317日
「どうしても外せない用事があるんだ。ごめんね、できるだけすぐに帰るとするから、いい子で待っているのだよ」
「何よそれ、子どもじゃないんだから、そんなことは言われなくたってわかっているわ」
今日は雨が降っていた。
湿度が高い、梅雨の日だった。
こちらも仕事なのだから、僕の勝手ばかり通してもらえるはずもないもので、やむなく久しぶりの出張である。
本来ならば泊りのはずだけれども、僕はすぐに終わらせて、日帰りで帰ってくるつもりなのだ。急げば間に合うのを、わざわざ遅らせる必要もない。
彼女を連れて行くこともできないようなので、尚更のことである。
幸い、今は彼女の体調がいいので、病院へ連れて行くこともなさそうだ。
「一人でお留守番くらい余裕なんだから。料理やお風呂だけじゃなくって、歯ブラシまで取りやすいよう用意しておいてくれたの? 馬鹿ね、歯ブラシはいつも自分で取っているじゃないの」
心配性だって僕のことを笑って、彼女は手を振って僕を送り出してくれた。
一人で寂しがっていたら嫌だな。
だけど、少しも寂しくないなんて言われてしまったら、それもまた僕が辛くなることだ。
苦しんではいないかな。
病気が悪化してしまっていなければいいのだけれど。
最近は大丈夫、彼女自身が言っていたのだし、やはり僕は心配性なのだろうか。
彼女の言葉を信じるべきなのだろう。
仕事に身が入らなくて、気付けば彼女のことを考えてしまっていた。
こんな僕のことを彼女に知られたら、きっと彼女は僕を非難することだろう。
真面目な彼女はそういう人だ。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
もしかしたら、大丈夫じゃないのは、僕の方なのかもしれない。ずっと一緒にいられたものだから、少しでも彼女と一緒にいられないと、病のように息が苦しくなるのだった。
虫の知らせという奴なのか、それとも心配のしすぎなのか。
鳴り響く雨の音が、僕の不安の心を煽る。
「病気の奥さんがいるので、気になってならないのでしょう。その気持ちはわかりますし、呼び出して悪いとは思っていますが、仕事は仕事です。先生、次は中でも重要なところ、本命本番です。わかっていますね?」
曖昧な答えを返して、僕はさすがに仕事モードに切り替える。
仕事をやり切ることもまた、彼女のためのことである。
自分でも何を言っていたのか、あまりよく憶えていないけれど、反応としては上々というように見える。
「お怒りでしたか?」
「いえ、とんでもございません。絶賛に決まっているではありませんか」
この人はいつも僕を褒めてくれるけれど、僕はまるでその言葉を知らないようであった。
今の僕の思うところはただ一つ。
「……早く帰りたい」
彼女の待つ家へと帰りたい。
思ったよりも長引いてしまったけれど、だから僕は急いで帰らなければいけない。
彼女が待っている。
愛しい彼女が待ってくれている。
麻薬などを使った人が、それを手放せなくなる、何度だって手に入れたくなる。傍になければ落ち着かないまでになる。
愛情は中毒にも近く、その感覚にも似たものなのだろうと思った。
離れてみて、僕にとって彼女がどれだけ大きな存在であるのかを、思い知らされた気分である。
いつの間にか、僕は狂ってしまったのかもしれない。
けれど彼女への愛情で狂うというのならば、それは喜ばしいことにすら思えるのだから、救いようがないことだろう。
愛おしい人、すぐに会いに行くから。
お願い、僕の狂った愛も、歪んだ愛も、受け止めておくれ。
そうして、僕を正常に戻しておくれ。
それができるのは、この世の中で君だけなのだから。