パンドラの箱に希望はない 3
Chapter 3
12
マントン商会は王都では外縁部に近いステイヴニィ区にある。ステイヴニィ区には王都の近くを流れるゴーダン河から引き込んだクロス運河が横切っており、古くから交易の拠点として栄えていた。ゴーダン河は隣国のトランボ王国など、ギデオンフェル王国と同盟、あるいは友好関係にある諸国とつながっている。クロス運河は各国と交流を深める「水の大道」として、重要な役目を果たしてきたのだ。ステイヴニィ区は、各国から取り寄せられた品々が集まるところであり、商業地帯の中心でもあった。輸入販売を主業務とするマントン商会がステイヴニィ区にあるのは必然と言えた。
レトとメルルは運河を背に、マントン商会の門の前に立っていた。ふたりのそばには、憲兵隊からフォーレスが同行している。
「こちらがマントン商会です」
フォーレスが手で指し示しながら言った。
「大きな倉庫がありますねぇ」メルルは少し圧倒されたようにつぶやいた。
「倉庫というより、憲兵本部のように見えます」フォーレスが応じた。
マントン商会の倉庫は高さ制限いっぱいの高さまであり、周囲のどの建物も圧倒するほど巨大であった。
フォーレスが門衛に憲兵章を見せながら話をすると、鋼鉄製の厚い門が開かれて、三人は中に入ることができた。
「見渡す限り、倉庫しかないように見えますね」メルルが辺りを探すように見回した。
「倉庫の1階と最上階に事務所があるそうです。倉庫が社屋を兼ねているのですね」
フォーレスが丁寧に説明した。
倉庫の正面に立つと、建物の2階分に相当するような高い扉が他を圧するような存在感でそびえたっていた。
「こんな扉開けられますか?」メルルはただ見上げるだけしかなかった。
「だから、脇に普通の扉があるんだろうね」
レトが指さす先には、人が出入りするのに利用するのであろう小さな扉が見えた。ずっと上を見ながら歩いていたメルルの視界には入らなかったのだ。
フォーレスが扉をコツコツと叩くと、中から返事が返ってきた。しかし、どこか遠くから聞こえてくるような小さな声だった。メルルは中のひとは入り口からかなり離れたところにいるのじゃないかと思った。
メルルの想像した通り、すぐに扉は開かれなかった。中から足音が近づいてくるのが聞こえると、扉から小さなのぞき窓が開いた。小窓からは男の目がこちらをうかがっている。
「ええと、どちら様です?」
中からの声は、どこかのんびりしたような緊張感のないものだった。しかし、フォーレスの憲兵隊の軍服姿、レトの冒険者風かつ肩にカラスを乗せた姿、さらにメルルの三角帽子とローブに身を包んだ姿という取り合わせは、中の者を困惑させるのには十分だった。
「そちらは憲兵さん、ですよね? 一体何のご用件ですか?」
まだ緊張感のない声だったが、いくぶん警戒しているようだ。
「私はメリヴェール王立探偵事務所のレト・カーペンターと申します。こちらの代表である、モール・マントンさんにおうかがいしたい件で参りました。マントンさんはこちらにおられますでしょうか?」
「メリヴェール探偵事務所の方だったんですか。ちょっとお待ちください」
扉の小窓が閉まると、カチリと音がして扉が開かれた。中からは30代半ばあたりに見える、すらりとした男が姿を現した。倉庫で作業するためだろう、灰色の作業服に身を包んでいるが、まるで背広のようにぴしりとした趣の着こなし方から、いかにも真面目そうだ。黒縁の眼鏡のレンズのせいか、目が小さく見える。
「いやぁ、話には聞いていましたが、こうしてお目にかかることがあるなんて。ええと、私はベル・ブラウニーと申します。この倉庫の管理業務を行なっている者です。で、代表にお会いしたいとのことですが、まずは取次いたしますのでこちらでお待ちいただけますか」
ブラウニーは3人を事務所の中へ招き入れた。扉の向こうは拍子抜けするほど普通の大きさの部屋だった。扉のすぐ近くに来客用のソファとテーブルが置かれてあり、間仕切りで向こう側が見えないようにしてあった。間仕切りの手前には南方産の観葉植物の鉢が置いてある。間仕切りの向こう側では、ブラウニー以外に何人か働いているらしい気配があった。
ブラウニーは3人をソファに案内すると、すぐ近くの壁に歩み寄った。壁には伝声管が備えつけられている。ブラウニーは蓋を開くと、伝声管に「モールさん、いらっしゃいますか?」と声を送った。伝声管からは中年の男らしい声がすぐに返ってきた。
メルルはこうやって離れたところとやりとりできるんだと思った。
ブラウニーはすぐ戻ってきた。
「代表はすぐこちらに降りて参ります。申し訳ございませんが、あとしばらくお待ちください」
ブラウニーは丁寧に頭を下げると、間仕切りの向こうへ姿を消した。
ブラウニーは「すぐ」と言っていたが、モール・マントンが姿を現すまで少し待たされた。しかし、汗を拭きながら現れたマントンの姿を見ると、マントンは走ってここまで来たようだった。
「いやぁ、お待たせいたしました。私がマントン商会のモール・マントンと申します」
マントンは汗を拭ったスカーフを丸めながら自己紹介した。背はレトと変わらないぐらいだが、体重はレトの倍ぐらいはあるかのような恰幅の良い体格をしていた。丸い顔に丸い鼻。鼻の上に小さな丸い眼鏡が載っている。このひとなら私でも似顔絵が描けそうだとメルルは考えた。なにせ丸だけで構成されたような顔だからだ。年齢は40歳代あたりか。顔にしわはなく、頬がてかてかと光っていた。やたらと左腕の手首をさすっている。手首には瘤らしいものが見えた。手首の瘤をさするのがマントンの癖らしい。
「ああ、どうぞそのままおかけください」
立ち上がりかけたレトたちを押さえるように言って、マントンは向かい側のソファに腰を下ろした。3人はあらためて自己紹介する。メルルも自分を「探偵助手」と自己紹介した。
「それで、何かうかがいたい話があると」
自己紹介が済むと、マントンはさっそく本題に入った。
「まずは、これをご覧いただけますか」
レトはテーブルの上に2枚の紙きれを置いた。どれも手帳からちぎり取ったようなもので、それぞれ走り書きが書かれていた。
マントンはそれらを手に取った。
『ハマースミス殿
本日6月10日、午後8時に金240万リューを持参いたしましたが、留守であったため、いったん出直しいたします。なお、当方は確かに返済の意思を持って参りましたので、この借入金に対する利子は免除いただくように願いたい。明日、6月11日の同時刻に改めてうかがわせていただきます。
モール・マントン』
『ハマースミス殿
本日6月11日、午後8時に改めて金240万リューを持参いたしましたが、本日も不在でしたので出直しいたします。利子については、先日残した書置きと同様に願います。
モール・マントン』
マントンはテーブルに紙きれを戻した。「たしかに私が書き残したものです」
「これらはバゴット氏の屋敷で、玄関に入ったすぐ右手のテーブルに置かれていました。そこへ残したのもあなたですか?」
レトの質問にマントンはすぐうなづいた。
「ええ。私は昨日と一昨日、いずれも午後8時にバゴット氏の屋敷を訪ねました。扉を開けて、バゴット氏を呼んだのですが、何の応答もなかったので書置きだけ残して引き返したのです」
「2階に上がらなかったんですね?」
「ええ、そうですが、一体何の話ですか」
「バゴット氏はお亡くなりになっています。10日のことです」
マントンは居住まいを正した。
「あのひとが亡くなった? 何があったんですか?」
「バゴット氏は屋敷の2階にある、ご自身の居室で殺害されていたのです」
レトの説明に、マントンは思わず間仕切りのほうを向いた。誰も応接間でのやり取りに耳を傾けている者はいないらしく、何の反応も見られなかった。
マントンはやや前かがみになると、さきほどとはいくぶん声の調子を落として話しかけた。
「今、殺害された、とおっしゃったが、それは間違いないのですな?」
レトはうなづいた。「間違いありません」
「亡くなったのが10日ということだが、私が訪ねたときにはすでに亡くなっていたということですか?」
「実はそのことを確認するためにうかがったのです。バゴット氏は強盗に襲われ、猿ぐつわを噛まされた状態で縛られていたのです。あなたが訪ねられたとき、バゴット氏はまだ生きてはいたが、猿ぐつわのせいで助けを呼ぶことができなかったという状況もありえるのです。そこで当日の屋敷の様子など、覚えていることを教えていただきたいのです」
「そうだったんですか……。うーん、どこから説明すればいいのですかね?」
「まず、10日の午後8時にバゴット氏の屋敷を訪ねたあたりのことからお聞かせください」
「……そうですね。実はバゴット氏には、商品の仕入れなどで急に現金が必要な場合の借り入れをお願いしているのですが、バゴット氏とは10日締めで返済する取り決めになっていました。借用書もあります。あとでお見せいたしましょうか?」
「お願いします」
「通常の運転資金などは銀行から借り入れているのですが、急にまとまった現金が必要な場合、銀行は手続きが煩雑なうえに時間もかかります。当日必要という場合に対応してくれないのが銀行の困ったところでして。それで、先月にバゴット氏から200万リューを借りて商品の仕入れに当てたのです。そして、その返済が10日だったのです」
書き付けには240万リューとあった。利子は2割だったということだ。そんな高い利子を払ってまで借りる必要があるのか、メルルには理解できなかった。
「バゴット氏の事務所はオーウェン区にあるのですが、私はいつも事務所を閉めてから返済に行くため、バゴット氏の自宅へ直接訪ねていたのです」
「それは今までずっとのことですか?」
「今までずっとです」マントンはうなづいた。
「バゴット氏の屋敷であれば、ここから近いですからな。また、バゴット氏も事務所で私を待つのをおっくうがっておりましたからな。屋敷での返済がお互いに好都合だったのです。あの日も、これまで通りに返済にやって来たのですが、玄関に入り、バゴット氏を呼んだのですが、バゴット氏は現れなかった」
「そこを不審に思わなかったのでしょうか? バゴット氏に何かあったのではないかと」
「いやぁ、実はそこなんですがね。バゴット氏がオーウェン区の事務所で残業していることがたまにあったのですよ。だいたい6時には事務所を閉めてらっしゃるんだが、特別な客の対応があったりすると、私との約束は後回しにされたことが、これまでに数回はあったんです。まぁ、お互い長い付き合いですから、そんなこともできたんでしょうが。だから、あの日もそういった事情で不在だったのだろうと考えて引き返したんです。もちろん、すぐに帰った訳じゃありません。正確にはわかりませんが、たぶん30分ぐらいは玄関で待っていたはずです。ですが、バゴット氏が帰ってくる様子が一向に見られないので、そこで帰ることにしたんです。ただ、期日通りに返済に訪問した証拠だけは残そうと、この書置きを手帳に書き、それをちぎり取って玄関脇のテーブルに置いたのです」
「玄関のカギは開いていたのですね?」
「ええ、開いていました」
「そこも不審に感じなかった?」
「バゴット氏は職業上、防犯意識の高いひとではありましたが、意識がその……ちょっと個性的でしてね、金庫や貴重品入れを厳重に施錠さえしておけば、そのほかのことはあまり注意を払わなくても構わないようなひとでした。極端というのかな、異常に細かいところと、かなりいい加減なところが同居していましたね。だから、玄関のカギはただ締め忘れただけだろうと深く考えなかったのです」
「……そうですか。では、8時ごろバゴット氏の屋敷に足を踏み入れたとき、あなたはそこで声をあげてバゴット氏を呼んだが、応答がなかった。そこで書置きだけ残して、そのまま引き返した、ということですね?」
「そのとおりです」
「当日、ほかに何を目にしたか、覚えている範囲で教えていただけますか?」
レトの質問に、マントンは腕を組んでしばらく考え込んだ。
「うーん、何かを見たとしても、何も不審に感じてなかったからなぁ。大したことは言えないんだけど。そうだな、玄関は魔法灯が備え付けられていたから、私が訪ねたときも明かりが点いていた。バゴット氏は暗いところが嫌いなので、屋敷の中はつねに明かりが点いていたよ。それこそ不在のときでもね。ただ、屋敷を出たとき、何となく暗い感じがしていたんだ。思い出した。門の脇に立っていた子供の像がなくなっていたんだ」
「子供の像ですか」
「子供と言っても神話に出てくる、子供の姿をした神様だよ。ええっと、名前は出てこないな。ただ、その像は丸い球を抱えている姿をしていたが、その丸い球が魔法灯になっていて、夜になると門のあたりを照らすようになっていたんだ。けっこういい品だったと思うよ。あれは二百年ぐらい前の、アール調と呼ばれる美術様式で造られた作品だったと思う」
「もし、マントンさんが取り扱うとしたら、お幾らぐらいするものですか?」
「うーん、そうだね……。私なら100万リューより安くは売らないな」
100万リュー。さっきからマントンの口から出る金額に、メルルはついていけなくなってきた。メルルの好物である栗ケーキに換算していくつ買えるのだろう。見当もつかない。
「ほかに気付いたことはありませんか? 何かなくなっているな、とか」
「……すみません。今は思い出せません。もし、あとで何か思い出すことがあればお知らせいたしましょう」
「そうですか。では、2回目に訪ねられたときのことをお聞きします。2回目はどうされたんですか?」
「どうされたって……。そう言われても、さっきの話の繰り返しです。同じ8時ころにバゴット氏を訪ねて、玄関で彼を呼んだが、その日も返答がなかった。それで同じように書き付けを残し、立ち去った、ということです。私の話はともかく、バゴット氏の細君には会っていないんですか?」
マントンは組んでいた腕を解くと、逆にレトに質問した。
「バゴット氏の細君」
「ええ、たしかに最近別れたとは聞いていますが、私物の引き取りが残っているとかで、まだ屋敷の出入りはあったと思うのですが」
「アジャーニ・パルマ。所在については現在確認中です」横からフォーレスが説明した。
「そうそう、そのアジャーニさん。彼女は私なんかよりずっとバゴット氏の性格や性質をご存じだ。さっき話した戸締りにだらしない点だとか、暗いところが苦手だとか、そういう話の裏付けは彼女に確認するといい。私の話が本当だと信じてもらえますよ」
「そうですね、そうさせていただきます」
レトはうなづくと、そこで話題を変えた。
「御社では珍しい品々を取り扱っておられると聞きました。魔法仕かけの道具も扱っているとか」
マントンは嬉しそうにうんうんとうなづいた。
「ええ、ええ。私どもはよその商会が扱わない商材で商いをいたしております。おかげで順調に業績は伸びております。魔法仕かけの道具類は、魔法が使えない方も扱うことができるので、たいそう喜んでもらっています。私どもの商売は、お客様のご支持あってのものです」
「バゴット氏は顧客でもあるのですか?」
「うーん、そうでもあるし、違うとも言えるし。いくつかは購入いただいていますが、付き合いで買っていただいたようなもので。バゴット氏は魔法を便利なものとも思っていないようで、関心もないようでした」
「御社の主力商品は何になりますか?」
「主力と言えるものはありませんが、最近売り込みに力を入れようと思うものがあります。ちょうどいい、ご覧にいれましょう」
マントンは立ち上がった。
「どうぞ、こちらへ」マントンは間仕切りの向こう側へ案内しようとする。
少しためらいの表情を見せたが、レトは立ち上がった。メルルたちも立ち上がった。
マントンに促されて間仕切りの向こう側へ回ると、そこは応接と同じ広さの事務所になっていた。三名の男女が書類を見比べながら書き込みをしている。はじめにレトたちの応対をしたベル・ブラウニーの姿はない。三名はこちらに顔を上げる様子もなく、仕事に集中しているようだ。
「今、少し立て込んでましてね、無作法をお許しください」
マントンは苦笑しながら言った。
マントンはさらに奥へと案内する。そこには小さな扉があった。「こちらです」マントンは扉を開けて先へ進んだ。レトたちも後に続く。
扉の向こうは広々とした空間になっていた。天井は通常の建物の3階並みの高さにあり、そこからはレーンに取り付けられたクレーンがぶら下がっていた。天井にいくつか明かり窓が見える以外に窓はなく、壁には魔法灯がまばらに備え付けられている。力を押さえているためか、魔法灯の明かりは弱々しいものだった。それでも商品の名札が読める程度の明るさはある。
倉庫の中は大小さまざまな木箱が、かなりの高さで積み上げられていた。マントンはそれら木箱の間を慣れた様子で進んでいく。商品同士はゆったりと余裕があるので、マントンについて行くのには困らなかった。
「術式魔法が発見されてから今日、多くの魔法使いが様々な術式魔法を編み出しました。最近は私のように魔法の使えないものでも扱える魔法道具が登場して、私たちの生活水準は飛躍的に向上しました。ですが、それらの道具は市場の古物商みたいに屋台販売されたりはしません。主に魔術師ギルドまで赴かないと手に入りません。魔法使いは商品の開発は優秀ですが、商売人としては素人か、それ以下です。そこで、私が買い付けを行ない、私が展開する雑貨店で販売することにしたのです。街のひとは身近で便利な道具が手に入る。ギルドは商売のことは気にせずに、商品開発に専念することができる。そして私も儲かる。誰もが嬉しい事業なのです、私がしていることは」
マントンは自慢げに語っている。しかし、あまり嫌味は感じられない。それはマントンの語る商売方法にうまいと思う部分があるとメルルも認めていたからだった。
「主力商品はないと言いましたが、あえて言うならこの『魔法灯』でしょう。日中の明かりを吸収し、夜暗くなると光を放出してあたりを照らす。単純ですが、この仕組みに使われている術式はそうとう複雑だそうです。この『魔法灯』はマーリン時代に発明されたものですが、大量生産の流れはここ数年になってからです。昔とは違い、だいぶ安価になりました。王都以外ではまだまだランプが主流ですが、いずれこの魔法灯が明かりの主流になりますよ。ちなみにこのあたりの小さい木箱の中身はすべてその魔法灯です。脇にある大きい箱は、街灯として使われる魔法灯が入っています」
「倉庫の大部分がこの箱ですよ。思いっきり主力商品じゃありません?」
メルルがレトに小声で話しかけた。レトは人差し指を自分の口の前でたてて無言で首を振った。
「このゴミ箱は主婦に人気です。まるで生きているみたいに生ごみを食べて、土に変えるんです。その土は肥料にも使えるもので、家庭菜園や家庭造園を楽しむ方からは重宝されています。匂いが出ないのも嬉しいところです。そちらのお嬢さんもおひとついかがですかな?」
「……検討いたします」メルルは遠慮気味に言った。
「是非に。おすすめですよ。ああ、それとも最新の魔法の杖のほうがよろしいかな? 補助的な機能が追加されて、呪文を唱える効率がよくなるそうですよ」
「そちらは間に合っています」今度はしっかりと断ることができた。メルルは大きな樫の杖と小さな杖のふたつを持っている。どちらもかつての師とのつながりを感じる大事なものだ。それ以上、杖は必要ない。
メルルの毅然とした態度に、マントンは多少面喰ったようだった。だが、すぐに気を取り直すと、「それは残念です」と本当に残念そうな口ぶりで言った。
一行は倉庫の中央辺りと思われる場所で足を止めた。そこは少し開けた状態になっていて、その中心には木箱に入れられていないものが立っていた。
「今後、主力になるだろうと思われるものです」
マントンが指したのは、通常の大人の2倍近くはある、大きな土の人形だった。脚は短く、腕も太く短い。全体にずんぐりした印象の像だった。それは1体だけではなく、3体あった。
「これは……」レトが目を見張った。「ゴーレムですね?」
「そのとおり、ゴーレムです。かつては魔族が使役する泥人形でしたが、我ら人間が使役できるよう研究されてきたものです。ようやく商品化できるところまでこぎつけられたんですよ」
マントンは満足げにゴーレムの腹部をぽんぽんと叩く。
「魔族の使役するゴーレムにはまだ及びませんが、簡単なことであればできるようになりました。それは、人間に代わって重いものを持ち上げて運ぶことです。昼夜休まず働くことができるので、工事現場で重宝されるでしょう」
「現時点では運搬用ですか?」
「それでも意義は大きいですよ。巨大な石や建材を持ち上げたりするのに、これまではクレーンを設置してから動かしたりしていましたからな。ゴーレムだと命令だけすれば片付く。クレーンの設置が難しい場所でも対応できたりしますからね」
「戦闘用には使えませんか?」
「いずれ、兵士の代わりもできるゴーレムが作られるようになるでしょう。ですが、まずは安全性を優先させねばなりません。勝手に『あれを攻撃しろ』と命じられて、その命令を実行されたりでもしたら大ごとですからな。これらのゴーレムにはひとを攻撃する命令は受け付けないと制約されています。ですから、戦闘には使用できません。まぁ、かなりの腕力なので、戦力になれば頼もしいのでしょうが。あと、動きが敏捷ではないので、敵を捉えるのも容易でありません。その意味でも戦闘向きじゃありませんな」
「では、これらのゴーレムは番犬の代わりもさせられないんですね?」レトは続けて質もした。
「まぁ、現在のところは、というところですね。何せ高い次元で判断する、という術式はまだ開発されていませんから、『敵には攻撃する、味方には攻撃しない』ということができないんですよ。当然、『あれは侵入者、こちらは客』という判断もできないので、番犬代わりもダメですね。魔族がダンジョンの番人にゴーレムを使っているのは、侵入者を問答無用で攻撃するよう命じているからです。敵味方の区別をゴーレムに求めていないんですよ」
「魔法は万能じゃありませんからね」メルルはそっとつぶやいた。
「現在は、ですよ。お嬢さん。魔法の研究が進み、新しい術式が編み出されば、完全にひとの代わりができるゴーレムも作れるようになるでしょう。そうなれば、ひと同士が戦争する時代はなくなりますよ」
「そんな時代が来ると思いますか?」レトが尋ねた。
「誰も信じないでしょうね、今のところは。でも、ひと昔前までは、魔法が学問になるなんて誰も考えなかったし、一般のひとびとに魔法の道具が使えるようになるなんて誰が想像できたでしょう? ですが、たとえ少しであっても、それは現在の私たちの『現実』です。何も起こらない未来なんてないんです」
マントンは雄弁に語った。どうも普段からそのような考えがあったようだ。
「何かが起きる未来の中に、あなたの言う未来も存在すると」
「それを否定する根拠を、我々は持っていませんからな」
マントンは自信たっぷりだった。
レトはマントンの隣に並ぶと、マントンと同じようにゴーレムの腹に手を触れた。ひんやりした土の感触が手に伝わる。
「実際にはどうやって動かすんです?」
「お腹のすぐ上に宝石が十字状に埋め込まれているでしょう? 中心のルビーに触れて命令すれば実行します。受け付ける命令は、足元にある使用説明書に書いてありますよ」
「さきほどひとは攻撃できないよう制約されていると聞きましたが、どう判断させているんですか?」
「単純です。ひとの形状のものに殴る行動をしない。握りしめたり、押しつぶしたりしない、と前もって命令を入力してあるんです。ひとに危害がありそうな状況になれば、勝手に止まるようになっています」
「逆にひとを危機から助ける、ということはできなさそうですね?」
「それはできませんね。ゴーレムには対象の人物が危機に陥っている状態なのか、そうでないのかの判断ができませんから」
「本当に万能じゃありませんね、魔法というのは」
これまで黙ってやりとりを聞いていたフォーレスが口を挟んだ。
「だから、ひとにできることって多くあるのだと思います」
レトはゴーレムを見上げながらつぶやいた。
13
「尋問に立ち会わせてくださり、ありがとうございます」
ヴィクトリアは丁寧にお辞儀した。
彼女が今いるのは憲兵本部の奥まったところにある尋問室だった。窓は天井近くにある小さな小窓ひとつのみで、室内は薄暗かった。そこには彼女が捕らえるのに協力した盗賊団のひとりが座らされており、向かいには厳しい顔つきの憲兵が尋問官として座っていた。ヴィクトリアはその尋問官に挨拶をすると、隣に腰かけた。尋問室の鉄の扉の前には、インディ伍長が腕を組んで立ちふさがっている。
これから尋問される盗賊の男は震えていた。年齢は20歳過ぎあたりか。顎のあたりにまばらに生えている無精ひげも薄い。くしゃくしゃの髪をとかし、ひげを剃り落とせば、街で見かける上品な若者に見えるだろう。
「お、俺、憶えているよ。あ、あんたのこと……。俺たちに雷の魔法を打ち込んだだろ?」
ヴィクトリアはにっこりとほほ笑んだ。
「あらぁ、憶えてくれてたの? 嬉しいわ」
……何が嬉しいんだか。
インディ伍長は天井に目をやりながら、心の中でつぶやいた。
「じゃあ、もう知らない仲ってわけでもないし、ざっくばらんに話してもらえるかな」
盗賊の男はびっくりした表情になった。
「な、何を話すんだ、あんたに?」
尋問官が口を挟んだ。
「質問するのは私だ。まず、氏名を確認しておこう。名前はブルガスでいいんだな?」
盗賊の男、ブルガスはうなづいた。
「ああ、間違いねぇよ。俺はブルガスだ」
「君の自白を確認するため、我々はバゴット・ハマースミス氏の自宅を訪ねた。君は、バゴット氏を2階の居室に猿ぐつわを咬ませたうえ、縛り上げて放置したと説明した。あれから、その説明に変更する部分はあるかね?」
「変更する部分って、別に、ないが……」ブルガスは自信なげに答えた。
「バゴット氏に暴力や傷を負わせたりしていない?」
「暴力や傷? いいや、俺たちが踏み込んで刃物を見せると、あの爺さん、えらく大人しくしててよ。そのまま縛られるがままって感じだったぜ。だから、こっちは暴力どころか傷ひとつつけちゃいねぇよ」
「そうかね」
尋問官は両手を組むと、そこに自分の顎を載せた。
「だがね、我々が行った先にあったのは、殺されたバゴット氏の遺体だったんだよ」
「こ、殺されただって!」ブルガスは大声で叫んだ。
「う、嘘だろ。いや、何かひっかけようとしてるんだろ! それは俺たちじゃない、俺たちは殺していない!」
ブルガスは少し中腰ぎみになって否定した。尋問官は片手を制するようにあげると、ブルガスはどしんと席に腰を下ろした。
「バゴット氏は後ろ手に縛られた状態で寝転がされていた。そこから喉を斬られたのだ」
「だ・か・らぁ、俺たちじゃないって! 自分で喉を斬ったんじゃないのか?」
「君たちが身動きできないように縛り上げたのにかい?」尋問官は落ち着いた様子で言った。ブルガスはぷいと横を向いた。しかし、目もとや口もとが痙攣するように小刻みに震えているのがわかる。強気な姿勢とは裏腹に、かなり怯えているようだった。
「君は殺していないと言う。だが、バゴット氏は強盗に襲われたうえ、殺された状態で見つかっている。我々は君の自白に嘘がないかを改めて確認しなければならない。そのことについて、君は理解してくれるかね?」
「理解するも何も、俺たちは本当にやっていないんだ……」
相変わらずブルガスは否定したが、その口調はかなり弱々しいものになっている。
「まず、確認するが、君たちがバゴット氏の屋敷に侵入したのは何時頃かね?」
「たしか6時頃……、いや6時半ごろだ。バゴットの爺さんが戻ってくるのを待っていたからな」
「君たちはバゴット氏の在宅を狙って侵入した。どうせなら不在時を狙えばいいはずだ。どうしてかね?」
「……金庫を狙う際、持ち主に開け方を聞き出せれば早いし、手間も省けるからだ。それに、家のものが不在時の仕事は、常にいつ戻ってくるか警戒しなきゃいけねぇ。空き巣をやるには空き巣をするなりの危険があるんだ。たとえば、最近は魔法道具で空き巣を撃退するものがあるって聞いている。そんなものが仕かけられていたら面倒だからな。もし、そういう仕かけがあったら、家のものに解除してもらうのが一番さ。まさか家のものがいる間は、魔法の罠を作動させちゃいないだろ? それに身柄を押さえておけば、じっくり家探しができるからな。それも理由さ」
「金庫は無理やりこじ開けられていた。バゴット氏からは錠を開ける番号を聞き出せなかったのか?」
ブルガスは目だけをこちらに向けると「ああ」とだけ答えた。
「では、金庫の開け方を教えてくれないバゴット氏に腹を立てて、君たちのうちの誰かが危害を加えたりしたのではないかね?」
「……そう言うと思ったぜ」
ブルガスは横を向いたまま皮肉そうな笑みを浮かべた。
「信じようが信じまいがそっちの勝手だが、俺たちはあの爺さんを殺しちゃいねぇ。金庫の開け方について爺さんが喋らねぇのは想定内だ。殺されるかもしれねぇっていうのに、金庫の開け方は頑として口を割らねぇ奴は、今までにもいたからな。いわゆる守銭奴って奴だ。金庫の回転錠をつかむ万力はちゃんと用意してある。開け方について口を割ってくれたら、金庫そのものは無事にしてやるつもりなんだがよ。教えてくれねぇんなら仕方がねぇ。無理やり金庫を壊して中をいただくだけさ。あのバゴットって爺さんも、口を割らねぇ手合いの相当な守銭奴だった。こっちも拷問にかけたりするのは性に合わねぇし、時間がもったいねぇ。さっさと見切りをつけて、金庫を壊すことにしたのさ」
尋問官はため息をついた。「そんな話を信じろと?」
「だから言ってるだろ、信じようが信じまいがって。俺たちは少々荒っぽい盗っ人だがな。殺しだけはしたことねぇんだ」
尋問官は首を左右に振るだけだ。誰の目にも信じていないことは明らかだ。
そこへ、ヴィクトリアが笑みを浮かべて尋ねた。
「金庫の開け方を聞いたということは、最初は猿ぐつわをかけなかったということよね? しばらくはバゴットさんとお話とかしたのかしら?」
ヴィクトリアのくだけた口調には、さすがに尋問官もブルガスも面喰った表情になったが、ブルガスはヴィクトリアの顔を見つめて答えた。
「話ってほどのことはしていない。あんたの言う通り、最初は猿ぐつわなんかしていない。金庫の開け方を聞き出すつもりだったからな。だが、あの爺さん、開け方についちゃ全く何も喋ろうとしないのに、こっちを罵ることったらありゃしねぇ。いい加減、こっちも腹が立ってきて、仲間が猿ぐつわを咬ましたんだ」
「そうなの。けっこう口の悪いひとだったのね、バゴットさんってひと」
「そうさ。こっちは金庫の開け方さえ教えてくれりゃいいのに、口を開けば憎まれ口ばっかでよぉ。『お前たちに報いを受けさせてやる』とか、『それを手にしたらお前たちに死が訪れる』とか、呪い文句も混ぜてよぉ」
「『それを手にしたらお前たちに死が訪れる』って、何か呪いのアイテムっぽいものでも盗ったの?」
ブルガスは首を振った。
「いいや。そのときは……、そうだな、小さな箱を手にしたときだ。十字状に宝石が埋め込まれているんだが、仲間がそれを持った途端に、真ん中のルビーがパァッと赤く光ってよぉ。みんなが何これ、わかんねぇけどすげえって言ってたときだ。爺さんがわめいたんだ。『むやみに開けようとするんじゃない、それは魔法の箱なんだ』ってさ」
「魔法の箱?」ヴィクトリアの眼鏡の奥が光った。押収品の中に、それに該当するものは見当たらなかった。だとすれば、新たな盗賊団に持ち去られたということになる。
「そうさ。たしかに魔法の箱だって言ってた。その魔法のせいか、箱のふたは簡単に開きそうにねぇ。何かやばい魔法がかけられているかもしれねぇから無理に開けることはしなかった。一応、ふたの開け方を聞き出そうとしたら、そのときさ。爺さんがせせら笑うように『それを手にしたらお前たちに死が訪れる』ってほざきやがったんだ。結局、それの開け方も教えようとしなかったんで、そのまま猿ぐつわをかけたのさ」
「その箱の中身は確認できたの?」ヴィクトリアは少し前のめりになって尋ねた。
「いいや。とりあえず箱の開け方は後で考えようということで、持ち出すだけにしたんだ。箱は俺たちの倉庫に仕舞っておいた。それからすぐにあんたたちにパクられたから、箱を開ける方法も見つからずじまいさ」
「ウスキさん。あなたの事務所に預けた押収品に、該当するものはありましたか?」
尋問官がヴィクトリアに尋ねた。
「いいえ。押収品の中に、魔法の箱と思われるものはありませんでした」
ヴィクトリアの答えに、尋問官は再びふぅとため息をついた。
「君の話が作り話ではないと証明する肝心の箱がない。それに、たとえそれが本当の話だとしても、君たちがバゴット氏を殺害しなかった証明にはならない。悪いが私の考えは変わらんよ」
「そうかい、もういいよ。あんたは好きに俺たちを殺人者にでもしてくれ。でもよ、そうしたら本当の犯人がのうのうと生き延びて、また誰かを手にかけるなんてするかもしれねぇぜ」
尋問官の表情には何の変化も起きなかった。
「ほう、そうかね」
そこへヴィクトリアが口を挟んだ。
「ええと、少し私から聞きたいことあるけど、いいかな?」
ブルガスは力なくうなづいた。
「あなたたちはどうしてバゴット氏を狙ったの? 狙った理由ってあるの?」
「深い理由はねぇよ。あの界隈で、最近女房に逃げられてひと気のねぇ屋敷があるって話を耳にしてよ。住人が少なければ、それだけ押さえるべき人数も少ない。だから仕事がしやすい屋敷だって考えたわけだ。それが、そのバゴットって奴の屋敷だったんだ。ちょっと下見に行ってみたら、門を入ってすぐのところに魔法灯を抱えた子供の像があったんだ。仲間のひとりが『あれは値打ちものだ』って言いだしてな。それで屋敷にはもっと金目のもんがあるんじゃないかと考えたんだ。それにバゴットが金貸しだってこともわかって、金目どころか、金そのものを持ってるだろうって狙うことになったんだ」
「でも、離婚で男やもめになれば家政婦を雇うことだってあるでしょ。そこは確認したの?」
「もちろん。通いの家政婦が3日おきに掃除と洗濯をしに来るって情報はあったよ。だから、家政婦がやって来た日の晩を狙ったんだ。そうすりゃ次に家政婦が来るのは3日後だからな」
ヴィクトリアはインディ伍長を振り返った。インディ伍長は腕を組んだまま、「あとで、確かめる」と言った。
ヴィクトリアは再びブルガスに顔を向けた。
「盗んだのはバゴットさんの居室のものだけ? ほかの部屋はどうしたの?」
「ざっとは見たさ。さっき話した魔法灯の像も持っていったしな。だが、あまり覚えちゃいねぇが、大したもんは盗っていないと思うんだがな」
「食堂の食器とかは?」
「あれこそ期待外れだった。素人目でもわかるくらいの安物しかなかったぜ」
ブルガスはそこでぐいっと自分の身体を前に傾けた。
「……なぁ、あんたは俺たちが犯人じゃないって思ってくれてるんだよな? だから、こうしていろいろ聞いてくれるんだよな?」ブルガスはヴィクトリアにすがるような目つきだ。
「私は何も決めつけていないだけよ。あなたは犯人かもしれないし、違うかもしれない。違うのであれば、手がかりや証拠を集めて、それを証明する。それだけよ、私の考えは。もし、あなたの味方じゃないかって考えるんだとしたら、失望させちゃうかもね。ただ、これだけはわかって。私はあなたに対して公平よ」
ヴィクトリアは突き放すように言ったが、ブルガスはそれを気にする様子はなかった。
「ああ、そうだよな。あんたの立場ならそう言うのが正しいんだろ。俺たちは別に善人じゃねぇ。盗っ人さ。俺たちがやったと承知していることで裁かれるのは仕方がねぇ。でもよ、やってもいないことで死刑にでもされたらたまったもんじゃねぇ。あんたの公平な目で俺たちは誰も殺していないって確かめてくれよ。頼むよ」
ヴィクトリアは静かに立ち上がった。眼鏡が反射して、表情をうかがうことができない。
「私は探偵だから、あなたたちの弁護はできないわ。そのかわり、ちゃんとした弁護士を紹介してあげる。少なくとも公平な裁判が受けられるようにするわ。それ以上のことは何も約束してあげられないわよ」
「いや、助かる。やっぱりあんたは話がわかる」
ブルガスの声はまだ弱々しいものだったが、表情はいくぶん明るくなっていた。
「ちょっとぉ、こっちの尋問官さんを悪く取らないで」
ヴィクトリアはいきなり尋問官の両肩に手を置くと、ゆさゆさと左右に振り出した。
「このひとは別にあなたたちだけを疑っているわけじゃないのよ。ありとあらゆるひとを疑ってかかるのがこのひとの使命なの。仕事のうちのことなんだから、ね?」
尋問官は頭をガクガク揺らされながら「や、やめろ、離せ」と肩に置かれた手を振り払おうとあがいた。その様子を見て、ブルガスは「ああ」とようやく笑みを浮かべた。ほっとしたような、どこか安心したような笑顔だった。
14
王都に夕闇が下りようとしている。
赤く染まった街の風景は、徐々にその色を紫へと変えようとしていた。王都はまもなく夏を迎えようとしている。通りをそっと吹き抜けていく風はまだ肌には優しい涼しさを保ってはいたが、その涼しさの中にどことなく熱を帯び始めているのも事実だった。風が意地の悪い息苦しい熱風へと変わる日も近い。
ティルカはその風で髪をなびかせてわが家へ向かう通りを歩いていた。手には紙袋をぶら下げている。表情にはほとんど感情が見られない。ただ、口元が少し緊張しているように引き締まっていた。通りから細い路地を曲がると、『ノルドン魔法鍵店』の看板が見えてくる。彼女は早足でその路地を曲がった。
店の前に着くと、ティルカは一度立ち止まり、瞳を閉じて静かに深呼吸をした。それから、扉の鈴をカランと鳴らして中へ入った。
店の中では、ノルドンが背中をこちらに向けて仕事中だった。魔法道具の解析をしているらしい。小さな箱に腕輪をはめた両手をかざして魔法陣を浮かび上がらせている。かたわらには一冊のノートが広げられたままで置かれていた。ノルドンは片手を箱にかざしたまま、そのノートに書き込みをしている。
「父さん、ただいま」ティルカは肩越しにのぞきこもうとしながら父に声をかけた。
「あ、ああ、ティルカ。お、おかえり」ノルドンは少し驚いたように返事した。どうやら、ティルカが入ってきたときに鳴った鈴の音にも気付いていなかったようだ。
「まだ仕事?」
ティルカは父の横に立つとノートの脇に紙袋を置いて、父が解析を進めているものを見つめた。十字状に宝石が埋め込まれた小箱。ティルカはそれに見覚えがあった。
「あれ、この箱。父さんの……」
「い、いや、これはお客さんのものだよ。これは『エリファス・レヴィの小箱』だ。昔、お前に教えたことがあっただろ? 昔のものだが、この世にはこの箱はほかにもまだ存在する、とか」
「うん、憶えているよ。術式を調べるのが面倒だってことも。この箱開かないの?」
「まぁね。持ち主が合言葉を忘れちゃってね、開けられなくなったんだそうだよ。覚えるのが難しい合言葉を考えて、それを忘れちゃったんだとさ。ずいぶんうっかりしたお客さんだよ」
「……そうなの。まだ、続けるの?」
「あ、ああ、そうだな。きりのいいところまでは続けるよ」
「そう。じゃあ、仕事が終わったら、その袋にパンが入っているから、それを食べてね。今朝は、おかみさんが大きいのを分けてくれたの」
「ありがたい。パン屋のおかみさんには、私が礼を言っていたと伝えてくれないか。正直、昼も食べていなかったから助かるよ」
ティルカはノルドンの肩に手をかけた。久しぶりに触れた父の肩はずいぶん小さく感じて、そのことにティルカは少しどきりとした。
「父さん、あまり根を詰めないでね。だって、父さん、若くないんだから」
ティルカの言葉に、ノルドンは苦笑した。
「まだ50だ。若くはないんだろうが、爺さん扱いにはまだ早すぎるぞ」
「もう50よ、父さん」ティルカは訂正するように言った。
「お前にはかなわんな。まぁ、お前の言う通り無理はしないように気を付けよう」
ティルカは身体の向きを変えると、2階へ通じる階段へ歩き出した。
「じゃ、私は父さんの邪魔をしないようにするね」
階段を数歩昇り始めたティルカにノルドンは声をかけた。
「ティルカ。昨夜のことだが……」ノルドンの口調は遠慮がちなものだった。
ティルカは足を止めると父のほうを向いた。「何? 父さん」
「昨夜、お前はあれから外出していたようだが、屋根から抜け出してどこへ行っていたんだ?」
ティルカは父から視線をそらした。「屋根伝いに教会まで」ティルカは嘘をついた。
「教会だって? 2区画も向こうに行っていたのか?」
「本当はこの屋根からの景色をスケッチしようと思ってたんだけど、ここだと気が乗らなくて。そのまま屋根伝いに眺めのいいところまで歩いちゃったの。父さん、憶えているでしょ、私がものすごく身軽だってこと」
「そりゃあ、そうだったが。だが、あんな夜に屋根の上を歩くなんて危ないことをせんでくれ。まだまだおまえは子供なんだ。私に心配をかけさせんでくれ」
「まだまだ子供って。私もう17よ」
「まだ17だ」ノルドンはすかさず応じた。
今度はティルカが苦笑した。
「わかったわ。父さんの言う通り、気を付けて屋根を歩きます」
ティルカは丁寧にお辞儀をすると、階段を駆け上がっていった。
「お、おい、私は屋根を歩くなと言いたいんだ。おい、ティルカ……」
ノルドンは立ち上がったが、ティルカが下りてくる様子はない。ノルドンはしばらく娘の消えた階段を見つめていたが、大きなため息とともに椅子に座り込んだ。
ティルカは2階の部屋で、さきほど上がってきた階段を見つめていた。ノルドンが上がってくる気配はない。やがて、ため息とともにノルドンが椅子に座り込むどさりという音が聞こえてきた。そのいかにも疲れたような音に、ティルカは階下へ戻ってノルドンに謝ろうと思った。しかし、ティルカはその気持ちを振り払うように階段から視線をそらした。そう、今はノルドンに謝っている場合じゃない。ティルカは自分のベッドの下を探ると、リュックとケースに収めたナイフを引っ張り出した。それらを手早く身に着けると、もう一度階段を振り返った。ノルドンが上がってくる気配はない。
ついさっき止められたばかりだったが、ティルカは窓を押し開けると外へ身を乗り出した。ノルドンのあの様子だと2階にはすぐ上がってくることはないだろう。うまくいけばノルドンには気付かれずに戻れるかもしれない。ノルドンは仕事が立て込むと、2階で休まずに店の長椅子で仮眠を取ることがあった。今夜もそうするかもしれない。
ティルカは音もたてずに屋根の上を歩くと、昨夜と同じようにするするとたてといを伝って裏通りに降り立った。今夜はベンデルの隠れ家に向かうわけではない。行先はここから離れたステイヴニィ区だ。ティルカは通りを行き交う人々の群れに溶け込むと、まずは運河を目指して歩き始めた。
『ノルドン魔法鍵店』の入り口の小窓からはノルドンが外の様子をうかがっていた。ノルドンの目はしっかりとティルカの姿を捉えていた。ノルドンは娘の姿が見えなくなるまで、じっと見つめ続けていた。やがて窓から離れると、娘が自分のために置いてくれたパンの袋に視線を移した。その目には力がなく、弱々しいものだった。
「そうさ、わかってるさ」
ノルドンはパンの袋に話しかけるようにつぶやいた。
「あの子をいつまでもつなぎとめるなんてできないんだ。私の勝手をいつまでもあの子に押し付けるわけにはいかないんだ」
ノルドンは自分の両手を見つめた。その手は細かく震えている。
「だがな、だがな、あともう少し先送りできないんだろうか? 必ず『そのとき』が来るんだとしても……。私はただあの子との時間を生きたいだけなんだ」
ノルドンはそのまま自分の顔を両手で覆った。
15
さきほどまでは赤紫色の街だったのが、今では黒に近い紺色の街だった。魔法灯の街灯が青白い明かりを注いで、黒一色に染まるのに抵抗していた。
路地裏の行き止まりで、ティルカは黒一色の衣装に着替えた。路地裏の塀の向こうは運河が流れている。着替えを終えたティルカは自分の背の2倍はあろうかという塀に取りつくと、一度壁を蹴るようにして、一気に塀の上へ飛び上がった。運河と塀の間は、ひとがひとりやっと通れるくらいの狭い段になっていた。ティルカはそこへそっと飛び降りると、まるでそこが道であるかのように歩き始めた。
目的のステイヴニィ区まではけっこうな距離があったが、入り組んだ通りを歩くより、運河沿いを歩くほうが早く行ける。それに夜の運河を進む船はほとんどなく、誰かに見られる危険も少ない。ティルカにとっては、それがもっとも合理的な経路だった。ただ、向こう岸に渡るには、橋の下を雲梯を渡るようにしながら進むしかない。それが厄介といえば厄介なのだが、彼女はそこでも何の苦労を見せるでもなく、すいすいと渡ってみせた。そのようにして彼女はどんどん先へ進んでいった。
街を照らす明かりに、月が加わった。街は青白く、その色を変えた。その月を遮るようにそびえ立つひとつの建物の脇で、ティルカは立ち止まった。だらだらと続く塀には鉄の扉がついているのが見える。運河から荷を運び入れるために使う扉だった。扉をそっと押してみたが、開くことはできない。しかし、ティルカに困ったような表情は浮かばなかった。彼女はそんなことは想定済みだったからだ。彼女はリュックを下ろして口を開くと、服と同じ黒い覆面を取り出すと頭にかぶった。さらに鉤のついたロープも取り出すと、腰に巻いたナイフのベルトに挟み込んだ。リュックを背負い直すと、すっとしゃがんで飛び上がる。手の端が壁の上に引っかかると、そのまま腕の力だけで自分の身体を塀の上まで引っ張り上げた。
ティルカはあたりを見回すと、音も立てずに敷地内に飛び降りた。建物は非常に大きく、屋根に近い位置からは『マントン商会』の文字が見える。
建物に近づきかけていたティルカは足を止めた。時刻はだいぶ遅くなっているはずだった。しかし、建物の最上階部分にひとつだけのぞいている窓から明かりが見えたのだ。
……まだ、誰かいるの?
もちろん、誰かいると思わせるため、マントン商会の誰かが明かりを点けっぱなしにしていることも考えられる。それを確かめるには結局あの窓のところまで上がってみるしかない。
ティルカは運河側のたてといに手をかけた。そこからだと通り側からは死角になって、誰かに目撃されることはない。ぐいっと自分の身体を持ち上げるように昇り始めると、たちまち屋根近くまでするすると昇って行った。
屋根の近くには、ジョン・ペリーから聞いていた通り、『ネズミ返し』が侵入者を阻む傘を広げている。『ネズミ返し』と言っても、文字通りネズミの侵入を防ぐためのものではなく、明らかに人間を想定したような大きなものだった。
ティルカは自分の両膝でたてといを挟むと膝を『ネズミ返し』の根元まで近づけた。それから身体を垂直に伸ばすと『ネズミ返し』の傘の先まで頭を伸ばし、手を回してつかめられるところを手探りした。『ネズミ返し』はよくできているらしく、まったく手のかけられるところが見当たらない。もし、ここで手を滑らせたりしたら、彼女は頭からはるか眼下の地面にまで墜落することになる。
ティルカは腰に手を回し、さきほどリュックから取り出した鉤の付いたロープを引っ張り出した。ひゅんひゅんと鉤を回しながら勢いをつけると、屋根の上めがけて鉤を放り投げる。しかし、手ごたえがない。屋根から滑り落ちた鉤がティルカの額を直撃した。
「あ」
ティルカはぐらりとのけぞってたてといから膝だけでぶら下がる形になった。膝がといから外れそうだ。ティルカはさらにのけぞるようにしてたてといをつかむと、いったん両膝を下ろして体勢を整えた。転落の恐怖から汗が噴き出している。彼女は覆面の中で深く深呼吸をした。さっきの姿勢ではあまり遠くに鉤を投げられない。鉤を自分の手元まで手繰り寄せると、今度は左手と左足で身体を支えた。自分の半身を大きく雨どいから離すと、『ネズミ返し』の傘の先よりも離れた距離から勢いよく鉤を放り投げた。今度は鉤が何かに引っかかる手ごたえがあって、ロープが動かなくなった。何度か引っ張ってみて落ちる危険のないことを確かめると、ティルカはといから身体を離し、ロープにぶら下がった。それから慎重にロープをよじ登って屋根の上にたどり着いた。
屋根はそれほど急ではないにしても、じっとしていたら転げ落ちてしまいそうなほど角度のあるものだった。それでも、ティルカは屋根の上に身体を横たえ、しばらく息を整えながら休んだ。ドクドクと心臓の鼓動が痛くなりそうなほど響いている。できれば、あとしばらくはそのまま横になっていたかった。
……でも、動かなきゃ。
ティルカは身を起こすと、近くの天窓から中をのぞいた。月明かりのお陰で少し屋内の様子は見ることができるが、やはり暗くてよくわからない。明かりの見えた部屋からも離れている。だが、明かりのある所から侵入するわけにはいかない。天窓に指をかけてみると、持ち上げることができることがわかった。この窓は自重で閉まる仕組みのようで、鍵もついていなかった。転落の危険を冒してまで屋根に登るものを想定していないのだろう。ティルカは窓を持ち上げると、備え付けのつっかいぼうで開いたままにした。窓は開いたが、それは大人の男では潜り抜けるのは困難に思えるほど狭い隙間だった。その狭い隙間をティルカはするりと潜り抜けた。
入ったところは梁の上だった。梁にはクレーンを吊り下げるレーンが取り付けられている。重いものを吊り下げるだけあって、梁は分厚く、そして頑丈だった。ティルカが降り立ったとき、梁は難なくティルカを受け止め、まったく揺れたりしなかった。幅も広いため、歩くのに不自由しない。ティルカは足音を忍ばせて壁際まで近づくと、そこで静かに飛び降りた。壁際はぐるりと囲んだ通路になっていたのだ。通路の一方は下へ通じる階段に、もう一方はひとつの扉へとつながっていた。明かりの見えた部屋は、その扉の向こうのはずだ。
ティルカはちょっと考えたが、扉に近づくことを選んだ。扉の前でしゃがみこむと、そこに自分の耳を押し当て、室内の様子をうかがう。
室内にはまったくの物音が聞こえなかった。扉の取っ手に手をかけてみる。鍵はかかっていない。そっと引いてみると、扉は音もなく静かに開いた。
まばゆい光に、ティルカは目を閉じた。しばらくして明るさに目が慣れると、そっと目を開き、すばやく室内に視線を走らせた。よかった。誰もいない。
ティルカはするりと部屋に入ると、開いたときと同じようにそっと扉を閉めた。そこでようやく覆面を脱ぐと、ほっとひと息ついた。
外が見える窓には近づかなかった。外が見えるということは、外からも自分の姿を見ることができる、ということだ。万一の目撃者には注意しなければならない。
部屋はティルカとノルドンが生活する2階部屋と大して変わらない広さだった。大きな机が部屋の中央にどっかりと腰を下ろしている。それに劣らず大きな金庫が、執事のように壁際で控えていた。そのほかには、机や金庫より小さな扉付きの棚が、壁際のあちこちに置いてある。棚からは書類綴じの背が並んでいるのが見えた。おそらく、ここはモール・マントンの執務室だろう。
マントンの部屋には、ほかには雨どいのような筒が床から伸びていて、先端がラッパ状に広がったものが壁を這うように立っている。『ラッパ』は丸い鉄の蓋で閉じられていた。ティルカはそばに寄り、その蓋を開いた。中からは遠くで風が流れる音が聞こえるだけだ。そこで、これが「伝声管」であることに気が付いた。「伝声管」がどの部屋につながっているのか分からないが、これで聞く限り、「伝声管」につながっている先には、誰もいないようだった。それでも蓋を閉めるときは物音を立てないよう、静かに閉めた。
それから、ティルカは机の正面に回って、引き出しを改めた。引き出しは机の天板の下に3つ並んでいる。一番右端だけ丸い鍵穴がのぞいている。そこに手をかけてガタガタ揺らしてみた。さすがにここは鍵がかかっている。残りふたつは簡単に開いたが、書類入れ、爪切りや何かの小瓶などの小物が入っているだけである。小瓶を手に取ってみると、それはどうも関節痛などを緩和させる塗り薬のようだった。ティルカは納得したようにうなづくと、マントンの机から離れて、唯一の扉に向かって歩き出した。部屋を出るときは外の気配をうかがうことは怠らなかった。彼女は慎重に扉を開けて、外の様子を確認してから部屋を出た。建物は3階建てのものだった。その大部分がひとつの空間となっている。部屋は壁際に沿ってぐるり囲んでいる通路の行き止まりに、まるで壁にしがみつくような形で造られていた。3階にはひと部屋、2階には通路が建物の中でU字状になっているそれぞれの先端にあった。扉にはそれぞれ小窓が付いているが、いずれからも明かりが点いていない。外から見て無人だとわかるのはありがたい。1階にも部屋があるのだが、そこはちょうどマントンの執務室の真下なので、ティルカが今いる位置からはよく見えない。また、2階の高さまで荷物が積み上げられているため、1階の部屋は天窓から入るわずかな月明かりもさえぎられ、完全に影に入っている状態だ。
ティルカは柵から身を乗り出して下をよく見ようとしたが、やがて諦めて通路に戻った。確認するためには1階まで降りるしかない。ティルカはリュックを下ろして中から一枚の紙を取り出した。ベンデルから渡されたこの建物の昔の見取り図だ。これまで確認した建物内部の様子を、その図面にすばやく描きこんでいく。ひと通り描きこむと、図面をリュックに戻した。用事はこれで終わりではない。細かい箇所の確認などもしなければならない。
自分の足音に気を配りながら、ティルカは階段へと進んでいった。階段は鉄で出来ている。そっと足を踏み入れても、コツンという乾いた金属音が響く。それはわずかな音だが、彼女は建物全体に響いているのではないかとどきどきした。耳をすますが、自分の呼吸意外に聞こえる音はない。今度はゆっくりと一歩下りてみる。やはりコツンと響く。あまり効果はないようだ。半ばやけになって少し早足で降りることにした。コツコツという足音を気にしながらティルカは1階に早く降りようとした。焦りと緊張から汗が身体中に吹き出し、黒装束が肌に張り付く。しかし、今はそれをいちいち気にしていられない。ティルカはとにかく一刻でも早くここを立ち去りたいのだ。そのためには目的を果たさなければならない。
1階に降り立つと、ティルカは目の前にある塊が巨大な人型をしていることに気付いた。ずんぐりした様子から人間でないのはわかる。闇に目が慣れてくると、それが人間とは似つかない土くれの人形に見えてきた。そばによると、人形の足元に説明書が置いてあり、それにはこれが『ゴーレム』だと記されているのがかろうじて読めた。この辺りはもうほとんど月明かりが届いていないのだ。ティルカは説明書を元の場所に戻した。
1階は荷物の山が壁であり、通路だった。ティルカは荷物の山をすばやく通り抜けた。一方で目の端で荷物のラベルを確認し、中身がどんな商品であるか記憶していった。奥の事務所、と言ってもそれはティルカにとってなのだが、事務所の手前で足が止まった。事務所の扉は閉まっていたが、扉の下の隙間から明かりが漏れていたのである。その明かりに影が横切った。
……誰かいる!
ティルカはすばやく覆面を被ると、荷物の陰に隠れた。胸が早鐘のように鳴っている。今、この扉から誰かが出てこられたら、見つかる可能性は低くない。
カチッと扉から金属音が聞こえてきた。ティルカは急いで辺りを見回す。事務所の扉が開いた。
事務所から現れたのは、黒縁の眼鏡をかけた、すらりとした男だった。メルルたちがこの商会を訪れたときに応対したベル・ブラウニーである。もちろん、ティルカはその人物が誰なのかをまったく知らない。ただ見つからないようやり過ごしたいだけだ。ティルカは商品の山をよじ登って、商品のてっぺんに身を隠していた。ベル・ブラウニーはティルカに気付く様子もなく、ティルカがよじ登った商品の山の前を通り過ぎ、ゴーレムの像があるほうへと歩いていく。ティルカはじっとしたまま様子をうかがった。ベル・ブラウニーはゴーレムの人形の前も通り過ぎた。そこから先は商品の山の死角になって、ベル・ブラウニーがどこへ向かっているのかわからない。足元に注意しながら立ち上がると、ベル・ブラウニーはティルカが降りてきた階段の下を歩いていた。その先にも小さな扉があるのをティルカは初めて気付いた。ベル・ブラウニーはその扉を開けて入っていく。扉が開いたとき、同時に明かりが灯り、中の様子が見えた。ティルカは静かに息を吐いた。ベル・ブラウニーは手洗いに入っていったのだ。それなら、ベル・ブラウニーはすぐ事務所へ戻るだろう。ティルカは商品の山の上に身を伏せて、少し待つことにした。
予想した通り、ベ・ブラウニールはすぐに戻ってきた。ばたんと大きな音を立てて事務所の扉を閉める。その音を合図に、ティルカはすばやく下へ降りた。これ以上、危険は冒せられない。この辺りが引き時だ。ティルカは元来た道を引き返すことにした。階段を上がる際は細心の注意を払った。階段は思っていた以上に音が響く。事務所の男の耳に届く危険は高い。侵入したときの梁の上に戻ったときは、まだ安全ではないのに安堵のため息がもれた。つっかいぼうで開いたままの天窓から、ティルカはそろりと屋根へ這い出た。すると、身体が斜面を転がるように屋根からずり落ちる。
「くっ!」
ティルカは軒下のといに片手をかけて何とかぶら下がった。眼下には黒々とした地面が待ち構えている。足から落ちたとしても無事では済まないだろう。ティルカはといにかけた手を動かして、たてといまで進んでいった。たてといまでにたどり着くと、滑るように一気に下まで降りる。事務所のある場所を確認すると、小窓はあるが、それは固く閉じられて中の様子はうかがうことができない。窓に耳を近づけても、室内にひとのいる気配が感じられなかった。この建物にひとが不在であるかどうか、それを確認する何らかの手段か段取りが必要だ。
ティルカは敷地に侵入したときと同じ塀から運河側に降り立つと、足早に『マントン商会』から立ち去った。先ほどの出来事で、まだ胸が動悸で苦しい。そのせいか、ティルカは屋根の天窓を閉めていないことを、すっかり忘れてしまっていた。