。匂いを嗅いでいるように見える。

 「どうした?」

 所長はメルルに歩み寄りながら尋ねた。刺されていないと答えてはいたが、どこかケガでもしたのだろうかと思ったのだ。声をかけられたメルルは一瞬キョトンとした表情を見せたが、その表情はすぐ強張った笑みに変わった。

 「いいええ。何にもないですよー」

 妙に間延びした声で否定している。

 「本当にケガもしてないのか?」所長は念を押した。あからさまに怪しい。

 「だ、大丈夫ですって、ホラ!」

 メルルは三角帽子を持ち上げると、自分のもじゃもじゃ頭を所長に見せた。

 「頭のどこにもコブひとつ出来ていませんから!」

 「……なら、いいが。どこか痛めたのなら遠慮なく言え」

 「あ、ありがとうございます」

 メルルは帽子をかぶり直した。今度は目深にかぶって表情が見えにくくなった。所長はため息を吐いた。

 

28

 

 ベンデルたちを乗せた船は、運河を静かに流れる風も味方に付けて、ぐんぐんと商会から離れていた。船に飛び乗ったときに聞こえた憲兵たちの怒号も今では聞こえてこない。

 「うまく撒けたようだな」ベンデルはにやりと笑った。覆面はすでに外していた。船に乗り込んでから、全員覆面を外していたのだ。

 「ゴーレムの扱い方をあらかじめ確かめておいて正解だったぜ。もっとも、荷物運びさせるためだったんだがな」

 「しかし、あのゴーレム。憲兵を振り払うばっかりで全然強くなかったっすよ。もっとドカーンと吹っ飛ばしてくれりゃ、もうちょっと楽に逃げられたんですがね」

 船の操船はルゥが行なっている。ルゥは首だけ船室に突っ込んで話に混ざっていた。

 「しかし、何だって憲兵が張ってやがったんでしょう?」ジョン・ペリーは誰に尋ねるともなくつぶやいた。彼はまったく事態が呑み込めていないようで、ただ首をひねっている。

 「あの娘っ子が俺たちを売りやがったんだ!」スターキーが吐き捨てるように言う。怒り心頭に発っしているようで、顔は真っ赤になっている。

 「それはないな」ベンデルはあっさりと否定した。

 「あ、兄貴、どうしてそう思うんです?」スターキーは驚いた表情で尋ねる。ベンデルがティルカをかばうと思わなかったのだ。

 「考えてみな。あの嬢ちゃんが俺たちを売ったのなら、憲兵はアジトを取り囲んでいたはずだ。商会で張ってたということは、俺たちのアジトを知らなかったってことだからな。事情はわからんが、商会を狙っていたことがバレていたってことなんだろう」

 「じゃあ、あの娘っ子がドジを踏んだんだろ。こないだ忍び込んだ時にアシがついてたんだ」スターキーはとにかくティルカを悪者にしたいようだ。

 「または商会の見取り図を手に入れたときにアシがついたか、だな」

 ベンデルは頭の後ろに手を組んで船室の壁にもたれかかった。

 「あ、兄貴! お、俺がしくじったと?」ジョン・ペリーが顔色を変えた。

 「そういうこともあるかもよ、てだけだ。今さら誰がしくじったかなんて詮索しても仕方ねぇよ」

 「そ、そうっすね」ジョン・ペリーは脱いだ覆面で自分の顔を拭った。

 「しかし、あの娘。捕まっちまいましたかね」ジョン・ペリーがスターキーを横目で見ながらつぶやく。

 「あいつを最後に見たのはどいつだ?」ベンデルは周りに尋ねた。

 「あ、俺です。何か外で張ってた連中とやりあってたようでした」ルゥが答えた。船室の声は良く聞こえるらしい。

 「嬢ちゃんは捕まったかもな。ルゥ、船は今どのあたりだ?」

 「ええっとですね、たぶんオーウェン区ですね。大聖堂のてっぺんが左手に見えるんで」

 「オーウェン区か、ちょうどいい」

 ベンデルはそう言うと立ち上がった。

 「兄貴、どうしたんで?」

 「ここで降りるのさ」

 「ええ? ここに何か用事でもあるんすか?」ジョン・ペリーだけでなく、スターキーも驚きの表情だ。

 「ノルドンの店に寄るのさ。『箱』だけは回収しとかねぇとな。嬢ちゃんを仕事につき合わせたことがバレたら、ノルドンは俺たちのことを憲兵にタレこむかもしれねぇ。そうなる前にせめて箱だけでも手に入れとかねぇとな」

 「兄貴も物好きで。あんな箱の中身なんて、もうどうでもいいじゃないですか」

 「バカだなぁ。あんな大げさな箱にしまい込むものが『どうでもいいもの』な訳ねぇだろが」

 「兄貴がここで降りるとして、俺たちはどこへ向かえばいいんで? この船はアジトに向かってないようですが」

 「あそこはダメだ。もし、嬢ちゃんが捕まっていたら、憲兵はアジトの場所を聞き出すはずだ。俺たちはもうひとつのアジトに向かう。もうひとつのアジトの場所は、嬢ちゃんは知らねぇからな」

 「ああ、なるほど」スターキーは納得した。

 「いや、それ、まずいっすよ」しかし、ジョン・ペリーが異議を唱えた。

 「何がだ?」

 「あのアジトにはいろいろ残してるんすよ。金だけじゃなく、これから向かうアジトの地図とか……」

 ベンデルはジョン・ペリーを睨みつけた。「すぐ地図を処分しろ」

 「へ、へい、じゃあ、俺もここで降ります……」ジョン・ペリーは小さくなった。

 「わかってるな? これをしくじるとどういうことになるか」

 ベンデルの声は低く、そして静かだった。何の感情もうかがえない。しかし、この声にジョン・ペリーだけでなく、スターキーでさえも背筋が強張るのを感じた。ふたりとも声の調子だけではわからない殺意を感じ取ったのだ。

 ベンデルは船室を出ると、ルゥに岸へ寄せるよう命じた。ルゥは船のこぎ手としては優秀だった。岸にぶつからないギリギリのところまで寄せてみせたのである。

 ベンデルは「じゃ、行ってくるぜ」とだけ言い残して、船から飛び出した。そのすぐ後を追うようにジョン・ペリーも飛び出していった。

 岸はちょうど船着き場のひとつだった。船を降りたふたりはそのまま階段を駆け上ると、それぞれの目的地に向かっていった。

 ベンデルの姿が見えなくなるとスターキーはほっとしたようにその場に座り込んだ。この誰をも威圧する巨体の持ち主は、ベンデルに対する恐怖心から従っているのだ。ベンデルはやたらと殺しを行なわない。しかし、殺すことをためらったりもしない。怒りや憎しみといった感情を見せずに、ただ殺す。それについては仲間でさえも容赦しなかった。かつてスターキーは、ベンデルがさっきまで談笑していた部下の首を一瞬で掻き切る場面を見たことがある。何がベンデルの『殺す』行為の引き金になるのか、スターキーにはわからなかった。かろうじてわかるのは失態を犯さないこと、あるいはベンデルの計画に水を差す行動はしないことだ。それだけにベンデルが船の降り際に、ジョン・ペリーにかけた言葉はスターキーを心底怯えさせた。ジョン・ペリーはもともと『イボック盗賊団』の一員ではない。よその盗賊団でケチな盗みに嫌気をしていたところ、偶然知り合ったベンデルに誘われたのだ。今までこれといったヘマはしていなかったが、今回のはちょっとまずい。

 「あいつ長生きできねぇかもな……」

 スターキーは船室の天井を見上げながら、そんなことを考えていた。

 

29


 ティルカが帰ってこない。

 ノルドンは不安を抱えながら椅子に座って娘の帰りを待っていた。ティルカに大事な話をしなければならなかった。

――この街を出る。

 出ると言えば、どこか前向きで自主的な気持ちが含まれている気がする。ノルドンの心情からすれば、正確な表現は『この街から逃げる』になるだろう。ティルカは何て言うのだろう。せっかく友だちもできたのに。思い返せば、ティルカはまったく友だちがいなかった。それはそうだ。街から街へ渡り歩き、ようやく最近になって王都に腰を落ち着けたのだから。ティルカの孤独は自分のせいだ。わかりきったことだ。それなのに、再び自分はティルカを孤独に戻そうとしている。ティルカだけ置いて自分だけ逃げる? ノルドンはすぐにかぶりを振った。それはありえない。ベンデルにはティルカの存在を知られている。ティルカを残せば、奴らは自分の居場所を吐かせるために、どんな残酷な拷問をティルカに行なうか。そんなことは想像したくもない。それに逃げることも危険なことだった。もし、自分の考えた通りに事が運ばなければ、自分を追うのは憲兵ではなくベンデルになるからだ。そう、自分はもっとも危険な賭けをしようとしている。かけ金は自分の命。さらにティルカの命も加わっている。しかし、この賭けは降りることができない。ノルドンは何度も悩み、考え抜いた。その結果、ノルドンには選択肢がすでにひとつしかないとわかったのだ。

 夜が深くなるにつれ、辺りはだいぶ静かになっていた。子供だけでなく、大人もそろそろ寝室に行く時間だ。しかし、ノルドンはまったく眠気を感じていなかった。ただ焦燥感がノルドンの心を支配していたのだ。

 カランと扉の鈴が涼しい音を立てた。ティルカが帰ってきた! ノルドンは立ち上がって扉に向かって歩き出そうとした。

 「よお、ノルドン」

 扉の陰から顔を出したのはベンデルだった。ノルドンは深いため息とともに椅子に座り込んだ。

 「おい、どうした?」

 ノルドンは力なく、ただ首を横に振る。しかし、ベンデルはそれだけでティルカがまだ戻っていないことを察した。どうやら間に合ったようだ。しかし、急がなければならない。

 「まぁいい。ノルドン、仕事は終わっているか? 例の箱はどうなった?」

 ノルドンは物憂げに作業机に顔を向けた。そこには『エリファス・レヴィの小箱』が置かれていた。ベンデルは箱に近づくと、それを取り上げた。静かに沈黙していた箱は、ベンデルが持ち上げると生き返ったかのように輝きだした。輝いているのは中央に埋め込まれたルビーの宝石なのだが、強く輝いているせいで箱そのものが輝いているようだ。

 「術式の上書きは終わったのか?」

 「できたと言えるし、まだとも言える」ノルドンはぼそぼそと答えた。

 「正確に話せ。何を言っている?」

 「『所有者変更』を命令する術式を組み込んだのだ。箱を両手で持つと、箱の宝石が赤く光りだす。そこへ『所有者の変更を』と言えば、所有者の名前と変更する合言葉を聞いてくる。名前と合言葉を言えば、箱は新たな所有者を認めて開錠が可能になる……はずなのだが」

 「はずって何だ? 失敗したのか?」

 「いや、術式の埋め込み自体は問題ない。しかし、どうしても『変更を受け付けるための猶予時間』が解けなかったのだ。所有者変更の術式が埋め込まれることを想定していたらしい。本来の所有者が箱を取り戻せるよう、すぐに所有者変更ができない仕かけを残していたのだ」

 「なるほどな。だが、本来の所有者はもういない。放っておいても俺が所有者になれるなら問題ねぇぜ」

 「3時間は待たされるぞ」

 ベンデルは一瞬考えた。

 「まぁ待てない時間じゃねぇな」

 「そうか。じゃあ持っていくといい。これで仕事は完了だ」

 「そうだな。じゃあ、もらっていくか。いくら払えばいい? ノルドン」

 ノルドンは首を振った。

 「金はいらん。今後一切、我々親子に近づかないでいてくれるなら。それが代価だ」

 「嫌われたもんだねぇ」ベンデルは腹を立てる様子も見せず、むしろ笑顔だった。

 「まぁ、ただでもらえるなら、それに越したことはねぇ。じゃあ持って帰るか」ベンデルはそう言ったが、すぐ首を横に振った。

 「……いや、ここで所有者変更の手続きだけしておく。そうすりゃ、持って帰る時間で猶予時間を消費できる」

 ノルドンは「お好きなように」とつぶやいて首をすくめた。ベンデルはそうするだろうと予想していたのだ。

 ベンデルは箱に埋め込まれたルビーを見つめた。

 「所有者の変更をって言えばいいんだな?」

 ノルドンはうなづいた。

 「ああ、ただし、箱は両手で持つんだ」

 ベンデルは両手で箱を持ち直した。顔からは笑みが消えている。

 「所有者の変更を」ベンデルは箱に語りかけるように命じた。

 『変更する所有者名と合言葉を唱えよ』箱はしゃがれた声を出した。

 「……こいつは、あんたの声じゃねぇか」ベンデルはノルドンのほうを向いた。

 「私以外、声を吹き込む者がいないのだ。仕方がなかろう」

 「ち、色気がねぇぜ」ベンデルは愚痴りつつも箱に向き直って次の手順に移った。

 「所有者、ベンデル。合言葉は『ノルドンお疲れさん』だ」

 『変更手続きに移る。中央部宝石の色が黄色に変わるまで所有者は変わらない。注意を』

 箱はノルドンの声で注意事項を伝えると沈黙した。ルビーの輝きは目に見えて弱くなり、豆粒のような赤い光が灯っているほどになった。

 「これで終わりか」ベンデルはノルドンに尋ねた。ノルドンはうなづいた。

 「そうだ。ただし、今はまだ、その箱はあんたを所有者と認めていない。無理に開けようとすれば、死の呪文に襲われることになる」

 「確かに3時間後に手続きは終わるんだよな?」ベンデルは念を押した。

 「大体の時間だと思ってくれ。手続きが終わったかどうかは宝石の光の色でわかる」

 ベンデルは満足そうな笑みを浮かべた。「上出来だ、ノルドン」

 ベンデルは自分のシャツをたくし上げると、懐の中に箱を隠すように入れた。

 「ちょうどいい包みを持ってこなかったんでね。これで持って帰るとするぜ」そう言いながら出口に向かって歩き出した。

 「待ってくれ、ベンデル」ノルドンは思わず声をかけた。

 扉の取っ手に手をかけたベンデルはその姿勢のまま顔だけをノルドンに向けた。

 「何だ?」

 「あ、あんたは、娘には何もしていないんだよな?」

 「俺が? いいや、俺はあの嬢ちゃんに何もしてねぇぜ。上で寝ているんじゃないのかい?」ベンデルはわざとらしく尋ねた。

 「い、いや。今夜はちょっと用事で出かけているんだが、少し帰りが遅いのでな。まさかとは思ってな……」

 「嬢ちゃんが今どこにいるかなんて知らねぇぜ。ルゥもスターキーもな。それは受け合うぜ」ティルカが今、どこでどうしているのか知らないのは事実だ。憲兵から逃げ切れたのかも含めて。

 「まぁ、今どきの女の子は少しぐらい夜遊びしているのが普通なんだ。あんまり気にすることじゃねぇだろ」

 「今どきの娘はそうなのかもしれんが……。だが、ティルカは夜遅くまで遊び歩くような娘ではない」

 ベンデルはちらりと壁にかけられた時計に視線を向けた。時計の針は11時を過ぎたあたりを指している。ベンデルたちが商会から脱出してから1時間あまりが過ぎている。商会からここまでの距離はそれほど離れていない。歩いても1時間はかからないはずだ。やはり、憲兵に捕まったのか。それとも帰りづらくなって、夜の王都をさまよっているのか。どちらにせよ、ベンデルにはもうどうでもいいことだった。ノルドンには適当に相手しておこう。

 「親ってのは、どいつもそう考えるものさ。『うちの娘に限ってそんなことはあり得ない』なんてな。だがな、どの娘も限らず『そんなことは』あるもんさ」ベンデルはにやにや笑いを浮かべて扉を開いた。扉の鈴がカランと鳴り響く。

 「じゃあな、ノルドン。娘とは仲良くな」心にもないことを言って扉を閉めた。


 ベンデルが店を出て行き、遠ざかる足音が聞こえなくなるや、ノルドンは行動を開始した。作業机の下に隠した小さな手提げ金庫を開けると、これまでの売れ上げ金を金貨袋に詰め込んだ。袋は上着のポケットに無造作に突っこむ。どたどたと足音も荒く奥の机に駆け寄ると、今度はその机の引き出しを引っ張り出した。そこにはベンデルが持ち帰ったものと同じエリファス・レヴィの小箱があった。ノルドンはその箱を手にすると、しばらくそのまま箱を見つめていた。箱の中心に埋め込まれたルビーは、本来の赤い光ではなく青い光が灯っていた。

 「ティルカは結局、この箱を開けなかったな……」

 ノルドンは独りごちた。この箱の開け方はすでに教えてある。ティルカにとって大切なものをしまっているから、いつか中身は確認しておくようにとだけ伝えていたのだ。しかし、ティルカはまるで関心がないように、この机に近付かなかった。自分が不在のときにこっそり箱をあらためた様子もなかった。箱はノルドンがしまったときと同じ引き出しの奥にしまい込まれたままだったのだ。ティルカがなぜ箱に関心を示そうとしなかったのかはわからない。もし、ティルカが箱の中身を見ていたとしたら、こんな事態にはならなかったのではないか。ノルドンは首を素早く横に振り、そんな考えを打ち消した。

……違う。ティルカが今までそばにいてくれたからこそ、私は『人間』でいられたのだ。

 この箱は一緒に持って逃げよう。今度はティルカにきちんと託して。今度こそノルドンが隠してきた『罪』を、ティルカが知ることになるだろう。だが、もう良いのだ。自分はとっくに救われている。本当はもっと早く贖うべきだったのだ……。

 ノルドンが物思いにふけっていると、店の鈴がカランと鳴った。今度こそティルカが帰ってきたに違いない。ノルドンは店の戸口を振り返った。

 しかし、そこに居たのはティルカではなかった。

 

30


 ジョン・ペリーはこれまでアジトとしていた建物から姿を現した。通りは街の明かりもほとんどないので闇に近い。この辺りは王都の中で最も寂れたところだったのだ。おかげで通りを歩く人の姿もない。ジョン・ペリーは誰にも見とがめられることもなくアジトに忍び込み、次のアジトの地図を持ち出すことができたのだった。地図を破いて捨ててしまえれば良かったのだが、それでは自分がアジトに辿り着けない。ジョン・ペリーは道を覚えるのが苦手だったのだ。それで盗賊としては不用心になるが、アジトの地図を持ち歩いていたのだった。

……仕方がないだろう、俺は頭が良いわけじゃないんだから。

 ジョン・ペリーは心の中で言い訳した。それほど物覚えが悪いわけではないが、憶えが中途半端なことが多かった。かつては仕立て屋のもとで修業していたのだが、親方に呆れられるほど仕事が覚えられなかった。正確に表現すれば、「覚えたつもりが多かった」と言うべきだろう。道具の使い方、生地の種類、その性質、加工方法などなど、仕立て屋の仕事は覚えることが多く、そのひとつひとつがかなり細かいものだった。はさみひとつ取っても、作業でいろいろ使い分けるものなのだ。ジョン・ペリーはどのはさみがどの作業に使うものか、結局覚えきれなかった。親方から暇を出されたジョン・ペリーは、故郷に戻らず街のあぶれ者たちとつるむ生活を始めたのだった。そんななか、ベンデルたちと出会ったのである。盗賊が肌に合ったわけではないが、やりやすいものだった。覚えることも、使う道具も、仕立て屋よりは少なかったからである。それに、首尾よく『仕事』を終えることができると、ベンデルは機嫌よく褒めてくれたりもした。仕立て屋の親方は「上手くすることが仕事」と、一度も褒めてくれたことがなかった。ジョン・ペリーは『盗賊』にやりがいすら感じていたのである。だからこそ、さっきのベンデルの表情は恐ろしい。『盗賊』稼業からも暇を出されたら、自分は一体何ができると言うのだろう?

 不安はジョン・ペリーの背中を丸めさせ、ベンデルに対する恐怖心は足取りを重くさせる。その姿はいかにも何か後ろ暗い者が忍ぶように歩くものだ。それほど観察力のない者の目から見ても、不審の念を抱かせるには十分だった。

 「そこの者、待て」

 ジョン・ペリーはびくっとして振り向いた。剣の柄に片手を添えながら兵士が近づいて来る。服装から見て憲兵なのは明らかだ。憲兵はひとりだけではない。後ろからもうひとりついてきている。

 「な、何でしょうか?」ジョン・ペリーは身体を震わせて立ち尽くしてしまった。

 「ちょっと尋ねるが、何の用でここを歩いている?」

 ジョン・ペリーは目をぱちくりとさせた。単なる職務質問なのか?

 「い、いえね。王都に弟が出稼ぎに出ているんですが、病気になっちまったと聞きましてね。私が様子を見に来たわけですが、何せ王都は初めて来たもんですから、すっかり迷っちまったんです」ジョン・ペリーはとっさに話をでっち上げた。

 ジョン・ペリーに話しかけた憲兵は仲間を振り返って、小声で何か言ったようだった。すると、後ろの憲兵が進み出ると改めて質問してきた。

 「一体、どこに向かっていたんだ?」

 「へ、へい。こちらの地図があるところでして……」

 話に信ぴょう性を持たせるため、ジョン・ペリーは懐にしまい込んでいたアジトの地図を広げてみせた。

 「どれ、見せてみろ」憲兵は地図をのぞき込む。

 「リンカンシャー区か。ここからだいぶ離れているな。あんた、とんでもなく見当違いの所を歩いているよ」

 「……そ、そうですか。陽のあるうちに着くと思っていたんですが、王都に着いたのが日暮だったもんで、道がさっぱりわからなくなっちまったんです」

 自分にしては上手い嘘がつけている。ジョン・ペリーはそう思った。

 「まぁ、王都は円形の都市だ。王都が初めてなら、どこの街並みも同じに見えても仕方がないよな」憲兵たちは納得した様子だ。ジョン・ペリーは胸の内でほっと溜息をついた。

 「本当に、どこも似たような感じで。ひょっとしたら同じところをぐるぐる回っていただけなのかもしれませんねぇ」ジョン・ペリーは申し訳なさそうに頭をかくと、憲兵たちから笑い声が漏れた。

 「仕方がない、リンカンシャー区の近道はな、この大通りを突き当りまで行って左に折れる。そこを少し行くと右手に細い路地があるから、そこをまっすぐ行くといい。地図にあるパンドン教会はその先にある。そこまで行けば、地図にある目的地はすぐそばだよ」

 「……あ、ああ。あのサウジ路を進めばいいんですね。ありがとうございます。では、これで」

 ジョン・ペリーは丁寧に何度もお辞儀すると、憲兵たちは手を振った。ジョン・ペリーは憲兵に教えられた道を歩き出した。

 「おい待て」数歩も行かないうちに背中から鋭い声が飛んできた。さっきとは違う厳しい声だ。

 ジョン・ペリーは顔だけを憲兵の方に向けた。

 「えーと、まだ何か?」

 「お前、今、おかしなことを言ったな。『サウジ路を進めばいい』とか。王都に来たのが初めてで迷っている男が、なぜあの路地をサウジ路だと知っている?」

 弾かれるようにジョン・ペリーは駆け出した。慣れない作り話はするもんじゃない。しかし、今の彼にそんな後悔をしている暇はなかった。ただひたすら逃げ切るだけだ。ふたりの憲兵も全速力で追ってくる。ひとりが足を止めると呼子の笛を街全体に響かせるように吹き鳴らした。すると、周りから応えるように呼子の笛が返ってくる。

 「く、くそっ」ジョン・ペリーは走りながら毒づいた。

 最初の路地を左に曲がろうとしたが、その先にこちらへ向かって走ってくる憲兵の姿が見えた。この道は駄目だ。ジョン・ペリーはそのまま大通りを駆け続ける。

 大通り沿いに並んでいるのはいずれも商館などの店の類で、扉は固く閉ざされている。なにせ、今日は礼拝日なのだ。店の者たちは皆、週に一度の休日を自宅でくつろいでいるはずだった。おかげで逃げ込めそうな建物もない。

 左が駄目なら右の路地と、ジョン・ペリーは大通りの中へ飛び出した。大通りは夜も更けて交通量は激減していたが、まだ数台の馬車が走っていた。ジョン・ペリーは行き交う馬車を縫うように向こう側へと走り抜けた。さすがに憲兵たちは大通りに飛び出さずに、少し身を乗り出して馬車を停めると、ジョン・ペリーの追跡を再開した。

 大通りの右手は城壁となっていた。凹状の狭間が並ぶ胸壁を沿うように、ジョン・ペリーは脇道を探し続けた。すると正面からわらわらと憲兵たちが向かってくるのが見えた。慌てて背後を振り返るも、そちらも同様だ。再び大通りを横切ろうにも向こう側にはすでに憲兵たちが待ち構えている。進退窮まったジョン・ペリーは、くるりと向きを変えると狭間に足をかけるや、夜の大空に身を投じた。そのときバサッと顔面に白いものが顔を覆った。さっき憲兵に見せていたアジトの地図だった。

 ジョン・ペリーの不運はいくつかある。まず、逃げているところが普段通ったことのない、道に不案内なところだったこと。狭間から飛び出したとき顔を覆った地図のせいで視界を奪われたこと。そして最後は、その狭間は地上までかなりの高さがあったということである。

 足がなかなか地上に到達しないことに、ジョン・ペリーは恐怖の悲鳴を上げた。憲兵たちが狭間に取りついたとき、下からぐしゃりという不気味な音が聞こえてきた。ひとりが下を見下ろし、首を左右に振った。

 「誰か救急班を呼んでくれ。もう逃げられる心配はなくなった」

 仲間が下の様子を気にしているのに気付くと、彼はつまらなそうに付け加えた。

 「両脚がありえない方向にひん曲がっている男がどうやって逃げるって言うんだ?」


 ノルドンの店を出て、およそ3時間後。ベンデルはこれまでとは別のアジトの一室のソファに座っていた。向かい合うソファにはスターキーとルゥが座っている。向かい合うソファの間には、以前のアジトと同じような背の低いテーブルが置かれていて、その上には『エリファス・レヴィの小箱』があった。

 箱の中心の宝石は小さく赤い光を灯し続けていたが、一瞬またたいて、今度は黄色に光った。

 「時間のようだな」ベンデルがつぶやいた。

 「いよいよ箱が開くんで?」ルゥは期待感いっぱいの表情になっている。まるで贈り物を待ちわびる子供のようだ。

 「勝手に開くわけじゃねぇ。合言葉を唱えねぇとな」

 「じゃあ、さっそく唱えてくださいよ。これだけ待たされたんだ。ここで見なきゃ嘘でさぁ」

 「……そうだな。じゃあ、ここをおさらばする前に、ちょっくら中身を拝むとするか」

 ベンデルは背を伸ばすと箱に手を伸ばした。

 「あ、兄貴。どういう意味で? ここをおさらばって……」スターキーが慌てたような声をあげた。

 「船を降りてから3時間経った。だが、ジョン・ペリーの奴が戻ってこねぇ。いくらあいつが方向音痴だとしても遅すぎやしねぇか?」

 「た、たしかに。そ、それじゃあ……」

 「憲兵に捕まったのかもしれねぇし、まだ道がわからずに、そのあたりをうろうろしているのかもしれねぇ。だがここは最悪を考えて、ここを離れておくに越したことはねぇってことだ。ジョン・ペリーはここで見限る」

 ベンデルは箱を取り上げながら冷静な口調で言った。ふたりの子分は互いを見やった。

 「ま、まぁ、あいつがいけねぇんだし、しょうがないわな……」

 スターキーは遠慮がちにつぶやいた。ルゥは無言でうなづくだけだ。

 「じゃあ、中身を拝んでいくとするか。開けるぞ」

 ベンデルは箱を両手で持った。箱からノルドンの声が聞こえてくる。

 『合言葉を』

 「ぷぅっ!」ルゥが噴き出した。「ノルドンが喋っているじゃねぇか!」

 ベンデルはニヤニヤしながら人差し指を口の前に立てた。ルゥはすぐ黙ると、姿勢を変えて座り直した。

 「『ノルドンお疲れさん』」ベンデルは合言葉を唱えた。

 これにはスターキーも笑いをこらえられなかった。

 「ハハハハ! な、何です、兄貴。その合言葉は!」

 「奴に感謝を込めて、な。合言葉にさせてもらったのさ」ベンデルも笑いながら答えた。

 箱に埋め込まれた宝石が輝きだした。その光は強力で、薄暗い部屋をまばゆく満たしていった。

 「いよいよだ」さすがにベンデルからも期待のこもったつぶやきが洩れた。

 箱は急激に光を弱めると、蓋と本体との間から黒い霧のようなものが漏れだしてきた。煙とは異質の、どこか湿り気を帯びたものだ。

 「何だ?」

 黒い霧は3人の周囲を、渦を巻くように回りだした。それはどんどん速さを増していく。

 「ま、まさか」ベンデルの表情が険しいものに変わったときだった。霧の中からいくつかの顔が浮かび出してきた。――顔、と言っても、それは髑髏の形をして、ぽっかりと空いた目からは小さな青い光が3人を見つめている。スターキーは驚いて立ち上がって小さな叫び声をあげた。その口を塞ぐように霧から骸骨の手が伸びてきて覆い隠した。

 「う、うわああああああああああああ!」

 「ぎゃああああああああああ!」

 3人は一斉に悲鳴を上げた。叫ばずにはいられない。彼らの感情は『恐怖』に支配されてしまったからだ。闇への恐怖。高所からの恐怖。溺れる恐怖。猛獣に追われる恐怖……。人間が持つ潜在的な恐怖の感情が、強制的に彼らの心の内に湧き上がってくるのだ。怖いもの知らずの盗賊たちも、これに抗う術は持ち合わせていなかった。

 「な、何でだぁ!」ルゥは両眼が転げださんばかりに見開いて叫んだ。喉は骸骨の手につかまれている。

……ノルドンの野郎、俺をハメやがった!

 恐怖に苛まれながらも、ベンデルは事態を理解した。ノルドンは箱の罠をそのままに、嘘の術式を仕込んだのだ。

「クソッ! クソッ! くそおおおお!」

 強烈な怒りの感情でベンデルの顔は紅潮したが、それでも箱の魔法は、たちまちベンデルの心を恐怖で埋め尽くした。ベンデルはたまらず悲鳴をあげた。

 感情にひたすら『恐怖』を与える魔法は3人を責め続けた。身体の機能が恐怖で停止するまで、心の臓が永遠に停まるまで、その責めは果てしなく続いた。

 やがて、3人のいた部屋に静寂が戻った。さんざん叫び続けた男たちは、物言わぬ姿でソファの上に倒れ込んでいた。3人の表情は恐怖で引きつり、身体は不自然なほど歪んだ姿勢で硬直していた。

 テーブルの上では、役目を終えた箱が蓋の外れた状態で落ちている。中からは数枚の紙きれがのぞいていた。


31


 メルルは胸壁の狭間に収まるように腰かけて、足をぶらぶらとさせながら王都の街並みを眺めていた。夜が明けようとしている。空はすでに星の姿はなく、紺色の空が広がっていた。陽はまだ昇っていないが、それもあとわずかのことだ。

 盗賊たちを取り逃がしたことで、探偵たちはお役御免になった。街に非常網を敷いて不審者を捕らえるのは人数や組織力に勝る憲兵の役割だった。商会で解散を告げられたとき、メルルはやや放心したように指示を下す所長の顔を眺めているだけだった。所長に「どうかしたのか?」と尋ねられても、「何でもありません」と繰り返すばかりだ。所長も最後はあきらめたように「さっさと家に帰って、ゆっくり休め」とメルルを追い払った。所長は事の経緯の報告と状況把握のために現場に残った。コーデリアはすでに戻って来ていた。道が途中で途切れていたため、船に追いつけなかったのだ。コーデリアも解散を告げられてはいたが、彼女も残ることにした。そこで、メルルはひとり家路につくことになったのだった。

 メルルはかなり疲労している様子で下宿に通じる大通りを歩いていたが、途中で向きを変えると下宿には少し遠回りになる道へ逸れていった。そして、狭間の並ぶ高い胸壁まで上がると、ひとつの狭間にはまり込むように座ったのだった。それからは、まんじりともせず、夜の王都をずっと眺め続けていた。表情に疲れた様子はあるものの、唇は噛みしめるようにしっかりと結ばれて、何かの決意を感じさせた。

 どれぐらい時間が経ったのか、メルルにはわからない。背後から小さな足音が聞こえてきた。足音はメルルの背後で聞こえなくなった。背後の相手が立ち止まったのだ。

 「そこで何をしているの?」声はティルカのものだった。メルルの姿に驚いた様子もない、落ち着いた声だった。

 「友達を待っていたの」メルルは振り返らずに答えた。こちらも静かな口調だ。

 「私を? どうして?」ティルカはつぶやくように質問を続ける。

 「聞きたいことがあったから」メルルは身体をのけぞらせてティルカに顔を向けた。頭の上の三角帽子がぽとりと舗道に落ちる。そのときのメルルの表情にはさきほどの疲れた様子はなく、真剣な眼差しでティルカを見つめていた。


 「あのとき、私を刺さなかったのは、私が友達だから?」


 ティルカはメルルから視線を外すと、メルルの隣まで歩み寄った。そして、そのまま狭間に両腕を載せてもたれかかった。

 「……いいえ。誰も殺そうなんて思っていなかったもの」

 「よかった」

 「よかった?」

 「ティルカはやっぱりティルカだったから」

 「何、それ」ティルカは呆れたようにつぶやき、少しだけメルルに顔を向けた。

 「私から聞いてもいい? どうしてあれが私だとわかったの?」

 メルルは身体を起こした。

 「あなたに馬乗りにされたとき、あの匂いがしたの。油絵を見せてもらったときに嗅いだテレピン油の匂いが」

 「テレピン油……」

 「絵を描く道具と同じ棚にしまい込んでいたから、黒装束に匂いが移ったのね。ティルカの部屋には服をしまえるところってあまりなかったし。覆面姿で顔は見えなかったけど、ぴったりとした黒装束のせいで女性の体格をしていることはわかった。あんな高い建物を軽々昇れるほど高いところが得意で、テレピン油の匂いをさせている女のひとなんて、王都には多くのひとがいると言われても、ティルカ以外のひとは考えられなかった」

 「……そっか」ティルカはため息を吐きながら苦笑した。「推理するまでもなかったのね」

 「ねぇ、もうひとつ聞いてもいい? なぜ、あんなことを……」

 ティルカは身をかがめると、舗道に落ちたメルルの帽子を拾い上げた。

 「それって、答えなきゃ駄目?」

 ティルカは帽子をメルルの頭に載せた。

 「私、わかりたいの。あなたがあの盗賊団の仲間だということが信じられない。何か事情があるんでしょ。教えて。あなたとあの盗賊団との間に何があったの?」

 メルルはせっかく載せてもらった帽子を脱ぐと、ティルカに向き直った。まっすぐにティルカの目を見つめる。ティルカは少し呆気にとられたような表情になったが、それはすぐ微笑みに変わった。

……あなたはわからないのね。私がただ弱いだけだからってこと。でも、私はわかっちゃった。あなたは私と違って、ずっとまっすぐで強い。どんな状況でもたじろいだりしない。私にはないものを全部持っている。私があなたに憧れるのは当然のことなんだ。

 「教えられないわ」

 メルルは何かを言おうと口を開きかけた。それをティルカは手で制した。

 「待って。聞いて、メルル。あなたは探偵事務所の一員でしょ? 私は盗賊の一味。あなたは事情を聞いてどうするの? 私を見逃してくれるの?」

 メルルはぐっと詰まった。「……見逃す。それは……」

 「じゃあ聞かないほうがいいわ。これからは、あなたは私と深くかかわり合いになるもんじゃないわ。せっかく夢を叶えるために王都まで来たんじゃない。私なんかのために、それを失う危険を冒すことなんてないでしょ?」

 ティルカは聞き分けのない子供をあやすように、メルルの頭に手を置いた。ティルカの手は、柔らかくふかふかした髪の中に埋もれた。

 「『私なんかのために』じゃない!」

 メルルはティルカの腕をぎゅっとつかんだ。その力強さにティルカの表情が変わる。

 「痛い。離して、メルル」

 「ティルカは大事な友だちだよ」メルルはティルカを離そうとしない。

 「私はティルカの力になりたい。友達だからそうするのが当たり前なんて思っていない。私、ここでずっと考えていた。私はどうしたいんだろうって。何度考えても答えは変わらなかった。私はティルカの味方になりたい。たとえティルカを捕まえるしかないとしても。そのせいでティルカに憎まれることになったとしても!」

 ティルカは目を見張った。自分よりも小さなメルルに気圧されているからだ。

 「嫌われたって構わない! そんなことぐらいでティルカの味方を辞めるなんてないんだから!」

 メルルはつかんだティルカの腕を自分の顔まで引き寄せて、その手を握りしめた。

 「だから、お願い。私に『助けて』って言って、ティルカ!」

 ティルカの目から、つぅっと一筋の涙が伝い落ちた。父親以外、信じられる者のいない人生を歩んできた彼女にとって、メルルの叫びは激しく心を揺さぶられるものだったのだ。誰からもここまで強く語りかけられたことなんてなかった。初めて本当の『味方』を見つけたのだ。

 「メルル……」ティルカは握られた手にもう一方の手を伸ばしかけた。


 「メルル、そこにいたのか」

 

 ティルカは手を引っ込めた。メルルは驚いて声のした方向へ顔を向けた。

 「レ、レトさん?」

 ふたりに近づいていたのはレトだった。左腕を覆う鎧の肩にアルキオネがつかまっている。

 「所長から君の様子を見に行くよう言われたんだ。所長は心配していたよ。君の様子がおかしいって。下宿を訪ねたら帰っていないし。でも、すぐ君を見つけられた」

 レトはかたわらのカラスに目を向けた。

 「彼女に頼んで君を探してもらったんだ。鳥類ってものすごく目がいいからね」

 アルキオネは得意げに胸をそらすと「カァアア」と鳴いた。

 レトはそこで初めてティルカに気付いたように視線を向けた。

 「で、こちらの方は?」

 ティルカはすばやく狭間の上に立つと下へ飛び降りた。

 「嘘だろ!」

 レトは叫ぶと狭間に取りついて下をのぞき込んだ。ティルカは何事もないように着地すると、そのまま振り返りもせずに走り去っていく。

 「レトさん! ほんっと間の悪い!」メルルはレトの肩をぽかぽかと叩いた。

 「一体何だ? 事情がさっぱりわからない」

 メルルはレトの肩を叩くのをやめた。そうだ。レトにあたっても仕方がない。メルルはレトの腕に取りすがった。

 「レトさん! お願いします。あの子を……ティルカを探してください! このままだと取り返しのつかないことになるかもしれないんです!」

 レトはじっとメルルを見つめた。それから、ティルカが走り去った方角に目を向けると、そのままの姿勢でメルルに話しかけた。

 「さっきの子……ティルカって言ったね。彼女を『保護』すればいいんだね?」

 レトは『保護』という表現を使った。メルルはハッとすると、ぶんぶんとうなづいた。

 「そ、そうです、そうです。保護です。彼女を助けてほしいんです。詳しいことは後できちんと説明します。だから……」

 「わかった」レトは狭間の上に立ち上がった。

 「アルキオネ。さっきの女の子を探してはもらえないだろうか?」

 レトは肩に乗っているカラスに声をかけた。カラスは黒い翼を大きく広げ、「カァ!」と鋭く鳴いた。

 「頼む」レトの声が合図のように、カラスは空へ舞い上がった。

 「メルル、君は事務所に向かってくれ」

 カラスが飛び立つと、レトはメルルに短く指示して飛び降りた。ティルカと同じように難なく着地してみせる。

 「レトさん!」メルルは狭間から首だけ出して大声をあげた。

 「ティルカって娘の姿はもう見えないから、アルキオネを追う。彼女の後を追えば、ティルカって娘に辿り着けるはずだ」

 レトはすでにメルルに背を向けて駆け出していた。メルルは下から吹き上げる風で乱れる髪を押さえながらレトを見送った。

 「レトさん、お願いします……」


32


 ティルカは人通りもまばらな細い路地を、まるで風のように駆け抜けていた。通行人たちの何人かは、脇を急にすり抜けるティルカに驚いて転びかけた。しかし、ティルカ自身は誰ともぶつかることもなく、すいすいと走っていく。身軽なだけでなく、動体視力も優れていたのだ。とは言え、ティルカはやや恐慌に陥っている状態だった。ティルカはメルルの「レトさん」の言葉で、反射的に逃げ出したのだ。レトに会うのは初めてだが、メルルの話題に何度も上っているのだから、彼が探偵であることは知っていた。自分を捕まえに来たわけではないだろう。だが、その場にとどまってやり過ごそうなどは考えられなかった。気が付けば路地に飛び降り、走り出してしまっていたのだ。

 全速力で逃げてはいるが、どこへ逃げるか考えが浮かばない。家に逃げる? 父はずっと自分を待っているだろう。父に事情を話せば匿ってくれるかもしれない。駄目だ。メルルは自分の家を知っている。すぐに見つけられてしまうだろうし、父にこれまでのことを知られたくない。今回のことで一番恐ろしいのは、父に自分が盗賊の一味として行動したことを知られることだ。父の性格は十分わかっている。父は決して怒らず、ただ悲しんで涙を流すことだろう。いっそ殴り倒してもらったほうがすっきりするが、父が娘に手を上げたことなど、ただの一度としてなかった。そんな父を自分は悲しませるのだ。

 ティルカの足が止まった。なんてことだろう。夜中は憲兵の検問を避けるため、建物の屋根から屋根と渡り歩きながら逃げ続けていた。その間は逃げることで頭がいっぱいで、父のことを考えることができなかった。あてもなく逃げ続けて、気が付けばメルルの待つ、あの通りに足が向いていたのだ。あの時も確信があって行った訳ではない。行先も、次に何をするべきかも頭に浮かばなくなった少女が、何かに引っ張られるように導かれたというのが正直なところだった。今になってようやく、彼女は父のことを考えるようになったのだった。

 目的のない逃避行は、思わぬ行先に辿り着く。ティルカは見覚えのある通りを歩いていることに気付いた。そこは彼女が平日の朝に勤めているパン屋が並ぶ通りだった。ああ、そうだ。ティルカはぼんやりした頭で思った。もう、あの店で働くことはできない。おかみさんに謝らないといけない。もうこの店で働くことができなくなりました、と。ティルカは力なく首を振った。「どうして?」と訳を聞かれた場合にうまくごまかせられるような嘘など全く思いつかないのだ。おかみさんに会う訳にはいかない。そう思って、ティルカは身体の向きを変えたときだった。

 一本の太い腕が伸びてきて、ティルカの二の腕をつかんだ。

 ティルカは反射的に振りほどこうとしたが、相手の腕力は強かった。どうしても振りほどくことができない。ティルカは苦痛に顔をしかめて腕をつかんでいる男の顔を見た。

 ティルカの腕をつかんでいたのは、これまで見たこともない男だった。冒険者風のいでたちで憲兵ではないようだ。とっさに辺りを見回したがレトの姿はない。なぜ、この男がティルカを捕まえたのか、彼女には理解できなかった。

 「隊長、こちらです」

 ティルカを捕まえた男は後ろに顔を向けた。つられるようにティルカが同じ方向を見ると、腰に剣をぶら下げた、やはり冒険者風の男がふたり歩いてくるところだった。

 ふたりのうち、ひとりはさきほどの男と同じくらいの若い男だが、もうひとりは恰幅がよく、老年に差しかかったあたりに見えた。ゆったりとした口ひげを丁寧に手入れして,

両端がピンと跳ねあがっている。その口ひげがもぞりと動いた。

 「報告には聞いていたが、こうして目の当たりにすると間違いないと確信できる」

 恰幅のいい男はいかにも感心しているようだった。

 「私も確信いたしております。この少女こそ……」

 「何なのですか、放してください!」ティルカはあがいた。男の力が少し緩んだので、逃れようとしたのだが、振りほどくことがまったくできなかった。

 「ああ、お嬢さん。我々はあなたをずっと探していたのですよ」

 口ひげの男はなだめるように両手を胸の前にあげた。ティルカは抵抗を止めなかった。

 「探していたって、何の話です?」

 「どうか、落ち着いて話をさせてください。ただ、非常に繊細な内容なので、この場でお話しするわけにはまいりません。さらに、お嬢さんにもいくつか確認したいことがございます。どうか、我々と来ていただきたい」

 「来ていただきたいって、訳わかりません。私は行かないです。絶対!」憲兵でなければ探偵事務所の者か。さっき見たレトの姿も冒険者の恰好だった。この者たちは憲兵に代わって自分を捕えに来たのだろうか。

 「これまで何度も撒かれてきましたからね。どうも一筋縄ではいかないようです」

 腕をつかんでいる男はぐいと腕を持ち上げた。ティルカの顔が苦痛で歪む。何度もまかれてきたってことは、ここ数日、ティルカをつけていた影のことだ。この男たちは、ティルカがマントン商会に忍び込む前から彼女を探っていたのだ。ティルカはますます混乱した。

 「これこれ、あまり手荒なことは……。だが、仕方がないか。ようやく我々の長年の苦労が実ろうとしているのだ。ここで逃げられる訳にはいかんしな」

 口ひげの男はそう言いながらティルカに近寄った。ティルカは助けを求めようと口を開きかけたが声が出せなかった。助けを呼ぶ? 誰に? 自分は今、逃亡者なのだ。

 

 黒い小さな影が、ティルカをつかんでいる男の顔面に飛んできた。男は「うわぁ」と大声をあげると、つかんでいたティルカの腕を放してしまった。ティルカはその場に腰を落とした。男は顔を覆ってうめき声を上げる。指の間から頬に赤いひっかき傷ができているのが見えた。さっきの影は男から離れると、上空へ飛んで「カァアア」と鋭く鳴いた。

 「さっきの剣士さんのカラス?」ティルカは目を見張った。あのカラスがここに来たということは……。

 「取り返しのつかないことって訳わかんなかったけど……」

 ひとつの影が三人組の前に立ちはだかった。

 「この状況はメルルの判断が正しいってことでいいのかな?」

 剣の柄に手をかけたレトの姿がそこにあった。


33


 「な、何だ、こいつは?」

 口ひげ男のかたわらにいた男は自分の剣を抜き放った。ティルカとの間に割って入られた格好の若い男も剣を抜いてレトから距離を取る。

 「ほう、義侠心にかられた若者がいたものよ」口ひげ男は感心したようにあごを撫でた。

 「そこの若者よ。我々とこのお嬢さんはこれから繊細な話し合いをせねばならん。誰にも邪魔をされたくない大事な話じゃ。我々はこのお嬢さんに危害を加えるつもりはないのじゃよ。ここは剣を引いて立ち去ってくれんかね」

 口ひげ男の口調は穏やかで優しいものだった。レトはちらりとティルカに目を向けた。ティルカは舗道に腰を下ろしたまま、小刻みに震えている。

 「……こちらのお嬢さんはあなた方と話し合いたくないようですが」

 「ちょっと行き違いがあったのじゃよ。なぁに、すぐ誤解もとける」

 「女の子ひとりに男三人がかりで連れ去ろうとして『ちょっと行き違い』ですか」

 レトの口調には感情が感じられなかった。レトはするりと剣を抜いた。

 「そちらこそ剣を引いて立ち去ってくれませんか? そうすれば戦わずにすみます」

 レトはそう言いながら左手を少し動かした。しかし、その手はすぐに止まる。

……魔法が使えない。

 レトはすばやく辺りを見回した。視界の端に魔法障壁の塔が見えた。

……ここは『魔法使用不可』の区域か。やっかいなところで鉢合わせてしまった。

 外からの強大な攻撃魔法を打ち消すため、王都には5つの魔法障壁を発生させる塔が建っていた。それは都市ひとつ消し炭に変えるほどの火炎魔法も防ぐほど強力なものだが、一方で塔の周囲の一定範囲内では誰も魔法が使えなくなる面もあった。レトが立っているのは、まさにその塔のそばだったのだ。

……魔法なしで三人を相手できるか?

 レトは剣を握り直した。

 「ほう、我々を相手にする、と言うのかね。こちらに剣を向けるということは、腕の一本を失う覚悟もできているということだろう。やむを得ん。相手をしてあげなさい」

 口ひげ男の命令を聞くや、ふたりの男はレトに切りかかった。レトは正面の男に向かっていくと、相手の突きをかわして剣を振り上げる。相手が防御の姿勢を取るや、背後に回ったもうひとりにその剣を振り下ろす。

 「何!」背後の男はギリギリで剣をよけると飛びずさった。

 「ほう」口ひげ男から意外そうな声が漏れる。

 レトは振り下ろした剣をそのまま正面の男めがけて突き上げる。防御を解いて攻撃しかけていた男は慌てて剣で防ぐ。カァンと鋭い金属音とともに男が後ずさる。レトはすばやく右手へ立ち位置をずらすと、今度は横一線に剣を振る。男は防戦一方だ。背後からレトを狙っていた男は再びレトの背後に回り込んだ。一気に間合いを詰めて剣を突き出す。レトはまるで後ろの様子が見えているかのように、身体の向きを変えるだけで背後の剣をかわした。振り向きざまにレトの剣が男めがけて飛んでくる。男は目いっぱいのけぞって剣をかわした。

 「ちくしょう!」少しかわしそこねたらしく、男のあごから一筋の血が滴り落ちた。

 「これは何とも」口ひげ男は腕を組んだ。

……あの若者の動きは一見でたらめだが、隙が小さく、計算づくめだとわかる。それにさきほどのかわし方を見れば、部下たちの動きが見切られているのは間違いない。さっき剣を抜いて向かい合った時点で、おおよその太刀筋を見抜かれたようだ。剣術大会のようなところで腕を磨いたクチではない。戦場の中、実戦で鍛えられた剣の使い手だ。そうとう若く見えるが、ふたり合わせても足りんほど経験の差があるのだろう……。

 レトと向き合ったふたりは一斉に切りかかるが、それを待っていたかのようにレトはふたりの間に割り込んでくる。つられるように剣を向けかけたが、互いの剣が仲間を斬りつけそうになる。

 「うわっ!」「あ、危ない!」ふたりは叫び声をあげて飛びずさる。

……本来避けるはずの挟み撃ちの状態に敢えて飛び込むいくさ度胸。同士討ちを狙う狡猾さ。一対複数の戦い方が身についている。あの若者は『剣士』ではないな。


――あの若者は『戦士』だ。


 口ひげ男は組んでいた腕を解いた。

 「下がれぇえい!」

 口ひげ男から大音声が飛んできた。間合いを詰めかけたふたりの部下は飛び下がるようにレトから離れた。レトの動きも止まる。

 「そなたらでは勝てぬ。この若者の相手はワシがする」ついに口ひげ男が剣を抜いた。

 「た、隊長自らですか?」男のひとりから驚きの声があがる。

 「若者よ。侮るつもりはなかったが、あまりに若く見えたのでな、失礼をした。これからはワシがお相手いたす。歳を取ってはいるが、その分時間をかけて基本を磨き続けてきた。そちらをあまりがっかりさせない程度には戦ってみせよう」

 口ひげ男は剣を中段に構えてみせた。その様子を見て、ふたりの男はさらに距離を取ってレトから離れていく。まるで巻き込まれまいとしているかのようだった。

 「若者よ、さきほどの剣捌き、実に見事だった。あれはどこで学んだものかの?」

 「僕は剣術学校には行っていません。すべて戦場です」

 「やはり……。ということはあの『討伐戦争』で戦っておったのかね?」

 「ええ、魔族相手に戦ってきました」

 「聞いたかね、君たち」口ひげ男は部下たちに声をかけた。

 「この若者は君たちと実戦経験の差が段違いなのだよ。これじゃあ勝てる道理はないわな。さて、ワシの経験は通じるほどかのう」

 レトは目を見張った。ふいに自分の剣と相手の剣が目の前で激しく火花を散らせてぶつかったのだ。あまりの衝撃にレトはごろごろと後ろへ転がった。

……何だ、今のは。来るとわかって、かわし切れなかった。

 レトは自分の口の中に鉄の味を感じていた。転げまわっている間に口の中を切ったようだ。

 ようやく立ち上がったレトの前に口ひげ男の容赦のない一撃が襲いかかる。レトは横っ飛びに飛んでかわした。口ひげ男の剣は舗道に火花を散らしてめり込んだ。

……基本に忠実過ぎるほど忠実な上段の打ち込みだ。ただ、予備動作がほとんど見えない。隙がなさすぎる。このひとは徹底して基本技を磨き上げたんだ。

 立ち上がりながら、レトは相手を冷静に分析した。『見た目で侮っていた』? とんでもない。見た目で侮っていたのはこちらのほうだ。あんなに肥えた身体で、ここまでの剣術を持っているとは思ってもみなかった。剣の腕前は達人級ではないか。


――このひとは強い。おそらく僕よりも……。


 距離を取りながら剣を構え直す。しかし、レトは次の攻撃に移ることができない。

……これまでとんでもない強敵と戦ってきたけど、ここまで攻め手が見つからない相手は初めてだ。今のままでは攻撃の組み立てを考えることさえままならない。こんな時に限って魔法が使えないなんて……

 レトは剣を握り直した。そのとき、左手の感触に気が付いた。左手は力強く剣を握りしめている。握力が衰えた感じはしない。

……魔法が使えない状況なのに、この左手は使える。つまり、僕にはまだ『奥の手』があるのか。

 レトは剣を右手だけで握ると、ぐいっと後ろに回して構えた。鎧で覆われた左手は相手に突き出した格好だ。

 「何かね、その構えは?」口ひげ男は一瞬、構えを緩めた。

……右手の剣を、まるで弓を引くように下げている。居合の変則形か? しかし、あんな構えではこちらの剣速に負けるだろう。居合は相手より剣速で上回らねば意味がない。自棄になって相打ち覚悟の構えか?

 口ひげ男はレトの真剣な表情をじっと見つめた。

……いや、あれは勝ちを諦めていない生きた目だ。まだ、何か手があるというのか? 初手をかわし、二撃目もかろうじてかわしたが、あれで互いの力量はわかったはずだ。剣では敵わないと理解してもなお、まだ戦うというのかね?

 「若者よ。そなたはまだ先のある身であろう? ここであたら命を危険にさらさず、剣を引くのが上策じゃないのかね?」

 「ご老人。僕はその娘を保護してほしいと頼まれています。簡単に反故にはできないんですよ」レトの口調は力強いものだったが、表情は苦しそうで、額から流れる汗が視界を遮ろうとしている。

 「剣士としての意地かね」

 「僕はただ、自分の行動に責任を持っているだけです」

 ティルカはその言葉にハッとして顔をあげた。レトにメルルと同じものがあるのを感じたからだった。

 「今どき珍しい若者がいたものだ。惜しい。もう間もなく剣士として生きられなくなるだろう」

 「それなら心配に及びません」レトの口の端に皮肉な笑みがこぼれた。

 「僕はもう『剣士』ではありませんから」

 「減らず口を!」

 口ひげ男は一気に間合いを詰めた。レトも足を踏み出す。レトの剣はまだ後方で構えられたままだ。口ひげ男の剣がきらめいた。

 「何い!」

 ガキンと鈍い金属音とともに口ひげ男の剣が止まった。レトの左手が相手の剣をつかんで止めたのだ。鎧の手はしっかりと剣を握っている。

 「片手で白刃取りだと?」口ひげ男は剣を引き抜こうとした。しかし、その剣はピクリとも動かない。まるで万力に挟まれたようだ。

 「何だ、この左手の力は……」

 口ひげ男はさらに驚愕の光景を目にする。自分の剣がレトの片手で砕かれたのだ。思わず口ひげ男の目が飛び出した。

 「ひ、非常識ィイイ!」

 ズシンと鈍い音が響き渡り、レトの剣が口ひげ男の肩に食い込まれた。口ひげ男は白目を剥いて倒れた。

 「思った通り、くさりかたびらを着込んでいましたね」レトはほっとしたように息を吐き膝をついた。緊張の糸が切れて、気が抜けてしまったのだ。それからじっと左手を見やる。

……この左手にまた助けられた。

 レトはよろよろと立ち上がった。気を緩めては駄目だ。まだ、この男の部下が残っている。しかし、それは余計な心配だった。口ひげ男の部下たちは、上司の元に駆けつけると、上司を抱えてそのまま走り去っていったのだ。男ふたりではかなり重いらしく、すぐ追いつけそうなほどよたよたした走りだ。レトは剣を腰の鞘に戻した。後は追わないでいい。戦いながら、レトは相手の正体におおよその見当がついていた。足元に残された口ひげ男の剣を取り上げると、目の高さまで柄の部分を持ち上げた。柄の様子を確認すると、確信が持てたようにうなづいた。これなら、いつでも相手を捕まえられる。それより、今は優先すべきことをしよう。

 「さて……」

 レトは座り込んでいるティルカのそばでしゃがんだ。

 「今度は逃げたりしないでね。君の無事をメルルに頼まれたんだから」

 そこへアルキオネがレトの頭に降り立ち、「かぁああ」と鳴いた。

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