365日
桜は美しかった。
その欠けることのない美は、僕の心を縛って、動けなくするようであった。
桜は美しかった。
あまりの美しさに圧倒されて、僕が抱ける感想はといえば、それは”恐怖”それでしかなかった。
桜は美しかった。
得も言われぬほどに、僕を不安へと誘うほどに。
儚い方が美しいとはそのとおりだと思うけれど、散っていく桜を見てしまったら、それはそれは哀しくなるだろうと、まだ咲ききらない時期を選んだ。
しかしどうやらぴったりだったようで、まさに満開、どこまでも欠けることのない美しさが続いているばかりだった。
桜の木の下には死体が埋まっているだとか言ったろうか。
あれは、天才だと思う。
そう言われたなら、だれもが納得すると思う。
だってそうでなくては、こんなに美しいはずがないのだから。
僕には文才というものがないから、絶妙な例えなど思いつかないし、どうしたらこの感動を人に伝えられるのかもわからない。
美しい。
ただそれだけの言葉を並べることしかできない。
隣に、愛おしい妻がいてくれるおかげかもしれない。
彼女は体が弱い人であったが、桜が咲くと体調がよくなったと言って、今年は一緒に桜見にも来れているのだ。
だから、彼女と歩いているということも、僕の心には少なからず関わっていると思う。
幸せだった。幸せだった。
「このまま君が健康になったらいいのに」
桜の絨毯を歩きつ、そんな願いを込める。
僕の独り言が、聞こえてしまっていたのだろう。
答えに困った様子で、彼女は優しい微笑みを僕に向けてくれる。
風が巻き起こって、ぶわっと彼女の背景を桜色に染めたものだから、なんだか僕には彼女と桜が一体化したかのように見えた。
儚さという色が加えられたからこその美であると、僕は知っている。
「私は自分勝手にも神様に感謝しているわ。あなたという人に出会えて、愛してもらえて、あなたに愛してもらっているうちに死ねるんだもの」
眉の少し下がった微笑みは、答えを持たないときの彼女の癖であったので、そのまま誤魔化されてしまうだろうと思った。
どうせ独り言なのだし、それならそれでいいと思った。
なのだが、彼女は悩み、答えを返してくれた。
「年老いてしまって、あなたが目移りしてしまうのを、生きているうちに傍で見るのは辛いわ。愛されているままいなくなるなんて、あなたには申しわけないし、あなたを悲しませてしまうのは嫌だけれど、私は人のために自分を犠牲にできるほど強くも優しくもないもの」
まさか彼女がそのように思っていただなんて、知らなかった。
「愛しい人よりも自分を優先してしまうの。あなたの愛に縋ってしまうの」
いつだって微笑みで誤魔化してしまうものだから、彼女の想いを知られたことは、とても嬉しいことに思えた。
そして僕には、そんな彼女が堪らなく可愛らしく思えた。
増して愛おしく思えてしまってならなかった。
きっと彼女はもう長くはないのだろう。
あと一年、一緒にいられるだろうか。
来年の桜も一緒に見られるだろうか。
それが難しい願いであるということを、僕は知っていた。
何か持病があるとかでなしに、彼女は体が弱かった。
その魅力的な儚さは、あまりに切なくか弱くて、僕の手の届かない世界でのやり取りでもあった。
守りたいと守れるものならば、庇いたいと庇えるものならば。
僕が彼女の身代わりになることができたなら。
どれも叶わぬ願いであった。
だれもが避けられない、彼女の命を持ち去るのは神様の決めたこと。
苦しくて、憎くて。
けれどやはり彼女と同じように、僕たちを出会わせてくれて、愛し合わせてくれたことには、感謝をしたいと思った。
辛くても、出逢わなければよかったなんて、思えるはずがないから。
この哀しみも含めて君を愛したいとまで思ってしまっていたから。