273日
彼女を健康にする最高の薬は僕の愛だというのは、ただの冗談というわけでもなさそうだ。
その日ほど大きく家を空け、その間、彼女を一人にしておくことがなかっただけのことかもしれない。
できるだけのことは、他の人に頼むかしたし、どうしても僕が出なくちゃいけない場合にだって彼女を一人にはしなかった。
しかし彼女は、僕が買い物に出ている少しの間にだって症状を起こした。
本当に彼女は、僕がいなくなると、具合を悪くするのだった。
僕の隣にいてくれる彼女は、苦しそうになど見えないのだった。
気を利かせてくれているのかもしれないし、彼女の優しさでしかないのかもしれない。
けれどそう自惚れることができるだけの根拠はあるように思えた。
このまま僕が愛を注ぎ続けていれば、彼女はいくらだって元気になってくれて、彼女はいくらだって僕の傍にいてくれる。
そんな馬鹿みたいな夢まで見てしまうほど、僕はすっかり騙されていた。
「暑いから、プールとか海に行きたいわね」
笑う彼女の体調は、出会った頃よりもいいように見える。
これが彼女の努力なのだろう。
必死の努力であり、必然に対する抵抗なのだろう。
「人が多いしきっと疲れてしまうよ。それに僕は泳ぎが苦手で、無様な恰好を見せてしまうことになるだろうから、それが嫌だよ」
だから彼女の体を考えれば、プールも海も不可能なのであろうが、彼女のことを理由にはしたくなかった。
僕は彼女を否定しない。
愉快そうに彼女は笑う。
「運動神経が悪いのは、ずっと前から知っていることだもの、今更になって無様だなんて思わないわ。それにね、泳ぎが得意だって言ったら、そっちの方が驚きだわ」
「そうか。それじゃあ、僕の得意な方法で、海へと連れて行ってあげるよ」
不思議そうにする彼女を後に、僕は必要な道具を取りに行った。
それは、紙と鉛筆である。
紙と鉛筆ただそれさえあったなら、僕は夢を創り出せる。彼女へ見せる夢を描くことができるのだ。
戻った僕の持ち物を見て、言わんとしていることがわかったのか、彼女は軽やかなメロディーの鼻歌を歌い出した。
「二分間あれば到着する。君の得意な歌を歌っておくれよ、そうしたらば、ぴったり二分間、計れるのだろう? 君の歌が終わるとき、目を開けば海へも到着しているさ」
美しい声で彼女は歌を奏でる。
その歌声のあまりの美しさに聞き惚れながらも、心地好く、思うままに何も考えず、ただ紙の上に鉛筆を走らせる。
モノクロームの世界は、輝く色彩を弾かせた。
手が鉛筆を離したとき、耳に心地好く響いていたメロディーが止み、僕たちは海へと到着した。
僕たちの家において、僕たちの想像は絶対であり、ここはだれもいないプライベートビーチへとすっかり変貌していた。
今日中くらいは、海を楽しむことも許されることだろう。
たった二分間の間に創られた、僕たちだけの世界の僕たちだけの海を。