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パンドラの箱に希望はない 2

Chapter 2


9


 王都に夕闇が迫っていた。陽は西の森に沈もうとしている。夕焼けの赤い光が、街の建物にくっきりとした影を作っていた。

 そんな濃い影で暗くなった狭い道をメルルは急ぎ足で駆けていた。右手には背の高い胸壁がそびえたっている。メルルは今朝、近道をしようと飛び降りたところへ急いでいたのである。小さな魔法の杖がなくなっているのに気付いたのは、ハマースミスの屋敷から事務所に戻った昼過ぎの頃だった。事務所に置き忘れていないことを確認すると、思い当たるのは胸壁から飛び降りたときしかなかった。そう思うと居ても立っても居られない。仕事が終わるや、「お先に失礼します」の挨拶もそこそこに事務所を飛び出したのだった。

 記憶の場所にたどり着くと、祈るような気持ちで石畳の上を探し始める。見つからない。どこにもない。まだ探してないところは? やっぱりない。途中から絶望的な気持ちになりながらもメルルは探し続けた。

 「良かった。戻ってきたんだ」

 メルルの頭上から声がしたので見上げてみると、胸壁の狭間から少女が顔を出して見下ろしていた。誰だかすぐに思い出せない。

 「待ってて」

 少女は狭間に身を乗り出すと、すっと下へ飛び降りた。今朝のメルルと違い、少女はストンときれいに着地した。

 「あなた、これを探してるんじゃない?」

 びっくりして固まっているメルルを前に、少女は胸のポケットから小さな棒を取り出した。メルルが探していた魔法の杖だった。

 「あー! これ、これです! 私が探していたもの!」

 メルルは少女の手に取りすがるようにして叫んだ。

 「良かった。落とし主に渡せて。さぁ、どうぞ」

 少女は杖をメルルに渡した。メルルは杖を受け取るとぼろぼろ涙を流しだした。

 「ありがとう、ありがとう。本当にありがとう!」

 メルルの号泣ぶりに今度は少女がびっくりしたようだったが、すぐに顔がほころんだ。

 「とっても大事なものだったのね」

 「そうなんですぅ。大事な、大事な形見なんですぅ」

 「形見……、そうだったの。今度はなくさないようにね」

 少女は向きを変えて立ち去ろうとした。メルルは少女の背中に声をかけた。

 「ひょっとして、ずっとここで待ってたんですか?」

 少女は立ち止まると、くるりと振り返った。

 「ううん。あのとき、もうひとつの職場に向かうところだったから。仕方なく仕事に行ったの。終わったらすぐここに駆けつけて、この上で待つことにしたの。ひょっとしたらあなたが通りかかるかもと思って」

 少女は見上げると、胸壁の狭間を指さした。

 「あそこから絵を描きながら待つことにしたの。そうしたら、絵を描くのに集中しちゃって、あなたが来たのにすぐ気づかなかったわ。ごめんね」

 「ごめんねって、とんでもない」

 メルルはぶんぶんと手を振った。そして、少女が指さした胸壁を見上げた。

 「あそこで絵を描いていたって、この街の風景?」

 「まだ途中だけど、見てみる?」

 少女はさっと道の先を指さした。その先には上へと通じる細い階段があった。

 「わぁ、見せてくれる?」

 少女はにっこりと笑顔を見せると、先に立って歩き出した。メルルは急ぎ足で後を追う。

 階段を昇ると、胸壁の狭間から街の風景が見えた。その光景に一瞬メルルの足が止まった。そこからは視界いっぱいに広がった王都が、夕焼けに染まって鮮やかな色彩を放っていたのだ。ここはちょうど高所から街を見下ろす位置にある。眼下に広がる建物の屋根が同じ赤色になっていた。ずっと見つめていると目が痛くなりそうだが、それでも夕日の光はメルルの目には柔らかく映った。日々の忙しさで、王都をゆっくり眺めるなんて考えることすらしなかった。王都は巨大で、圧倒的だった。夕焼けの風景の中に、メルルはそれを感じたのだった。

 「ここって、すっごく眺めがいいでしょ? あなたを待っている間にスケッチできるかなって思ったの」

 少女はさらに歩みを進めると、狭間のひとつに手をかけた。そこには1冊のスケッチブックが立てかけてあったのだ。少女はそれを取り上げると、メルルに手渡した。

 「どうぞ」

 メルルはスケッチブックを受け取ると、それに描かれている風景に視線を落とした。描かれているのは、まさにこの胸壁から見た王都だった。さまざまな色彩の色鉛筆で描かれている。メルルだったら赤鉛筆だけで描いてしまうところを、少女は青や緑の鉛筆も使って描いていた。街の風景に目を移すと、少女の描いた通り、夕焼けの街は赤一色ではなかった。さまざまな色が夕焼けの赤の中に溶け込み、あるいは浮かび上がり、そうしてひとつの景色を形作っていたのだ。少女の絵は、街の色彩を繊細に捉えていた。

 「……すごい。これ、色鉛筆だけなの? 使っているのって」

 「色鉛筆だけよ。スケッチできたら油絵にしようかって思ってるけど」

 「油絵もするの? 今まで油絵って何枚描いたの?」

 「多くないわ。4、5枚ぐらい。絵具って高いから、あんまり描くことできないの」

 「見てみたいなぁ。だって、スケッチでこんなにすごいんだもん。私、絵を描くのはド下手だから、こういうことができるひとって尊敬しちゃうな」

 メルルの言葉に、少女は口に手を当てて笑い始めた。

 「すごいとか、尊敬とかって。まるで逆よ」

 メルルはきょとんとした。「逆って?」

 「だって、あなた魔法が使えるんでしょ? そんなの私にはまったく無理。私と年齢としの近いひとが魔法使いをしているなんて、それこそ尊敬しちゃうわ」

 メルルは三角帽子を目元まで引きずり落として顔を隠した。

 「恥ずかしい。私、魔法使いじゃないの」

 少女は首をかしげた。

 「さっき返した杖。あれ、魔法の杖でしょ? そしてその恰好。それで魔法使いじゃないの?」

 「魔法の修行はしていたんだけど、先生が魔物に殺されたの。先生から認められたら、魔法学院に入って本格的に魔法の勉強をするつもりだったんだけど。先生に認められるどころか、ほとんど修行なんてできていないの」

 「……それで、形見の杖だったのね」

 少女の表情に陰が差した。

 「この格好も、ほかに着るものがないからなの。いつか街のひとと変わらない服を買おうと思うんだけど、なかなか機会が作れなくて」

 「そうだったの。でも、少しは魔法が使えるんでしょ?」

 「それは……少しだけ。ほんと少しだけ」

 「だったら私と同じね。私だって絵が描けるって言っても少しだけよ」

 メルルは帽子を持ち上げると、しばらく少女と見つめ合った。やがてどちらともなく吹き出すと、ふたりとも声をあげて笑い始めた。

 「何話してんだろ、私たち」

 少女は胸壁に背中を預けると、空を見上げた。メルルも少女の横に並んで胸壁にもたれて同じように空を見上げた。王都の空には大きな雲がかかっており、紫色に染まっていた。

 「でも、なんか楽しい」メルルはしみじみとつぶやいた。思い返してみれば、故郷の村でも、魔法の修行をしていたころも、そして今でも、同じ年ごろの娘と会話をしたことがなかった。メルルには年齢の近い友だちはいなかったのだ。

 「なんだろう。私も楽しい」

 少女はメルルに笑顔を向けた。美しい笑顔だった。ふたりは顔を見合わせると、再びくすくす笑い出した。

 「私、メルル。あなたは?」

 「私はティルカ。ねぇ、今度はあなたの魔法を見せて」

 「えええ? さっき言ったじゃない、少しだけだって」

 「その少しでもいいから。見てみたいの、あなたの魔法」

 メルルはまだ少しためらっていたが、意を決したように胸壁から離れるとティルカの前に立った。スケッチブックは狭間に立てかけて置いた。

 「じゃあ、少しだけね」

 メルルは両手でお椀を抱えるように構えると、目を閉じて呪文を唱えだした。すると、両手からボッと小さな炎が立ち昇った。小さな炎は揺らめきながら、次第に薄暗くなる通りを照らし出した。

 「すごい、炎の魔法なんて初めて見た」

 ティルカは弾んだ声をあげた。しかし、すぐに首をかしげた。

 「あの魔法の杖は使わないの?」

 「魔法の杖は、魔法を発動させる補助だったり、制御したりするのに使うの。精神を集中させて、魔法の精度を上げたりするのに使うこともある。でも、これぐらいだったら杖なしでできるわ」

 「へぇええ、知らなかった。魔法の杖って、それを振ったらどんどん魔法が出てくるものだって思っていたから」

 「杖にも魔力があるけど、振っただけじゃ魔法は使えないよ。そんなに便利だったら、私、魔法学院に行かなくても魔法使いになってる」

 「そうよね」ティルカは笑った。

 「あなたはどうなの? 画家を目指しているの?」

 メルルの質問に、ティルカは困ったような苦笑いの表情になった。

 「本気で画家を目指してはいないわ。ただ、描くのが好きなだけ。そりゃあ、絵を描く仕事に就ければいいんだけど……」

 「本気で目指してみたら? あなたの絵、すっごくきれいなんだもん。あなたなら人気画家になれるわ」

 「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」

 「お世辞じゃないんだけどなぁ」

 メルルは再びスケッチブックを手に取ると、ティルカの絵に目を向けた。辺りはだいぶ暗くなっていたが、それでもティルカの絵はメルルの目に鮮やかに映った。

 「ねぇ、いつかあなたの描いた絵を見に行ってもいい? 油絵だけじゃなくて、ほかにスケッチしたものでも」

 メルルは真剣な表情でティルカに言った。

 「こんなので良かったら」

 「いつ見に行ったらいいかな?」

 ティルカはクスっと笑った。

 「せっかちね。じゃあさ、お互い仕事のない日はどう? あなたの仕事は? 礼拝日は休みになっているの?」

 礼拝日とは、週に一度ある神に祈りを捧げる日で、商会や店などの多くがその日を休日としている。

 「一応、礼拝日は休み。でも仕事が入るときもあるなぁ……」

 「何か大変そうな仕事に就いているのね。じゃあ、それは仮ってことで。都合がついたらわが家へ招待するわ」

 「何とか都合をつける。仕事が入りそうだったら、レトさんに代わってもらう」

 「レトさん?」

 「仕事先の先輩。師匠でもあるかな」

 「そんなひとに仕事を押しつける気?」

 ティルカは笑いながら突っ込んだ。

 「わかったわ、じゃあ今度の礼拝日。朝の9時にここでどうかな?」

 「9時にここね。わかった、約束ね」メルルは小指を立てて見せた。

 「約束」

 ティルカも小指を立てると、メルルの小指の先に自分の指先をちょんとくっつけた。

 「ピンキィスェア」ティルカは『約束のおまじない』を唱えた。

 「ピンキィスェア!」メルルも応じた。

 ふたりは顔を見合わせると、ニッと笑い合った。

 ティルカはスケッチブックを取り上げると、「じゃあ、またね」と手を振って歩き出した。メルルも手を振った。「またね!」

 メルルはティルカの姿が見えなくなるまで手を振り続けた。ティルカが見えなくなると、メルルも向きを変えて家路へ向かおうとした。

 「ん?」

 メルルは通りの反対側に目をこらした。通りは馬車や荷馬車が通る車道を、歩道が挟む構造になっている。歩道には街路樹と、街灯型の魔法灯が交互に並んで立っている。街灯型の魔法灯は日中に陽の光を取り込むなどして光を蓄え、夜になると蓄えた光を放出して道を照らす魔法道具である。メルルが目を向けたのは、メルルがいる歩道とは反対側にある歩道だった。そこの魔法灯のひとつに人影が動いたのが見えたのだ。あまり気にかけていなかったが、ずっとこちらをうかがっているようだった。

……誰かがこっちを監視していた?

 メルルは通りを見渡した。夕闇が迫る中、車道は最後の仕事とばかりに荷馬車が行き交っている。通りを横切るのであれば、荷馬車の邪魔にならないようにしなければならない。メルルは通りを渡るのはあきらめて、少し先を小走りで走って身体の向きを変えた。離れた場所から物陰に誰が隠れているのか確かめようとしたのだ。しかし、そのときには魔法灯の陰には誰の姿もなかった。

……気のせいかな。

 メルルは首をかしげると、家路につくことにした。一方、メルルがのぞこうとした魔法灯より一本向こう側の魔法灯から人影が現れた。その人影はメルルの後ろ姿を確認すると、今度はティルカが立ち去った方角へ歩き去った。


10


 『ノルドン魔法鍵店』と書かれた看板が、夜風に吹かれて揺れている。店主のノルドンは最後の客を見送ると、店の雨戸を閉め始めた。ノルドンは50歳ぐらいの中肉中背の男で、髪がやや後退していた。大きな眼鏡は辺りの光をきらきらと反射して、目の表情をうかがうことができない。口もとに刻まれた深いしわが、実際の年齢より老けて見せた。

 雨戸にノルドンがカギをかけているところで、カランと入り口の鈴が鳴った。誰かが店に入ってきたのだ。

 「ああ、すみません。今、店を閉めるところなんですよ」

 ノルドンは振り返って訪問者に詫びたが、そのまま凍り付いたように棒立ちになった。

 「そう言うなよ。こっちは最後の客が出るまで順番待ちしてたんだからよ」

 入ってきた男はにやにや顔を突き出すようにして笑った。ほっそりとした体つきにこけた頬。そして左目の横に大きな傷跡。その男はベンデルだった。

 「……ベンデル」

 ノルドンは放心したようにつぶやいた。

 「久しぶりだな、ノルドン。あんたが本名で店を開いていたってのは意外だったぜ。だが、まぁ、一度も捕まってなけりゃ前科もつかねぇから、本名で通したって問題ないわな。今朝、スターキーがこの店を偶然見つけたんだが、やつも驚いていたぜ。あんたが堅気の商売人になっているからな」

 「……何しに来た」

 「さっき言ったろ? 順番を待ってたって。俺は客としてここに来たんだよ」

 「客だと? ……そうか、魔法鍵店だから、どこかの金庫か屋敷のカギを開けさせるために来たんだな? ダメだ、私はもう足を洗ったんだ。盗賊に手を貸すなどできん」

 ノルドンはベンデルの正面に立った。

 「さぁ、帰ってくれんかね」ノルドンは扉を指さした。

 「待て待て。ひとの話は最後まで聞くもんだぜ。魔法で守られた金庫や屋敷の開錠なんて頼みやしねぇよ。魔法鍵師ってのは、『誓約の円盤』ってのを身体のどこかに埋め込まれるんだろ? もし、魔法で守られた金庫や屋敷の開錠をしたら、魔法鍵師協会に、いつ、誰が開錠したか自動的に通知が行くって仕組みだ。もし、泥棒目的でそんなことをやらかしたら、自分が犯人ですって宣言するようなもんだから、魔法鍵師は泥棒の真似事ができねぇってな。そんなことは知っているんだ、魔法の使えねぇ俺でもよ。だがよ、こいつだったら頼めるんじゃないかってね」

 ベンデルは自分の懐から箱を取り出した。真ん中に埋め込まれたルビーが赤く輝いている。

 「こいつなら、協会に通知は行かないはずだぜ」

 ノルドンは呆然とした表情で箱を見つめた。

 「……エリファス・レヴィの小箱」

 ベンデルの口の端がゆがんだように吊り上がった。ベンデルが笑みを浮かべているときの表情だ。

 「何だ、知っているじゃねぇか。だったら話が早い。さっそくだが、この箱をちょいと開けてほしいのよ。これなら頼めるだろ? 協会に通知したって、どの箱を開けたかとか詳しくは通知していないはずだぜ」

 「……盗んだのか」

 「まぁな。だが盗んだ先は盗賊の倉庫からよ。元の持ち主は不明とくらぁ」

 ベンデルは半分嘘をついた。

 「だからな、もう、この箱がどこの誰のものかなんて、もうわからねぇのさ。ひょっとしたら中をのぞいたらわかるかもしれねぇが」

 「……私にこれを開けろと」

 「できるだろ? あんたなら」

 ノルドンはまだためらっていたが、おずおずと箱を受け取ると、店の中央に据えられた仕事用の机に箱を載せた。

 「この箱は厄介なんだ。期待通りにできるかわからんぞ」

 「どう厄介なんだ」

 「エリファス・レヴィはおよそ二百年前の魔法使いだ。大魔導士マーリンによって学術的に研究された魔法の術式をさらに発展させた功労者のひとりだ。術式に『文法』が複数存在することを発見し、文法さえ合っていれば、術式の形状が異なっても同じ魔法が行使できることを証明した。このエリファス・レヴィの小箱は、その研究の最たるもので、実に様々な術式が仕込まれている。小箱そのものは数十個制作されたそうだが、それぞれまったく別の術式でカギがかかる魔法をかけたのだ」

 「全部違う術式でカギがかけられているのか」

 ノルドンはうなづいた。

 「だから、ある小箱にかけられた術式を解いたとしても、同じ方法で別の小箱は開けられんのだ。また一から解析をしなければならん」

 ベンデルはノルドンの肩に手を置いた。

 「ノルドン。あんた、この小箱を開けたことがあるんだな?」

 「……まぁな。だいぶ昔のことだがな」

 「じゃあ、開け方はわかるんじゃねぇのか」

 「さっきも言っただろ。一から解析しなければならんとな」

 ノルドンは机の前に腰を下ろすと、両腕にブレスレットをはめた。そして、両手を小箱にかざすと、ノルドンは呪文を唱え始めた。

 箱に埋め込まれたルビーの輝きが強くなり、そこから小さな魔法陣が次から次へと浮かび上がり始めた。ベンデルはぺろりと自分の口の端を舐めながら様子を見ていた。

 小箱からは魔法陣が浮かび続けている。もういくつの魔法陣が浮かび上がったのか、ベンデルにはすでに分からなくなっていた。

 やがて、ノルドンは箱に手をかざすのを止めた。箱の魔法陣は姿を消した。

 「どうだ?」ベンデルは尋ねた。

 「ダメだな」

 「ダメだと?」ベンデルは気色ばんだ。

 「お前にも見えただろ? かなりの数の魔法陣が仕込まれているのが。その中に、この箱を開けようとする者に死の制裁を与える攻撃魔法が含まれている」

 「攻撃魔法だぁ?」

 「しかも、かなり強力なものだ。下手をすれば命取りになる。エリファス・レヴィの小箱は、この凝った仕かけと装飾で裕福な商人や貴族に人気があった。しかし、これが扱いにくい箱であることが次第に分かったのだ」

 ここでノルドンは口を閉じたが、ベンデルは口を挟まない。ノルドンはため息をつくと再び口を開いた。

 「この箱を開ける方法は、持ち主が箱を手に取り、合言葉を唱えると開錠される。持ち主が手に取っていなければ、合言葉を唱えても開錠しない。そうすれば、何かの拍子で持ち主が合言葉を口にしても、勝手に開錠されないわけだ。持ち主以外が手に取って合言葉を唱えても開錠されない。この箱には持ち主を特定する術式も仕込まれておるのだ。問題はまさにその点だった。あるとき、さる貴族が事故で死亡した。貴族は跡目を誰にするか指名する遺言書を遺していた。だが、その大事な遺言書を、よりにもよって魔法の箱に保管していたのだ。その貴族には跡目の候補が複数いたため、遺言で誰が後継に指名されていたのかを知るためには魔法の箱を開けるしかないのだが、死んだ貴族以外に誰も開けられなかったのだよ」

 「そいつはバカだ」ベンデルはせせら笑った。

 「当時は魔法鍵職人などいない時代だった。箱の製作者、エリファス・レヴィはすでにこの世を去っていたため、その箱はもう誰も開けることができなかった。無理に開けようとすれば、死に至る魔法攻撃に見舞われる。結局、誰も遺言の中身を知ることなく、跡目争いは血みどろの抗争劇へと発展することになったのだ。それ以外にも似たような問題は起こったため、エリファス・レヴィの小箱は一気に廃れていった。複雑すぎる仕組みだったため、技術の継承者がいなかったことも原因のひとつだったがな」

 「どうりで、これと同じ仕組みの金庫や宝箱が、今どきのものにないわけだ」

 「エリファス・レヴィは一応対策を考えていた。箱の所有者を二名まで登録できるようにしていたのだ。それであれば、片方が急に死んでも、残ったひとりが開けられるからな。だが、その対策はあまり有効ではなかった。そもそも魔法の箱に入れるのは個人的なものだ。もうひとりが自由に開けられる箱に、そんな大事なものを仕舞う人間がどれだけいるだろうか? いつしか誰からも使われなくなって、魔法学院の資料倉庫か、王都の博物館でしかお目にかかれないものになったのだ」

 「なるほど、たしかに厄介だ。だが、今は魔法鍵師がいる。この箱を開けるのが無理ってことはないだろ?」

 「……たしかに不可能ではない。だが、ダメと言ったのは、すぐ開けるのが無理だと分かったからだ」

 「すぐ開けるのが無理ってどのくらいかかるんだ?」

 「最低でも一週間」

 「かかり過ぎる。なぜだ?」

 「あれだけの術式をひとつひとつ解析しなければならん。エリファス・レヴィのことだ。埋め込んだ術式の『文法』はすべて違う可能性が高い。かつて解析した箱がそうだった。昔の記憶を頼りに、さっきの術式を調べたが、この箱に仕込まれている術式の文法は、あれともまったく異なるものだった。つまり、過去の例など役に立たんのだ。まさに一から解析せねばならんわけだ。おそらく解析だけで2日はかかるだろう。解析が済んでも、解くのが大変だ。あれだけ複雑にからまった術式を解きながら無効化か消去していかなければならん。途中でトラップにはまったら、私はこの箱に殺されてしまう。慎重に作業をすることになるから、そこから4、5日。合わせて一週間と見積もった訳だ。分かったかね?」

 ベンデルはノルドンの襟首をつかむと、ぐいっと自分の顔まで釣り上げた。ノルドンはつかまれた手に両手をかけて足をじたばたとさせた。

 「お前、甘く見るな。いくら俺に魔法の素養がなくってもな。術式魔法は『上書き』できるってことは知ってるんだ。いいか、俺はエリファス・レヴィの術式を後世まで残したいなんて考えてねぇんだ。この箱を開けさせたいだけなんだ。だから、エリファス・レヴィの術式にお前の術式を上書きして、俺たちに開けられるものにすりゃいいんだよ。分かったかね?」

 最後はノルドンの真似をしてみせた。

 「そ、それは、かなり危険だ。言っただろ? 強力な攻撃魔法が仕込まれていると。あれは脅しでもはったりで言ってるんでもない。本当の話なんだ。下手な上書きをして攻撃魔法が発動したら、私は助からない。慎重にやるべきなんだ、あの箱の開錠は!」

 「だが一週間は長すぎる。3日で開けろ」

 「無茶を言うな。ほかの仕事を断れというのか」

 「それで開くって言うんならな」

 ノルドンは沈黙した。

 そこへカランと鈴の音が鳴った。ベンデルが音のしたほうへ顔を向けると、ひとりの少女が店に入ってこちらを見つめていた。

 「テ、ティルカ……」

 ノルドンはうめくようにつぶやいた。

 ティルカは静かにふたりに歩み寄った。ベンデルはノルドンをつかんでいた手を離した。ノルドンは足元の椅子に腰を下ろすと、ぜいぜいと息を吐いた。

 「父が何か失礼をいたしましたでしょうか?」

 ティルカはベンデルのいかつい顔に臆することなく、落ち着いた表情で尋ねた。これにはベンデルも面喰ったようだった。

 「……いや」ベンデルは冷たい表情でティルカを見下ろしたまま答えた。

 「父さん、大丈夫?」

 「だ、大丈夫だ。父さん、このひととは大事な仕事の話をしている。お前は部屋にあがっていなさい」

 ティルカは無表情のままふたりを交互に見つめていたが、無言で頭を下げると部屋の奥にある階段に向かっていった。この建物は1階が店舗、2階が住居になっているのだ。ティルカはふたりを振り返ることなく2階へ姿を消した。

 「意外だな、お前に娘がいたなんて」

 「テ、ティルカには手を出すな。あ、あのは、わ、私の穢れた過去とは無関係なのだ」

 「ほう」

 ベンデルの顔に冷酷な笑みが蘇った。その顔を見てノルドンは初めて「しまった」という表情になった。

 「お前さんに守りたいもんがあるのは、ようく分かった。だからよ、お互いに協力し合って、この難局を乗り越えていこうじゃねぇか」

 「きょ、協力だと!」ノルドンが上ずった声を上げると、ベンデルは人差し指を口の前に立てて、もう一方の手で天井を指さした。ノルドンは慌てて口をつぐんだ。

 「あんたは俺を助ける。俺はあんたが守りたいもんに害が及ばねぇようにする。何せスターキーやルゥがこの街にいるんだ。今は俺の下にいるがな。あいつらがあの娘にとんでもないことをしでかさないよう、常に言い聞かせてやるよ。だが、あんたが俺を裏切る真似をしやがったら、俺もスターキーたちが暴走するのを止めねぇかもな。見たくないだろ? 娘がどんな壊され方するかなんてな」

 ノルドンの顔はすでに真っ青だった。

 「おおっと、これは脅しじゃないんだぜ。あくまで協力関係の申し出だ。嫌なら、別に受けなくってもいいんだぜ」

 ノルドンは力なくうつむいた。ベンデルはニタニタ顔で見下ろしている。すでにベンデルは確信していた。こいつの心は折れた、と。

 「……協力はしよう。だが、術式を上書きで変更する荒技も簡単ではない。物理的にどうしても時間が必要だ」

 「どれくらいかかる?」

 「その方法なら3日」

 「よし、契約成立だ」

 ベンデルは上機嫌になってノルドンの肩を叩いた。

 「この箱は預ける。中身と対面できるのを楽しみにしているぜ」

 ベンデルはそう言うと店から出て行った。扉に付けた鈴がカランと鳴り響き、あとには呆然と座っているノルドンが残された。だが、ノルドンは急に生き返ったように立ち上がると、仕事用の机とは別の古ぼけた机に近付いた。その机にはやや大きめの引き出しが付いている。ノルドンはその引き出しを引っ張り出した。引き出しの中にはほとんど物が入っていなかった。ただひとつだけ十字状に宝石が埋め込まれた箱がひとつあるだけである。それはベンデルが持ってきた魔法の箱とそっくりだった。

 「中身が楽しみか」ぽつりとノルドンはつぶやいた。表情は笑っているとも、泣いているともつかない複雑なものだった。ただ、箱を見つめる目は悲しげに見えた。


 「箱の中身が期待通りのものとは限らんのだぞ、ベンデル」


11


 ティルカは2階に上がると、スケッチブックと筆記用具入れを自分のベッドの上に放り出した。机に駆け寄ると引き出しからナイフを取り出す。ナイフは皮のケースに収まっている。冒険者が戦闘に使うこともある汎用性の高いものだ。ティルカは上着を持ち上げて、腰のベルトにそれを差し込んだ。それから窓際へ駆け寄ると、力を込めて窓を押し開く。窓は蓋のように上下に開閉するものだった。2階は屋根裏部屋のようになっていて、窓を開いたすぐ先は屋根が斜めに続いていた。

 ティルカは窓枠に手をかけると、窓の外へ身を乗り出した。その動作は慣れたようで身軽なものだった。ティルカは屋根の上を音もたてずに歩くと、そっとのぞき見るように下を見下ろした。

 1階の店舗からは鈴の音が聞こえる。ちょうど客の男が店を出たらしい。足取りが軽く、遠目からも上機嫌だとわかる。

 ティルカは立ち上がると、屋根のたてといを伝ってするすると地上に降りた。これまでの動きにまったくの無駄がない。

 ノルドンの店の扉には小さな小窓が付いていて、外から中の様子がうかがえる。そっと店内をのぞいて見ると、ノルドンは店の奥の机の前でうなだれているように見えた。こちらからでは背中しか見えないので、表情までうかがうことはできない。

 ティルカは視線を通りに戻した。目標の男はまだ視界の中にある。不自然にならないよう気を付けながら、ティルカは男の後をつけ始めた。

 

 男は先を急ぐでもなく、ぶらぶらと歩いている。小柄なティルカでも早足にならずに尾行できる。ティルカは自然な歩調で男との距離を保ったまま尾行を続けた。男はまさかティルカに後をつけられていると想像すらしていまい。男の足取りに警戒心というものが全く感じられなかった。

 ティルカは人目のつかないところで男に声をかけたいと考えていた。しかし、陽が落ちてまだ間もない時間帯の王都は、日中のにぎやかさが残り火のように続いているようだった。ティルカは絶えず誰かとすれ違いながら、男に声をかける機会が見つからないことに焦り出していた。男の向かっている先に見当はつかない。ただ、男が盗賊の類の者なら、その先には男の仲間がいることは想像できる。そんな中へひとりで踏み込むことがどれほど危険であるか。ティルカは承知しているつもりだった。しかし、ティルカの望む機会は結局訪れなかった。男は裏通りのさびしい建物のひとつに入っていった。そこが男のアジトらしい。

 ティルカはその建物の前に立って見上げた。建物はかなり古いもので、外壁のところどころが崩れていたり、剥がれていたりした。元々は小店舗が入る建物のはずだが、1階部分の窓が無造作に板で塞がれているところを見ると、現在も使われている建物なのか怪しいものだ。板で塞がれているのは1階だけではない。2階に1か所、3階はすべての窓が板で塞がれていた。板も急ごしらえで作られたような粗末なものだ。1階を塞いでいる板を見ると、大きな隙間や節穴が空いている。ティルカが見上げたのは3階部分だが、そこのひとつだけ板の隙間から明かりが漏れていた。ほかの部屋から明かりはおろか、ひとがいる気配すらない。

 ティルカは建物に一歩踏み出したが、その先を進むのがためらわれた。男があの明かりの見える部屋に向かったのは間違いないだろう。そして、男が戻る前から明かりが点いていたということは、そこに男の仲間がいる可能性が高い。

 ティルカは腰のナイフに手をかけ、サッと抜いてすばやく戻した。父が見たら「そんなことのためにナイフの扱いを教えたんじゃない」と言われるだろう。だが、それがどうしたと言うのだ。ティルカは男の危険な匂いと、父の狼狽ぶりから、父に何らかの危機が迫っていることを察していた。父の過去を聞いたことはないが、幼少から父を見てきたティルカには、あの訪問者が父にとって過去からの災いだと確信していた。

 そう、だから、自分はここまで来たのだ。危険を承知で。

 ティルカにとって、ノルドンは無口で大人しい父親だった。絶えず娘のことを心配し、娘のためにできることを考えていた。ただ、娘への接し方はぎこちないもので、つねに何かためらっているようだった。正直なところ、父のそういうところは嫌だと思っている。それでも唯一の肉親なのだ。放っておいたり、知らん顔ができるものではない。

 ティルカは大きく息を吸うと、ゆっくりと吐き出した。ようやく、ためらいの気持ちも、心の奥底でじくじくしている恐怖心も弱まってきた。今なら敵地へ踏み込むことができる。

 ティルカは大きくうなづくと、建物の中へ足を踏み入れた。


 ベンデルのアジトでは、ベンデルの部下3人がソファに座ってカード遊びをしている最中だった。賭けながらしているようで、3人が囲んでいるテーブルの上にはコインがそれぞれ積まれている。コインの高さで見る限りでは、ジョン・ペリーの調子が良さそうだった。

 そこへベンデルが大きく扉を開けて入ってきた。「帰ったぜ」

 「ああ、兄貴。どうでした、ノルドンのだんなは?」

 ベンデルの姿を見ると、スターキーが声をかけた。その横でルゥが「下りた」と言ってカードを投げ出している。ルゥはぼさぼさ頭の小柄な男で、小さな顔には不似合いなほど大きな鼻が顔の真ん中で自己主張をしていた。

 「ああ。最初ぐずぐず言っていたが、引き受けさせたぜ。まぁ、うまくいったかな」

 ベンデルはソファの空いている部分、ジョン・ペリーの隣にどっかりと座った。

 「おい、片づけるぜ」

 ジョン・ペリーが「勝ち」を手に入れてコインを回収すると、そのままテーブルの上を片付け始めた。

 「ちぇ、結局、ジョン・ペリーのひとり勝ちかよぉ」ルゥが自らの頭をくしゃくしゃと掻きむしりながら足をじたばたとさせた。

 「また今度だ。次もむしってやるよ」ジョン・ペリーがにやけた笑顔をルゥに突き出して言った。

 「さて、兄貴、マントン商会の倉庫の件ですがね」

 テーブルの上が取り払われると、ジョン・ペリーは地図を広げた。さきほどとは打って変わっての真顔だ。

 「参りましたぜ。地図は手に入れられたんですがね。倉庫の見取り図は問題がありまして……」

 「おい、見取り図がなけりゃ倉庫は襲えねぇだろ。行って帰る道順だけ検討させる気か?」

 「すまねぇ、兄貴。だがよ、あの倉庫、思っていたより厄介だぜ」

 「今日は『厄介』という言葉をよく聞く日だ」

 ベンデルは頭の後ろで自分の手を組んだ。

 「……何すか、それ?」

 「こっちの話だ、続けろ」

 「……じゃ、じゃあ続けます。倉庫の見取り図そのものは手に入りました。ですが、倉庫が建てられたころのもので、マントン商会の倉庫になる前の分なんですよ」

 ジョン・ペリーは地図の上に、もう一枚書類を載せた。ベンデルはじろりと書類に視線だけ送った。

 「本当にただの見取り図だな。からっぽじゃねぇか」

 「ええ。これだけじゃ警備体制も、侵入可能経路もわかりゃしません。ですが、あらかじめ調べるってなると、倉庫の入り口は厳重で簡単に忍び込めない。唯一忍び込むためには、倉庫の屋根まで登って天窓から忍び込むしかないんですよ」

 「登りゃいいじゃねぇか」

 「簡単に言わねぇでください。こないだのチンケな倉庫と違って、かなりのバカでかさで相当の高さがある上に、雨どいの周囲には『ネズミ返し』が付いてるんですぜ。あんな高さのはしごなんて用意できるもんじゃないし、よじ登る取っかかりになる雨どいには面倒な仕かけ付きときた。前調べだけでもかなり面倒っすよ、あれは」

 「それは厄介だな」

 ベンデルが天井を見やりながらつぶやいた。口調は困っているというよりも、まるで他人事だった。

 「他人事のように言わないでくださいよ。俺たちの中で一番身軽なのはルゥですが、そのルゥが無理って言ってんです。あの『ネズミ返し』を越えて忍び込むには、奴の身体は小さすぎるらしいんで」

 突然、ベンデルはまくしたてるジョン・ペリーを制するように横に腕を広げた。もう片方の人差し指を自分の口の前に立てている。ベンデルは目だけで扉を指した。

 スターキーが無言で立ち上がると、扉の前に移動した。身体のわりに音もなく、素早かった。扉の脇に背中をぴったりと合わせ、扉の取っ手に手をかけた。スターキーは仲間たちにうなづいて見せると一気に開け放つ。

 扉の向こうに少女がひとり立っているのを見て、室内の男たちはしばらく呆然としていた。扉の脇から外をのぞいたスターキーが、

 「何だぁ、この小娘は?」と声をあげた。

 「この娘さんは、俺たちの客だよ」

 ベンデルの声は落ち着いていた。

 「そいつぁ、ノルドンの娘だ」

 スターキーは驚いてベンデルの顔に、そして、ルゥの顔に視線を移した。ルゥがぶんぶんと手を振って「知らない」を表現した。

 「まぁ入んな、お嬢ちゃん」

 ベンデルの言葉に促されるように、ティルカは室内に足を踏み入れた。横目でスターキーとの距離を測ることは忘れなかった。

 スターキーはばたんと音を立てて扉を閉めた。かなり大きな音だったが、ティルカの表情に変化はない。まるで動じる様子が見られなかった。ベンデルはそれに気づくと、「へっ」と息を吐き出すように笑った。

 「父親と違って肝の据わった嬢ちゃんのようだぜ。で、ここに何の用で来たのかね? ノルドンとの約束は今日じゃねぇぜ」

 「父が何の約束をしたかなんて知りません」

 ティルカはぴしゃりと言った。

 「ただ、あなたがたは昔の父と関わりがあるんですよね? ですが、今の父は昔と決別して働いているんです。あなたがたと関わらせたくありません。父から手を引いていただけませんか?」

 「この小娘、ふざけたことを!」スターキーは顔を真っ赤にしてつかみかかった。

 ティルカはさっと身体をしゃがみこませると勢いよく立ち上がった。一緒に上げた膝がスターキーの股間を直撃する。

 「ノォー!」スターキーは絶叫して股間を押さえると、前のめりにくずおれた。

 「クソッ、小娘が!」ルゥが喚き声をあげると、懐からナイフを取り出して襲いかかった。ナイフは狩猟用の大きなもので、刃の裏側はギザギザした切れ込みが入っている。

 ティルカは腰に手を回すとナイフを取り出し、突き出されたルゥのナイフを弾いた。勢いあまってつんのめるルゥの膝を、ティルカの細くて長い脚が勢いよく払った。ルゥは鼻から壁に激突してうめき声をあげる。ティルカは素早くルゥの背後に回ると、ルゥの右腕を背中方向にねじ上げた。ルゥの喉からさらにうめき声をあがる。ルゥの手からナイフがぽとりと落ちた。ティルカは自分のナイフをルゥの首筋にあてがった。

 「よせ、ふたりとも。嬢ちゃんも止めな」

 ベンデルは席を立つこともなく声をあげた。落ち着いた低い声だ。しかし、ティルカはルゥを押さえている手を離さない。

 「あんた、話し合いに来たんだろ? だったら、話し合おうじゃねぇか。お前たちも余計なことをするな」

 ルゥは壁に押し付けられたまま「へ、へい」とうめき声に近い声で応えた。スターキーは悶絶したまま床に顔をこすりつけて倒れている。尻だけ突き上げた格好だ。

 「嬢ちゃん、俺たちと刺し違える覚悟で来てるな。こっちは嬢ちゃんと刺し違えるなんて真っ平だ。そんな覚悟のねぇ俺たちが無傷で嬢ちゃんをどうにかできるとは思えねぇな。まぁ、いずれ俺たちが勝つにしてもだ」

 ベンデルは頭の後ろで手を組むと、視線だけティルカに向けた。

 「だからって、ここでケガをしてもつまらねぇ。俺はな、得をしねぇことはやらねぇんだ。話し合いで片付くんなら話し合いで済ます。それが俺の哲学さ。どうしようもねぇ盗っ人だが、そこは信用してもらえねぇかな」

 そこでようやくティルカはルゥを離した。ルゥは床にへたりこむと、鼻を押さえながらぜいぜいと息を継いだ。

 「まずは嬢ちゃんの話だが、俺にノルドンへの依頼を取り下げろってことだな?」

 ティルカは小さくうなづいた。

 「だが、さっき言った俺の哲学だが、得をしねぇことはやらねぇんだ。ノルドンに依頼したことを取り下げるのは、俺たちにゃ得にならねぇことだ。悪いが嬢ちゃん。無条件でその話を飲むなんてできねぇな」

 ティルカはサッとナイフを構えた。あたりの様子を目だけで確認する。ジョン・ペリーはベンデルの隣に、つまりティルカとはベンデルを挟んで向こう側に座っていたが、ベンデルが通せんぼをした形になっているので、こちらに踏み込めずにいる。スターキーはまだ起き上がれる様子はない。ルゥも心が折れたようで、すぐに立ち上がれるようには見えない。

 「よせよせ、話し合いをしようって言ったばかりじゃねぇか。つまりだな、あんたがノルドンの代わりに、俺たちに得をさせてくれりゃ、ノルドンの依頼を取り下げられるって言いたいんだ」

 「私が父の代わりに?」

 「あんた、さっきの身のこなし、ありゃ盗賊仕込みの動きだったぜ。今は堅気かもしれねぇが、嬢ちゃんもノルドンに仕込まれて盗賊をやっていた。そうだろ?」

 ティルカは何も答えなかった。

 「あいつはああ見えて、元は教師だったそうだからな。盗賊の技を子供に教えるのはお手のもんだったんだろうよ」

 「よして! 父のことをそう言うの!」ティルカは大声をあげた。

 「ああ、すまない。親父さんを侮辱するつもりはないんだ。ただ、嬢ちゃんは俺たちに欲しいものを提供できるか確認したいだけなんだ」

 「あなたがたの欲しいものって?」

 「おおっと、それを今すぐに話すわけにゃいかねぇ。こっから先は、取引が成立してからの話だ。まずは、嬢ちゃんの考えを聞かせてもらわないとな」

 「それって、父の代わりに危ない橋を渡れってことなの?」

 「察しが良くて助かるね。あんたが諦めさせようとしている俺たちの利益に適うものを、嬢ちゃんが提供する。そうなりゃ俺たちは気持ちよくノルドンのことを諦められるってわけだ。理屈はわかるだろ?」

 ティルカは再び小さくうなづいたが、いかにも疑わしげだった。

 「提供してもらいたいのは、ノルドンに仕込まれた技だ。その身軽さなら、高いところは平気じゃねぇのか?」

 「私に軽業師の真似事でもさせようって言うの?」

 「うーん、それに近いかもな。俺たちもそれなりに高いところは慣れているんだが、ちょっと今回は面倒でな。どうしようか考えていたところだったのさ」

 「つまり、私に盗賊の一味になれってことよね?」

 「おいおい、変に構えないでくれよ。もう引退したつもりなんだろうが、今回だけ臨時の手伝いを頼みたいだけなんだ。何だったら分け前についても相談に乗るぜ」

 「分け前なんて要らない。でも、そうすれば父から手を引いてくれるのね?」

 ティルカは身構えた姿勢を保ったまま念を押した。

 ベンデルは両腕を大きく広げて見せた。「それが取引だ」

 ティルカはベンデル言葉を吟味するように考えた。ベンデルの口の端が吊り上がる。いいぞ、この娘は考え始めた。頭ごなしに拒絶せず、検討する姿勢を見せている。甘いよ、お嬢ちゃん。そんなんじゃ俺のような「悪党」と渡り合えねぇよ。

 「わかったわ、それで父から手を引くのであれば」ティルカは折れた。

 「取引成立だ」

 ベンデルは嬉しそうな声をあげて、両手でポンッと叩いた。

 「それで、一体、私に何をさせたいの?」ティルカは静かに尋ねた。

 ようやく立ち上がることができたスターキーとルゥは、さきほどからのふたりのやり取りに追いつけないようで、困惑した表情を見せている。それはジョン・ペリーも同様だった。

 「嬢ちゃんに頼みたいのは、これさ」

 ベンデルはテーブルから一枚の紙を取り上げてひらひらさせて見せた。

 それはマントン商会の倉庫の見取り図だった。

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