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パンドラの箱に希望はない 1

Chapter 1


1


 木の扉が破壊される音が響き渡った。


 薄暗いがそれほど狭くない部屋だった。古ぼけた家具や壁が、急に明かりで照らされて赤く染まる。壁に映った多くの人影が右へ左へと入り乱れる。

 「手入れだぁあああ!」

 若い男が叫び声をあげる。

 「憲兵か? なぜ、ここに!」

 「わかるか! とにかくここから逃げるんだ!」

 部屋にはいくつか扉があり、そのひとつからランプを手にした兵士が立っており、その脇から次々と兵士がなだれ込んでくる。

 「こっちだ!」

 部屋に居た男たちは、まだ誰も入っていない扉に殺到したが、その扉もふいに開いて中から女が現れた。大きな眼鏡をかけた、髪の長い女だ。

 「お、女? 何だ?」

 扉に駆け寄っていたひとりが不思議そうな表情になった。

 女は小首をかしげるようにしてニコッと口もとに笑みを浮かべると、杖を持った右手を差し向けた。

 「雷球衝撃ライトニング!」

 杖から青白い閃光とともに、球体状の雷が男たちに襲いかかる。

 「ぎゃあああああ!」

 男たちのうち、3人が雷に打たれて叫んだ。絶叫の合唱である。3人はその場でくずおれた。

 「何なんだ、一体!」

 雷に打たれなかった残りのふたりは向きを変え、その場から逃げる。扉はもうひとつ奥にもあった。ひとりが取っ手に取りつくと勢いよく扉を開け放して、外へ飛び出した。扉の外は薄暗い廊下になっている。ふたりはもつれるように廊下を走った。

 「……今度は何だ?」

 ひとりがつぶやく。

 ふたりが向かう先に、三角帽子に濃紺のローブを着た少女が立っていたのだ。手には樫の杖を持っている。

 「子供の魔法使いか?」

 「踏みつぶして行くぞ!」

 ふたりは口々に叫びながら少女に突進していく。

 少女は目深に帽子をかぶっているため表情は見えないが、口がぱくぱくと動いているのがわかった。呪文を唱えているのだ。目前まで少女に迫った男たちは、それに気づいて青ざめた。

 少女が杖をサッと高く上げると、男たちの足元から白く光る円陣が浮かび上がった。

 「ま、魔法陣?」

 ひとりがうろたえた声を出す。

 「『脱力の陣』!」少女が杖を男たちに向けると、円陣の光が強く輝きだし、男たちを包んでいった。

 幕が下りるように円陣の光が落ちていくと、ふたりの男たちもふらふらとよろめいて少女の前に這いつくばってしまった。まるで立ち上がることができないようだ。

 「……おい、お前は何だ? 何者なんだ?」

 ひとりがやっとの思いで顔をあげると、少女に問いかけた。

 少女のかぶっている帽子が少しずれて、少女の顔が見えるようになった。それで男は、少女がくりくりした大きな目をしていることを知った。

 少女は首を傾けてニコッと笑顔を向けた。

「メリヴェール王立探偵事務所のメルルです!」


2


 眼鏡の女は伸びている男たちから、ひとりの頭を持ち上げて顔をのぞきこんでいた。

 「あちゃあ、完全に伸びてるわ。やりすぎちゃったかなぁ」

 頭を掻きながら立ち上がると、男から手を離した。床に落とされた男はどさりという音とともに「ぐぇっ」と小さなうめき声をあげた。

 そこへメルルがやってきた。

 「あ、ヴィクトリアさん、お疲れ様です」

 「ああメルちゃん、お疲れ。楽勝だった? 手入れは今回が初めてでしょ?」

 ヴィクトリアはメルルに近寄ると、メルルの頭をぽんぽんと軽く叩いた。ヴィクトリアはすらりとした長身で、長い髪を背中にまで垂らしていた。服装は上が女性もののシャツだが、下に穿いているのは男性用の長ズボンである。もっとも、女性用の長ズボンは存在しない。

 「段取り通りうまくできました。緊張しましたけど」メルルは、はにかむような笑顔を見せた。

 「そうかい。でも、残念だったねぇ今回は。本日一番の雄姿を師匠に見せられなくて。レトは別行動だからねぇ」

 「別に。それにレトさんって、私を褒めてくれたことなんて一度もないです」

 周りでは兵士たちが倒れている男たちを次々と引っ立てて、部屋から連れ出している。その男たちとすれ違うように、またひとり女が入ってきた。髪は耳を覆う程度の長さで、無造作に流している。やや吊り上がった眉ときりりと引き締まった口もとが、整った美しい顔の中に厳しさを感じさせた。男物の軍服姿で、凛々しさにも溢れていた。

 「手際よく片づけられたな」

 声は柔らかい女性そのものではあるが、余分な抑揚もない、いかにも軍人然とした口調だった。

 「あ、所長。こちらは無事に終わりましたよ~」

 ヴィクトリアは手を振ってみせた。

 メリヴェール王立探偵事務所の所長、ヒルディー・ウィザーズは眉ひとつ動かさず、静かにふたりのそばへ歩み寄った。

 「後片付けは憲兵隊に任せて、私たちは撤収するぞ」

 「はあい、所長」ヴィクトリアはかなり気安い感じで手をあげた。

 「でも、所長。今回のような捕物って、憲兵さんのお仕事じゃありませんかぁ? どうして私たちが駆り出されたんですぅ?」

 「それはな、お前たちが盗賊団全員の生け捕りを主張したからだ」

 戸口から男の声が響いた。

 メルルが目を向けた先には、ほかの兵たちとは明らかに身分が上だとわかる、高級な軍服姿の男が入ってきた。憲兵隊のイレス・ポンシボー隊長である。40歳前後だと思われるが、少し落ち着きなくきょろきょろ視線を動かしている。メルルはちょっぴり苦手なひとだと思っていた。

 「だいたい、盗賊なんてのは2、3人その場で斬り殺して構わんのだぞ。それを全員逮捕などと主張するから、お前たちにも働いてもらわなくちゃいけなくなったんだ」

 「そう聞きましたけど、だから何でって思ったんですが」

 ヴィクトリアは食い下がる。

 「これだけの人数を殺さずに捕えるには、お前たちのような魔法使いの力があれば確実だからだ。こっちは剣術の上段者は揃えているが、魔法使いはほとんどいないからな」

 「あぁ、そういうこと」

 「こいつら盗賊どもの尋問はこっちの仕事だ。お前たちはさっさと帰るんだな」

 イレス隊長は足元で伸びている男を、そっと足で小突いた。小突かれた男はうめき声をあげて意識を取り戻した。

 「あ、起きた」ヴィクトリアが男の顔をのぞきこんだ。

 「大丈夫? ひとりで起きられる?」ヴィクトリアは優しい口調で語りかけているが、相手を心配している様子は見られない。

 数名の憲兵隊員がやって来て、男を両脇から抱え込むように持ち上げて立たせた。男はまだ立っているのが辛いようで、ふらふらと揺れている。

 「あなた、悪いことは言わないから、知っていることは全部話しちゃいなさいよ」ヴィクトリアが男の顔に自分の顔を近づけた。

 「憲兵の皆さんはね、どちらかと言うと白状しない頑固者が大好きなの。だって、徹底的に痛めつける口実ができるわけだから」

 男の顔がみるみる青ざめる。

 「じゃあね、忠告はしてあげたからね」

 ヴィクトリアはさよならをするように手を振った。男は恐怖で顔を引きつらせながら連れ出されていった。

 「変な出まかせで脅かすんじゃない」イレス隊長は不機嫌そうに文句を言った。

 「ひと昔と違って、こちらもだいぶ丸くなっているんだ」

 「さっき2、3人斬り殺しても構わないって、おっしゃってたのに?」

 「尋問では、こちらが危害を加えられる危険は少ないからな。被疑者の尋問に暴力行為は禁止だそうだ。これも王太子の改革ってことらしいが」

 「王太子、摂政になってからずいぶん張り切っているわねぇ。まぁ、私はいいなって思てるけど」

 「無駄話はそこまでだ。さっさと出るぞ」所長が口を挟んだ。

 三人はそろって盗賊団のアジトが入っている建物から外へ出た。それは3階建ての石造りの建物で、王都の裏通りに面していた。周りには似たような建物がずらりと並んでいる。夜更けということもあって、ひと気はなく、周りの建物にも明かりは見えなかった。

 裏通りには鋼鉄の檻がはめ込まれた馬車が停められていた。檻の入り口は開け放たれていて、盗賊たちが次々と送り込まれている。

 メルルはぼんやりとその様子を見つめていた。ひとが檻に入れられる光景は、故郷や以前住んでいた街では見られないものだった。そのせいか、何か奇妙な思いを抱いてしまう。

 ふと気づくと、通りの端に人影が見えた。その人影はまっすぐこちらへ歩いている。人影はひとつではなかった。ふたつの影が並んでいる。やがて、その影がレトとコーデリアだとわかった。

 レト・カーペンター。メリヴェール王立探偵事務所の探偵では唯一の男性である。年齢は20歳前後か。左腕を肩からすっぽり覆う白銀の鎧を常に身に着けている。本人曰く、「かつての大けがの後遺症で、左腕を外気に触れさせないため」。また、どちらかの肩にはこれまた必ずと言っていいほどカラスが一羽留まっている。名前は『アルキオネ』というらしい。なぜ、レトに懐いているのか知っている者はいない。あまり感情を見せる人物ではなく、周りの冗談で笑っているのをメルルは見たことがなかった。とっつきにくい感じの人物だが、メルルは気にしていない。何せ、レトの推理力に心酔して探偵事務所に押しかけたのだから。

 そして、レトのかたわらにいるのがコーデリア・グレイス。黒を基調とした、レース、フリル、カチューシャで飾られた華美な衣装で、メルルは初対面時に驚かされたものだった。漆黒の長い髪は縦方向に巻いてあり、まるで「お人形さん」の印象だ。顔も幼く、16歳のメルルとほとんど変わらないように見える。実際は28歳で、所長と同い年だと聞いたときにはさらに驚かされた。本人は年齢を隠そうとする考えはないようで、彼女だけが所長のことを「ヒンディー」と呼んでいる。所長とは兵学校の同級生だというから、あの見た目で元々は兵士だったということになる。

 「ヒンディー、盗賊団の倉庫の調査は終わったわ」

 コーデリアが所長の姿を見つけ声をかけた。いつもと変わらない淡々とした口調だ。

 「何かあったのか? コーデリア」

 所長は足を止め、近づいているコーデリアに顔を向けた。

 メルルが所長をすごいと思うのは、あのコーデリアの無表情かつ淡々とした口調からいろいろと察していることである。さきほどのことでも、「何かあったのか」などと尋ねている。

 コーデリアは無言で首を左右に振る。代わりにレトが答えた。

 「倉庫には盗賊団の見張りなどはなく、簡単に入ることができました」

 「あ、そっちのほうが楽だった」とヴィクトリア。

 「しかも倉庫はほとんど空でした」

 「倉庫が空?」所長はレトに尋ねた。

 「どうも別の盗賊団が、その倉庫を荒らしたようなのです。倉庫の天井にある明かり窓を破って侵入した痕跡が見られました」

 「盗賊団の盗品を、さらに別の盗賊団が盗んだって? なんか嫌な展開の話になってない?」ヴィクトリアが口を挟む。

 「残っていた盗品はいったん記録に残すため、同行した憲兵隊が持ち帰りました。ただ、残っていた品はいわくありげだったので、こちらでも調査することになっています」

 レトはそこでヴィクトリアに顔を向けた。

 「ヴィクトリアさんの魔法解析をお願いします」

 「え、私?」

 「どうも、見つかった品々は、どれも魔法の術式が埋め込まれた魔法道具だと思うんです」

 「それって宝石類が埋め込まれていたってことかな?」

 「ええ、いずれもルビーを中心にした十字状の配列をしていました」

 「かなり可能性は高いわね。わかったわ、明日、私の手元に届いたらすぐ確認してみるわ」

 「よろしくお願いします」

 レトは頭を下げた。

 メルルはぼんやりと二人のやり取りを見ていたが、

 「君はうまくやれたかい?」

 ふいにレトの声が飛んできたので、驚いてしまった。

 「え、ええ? な、何ですか?」

 「君はヴィクトリアさんに迷惑はかけていないかい?」

 レトは聞き直した。

 「あら、メルちゃん、ちゃんとやってたわよ、ねぇ?」

 ヴィクトリアがメルルの顔をのぞきこむようにして言った。

 「でも、もうおねむのようね。あなた、ここから一人で帰れる? 送ってあげようか?」

 「おねむって……。もう16ですよ、私」

 メルルは頬を膨らませた。

 「いや、だいぶ遅くなった。君はここから帰るといい。それと、明日の朝は憲兵隊本部前まで直接来てくれないか。さっき話した盗品を受け取るのに人手がいるんだ」

 「わかりました。何時に向かえばいいんですか?」

 「8時だ」

 「8時ですね。では8時に本部前で……。お休みなさいです」

 メルルは頭を下げると、回れ右して自分の下宿先へ通じる道を歩き始めた。探偵事務所の面々は黙ってメルルを見送っていたが、レトが思い出したようにメルルの背中に声をかけた。

 「8時だぞ、寝坊して遅刻するなよ」

 

3


 「……て、レトさんに言われてたのにぃい」

 バタバタと足音荒く駆けながら、メルルは反省もそこそこに憲兵本部への道を急いでいた。見事に寝過ごしたのだ。

 大急ぎで走っていけば、何とかギリギリ間に合う。そう思っても小柄の彼女では「颯爽」と街を駆け抜けるとはいかない。ただ、短い脚を懸命に酷使するだけである。


 彼女が駆けているのは王都メリヴェール中心の大通りで、『バンコラン大通り』と呼ばれる街の大動脈の道をまたぐ細道だ。王都は平地から急に丘陵地帯へと変わる所に位置し、王の住まうディクスン城はもっとも高台にある。街はその城を中心に流れるように広がっている。バンコラン大通りは大軍が通れるようかなりの広さで舗装されているが、城から渦を巻くように外へ向かっているのが特徴である。これはもちろん、王都に敵が襲来した場合を想定した設計で、街に侵入されても、城へはなかなか到着できない仕組みになっていた。しかし、それだけではさすがに利便性が悪いので、城から放射状に広がる細い道が大通りをところどころ交差してつないでいた。街の人々は主にこの細い道を上り下りするようにして通行している。これらの細い道も、城の防衛上まっすぐつなげるわけにいかない。そのため、ところどころで道は切れており、人々は目的地に向かうのに、どうしてもジグザグに移動するしかなかった。空から見れば、円形状のあみだクジに見えるだろう。

 バンコラン大通りは円の外側にあたる面は胸壁となっている。胸壁は弓で戦うために凹状の狭間が設けられており、いわば王都全体が城塞になっているとも言えた。天を衝くほどにそびえたつディクスン城に対して、街の建物はそれほど高くないように規制されている。それは景観的な意味合いだけではない。城を中心としてそれほど離れていない位置に、魔法障壁を発生させる5つの塔が配置されていた。これは遠隔地から強大な魔法で直接攻撃されないための設備である。長年に渡る魔族との戦争の歴史が、王都をここまで要塞化させたのである。

 王都に暮らす人々は、そうした交通上の不便さはあまり気にしていない。もちろん安全上の理由を承知しているし、不便さの影響は限定的であるからだ。

 しかし、今日という日に限って言えば、メルルにはその不便さが大迷惑だった。彼女が向かっている憲兵隊本部は、まっすぐ向かうことができればもう着いているはずだったのだ。まっすぐ向かっていても、すぐ突き当たりに遭い、右か左かへ方向転換を余儀なくされる。メルルはどちらかと言えば少しのんびりした性格だが、さすがに焦る気持ちを抑えることができなかった。

……ああ、これじゃ間に合わないぃいい。レトさんに怒られるぅうう。

 メルルは駆けながら、レトの顔を思い浮かべた。

……でも、レトさんって、『こらぁ』って、怒るひとじゃないよね。きっと、『遅刻するなよって言ったよね』って、冷めた目で言うね、きっと。

 メルルはぶんぶんと頭を振る。

……あああ、私のバカ! 早く本採用されなくちゃいけないのに。これじゃ、いつまでたっても助手見習いだよぉ……

 泣きそうになってきた。

 メルルは歯を食いしばると、胸壁の狭間から下へぽんっと飛び降りようとした。近道しようと考えたのである。

 しかし、その下にはひとが歩いていた。髪の短い、小柄な少女である。

 「危ない!」メルルは叫んだ。

 少女はすばやく身を翻してメルルを避けた。叫んだメルルは着地に失敗して、ずでんと派手な音を立てて尻もちをついた。

 「いったぁあい!」本当に涙が出てきた。お尻が痛くて、すぐには立ち上がれない。

 「あなた、大丈夫?」

 顔に影が差したので見上げると、さきほどの少女がメルルの顔をのぞきこんでいた。少女といってもメルルと同じ16歳か、それほど離れていない年頃だろう。腰を隠すほど長いシャツの上から茶色のベルトを締め、ふくらはぎが見える程度のスパッツを履いていた。魔法使いの服装をしているメルルより、よほど動きやすい恰好だ。整った顔に、グリーンの瞳と長いまつげが印象的だった。あどけなさは残っているが、メルルよりは大人びて見える。少女が心配の表情を見せているので、メルルは慌てて立ち上がった。

 「ご、ごめんなさい、私、い、急いでて。そ、そちらこそ、どこかにぶつかったりしていない?」

 バンバンと服についた汚れを叩き落としながら、早口で尋ねた。

 「いいえ、私、避けたから。どこにも当たったりしてないわ」

 少女は大丈夫というように両手を挙げてみせた。右手にはスケッチブックが握られている。

 「そ、そう、良かった。じゃ、私急ぐからこれで。驚かせちゃって、本当にごめんなさい!」

 メルルはぴょこんと頭を下げて詫びると、一目散に逃げるように駆け出した。

 残された少女は一瞬あっけにとられていたが、すぐにほころんで笑顔になった。彼女も歩き出そうとしたが、足元に何かが転がっているのが見えて足を止めた。

 「……これは」

 拾い上げたのは、片手にすっぽり収まりそうな小さな魔法の杖だった。

 「あの子の物だ」

 少女はすぐに気付いた。魔法使いの恰好をしていたから間違いない。メルルが駆け去った方向に目をやったが、メルルの姿はすでに見えなくなっていた。

 「これ、どうしよう……」

 魔法の杖を見つめながら、少女はつぶやいた。


4


 「昨日の疲れ取れてる? 大丈夫?」

 メルルの疲れ切った表情を見て、少し驚いたようにレトが言った。

 「昨日の疲れは残っていません、大丈夫です……」

 メルルはよろよろしながら否定した。レトは眉をひそめる。レトの肩には、カラスの『アルキオネ』がぱちぱちと瞬きして様子をうかがっていた。

 「こっちは無茶を強要するつもりはないからね」

 「本当、大丈夫です」

 メルルはレトの横を通り過ぎると、憲兵隊本部の門をくぐった。


 憲兵隊は街の治安を守るという意味で、これまで警察事案も一手に引き受けてきた。この制度は部分的に改正が行われることはあったものの、大部分は数百年前から変わっていない。その当時は、人権憲章がなかった時代で、強引かつ一方的な取り調べが横行していた。およそ百年前に人権憲章が施行されたことにより、捜査や取り調べでの「強引かつ一方的」な行動は禁止されている。それでも最近まで、憲兵隊の暴力的な取り調べは陰で続いていた。科学的な捜査法が確立していないギデオンフェル王国では、犯罪捜査はもっぱら目撃者探しか、密告者頼みのものだった。被疑者を捕まえても、取り調べは自白が取れるかどうかが主眼で、証拠を積み上げて犯罪を立証すること自体が稀であったためである。犯罪捜査のために、むしろ憲兵隊の横暴さが期待されていた一面があって、事実上黙認され続けていたのである。

 『討伐戦争』と呼ばれる魔族との戦いが始まったあたりから、国民の間では国の情勢に対する不安や不満が高まっていた。それには憲兵隊の横暴さに対するものも含まれていた。それは戦争終結後も変わらなかった。

 戦争終結後に摂政に就任したルチウス王太子は、まず国内の制度を含めた全面的な改革に取り組んだ。裁判制度や法整備など、周辺諸国から取り入れられるものはすべて取り込んでいった。その中に犯罪捜査制度も含まれていた。

 旧態依然とした憲兵の犯罪捜査は冤罪が多く、未解決事件も多かった。問題は深刻だが、憲兵以外に警察機構の存在しない王国では、いきなり別組織を立てるのは容易でない。

 そこで警察任務を行なう憲兵隊は残しつつも、小規模ながら犯罪捜査に特化した組織を加えることにしたのである。それが王国史上初の組織、『メリヴェール王立探偵事務所』である。

 憲兵と同等、同格の捜査権限を持ち、場合によっては逮捕の権限も与えられている。現場捜査や証拠の分析など、これまで行なわれなかった捜査方法で実績をあげてきた。当初、新組織の有用性を疑問視していた者たちも、探偵事務所の実力は認めざるを得なくなっていた。それは憲兵隊にとっても同様で、正直疎ましい存在だと思いながらも、邪険に扱えるものではないと協力姿勢を見せているのだ。


 レトたちが憲兵隊本部の入り口に姿を現すと、周りの兵たちはサッと姿勢を直して敬礼した。元兵士のレトも自然に敬礼で応えたが、メルルはこの雰囲気が苦手だ。おずおずと敬礼して目的の「押収品管理室」へ急いだ。

 「押収品管理室」では、インディ・シザイシヴ伍長が、ふたりを待っていた。憲兵隊員の間では、『イレス隊長の腰ぎんちゃく』と囁かれている。ひょろりと背が高い男で、顔が瓜のように長細い。いつも表情に自信が感じられず、話口調も憲兵隊員らしからぬたどたどしさである。事務のやり取りにインディ伍長がからむと、話がまどろっこしくなって面倒になる。さっきまで全力疾走だったメルルは、インディ伍長の顔を見て、急激な疲労感に襲われてくずおれそうになった。

 「な、何か、言いたそう、だな、お前」インディ伍長はメルルのあからさまな表情に気分を害したように言った。

 「いいえぇ」メルルは深々とお辞儀して否定した。お辞儀したのはこれ以上顔を見られないようにするためだ。

 「倉庫の押収品はどこですか?」

 レトは何も見ていないように尋ねる。

 「そこ、そこの机に、固めて、袋に入れてある」

 インディ伍長が指さすほうに目をやると、頑丈そうな長机の上に袋がふたつ置いてある。

 「先にまとめていただいたんですか。ありがとうございます」

 レトが礼を言うと、

 「う、うむ」インディ伍長はまんざらでもないように笑みを浮かべた。

 ここで長いやり取りはしたくない。メルルはすばやく袋のひとつを抱えあげた。レトはインディ伍長の差し出す受け取り証にサインを書くと、メルルと同様に袋を抱え上げた。

 「お邪魔しました、では」

 「あ、いや、待て」

 インディ伍長はふたりを引き留めた。

 「どうかしました?」

 「う、うむ、隊長が、おっしゃっていた。盗賊団の、取り調べは、一応進んでいる。今日の午後にでも、報告書が回ってくるだろうって」

 「わかりました」

 「それと、この件で、また出向いてもらうことができるかも、ともおっしゃっていた」

 「出向く? どこにです?」

 「う、うむ。場所は、まだ、わかって、いない」

 「行先不明ですか?」

 「それは、あいつらが、盗みに入った先を、まだ、白状しないからだ」

 「被害に遭われた方は、まだ何の届も出されていないんですか?」

 「あ、ああ。だから、この件は、ひょっとすると、窃盗事件で、終わらない、かもしれないんだ……」

 レトの表情が曇った。以前より追跡していた盗賊団のアジトを突き止め、一斉検挙の計画を立てていた頃、その盗賊団がどこかで「仕事」をしたらしいという情報が入った。盗賊団が使用している貸倉庫に、何かが運び込まれていたのを監視係が目撃したのだ。それで探偵事務所と憲兵隊は二手に分かれて、二面作戦で盗賊団を捕えることになった。レトはコーデリアとともに倉庫側を抑える任務に就いた。倉庫は無人だったため、難なく押さえることができた。倉庫内の盗品がほとんど埃をかぶっていなかったから、最近どこかで盗みを働いたのは確かだろう。レトはそう考えていた。押収した盗品の所有者も、被害届を確認すればすぐにわかると踏んでいたのだ。しかし、被害届が出ていないとすれば、被害者が届を出したくないか、あるいは物理的に被害届の提出が不可能な状態にある、ということだ。

 「窃盗事件が強盗事件に変わるかも、ですか?」

 インディ伍長はうなづいた。

 「う、うむ。隊長はそう、おっしゃっていた。最悪の事態が、起きているかも、しれないと」

 「その件も了解いたしました。イレス隊長には、そうお伝えください」

 レトの返事を聞いて、インディ伍長は大きくうなづいた。

 「確かに、隊長に、報告する」

 レトたちは袋を抱えたまま押収品管理室を出た。

 出口へ向かう廊下は並んで歩くには少し狭い。それでも、メルルはレトと並んで歩きながら尋ねた。

 「レトさん、強盗事件に変わるって……」

 「願わくば、被害者はただ縛られて動けないだけだと願いたいね。口封じに殺されていたら最悪だ」

 「でも、あの盗賊のひとたち、そんな度胸があるように感じませんでしたけど」

 レトは立ち止まってメルルのほうに身体を向けた。メルルも立ち止まった。

 「殺人はね、度胸があるとかは関係ないんだ。恐慌状態にあったり、何も考えていなかったり、犯人が殺人を犯したときの心理状況はさまざまだよ。彼らのうち、誰かが素顔を見られたとかで被害者に手をかける、というのは十分考えられる」

 「私、まだピンと来ないです」

 メルルは出口を向くと、再び歩き始めた。

 「人を殺すって、怖くてなかなか出来そうに思えないです。でも、実際はそういったことが珍しくないぐらい起きている。怖いと思う私が変なのかなって考えちゃいます」

 「……人を殺す行為は怖いと思う、その感覚は持ち続けているほうがいい。慣れてしまうのは意外と簡単だからね」

 「……レトさんは慣れたんですか?」

 「戦争には行ったけど、人は殺していない。たいていがリザードマンのような魔族だった。あと、魔獣。それでも、最初は恐ろしかった。殺す、ということが。でも、そんな感覚、一日で感じなくなったよ」

 メルルはレトの顔を見つめた。それほど年齢の離れていないはずのレトだが、彼は2年前の『討伐戦争』と呼ばれる戦争で戦った経験がある。さらにメルルは、レトが剣を抜いて実際に戦うところを見たことがあった。その時のレトは沈着冷静そのものだった。そんなレトに殺すことへの恐怖心があった、というのが意外だったのだ。

 「今はただ被害者の無事を祈ろう。さぁ、急いで事務所へ戻ろう」

 レトは少し早歩きになって言った。


5


 抱えている荷物はそれほど重くはなかった。しかし、憲兵隊本部から探偵事務所までは、それなりに距離があったため、事務所が入っている建物の前に着いたころのメルルはくたくただった。ただし、正確に到着したというには、ここからさらに2階までの階段を登らなければならない。物を簡単に運ぶ魔法を覚えるべきだったとメルルは思った。ただし、そんな魔法が存在するのか知らないのだが。

 「あぁら、お疲れ。メルちゃん」

 事務所に入ったメルルを見て、ヴィクトリアが陽気に手を振った。事務所には所長の姿もあった。コーデリアの姿は見えない。

 「ひとりで持てた? 重たくなかった?」

 「……そこそこは。でも、半分はレトさんが持ってくれてますから」

 メルルは床にそっと袋を置きながら答えた。レトはその脇にもうひとつの袋を置いた。

 「ヴィクトリアさん。これら押収品はどこに置いておきます?」

 「ああ、すぐに解析始めるから、奥の会議室のテーブルに置いてくれないかしら」

 「わかりました。ここからは、僕ひとりで持つよ」

 レトはメルルに話しかけると、ふたつの袋を抱えて奥の部屋へ消えた。

 「やっとひと息つけれるぅう」

 メルルは目を閉じると、応接用のソファにどさりと身体を預けた。

 「やぁ、お疲れさん」

 向かいから男の声がしたので目を開けると、もう一方のソファにルッチがゆったりと腰かけていた。応接のソファは低いテーブルを挟むように向かい合って置かれていた。メルルはルッチの姿に気付いていなかった。

 「ああ、ルッチさん。来てたんですか」

 「いや、今来たとこ」

 ルッチは口もとに笑みを浮かべて答えた。しかし、それ以上の表情はわからない。なぜなら、ルッチは額から鼻にかけて、銀色の仮面を付けていたからだ。目のあたりには黒いガラスのレンズがはめられていて、こちらから目などの様子はうかがうことができない。何でも、昔、魔物に襲われて顔の上半分にひどい傷を負ったということだった。あまりに醜い傷のため、常に仮面を着けているのだという。メルルにとって何者かわからない人物だ。わかっているのは、レトとは戦友であること。討伐戦争でともに戦ったことがあるそうだ。所長とも知り合いらしい。現在、何をしているのかが不明で、たまにこうして現れて、しばらく無駄話に花を咲かせて去っていく。剣を腰に差し、いかにも冒険者風なのだが、どこかのダンジョンを攻略したとか、どこかの魔物を退治したという話を一切聞かない。冒険どころか、王都から出た様子もないようだ。メルルにとって、ただフラフラしている遊び人にしか見えない。

 不思議なのは、レトが「怖いひと」と評する所長が、ルッチに対して何も言わないことだ。大した用もなく、冷やかしで事務所に現れているのに、叱りつけることもしない。ただ今日もそうであるように、苦々しそうにそっぽを向くだけである。

 ルッチはそのことをいいことに、今日も事務所に顔を出しているのだ。

 「ルッチさん、今日はどこかのダンジョンを攻めてみようとか考えないんですか?」

 「いやだなぁ、メルルちゃん。そんな怖いところ、ひとりで行くわけないじゃない。レトがついて行ってくれるんなら話は別だけど」

 「僕はここの仕事が忙しいです」

 奥から戻ってきたレトが静かに言った。

 「だからってここに顔を出し過ぎじゃないですか?」メルルは少し身を乗り出して、ルッチに迫った。

 「いや、だってさ。メルルちゃんが淹れてくれるお茶がとっても美味しいんだもん。ついつい足が向くんだ、仕方ないだろ?」

 「おだてたって何も出さないです。私、そんなちょろい女じゃありませんから」

 「ええっ、哀しいなぁ。メルルちゃんが淹れるお茶。あれ、カント茶でしょ?」

 メルルは驚きの表情に変わった。

 「わかりますか?」

 「わかるよ、美味しいんだもん。お茶のことがわかってないと、いくら茶葉が高級でも美味しくならない。蒸らしの時間も正確にできなきゃ、あの風味は出せないからね」

 「そうなんですよ、蒸らしの時間も大事なんです。ルッチさん、わかってるじゃないですかぁ」

 「だからさ、メルルちゃん。今日も俺に、その最高のカント茶を味わせておくれよ」

 メルルは立ち上がった。

 「もう、仕方がないひとですね。ちょっとだけですよ」

 メルルは事務所の奥にある台所へ向かっていく。

 周囲の者たちは皆、「ちょろい」と思った。

 「さぁて、私は仕事に取りかかりますかぁ」

 ヴィクトリアも立ち上がると、奥の会議室へ歩き出した。

 「僕も後で行きます」

 レトがヴィクトリアの背中に声をかけた。ヴィクトリアは振り向きもせずに手だけ振って奥へ消えた。

 部屋には、レトと所長、そしてルッチの3人が残った。アルキオネはレトの肩から飛び立つと、窓際の縁まで飛んでいった。そこで留まると3人には興味なさそうに、窓の外を静かに眺めている。

 レトは先ほどメルルが座っていたソファに腰を下ろして、ルッチと向かい合った。

 「さて、と」

 レトが切り出した。

 「いつまで『ルッチ』を続けるおつもりですか、殿下?」

 殿下と呼ばれた『ルッチ』はさらにソファにもたれかかった。

 「いつまででもいいだろ? 俺は『ルッチ』が気に入っているんだ」

 「僕は、摂政がそんな暇な仕事だとは思えないんですが」

 「忙しいさ、もちろん。だが、これを辞めるつもりはないね。施政者は奥に閉じこもるようになると、本当に世情に疎くなってしまう。感覚を研ぎ澄ますことをしないと、改革を推し進めるなんてできないさ」

 「感覚を研ぎ澄ますって……、『ルッチ』になって街を歩き回ることがですか?」

 「……まぁ、多少、息抜きも入ってるかもな」

 レトはため息をついた。

 「息抜きもほどほどにしてください」

 「だが、今日は息抜きで来たんじゃないぜ。所長にも聞いてもらいたい話があって来たんだ」

 これまで、ずっと無言でそっぽを向いていた所長が立ち上がった。所長はレトたちのところまで歩み寄ると、レトの隣に腰を下ろした。

 「伺いましょうか、王太子殿下」

 ルッチ――ルチウス王太子はうなづいた。

 「実は今朝、宰相のリシュリューから報告があった。トランボ王国の元近衛隊長、フランソワ・アメデが部下ふたりを伴い、密かに我が国に入国したってな」

 「トランボ王国? 2年前、殿下が『留学していた』ことになっていた、あの国ですか?」

 「……嫌な言い方するなぁ、お前。そう、そのトランボ王国だ。我が国とトランボ王国との間には協定があるから、入国申請がなくても互いに行き来するのは自由だ。入国したこと自体に法的な問題はない。だが、元とはいえ、王国の近衛隊長を務めた人物が、こちらに何の通達もせずに入国するのは異例だ」

 「元、というからには現在は引退されているのでしょう? 一般の方であれば、異例でも何でもないのじゃありませんか? 観光で来られることもあるでしょうし」

 「ご隠居の身分ならな。だが、アメデは違う。表向きは引退しているが、実際はトランボ王国の特務隊隊長だ」

 レトは所長と顔を見合わせた。

 「特務機関が我が国に何しに来るんですか? 長年の同盟関係にあるのに」

 「まったくわからん。表も裏も、我が国とトランボ王国との間に確執も紛争の火種もない。むしろ、トランボ王国は一人娘のアーニャ王女を俺の元に嫁がせようとしているぐらいだ」

 「それでは、王太子殿下の素行などを調べるために、とか」

 「お前、たまにくだらない冗談を言うよな。俺の素行なんて、留学先を抜けだしたりしている時点でバレバレだろ。それに、あの国を抜け出すまで1年はあの国に居たんだ。アーニャ王女とだってよく顔を合わせていたし、俺がどんな男だったかなんて先方はよくご存じだよ」

 「その一件で、関係にひびが入ったりはしていないんですか?」

 「……まぁ、多少、相手を不快にさせたのは事実だが。あれから何度も謝りに行って、トランボ王には許してもらっている。アーニャ王女なんぞ、俺が詫びに来たってケタケタ笑ってたぐらいだ」

 「それが今になって、特務機関が潜入してきた……」

 「リシュリュー配下の者がアメデたちの動向を見ている。まぁ、今のところ、何の問題も起こしてないようだが。それもあって、現時点で探偵事務所には何も依頼はしないが、この情報は共有しておきたいと思っているんだ。この件は、こじれるとこれまでの同盟関係が覆りかねない繊細な問題だ。いざというときに秘密裡に動ける味方が必要なんだ」

 「お話の件、了解いたしました。我々もこの情報は意識の片隅に置くようにいたします」

 これまで沈黙していた所長が口を開いた。

 「頼りにしている」

 王太子は安心したような声で言った。

 そこへメルルが盆にカップを載せて戻ってきた。カップはひとつではなく、四つ載っている。カップからはそれぞれうっすらと湯気が昇っていた。

 「どうぞ」

 メルルは3人の前にカップを置いた。

 「待ってたよん」

 『ルッチ』はカップを持つと、湯気とともに立ち昇る香りを嗅いだ。それから、ゆっくりと味わうようにお茶を飲んだ。

 「……いいね、ほんとに」

 ルッチはカップから口を離すと、しみじみとつぶやいた。それを聞いたメルルは、はにかんだように笑った。

 「お粗末様です」

 所長とレトもそれぞれお茶に口をつけた。紅茶に似た甘いカント茶の香りが口の中に広がる。レトもルッチと同じようにカップを見つめながら、メルルは本当にお茶を淹れるのが上手いと思った。

 「じゃあ、私、ヴィクトリアさんにもお茶を持っていきますね」

 メルルはあとひとつカップが残った盆を持ち上げてみせると、ヴィクトリアが入っていった部屋へ歩き出した。

 「メルルちゃん、ご馳走さまね~」

 ルッチがひらひらと手を振って見送った。そして満足げにカップに口をつける。

 レトは残りのお茶を流し込むと立ち上がった。

 「では、僕もヴィクトリアさんの解析に立ち会っています」レトはルッチに会釈すると、身体の向きを変えた。

 「仕事熱心だねぇ」ルッチは感心したように、肘をついた手に顎を載せてつぶやいた。


 レトが会議室に入ったとき、ヴィクトリアは小ぶりの像を解析している最中だった。像は女神の姿を象ったものだ。信仰でよく祈りが捧られている、いたって一般的な像である。美しい艶があり、陶器製だと思われた。彼女はその像をテーブルの上に置き、両手をかざしている。両腕に銀のブレスレットをはめているが、両方のブレスレットから光の円陣が浮かび上がっていた。メルルはヴィクトリアのかたわらで、熱心に様子をうかがっている。

 「あら、レト。ちょうどこれに仕込まれた術式を確認したところよ」

 レトはふたりの元へ近づいた。

 「さすがですね、もう解析できたんですか?」

 「うーん。これの場合は、あまりに見え見えだったからね。像の背中に十字状に宝石が埋め込まれているでしょ? 何らかの術式が仕込まれている証拠。ちなみにこれ、呪いのアイテムよ」

 「え、呪われているんですか、この像?」

 メルルは驚いて後ずさった。

 「正確に説明するわね。この像には、『活力収集の陣』、『生命力不活性化の陣』、『脱力の陣』と合わせて3つの魔法陣をひとつの術式に組み合わせて仕込んであるの。効果はさっき名前を言った魔法が、3つ同時に発動するものよ」

 「魔法陣って、いくつも同時に発動できるんですか?」

 「どちらかと言えば、魔法陣を使った魔法が編み出されたのは、複数の魔法を同時に使うためよ。人がひとりで複数の魔法を使うのって、物理的に無理なところがあるのよね。複数の呪文を同時に唱えるなんてできないし。でも魔法陣で魔法を行使する場合、術式の文法さえ間違わなければ、理論上どんな複雑な魔法も実行可能になるのよ。で、この女神像に組み込まれている『活力収集の陣』は、そばにいる人間から体力を奪う。それを魔力に変換して女神像に蓄える。その魔力を消費して、『生命力不活性化の陣』と『脱力の陣』で体調を崩させているの」

 「ひどい魔法だ。信仰の厚い人物が、毎日この像に祈りを捧げていたら……」

 「そう、どんどん体力が落ちてしまって、いずれ病気になるわね。『生命力不活性化の陣』には免疫力を落とす効果もあるから、長期間、そんな魔法攻撃を受け続けていたら、何かの感染症にかかりかねないし、誰だって身体の調子を悪くするわ」

 「この像って、まだ効果が生きているんですか?」

 メルルは震える指で像を指した。メルルは今朝からさっきまで、そんな像を抱えて歩いていたのだ。

 「生きているけど、まぁ心配はいらないわ。『生命力不活性化の陣』と『脱力の陣』の効果の度合いは、それぞれ魔力の消費量と比例するけど、像がそれらの魔法陣を維持するためには魔力をできるだけ抑えなくちゃいけないの。『活力収集の陣』で体力を奪って、その力で三つの魔法陣を維持しているけれど、この程度の小さい『活力収集の陣』では奪える力の量もたかが知れている。結局のところ、『生命力不活性化の陣』と『脱力の陣』の効果も大きくないということ。あなたが今日しばらく像を抱えたぐらいでは大した悪影響にもならないわ」

 メルルはほっと胸を撫でおろした。

 「でも、こんなものを放置するわけにはいかないわね。術式を写し取ったら、像の術式は消去させてもらうわ」

 「術式って写し取ることもできるんですか?」メルルが尋ねた。

 「術式研究のために開発された技術よ。ちなみに開発者は、わ・た・し」

 ヴィクトリアは自慢げに自分の鼻を指して見せた。目を丸くしているメルルを前に、ヴィクトリアは呪文を唱え始める。彼女のブレスレットが輝きを増し、光の円陣の形状が変化した。すると、女神像からも光る魔法陣が浮かび上がった。彼女は浮かび上がった円陣を像のかたわらに広げていた紙まで移動させ、スタンプを押すように上から押し付けた。彼女はこれらの行動を、女神像にも魔法陣にも触れずに行なっていた。

 紙に押し付けられた魔法陣はその輝きをみるみる失っていき、やがて完全に消えてしまった。後には墨で写し取られたような魔法陣が紙の上に残されていた。

 「同じ効果の魔法陣でも、組み合わせる術式はひとつじゃないわ。文法が合ってさえいれば、術式の形は違っても同じ魔法は発現できる。いわば、術式にも『文体』が存在するの」

 「術式に『文体』?」メルルはおうむ返しに尋ねる。

 「そう」ヴィクトリアはうなづくと、魔法陣が写し取られた紙を指さした。

 「これには、女神像に術式を仕込んだ人物の文体、つまりクセね。それが残っている。こうして記録に残しておけば、いつか術者を特定する手がかりにもなるわよ」

 「へぇえええ」メルルは感心したように紙をのぞきこんだ。

 「押収品をざっと見渡したんだけど……」

 ヴィクトリアは腰に手を当てて立ち上がると、テーブルの端に目をやった。そこには、レトとメルルが運んだ押収品の数々が並んで置いてある。

 「これで、盗賊の格が見て取れるわね」

 「どういうことです?」レトが尋ねた。

 「最初に盗みを働いていたのは、品物の良し悪しが今ひとつわかっていない、程度が低めの盗賊団。だって、こんな呪われたアイテムまで一緒に盗んだりしてるんだから。倉庫に放り込んでいたから無事でいたものの、手元に置いていたら病気になっていたわよ。そして、今回、盗っ人の上前をはねた別の盗賊団。こちらはそこそこ鑑定眼を持ち合わせているみたいで、呪われた女神像やその他のガラクタには手を付けていないわ」

 「ここにあるのはみんなガラクタですか」

 レトがつぶやいた。

 「女神像は違うけどね。あれは高級な陶磁製品だけど、それに呪いの魔法を仕込んだってところね。後から来た盗賊は、この像に余計なものが仕込まれていると気付いて置いて行ったのね。まぁ、像の背中に十字状の宝石が埋め込まれているから、わかる人にはわかるわよね」

 「世の中にそんなことをする人がいるなんて……」

 メルルはひとの悪意に触れて、重苦しい気持ちになった。

 部屋に沈黙の時間が流れた。そこへコーデリアが入ってきた。

 「今、戻ったわ」

 「あ、コーデリアさん、おはようございます。今朝はどちらかに出かけてたんですか?」

 メルルがあいさつすると、コーデリアは近くの丸椅子に腰を下ろした。

 「昨夜の倉庫を調べ直していたの。明るくなれば、細かいところも確認できるから」

 「何か出ましたか?」レトが尋ねた。

 コーデリアは首を左右に振った。

 「期待にお応えできるようなものは何も。その代わり、ひとつだけ確信したことはあるわ。昨夜調べたときに感じていたことなんだけど」

 「それは何です?」

 「倉庫の天窓を破ったことといい、品物はすべて手で運んでいることといい、あと、その他の状況も考慮に入れて、あの盗賊団に魔法使いは含まれていないと思うわ」

 「盗賊に魔法使いがいるなんて、あるんですか?」

 メルルは意外そうな声を出した。

 「魔法使いのすべてが人徳者じゃないよ。良い魔法使いも、悪い魔法使いもいる。僕たちと大して変わらない。同じ人間なんだから」レトが答えた。

 「話を戻すけど、新たな盗賊団につながる手がかりはなかったってこと? コーデリア」

 ヴィクトリアが腕を組みながら尋ねた。

 「あとは先に捕まえた盗賊団が何をどこで盗んだのか、尋問している憲兵隊からの報告を待つしかないわね。今のままじゃ取っかかりもないもの」

 コーデリアの答えに、ヴィクトリアは自分の頭をくしゃくしゃとかき回した。

 「あああ、面倒臭い! 昨夜で事件解決なら、こんな追加の仕事なんてなかったのに!」

 「大声で愚痴るな!」

 隣の部屋から所長の声が飛んできた。


6


 男はソファに座って、箱をあちこちに向きを変えながら見つめていた。口の端には満足げな笑みが浮かんでいる。険しい目つきをしているが、左目の横に大きな傷跡があり、それが男の眼つきをさらに険しいものにしていた。男は頬がこけたように痩せており、身体もほっそりとしているが、威圧されるような凄みを感じさせる。常に殺気を放っているようだった。

 男のいる部屋は薄暗い。北向きの部屋というだけでなく、唯一の窓は板で塞がれた状態だったからだ。板の隙間からわずかに入る光が、部屋を暗闇にしなかっただけである。また箱にはめ込まれた宝石のひとつが赤く輝いており、その光が男を赤く照らしていた。

 「帰ってきたか……」男は目だけを左に向けた。視線の先には古ぼけた扉が見える。

 その扉が大きく開き、ひとりの男が入ってきた。中肉中背で顔色もいい。部屋に居る男よりは健康的に見えた。

 「ベンデルの兄貴、いま戻ってきましたぜ」

 入ってきた男は、座っている男に話しかけた。

 ベンデルと呼ばれた男は箱を見つめたまま、

 「首尾は?」とだけつぶやいた。

 「手が回る前に、だいたいのブツは闇屋に渡しました。金はここに」

 男は懐から膨らんだ革袋を取り出した。

 ベンデルは相変わらず横を向いたままで左手を男に伸ばした。中肉中背の男は、数歩近づくと、ベンデルの左手に革袋を置いた。

 「ご苦労さん、ジョン・ペリー」

 ジョン・ペリーは無言で頭を下げる。

 「ルゥとスターキーは?」

 ベンデルは箱を目の前にある背の低いテーブルに載せると、再びソファにもたれかかった。

 「ふたりともまだ戻っていません。ルゥは闇魔導士ギルドですから、昼までには戻れないんじゃないですかね。あそこは王都の端っこですからね」

 「そうだったな」ベンデルは頭の後ろで両手を組んだ。ベンデルの視線は箱に向けられたままだ。いつの間にか、箱からは赤い光が消えていた。

 「兄貴、その箱は?」

 「これか?」

 ベンデルは置いたばかりの箱を取り上げて、ジョン・ペリーに手渡した。

 「無理やり開けようとするなよ」

 ジョン・ペリーは箱を受け取ると、箱から赤い光が灯っていることに気付いた。

 「な、何ですか、これ?」

 「いわゆるな、『魔法の箱』ってやつさ」

 ベンデルは愉快そうに笑った。

 「箱が赤く光ったろ? 光っているのは魔法をかけられたルビーだ。ルビーが赤く光ると、箱を手にした者は『合言葉』を唱えなければならねぇ。間違った『合言葉』を唱えると……」

 ベンデルは自分の首を手刀で斬る仕草を見せた。ジョン・ペリーは凍り付いたように動けなくなった。

 「……ていう噂だ」

 ベンデルはジョン・ペリーの手から箱を取り上げると、ニッと笑ってみせた。

 「兄貴、脅かすなよ」

 ジョン・ペリーは気の抜けた声をあげた。

 「脅かしで言ったんじゃねぇよ。トラップが仕かけられているのは間違いねぇ。この箱はな、二百年ぐらい前に作られていた魔法仕かけの宝箱さ。持ち主に無断で箱を開けようとすると、中身を守るために攻撃する魔法がかけられている。壊そうとしても同様だ。だから、うかつに開けることも、壊すこともできねぇんだ」

 「じゃあ、その箱の中身は……」

 「ああ、まだ拝むことができねぇ、箱の中身はよ」

 ベンデルは自分の鼻先に箱を近づけた。赤いルビーの光が、ベンデルを威嚇するように強く輝いている。

 「何で中身の分からない箱なんざ持ち出したんです? 闇屋に流せないんじゃあ、1リューの得にもなりませんぜ」

 「そうだよなぁ。お前の言う通りだぜ」

 ベンデルは箱を再びテーブルに置いた。ルビーから光が消えた。

 「だがよ、こんな大げさな箱にしまい込まれた中身には興味があってよ。それに、大した荷物にもならねぇから頂戴したわけさ。ひょっとしたら、今回、闇屋に流したどんなものよりすげえ宝物が隠されているかもしれねぇんだ。楽しみじゃねぇか、なぁ? 女もお宝も、簡単に落ちねぇのを落とすところにやり甲斐があるんじゃないか」

 「そうですかね。俺は女もお宝も手間がかからねぇ方がいいです」

 「何だお前、ロマンがねぇなぁ」

 「兄貴からロマンって言葉を聞くと、薄ら気持ち悪くなりますぜ。ところで、開ける方法を調べるあてはあるんですかい?」

 「そうだな、だからどうやって箱を開けるか考えてたところよ」

 ベンデルがそうつぶやくや、ジョン・ペリーが入ってきた扉が開き、男がひとり入ってきた。ベンデルやジョン・ペリーよりも大柄で、頭には髪も眉も、毛と呼べるものは一切生えていなかった。

 「兄貴、調べてきましたぜ」

 「お疲れさん、スターキー」ベンデルがねぎらいの言葉をかけた。

 「いえ。今回頂いたブツは、どれも元々は同じ店で売られていた物でした」

 「同じ店?」ジョン・ペリーは不思議そうな顔をすると、その表情のままベンデルに向けた。

 「ああ。スターキーには今回のブツの出所を調べ直してもらっていたのさ。どのブツも魔法が仕込まれていたからな。専門に扱っている業者がいると思ってな」

 「ええ? 兄貴、あれは高利貸しから盗まれたブツだったでしょ? あいつは小売業まで手を伸ばしてましたか?」

 「その高利貸しがどこから手に入れたのか気になったのさ。あんなものを買い漁る趣味があったとは思えねぇからな。ちょっと裏が知りたくなったんだ」

 「裏ねぇ…… 利息に取り上げただけじゃねぇんですかい?」

 「それだけの話かどうかをスターキーに確かめさせたのさ。で、スターキー。どうだったんだ?」

 スターキーは一歩前に踏み出した。

 「へい、ブツは『マントン商会』で扱っているとわかりました」

 「『マントン商会』」ベンデルは自分の顎に手をかけた。

 「モール・マントンって男が代表の商会で、主に工芸品の輸入販売を商いにしてるって話で。ここ5・6年で急に名を上げた商会ってことで評判です。魔法仕かけの工芸品とか、珍しいものを扱うのが得意みたいでして。王都の珍しもの好きに受けてるって話ですぜ」

 「商会なら、まだまだ今回のようなブツが置いてありますぜ」

 ジョン・ペリーが弾んだ声をあげた。

 「今回の仕事は、けっこういい値がつきました。あれは稼がせてくれますぜ」

 ベンデルは手をあげてジョン・ペリーを制した。ジョン・ペリーは慌てて口をつぐむ。

 「で、商会と高利貸しの関係は?」

 「商会は運転資金を借りていただけのようですね。毎月借りては返してだけの。それ以上の話は出てきませんでした」

 「……そうか。伸びている割に台所事情はしんどそうだな。まぁいい。参考になったぜ」

 スターキーは再び頭を下げた。そして、顔だけを上げて、ベンデルに話しかけた。

 「それと兄貴。調べに出ている途中でよ、通りであいつを見かけたんでさぁ」

 「あいつ?」

 ベンデルは聞き返した。手は顎にかけられたままだ。

 スターキーはその人物の名前を口にした。その名前を聞くや、ベンデルの表情が動いた。

 「あいつが王都にいるのか」

 ベンデルの顔がニタニタ笑いに変わってくる。ベンデルは自分の右足をあげると、ドカッとテーブルの上に置いた。脚のかたわらに魔法の箱が見える。

 「ツイてるかもしれねぇな、俺たちは」

 きょとんとしているジョン・ペリーやスターキーを前に、ベンデルは愉快そうにつぶやいた。


 「意外と早く拝めるかもな、箱の中身をよ」


7


 その屋敷は高い塀に囲まれていた。

 古ぼけたレンガ造りだが、かなり分厚く頑丈そうである。門扉は太い鉄の棒が組み合わされたもので、これもまた重厚さで見るものに威圧感を与えた。屋敷は門扉からそれほど遠くないところの正面にそびえ立っている。屋敷の玄関までは白い石畳の道が続いていた。

 憲兵隊長イレス・ポンシボーは、門の外から屋敷を見上げていた。いかにもつまらなそうな表情である。かたわらにはインディ伍長が控えるように立っている。

 「あいつらの手を借りにゃならんとは……」イレス隊長はぼやいた。

 「今からでも、断りの、連絡をいたしましょうか?」

 インディ伍長は囁くように進言した。

 イレス隊長は無言のまま、じろりとインディ伍長を睨んだ。インディ伍長は小さくなって一歩下がった。

 門の前は細い通りになっていて、その通りに沿って高い塀に囲まれた屋敷が並んでいる。歩道も整備されており、平らに削られた石畳みで敷き詰められていた。その歩道をイレス隊長たちに向かって歩いている者がいる。肩にカラスを乗せたレトととんがり帽子姿のメルルだった。

 「お待たせしました、イレス隊長」

 ふたりのそばに到着すると、レトは頭を下げてあいさつした。

 「待ったぜ、探偵」イレス隊長はぶすっとした顔で応じた。

 レトはイレス隊長と並んで立つと、門扉ごしに屋敷を見上げた。

 「こちらですか、現場は」

 イレス隊長はうなづいた。

 「賊から盗みに入った屋敷を白状させたとき、ひとりが屋敷の主を縛ったうえに猿ぐつわもかけたと言っていたんでな。部下に救助を命じたんだが、部下が駆けつけたとき主はすでに死んでいたってことだ。ただし、殺された状態でな」

 「現場の状況はそのままですか?」

 「おおむね部下が見つけたままの状態だ。さっき検死の医者が入ったから、遺体は多少動かされているだろうからな。コジャック医師だ、知っているな?」

 レトはうなづいた。

 「ええ、コジャック医師はよく存じております」

 インディ伍長が合図を送ると、門の内側に控えていた憲兵隊員がふたり、門扉を開き始めた。

 「では、捜査に入らせていただきます」

 レトはイレス隊長に声をかけると、門をくぐり抜けた。その後をメルルが続く。イレス隊長とインディ伍長も後に続いた。

 レトが屋敷の玄関に着くと、中からひとりの隊員が扉を開いて顔をのぞかせた。端正な顔立ちの、すらりとした長身の若者だ。

 「憲兵隊員フォーレスと申します。どうぞ中へ」

 4人が中に入ると、フォーレスが先導して歩き始めた。床には高価な絨毯が敷かれていて、全く足音がしない。

 「遺体の発見者はあなたですか?」

 レトが歩きながら尋ねると、フォーレスは歩みを止めることなく答えた。

 「ええ。被害者の名前はバゴット・ハマースミス。貸金融屋を営んでおります。昨夜捕えた盗賊たちは、その前日の夜ここへ侵入し、バゴットを縛り上げたうえ、猿ぐつわをかけて居室に転がしておいたと話しておりました。私とほか二名がバゴットの居室に入ったところ、バゴットはたしかに縛られた状態で転がされておりました。ただし、猿ぐつわははめられておらず、喉を切り裂かれていました。そこで、ひとりが本部へ報告に走り、私と残り一名で現場の保存に努めた次第です」

 「玄関にカギはかかっていましたか?」

 「いいえ、かかっていませんでした。盗賊は窓から侵入し、盗みを働いた後、玄関から出たと供述していました。その際に扉のカギは外したままだとも言っておりました」

 「報告では殺されているとありましたが、自殺、事故の可能性はなさそうなのですか?」

 「バゴットは後ろ手に縛られている状態でした。かたわらにナイフが血まみれで落ちていましたが、あの状態では自分で喉を切り裂くのは無理でしょう。ナイフは床にただ転がって固定されていない状態でしたので。以上のことから自殺や何らかの事故とも思えず、『殺されている』と報告いたしました」

 メルルはてきぱきと話すフォーレスを不思議そうに見つめた。イレス隊長といい、インディ伍長といい、憲兵隊に優秀そうなひとはいない印象を持っていた。しかし、フォーレスの姿は、その印象を変えそうなほど立派に見える。報告は簡潔、話の展開も理路整然としている。憲兵は兵士の中でも優秀な者が選ばれるはずだから、フォーレスの理知的な姿が憲兵本来のものなのだろう。

……何で、憲兵隊で身分の高いひとたちが、『あれ』なんです?

 メルルはちらりと後ろを歩くふたりに目をやった。

 フォーレスは階段を昇り始めた。階段も床と同じ絨毯が敷かれている。

 「バゴットの居室は2階です」

 ぐるりと回るようにして2階に着くと、階段の先は左右に分かれた廊下に繋がっていた。その正面には両開きの扉が開いている。

 「こちらです」

 フォーレスは入り口の脇に立つと、部屋の中へ手を差し入れて示した。

 「事務所に入って、殺人事件の現場は初めてだね」レトはいったん立ち止まると、メルルに声をかけた。メルルはうなづいた。

 「ええ。でも、大丈夫です。ちゃんと働いてみせます」自分の胸の前で、両手をぐっと握りしめた。

 レトは正面を向いた。「じゃあ、入るよ」

 

 バゴットの居室はかなり広いものだった。

 書斎を兼ねた仕事部屋として使うものらしく、扉を開いた正面に応接用のテーブルとソファが鎮座している。右手の壁には、背の低い棚が端から端までを埋めるように並んでいた。反対側の壁には大きな書斎机がどっしりと構えていて、上等そうな黒革のチェアが備えられている。チェアの背後には天井に届くほどの大きな棚がそびえたっているが、その両側は扉付きの棚になっていた。部屋の奥は開閉式の全面ガラス張りで、白い石造りのバルコニーへと続いているのが見える。南向きの間取りで、バルコニーから陽の光が柔らかく差し込まれていた。床全面に敷きつめられた高価なつづら織りの絨毯が、陽の光を優しく受け止めている。一見して豪奢な趣だとわかる部屋だった。

 しかし、その部屋は豪奢な趣を損なう状況にあった。床には書類が散らばっており、扉付きの棚はすべて開け放たれていた。いくつかの棚はからっぽで、それ以外は書類やファイルが無造作に重ねられて放り込まれていた。書斎机の背後の棚に大きな金庫がはめ込まれていたが、開け放たれて中をさらされている状態だった。

 バゴットと思われる男の遺体は応接用のテーブルの陰に倒れていた。年齢は50歳前後だろうか。白髪が目立つわりに顔のしわは少なく、まだ働き盛りの男らしい若々しさと老獪さが同居しているようだ。高級そうなガウンに身を包んでおり、羽振りは良かったようである。こわごわとメルルがのぞきこむと、フォーレスが報告した通り後ろ手に縛られているのが見えた。首のあたりが血で真っ赤に染まっており、その血は床の絨毯も染めていた。

 「犯人は絨毯を台無しにするのをわかっていたのかねぇ」

 イレス隊長は遺体を見下ろしながらつぶやいた。インディ伍長は「まったくその通りです」とうなづいた。どうやら高級絨毯が血で台無しになったのを惜しんでいるらしい。

 「まずは、盗賊団はどこから侵入したか、ですが」レトは周りを見回した。

 「バルコニーの入り口に泥の付いた足跡が2種類ありました。盗賊はバルコニーから侵入した者と、廊下側から侵入した者の二組に分かれていたようです」

 フォーレスがバルコニー入り口の足元を指さしながら説明した。メルルが首を伸ばすと、遠目ながらバルコニー入り口付近に泥のついた足跡が見えた。それらは散らばっているようだった。

 「廊下側の足跡は、2階の別室に続いていました。そこからバゴット氏の居室に踏み込んだものと思われます」

 「バゴット氏の在室を確認して、両側から挟み撃ちにするように侵入したのですね」

 「そんな状況では、逃げるなんて無理だったでしょうね」

 レトとフォーレスはお互いに納得したようにうなづき合っている。

 「そして、バゴット氏を縛り上げて、ここに転がしておいたんでしょうね」

 フォーレスが自分の足元の遺体に視線を移した。

 「そして、のあとは違うだろ。首を掻っ切って転がしておいた、だろ」

 イレス隊長が不服そうに口を挟んだ。

 「そうなのかどうか、それを確かめに来たんですよ」

 レトがなだめるように言って、遺体の近くまで歩み寄った。その横を不安顔のメルルがついてくる。

 遺体のかたわらでは白衣の中年男が遺体の頭を撫でながら調べていた。豊かな口ひげを蓄えた人物で、もう片方の手で自分のひげを撫でている。

 「どうだい、コジャック。あんたの見立ては」

 イレス隊長に話しかけられると、コジャック医師はじろりと見上げた。口ひげがもぞもぞと動くと、低い嗄れ声が響いた。

 「一気に喉を切り裂かれておる。これが死因で間違いないよ。即死だな」

 コジャック医師はそこでレトとメルルの姿に気付いた。

 「おや、探偵事務所の若いの。今日は子供連れかね」

 メルルはムッとした。

 「私、もう16です。レトさんの子供じゃありません」

 「ほう、威勢のいい嬢ちゃんだね、名前は?」

 「メルルです。探偵助手を務めております!」

 コジャック医師の口ひげが再びもぞりと動いた。どうも口もとに笑みを浮かべたらしい。

 「よろしく、メルル。私はコジャック。憲兵本部付きで監察医をやっておる。生きた人間も診ることはあるが、もっぱら遺体専門の医者だ」

 「よろしくです、コジャックさん」メルルはまだムスッとした表情で返した。

 「ここに倒れている人物は、この屋敷の主バゴット・ハマースミスで間違いありませんか?」

 レトが尋ねると、フォーレスが進み出た。

 「現時点では『おそらく』です。近所のものに尋ねたバゴット氏の特徴と、この遺体の特徴は一致していました。身近のものに確認したいのですが、この屋敷には小間使いや執事はおらず、家族もいません。もっとも、近所に聞き込んだところ、最近までは妻がいたようです」

 「その細君はどうした?」イレス隊長が尋ねた。

 「まだ噂の段階ですが、どうも離婚したようですね。ただ、離婚した時期は不明なのですが」

 「じゃあ、このバゴット氏は盗賊に襲われたときも、この屋敷にひとりだったってわけだ」

 「そうですね。そのことについては取り調べた盗賊もそのように言っておりました」

 フォーレスは何かの覚書を見ることなく、すらすらと答えた。

 レトはフォーレスの答えをうなづきながら聞いていたが、コジャック医師の隣にしゃがんで医師の手元をのぞきこんだ。

 「死亡推定時刻はわかりそうですか?」

 レトが尋ねると、コジャック医師は再びもぞもぞと口ひげを動かした。

 「まぁ、ざっくりにはなるがな。おそらく一昨日の晩の6時ごろから12時ごろまでの間かな」

 「もう少し狭められんか」イレス隊長が不満そうに言った。

 「無茶を言うな。この人物は死んでからだいぶ時間が経っておる。限度っていうもんもあるんだ」

 「悪霊化や死鬼ゾンビ化されたら厄介です。遺体の残りの調査をお願いします」

 「心得ておる」

 コジャック医師はレトの言葉に応えると、検死の作業に戻った。

 「わかっていることを先に言っておくぞ。凶器の刃物はそれほど切れ味の鋭いものではない。半ば強引に力任せで切り裂いておる。ほれ、あそこに落ちているナイフだ。あれが凶器だよ」

 医師が指さす先には大きな血だまりができていた。その中心に親指幅程度のナイフが落ちている。柄が白いものである。その柄の形状は特徴的で、「?」記号のように柄の先がくるりと巻き込むようになっていた。

 レトは血だまりまで歩いていくと、白い布でナイフを挟むようにつまみ上げた。血だまりはだいぶ乾いていたが、それでもレトがナイフを持ち上げたとき、血が糸を引くように垂れ落ちた。

 「変わった形状のナイフですね」メルルが感想を漏らした。

 「戦闘用のナイフじゃないからだよ。柄が細いのもあまり力が入らないようにするためだ。汎用の……、いや、これだったらペーパーナイフと言ったほうがいいのかな」

 「ペーパーナイフ? そんなのが凶器なのですか?」

 メルルが疑問を口にすると、コジャックがくくくと笑い声をあげた。

 「何だ、嬢ちゃん。見た目によらず、しっかり探偵しとるじゃないか。たしかに当たり前のペーパーナイフなら、人の喉を掻っ切るなんて難しいな」

 「このナイフの刃は紙以外も切れるよう、ある程度研いであるものだよ。とは言っても包丁ほどじゃないけど」

 レトはナイフをインディ伍長に預けながら言った。インディ伍長は目の前でナイフをつまんでぶら下げた。

 「しかし、何でこんな、持ちにくそうな、柄なんだ?」インディ伍長は愚痴とも言えるようなことをつぶやく。

 「あまり力を必要としないから、装飾に凝ったのでしょう。何かにはめ込まれているものかもしれません」

 「レトさん、あれじゃないですか?」

 メルルは書斎机の上を指さした。

 レトたちが視線を向けると、メルルの指す先に白い小さな猫の像が目に入った。

 書斎机の上も書類や小物が散らばっている状態だったが、猫の像は机の端でエサを待っているかのように腰を下ろし、背中をやや反らし気味の姿勢で座っていた。ブルーの瞳がきらきら光っている。その猫の像には「しっぽ」が見当たらなかった。

 レトが書斎机に近付き、猫の像の背後を見ると、しっぽがあるはずの位置には小さな丸い穴が空いていた。その穴の大きさは、先ほどのナイフの幅と同じぐらいだった。猫の像の色合いは、ナイフの柄と同じぐらいの白色に見える。

 「どうやら君の言う通りだね」

 レトはメルルを振り返って言った。レトは再び猫の像に視線を戻すと、何かに気付いたように像を持ち上げた。

 「何かありました?」メルルはレトの横に並んで尋ねた。

 「書斎机を見てごらん。血の跡があるだろう?」

 「ええ、ポツリポツリと跳ねたような跡が」

 「猫の像はその血の跡の上に置いてあったんだ」

 レトは言いながら猫の像を裏返した。

 「ほら、像の底に血の跡が付いている。この猫の像は、事件の後でここに置かれたんだ」

 「置いたのは犯人ですよね? どうしてそんなことを」

 「さぁ、今の時点ではわからない」

 レトは机の上に像を戻した。

 「これも証拠品として回収しておいてください」

 レトはフォーレスに声をかけた。フォーレスはサッと敬礼すると、扉の外に合図を送った。すぐに憲兵がひとり、いくつかの白い布袋を手に入ってきた。

 「ご指示いただいたものは、この者が回収いたします」フォーレスが説明した。

 袋を持った憲兵は猫の像を回収すると、今度はインディ伍長からナイフを受け取り別の袋に入れた。

 「ほかにわかったことはありますか?」

 レトはコジャック医師に尋ねた。

 「遺体に動かされた形跡はない。つまり、この男はまさにここで殺害され、そのまま放置されたということだな。発見されたときからうつぶせだったそうだが、おそらく犯人はうつぶせ状態にした被害者の上から頭を持ち上げて喉をむき出しにさせた。そこを横一線にナイフで掻っ切って殺害したのだろうな」

 「そんなに細かくわかります?」メルルが少し首をかしげた。

 「絨毯の血の跡が根拠のひとつだな。被害者が倒れている首部分周辺に集中して、かたわらのテーブルの上やソファの上にはあまり血が付いていない。これは床に近い位置で喉を斬られたことを示している。ガウンの背のすそに血が付いているが、これはおそらく犯人が自分の手に付いた血を、これでぬぐい取った跡だろうな。犯人は背後から手を回し入れて喉を斬ったから、返り血は手の部分だけに浴びたということだ」

 「ということは、屋敷を出た犯人が目撃されたとしても、それほど不審に思われていないかもしれません。血まみれの人物が外を歩いていたら、さすがに誰かが不審に思って記憶しているでしょう」

 レトは誰に説明するでもなくつぶやいた。自分自身に説明しているようだった。

 「ですが、医師の言われた時間帯の目撃者捜しはするべきと考えますが」

 フォーレスが進み出て発言した。

 「それはもちろんです。手配をお願いします」

 フォーレスはうなづくと、再び部屋の外に向かって合図を送った。今度は憲兵が二名入ってきた。フォーレスが手短に指示を伝えると、二名の憲兵はすばやく部屋から立ち去った。

 その間にレトは書斎のかたわらに落ちているものに気付いて、それを拾い上げていた。やや大きめのスカーフで、ひとつではなくふたつあった。ひとつはそれほどしわがなかったが、もうひとつはくしゃくしゃに丸められている状態だった。

 「猿ぐつわに使われたもののようですね」

 レトは丸められたスカーフに鼻を近づけて嗅ぎながら言った。

 「唾液の匂いがします。ひとつを丸めてバゴット氏の口に押し込み、残りのひとつでそれを吐き出させないよう咥え込ませて後頭部で縛るのに使ったのでしょう」

 「被害者の方がほどいたのでしょうか?」メルルが尋ねた。

 「どういう縛り方だったかにもよるけど、たぶんひとりで解いたのじゃないと思うな」

 「探偵。何かわかったのか?」今度はイレス隊長がレトに尋ねた。

 「そうですね。この事件の犯人は盗賊の中の誰かではなさそうです。盗賊はバゴット氏を襲う際に丸腰というわけではなかったはずです。武器も所持していたと思われます。バゴット氏が大して抵抗した形跡もなく縛られていたのは、盗賊が武器を見せて大人しくするよう脅したからでしょう。また、盗賊がバゴット氏を殺害するのであれば、猫の置物に備え付けられたペーパーナイフを使用せず、用意した武器を使うでしょう。あのペーパーナイフをわざわざ使うには、殺傷能力が不確かです。バゴット氏は盗賊の被害に遭った後、ここを訪れた何者かに突発的に殺害されたのだと思います」

 「誰かがここを訪ねてきた」

 イレス隊長はつぶやいた。

 「ええ。犯人は何らかの理由でここを訪れた。もちろん、そのときはバゴット氏を殺害する意図はなかった。この部屋までやって来た犯人は、バゴット氏が縛られているのを発見した。犯人はバゴット氏の猿ぐつわを解き、どういう目に遭ったのかを尋ねたでしょう。また、縛られている状態から解放すべく、猫の置物からナイフを引き出し、それでバゴット氏を縛っている紐を切ろうとした」

 「犯人はバゴット氏を助けようとしていた?」

 「途中までは、ということです。犯人はバゴット氏をうつぶせにし、後ろ手に縛られている紐を切ろうとした。しかし、そこで犯人の気が変わったんです」

 「気が変わった」

 「凶器が殺傷能力に不安があるペーパーナイフだったのは、そもそもバゴット氏の喉ではなく、紐を切るためだったからと考えると状況が見えてきます。ナイフを手にバゴット氏を見下ろした犯人は、これがバゴット氏を殺害する千載一遇の機会だと気付いたんです。バゴット氏は後ろ手に縛られて、抵抗できる状態にありません。そして犯人の手にはナイフがある。普段であればバゴット氏もたやすく殺されることなく抵抗したでしょう。ですが、まさにこの時はその抵抗ができない状態にあった。犯人にはバゴット氏を殺害したい理由はあったが、これまで実行するには至らなかった。人を殺害するのに動機だけでは足りません。いろいろな条件が揃わなければ、ひとは殺人を犯しにくいものです。ですが、全く抵抗できないバゴット氏を前にして、その状況の誘惑に抗うことができなかったのではないでしょうか」

 「確かに殺したい人物が縛られた状態で身動きできなかったら、犯人にすれば殺害の好機と言えるよな」

 イレス隊長は納得したようにうなづいた。

 「そうだとすれば、この事件は、強盗事件とは、また別の事件ってことに、なるんだな」

 インディ伍長がレトに確認するように話を振った。

 「バゴット氏が襲われた強盗事件がきっかけになるのでしょうが、この殺人事件は別の事件になります」

 インディ伍長は天を仰いだ。メルルは何を考えているのだろうとインディ伍長の横顔を見つめた。インディ伍長の口から洩れたのはぼやきだった。

 「ああ、面倒な話になった……」


8


 ルッチは探偵事務所を出ると、ぶらぶらと目的がないように街道を歩いていた。商店の並ぶ通りでは、いくつかの店に手を振って挨拶もした。仮面で顔半分は見えないものの、口元の笑みからは機嫌が良いように見える。すれ違う人々の中には、ルッチが小さく鼻唄を唄っているのが聞こえたほどだ。

 ルッチはやがて向きを変えると、城に近い裏通りに足を向けた。そのあたりはいわゆる場末の酒場が並んでいるようなところで、日中はあまり人通りもないところだった。その中の店のひとつでルッチは足を止めた。店は今にも崩れそうな古ぼけた建物で、看板の文字は読めなくなるほど黒ずんでいた。ルッチはいつ外れてもおかしくない扉を開けると店の中へ足を踏み入れた。

 店の中は薄暗く、まるで客を寄せ付けないかのような陰気臭さだった。カウンターといくつかの丸椅子が並んでいるだけの店で、狭苦しさも感じられた。カウンターには店主とみられる男がひとり、不機嫌そうな顔でグラスを磨いているところだった。もっとも磨き方が悪いようで、そのグラスは一向に曇りの取れる様子がない。

 ルッチが軽く手をあげると、店主はルッチを見ずにただうなづいただけだった。ルッチはそのまま店の奥へ進むと手洗いがあると思われる扉を開けて入っていった。中に入ると、ルッチはさらに正面にある壁に向かい合う。壁には手が入りそうなほどの亀裂が斜めに走っている。ルッチは左手をその亀裂の中に差し入れた。左手には小さな宝石がはめ込まれた指輪が光っている。ルッチが亀裂に手を入れて間もなく、亀裂からカチリという金属音が小さく響いた。すると壁の亀裂が大きく上下に開き、そこにぽっかりと大きな入り口が開いた。ルッチが入り口を通り抜けると、入り口は何事もなかったように亀裂の走った壁に戻った。

 入り口からは細く長い通路が続いていた。通路には魔法の力で光る『魔法灯』が等間隔で設置されていて、ルッチが歩くところだけ明かりが灯るようになっていた。通路が途切れると上に続く階段が伸びている。そこにも『魔法灯』が足元を照らしていた。

 だらだらと長い階段を、ルッチは黙々と昇っていった。階段は踊り場ごとに通路とつながっている。ルッチは何層かの通路を横目にかなりの高さまで歩き続けた。やがてひとつの通路に足を向けると、行き止まりの壁に指輪をはめた左手を押し当てた。壁はカチリという音を響かせると、すっと奥へ開いていった。明るい光がルッチを照らす。ルッチはその光の中へと進みだした。

 ルッチが入ったのは、広く、そして天井の高い豪華な部屋だった。ルッチが通り抜けた壁は静かに閉じた。閉じた壁は大きな鏡になっていた。ルッチは足音も立たない厚い絨毯の上を急ぐでもなく歩くと、大きな書斎机の前で立ち止まった。そして、顔に両手をかけると、仮面を取り外した。仮面の下からは、端正で鼻筋の通った顔が現れた。瞳は深いグレーで鋭くも柔らかい光をたたえている。ルッチは仮面を書斎机の引き出しに入れると、ふぅとため息をついた。

 まるでその時を待っていたかのように、コツコツと扉を叩く音が響いた。部屋には両開きの大きな扉がついている。

 「入れ」

 ルッチは静かだが、よく通る声で応えた。

 扉が開くと、長身で黒髪の男が入ってきた。年齢は30歳ぐらいだろうか。背筋を伸ばして歩く姿は、生真面目さと威厳を感じさせた。落ち着き払った表情には、何事にも動じない強さを秘めているようだ。

 「王太子殿下、探しておりました」

 ギデオンフェル王国の若き宰相、リシュリューだった。

 「ちょっと辺りを歩いていた。探させて済まなかったな」

 ルチウス王太子は引き出しをそっと閉めた。

 「いいえ。実は殿下のお耳に入れたい話がございまして」

 「何の話だ」

 「先日ご報告申し上げた、トランボ王国アメデ特務隊長の件です。同行者二名の氏名が判明いたしました。トム・ヴェリーとマルコ・パルマ。ともに特務隊の隊員で、偵察や調査を主任務としています。これまでの任務の中に、暗殺や破壊工作があったかどうかまでは確認できておりません」

 「仕事が早いな。もうそこまで調べたか」

 ルチウス王太子は感心した。

 「伯父が育てた特務隊です。優秀な人材が揃っています」

 「俺が作った探偵事務所にも、そこから何名か入れておきたかったな」

 「実は殿下。探偵事務所設立の際、私から何名かヒルディー・ウィザーズ所長に推薦させていただきました」

 「何だって?」

 「ですが、全員採用されませんでした」

 ルチウス王太子は天を見上げた。

 「あの頑固女め」

 「何かの意図がある人選だったと聞いておりますが」

 「俺が出した条件は、必ず一員にレトを加えること。それ以外の人選は任せたんだ」

 「殿下は本当にレト殿を買っておられるのですね」

 「……まぁな」

 ルチウス王太子は言葉少なに答えた。王太子は本当のところはレトを王国の政務に就かせたいと考えていた。しかし、平民の、それも最下級の身分のレトが、いきなり高級官僚につけることを周りが良しとしなかったのである。王太子にできたのは、レトを上級市民に上げ、自分が設立した小規模の組織に入れるところまでだった。そんな事情など、リシュリューには説明したくなかった。リシュリューもそれを察したようだった。

 「さきほどの話になりますが、トランボ王国特務隊の三名は下町の宿場町で宿を取り、日中は何かを探しているようです」リシュリューは話題を戻した。

 「何か?」

 「あるいは誰か、です」

 「何か聞き込んではいないのか」

 「それがまったく。いずれも自分の目のみで探しているようでした」

 「聞き込みをしない探し物って何だ?」

 ルチウス王太子は自分の顎に手をかけた。

 「身柄を確保して問い詰めますか?」

 「……いや、今はまだ監視だけでいい。監視されていることに気付かれないようにな」

 「承知いたしました」

 リシュリューはきびすを返すと、王太子の部屋から出て行った。そして、戸口で丁寧に一礼して扉を閉めた。

 王太子は部屋の中央に据えられたソファに腰を下ろすと、侍女を呼んで飲み物を用意するよう指示した。侍女はすぐにティーポットを載せたワゴンを押して戻ってきた。

 「殿下、お持ちしました」

 侍女はさっそくティーポットからカップへお茶を注ぎ始めた。

 「最近、殿下がお気に入りのカント茶をご用意いたしました」

 「そうか、ありがとう」

 ルチウス王太子は侍女からカップを受け取ると、香りを嗅ぎ、お茶に口をつけた。やがて口からカップを離すと、しみじみとカップを見つめた。

 「メルルちゃんが淹れたほうが美味しいな」

 侍女は身体を傾けて、王太子の言葉をよく聞こうとした。

 「殿下、何か?」

 「いや、何でもない」

 ルチウス王太子は再びカップに口をつけた。

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