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忘却のスイッチ

作者: 歪裂砥石

「ねぇねぇ、聞いてよ」


 この世で一番希望にあふれ、


「もう、人の話はちゃんと聞かないといけないって言われてるでしょ」


 この世で最も絶望にまみれている言葉があるとしたら、


「それでね、わたし」


 それは、


「好きな人ができたの」


 この言葉に限るだろう。



 幼馴染、それは家族以外で一番親しい他人と言う位置づけだ。

 それが異性の幼馴染となると、それはもうラブコメ臭がこうばしく漂ってくる。

 生まれてから物心つくまで、物心がついてからもすぐ隣に存在する異性。よくある恋愛物の物語ならば、ヒロインとして抜擢されるだろうし、それが定番だろう。

 しかし、そんな物語的なご都合主義で世界は動いているわけではない。

 山場は存在しないし、ハッピーエンドなんて待っていなくて、初恋は叶わず、その前に幼馴染が都合よく自分の事を好きな訳でもない。


 だから現実は、残酷だ。ほどほどに、絶望的だ。




 ■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆




 僕には好きな人がいる。

 月並みな好意対象、恋愛対象かもしれないけど、僕は幼馴染である囃子百華(はやしももか)の事がいつの間にか好きになっていた。

 それが僕の初恋。

 物語の主人公が決められた相手に恋をするかのように、僕も幼馴染に恋をした。僕と言う物語の主人公は僕なのだから、それは僕が生まれる前から決まっていたのかもしれない。でも、決められていたとしても、それでよかった。

 だって、こんなにも彼女の隣にいる事が嬉しいのだから。

 この関係がいつか幼馴染じゃなく、恋人になればと思っていた。だから、小さい頃から百華に告白するタイミングをいつも探していた。

 小学校の卒業式で、中学校の卒業式で、バラ色の高校生活を送るために高校の入学式で。

 決意はしていた、だけど僕には覚悟は無かった。

 こんなにも心地いい関係を壊す覚悟も、変化させる覚悟も、僕と言う人間のどこにも持ち合わせていなかった。あったのはせいぜい、恐怖心と現状維持精神だった。

 だから、いや、当然のことだったのかもしれない。何もせず、ただただ隣にいただけだったから。

 でも、それでも。

 ただ、結局現実は物語のように優しくなくて、初恋は絶対に叶わなくて、人の夢は儚くも散っていくことを義務付けられていた。



 それはいつかの帰り道。


「ねぇねぇ、聞いてよ」


 嬉しそうな楽しそうな笑顔を百華は僕に向け、話しかけてきた。そんな太陽のような笑顔を僕が直視できるわけもなく、内心の喜びを隠すため、できるだけおざなりに返事を返す事に神経を集中する。


「もう、人の話はちゃんと聞かないといけないって教わったでしょ」


 怒っているような口調ではあったが、百華の表情はそこまで怒っていないかわいらしいもので、僕の好きな表情の一つだ。そんな表情を横目でずっと眺めていたいけど、話が進まなくなるし今度は本気で怒りだすから今度はちゃんと返事を返す。


「それでね、わたし」


 そんな百華は恥ずかしそうで、でも、嬉しそうな表情を浮かべ、


「好きな人ができたの」


 内緒だよ、とウィンクしながら人差し指を立てて百華は自分の口元に持っていった。

 ここで足を止めず、声を震わせず、びっくりした表情に留めていた僕を僕は褒めてやりたい。


「そうなんだ、良かったね」


 でも、それしか言えなかった。


「うん! それでお願いなんだけど、手伝ってくれる、かな?」


 手伝う、ああ、百華の恋が成就できるように僕が手伝うのか。


「分かった、いいよ」

「ほんと! ありがと!」


 僕に向けていた顔を前に戻した百華に、今更僕は僕の言葉を無かったことにできなかった。


「比暮みたいな幼馴染がいてよかった」


 僕は今、百華のような幼馴染がいなかったらよかったらと思っているよ。

 これまで生きてきた中で僕と言う存在は百華にとって、ただ単に隣の家に住んでいる幼馴染で、家族のような他人で、百華の物語の脇役で、結局いい人止まりだったらしい。

 いい人、いい人、都合のいい人、どうでもいい人。

 そして脇役は最終的に、彼女の、いずれ彼女たちの物語となる物語の読者で終わる。


 だから僕は、忘れることにしよう。




 ■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆




「ん~~おはよう世界」


 今日は良い目覚めだ。

 僕の瞼は抗うことなくすんなりと開き、いつもの天井を瞳に写した。

 それでも残っている少しの眠気を払拭する為に上半身を起こして大きく伸びをすれば、完全に眠気は無くなり疲れも体に残っている気配は無い感じがする。

 まるで不死鳥のように一回死んで生まれ変わったように清々しく、やる気が満ち溢れている。いや、不死鳥だったことないけど。

 まぁ、ちょっと大げさに言いすぎか。

 だって、今日は月曜日だから。全国の学生と全国の社会人の人達と同じように、休みが終わってちょっと憂鬱気味だからね。

 それでも、やる気は無いけど清々しさは体で感じている。珍しく目覚まし時計よりも早く、窓から入ってくる満天の朝日でスッキリと目が覚めた。もう、二十四時間くらい寝た気分がする。二十四時間も寝たこと無いけど。

 眠気は無く、二度寝したいという欲求もない。


「ま、二度寝は二度寝で気持ちいいんだけどね」


 これまたいつものごとく、僕は誰に聞かせるわけもない独り言を口に出す。

 さて、時計を見るかぎりいつも起きる時間までそれなりに時間があるみたいだけど、どうしようかな。別に早く起きたからと言って早く家を出る必要は無いし、逆にいつもの時間までゆっくりせず早めに家を出て学校へ行ってもいい。


「どちらにしても、おなか減ったなぁ」


 うん、まずは朝食を食べよう。



 僕は寝間着からまだ少し大きめで、まだ少し真新しい半袖のカッターシャツを着て部屋を出た。けど、鞄を忘れたので部屋に戻って今日の準備しておいた鞄を持って一階に降りた。

 一階に降りて開きっぱなしになっているドアをくぐってキッチンに入ると、母さんが弁当の準備をしていて、キッチンとつながっているリビングの方に目を向けたらソファに座ってくつろいでいる父さんの後ろ姿が見えた。父さんはおそらくコーヒーを飲んで、朝のニュース番組を見ているのだろう。

 いつも起きるのが遅くて朝のテレビを見る暇は無かったけど、やっぱり蝶ネクタイの人は最後に見た時のまま、年をとっているように見えなかった。

 まさか、あの仮面を被ったのかな? それとも、呼吸法かな?


「おはよう」


 二人とも僕が入ってきた事に気がついていなかったからちょっと不意打ち気味で声をかけると、父さんも母さんも時間が止まったかのように動きを止め、すぐにさすが夫婦と言いたくなるようなシンクロ具合で僕の方に振りかえった。

 まったく、たった一人の息子に対してその驚愕した表情は無いと思うんだ。父さんも母さんも僕が早起きしたことにより、二人の空間に割って入られたから悲しいのかな。でも、夫婦の時間を邪魔したのは謝らないよ、なんたって家族なんだし。

 僕が両親のそんな表情に気がついたのに気がついたのか、ちょっと気まずく咳払いをしていつもの表情に戻していた。


「おはよう、いつもよりずいぶんと早いな」

「たまにはそう言う日もあるよ、父さんも昔なかった?」

「まぁ、あると言えばあったかもしれん」

「ほらね」


 朝の挨拶を交わしながら鞄をリビングのソファに置いた後、冷蔵庫から牛乳と棚から僕のコップを持って自分の席に座ってテーブルに置いてある弁当の中身を覗くと、いつもの母さんが作ってくれる弁当に間違いないようだ。


「まったく、早く起きるなら早く起きると昨日のうちに言ってもらえると助かるんだけどね」

「仕方ないじゃん、たまたま早く起きたんだから。それよりお腹すいた」

「はいはい、今から作るから待ってること」

「了解」


 母さんは袋から食パンを取り出してトースターに入れて、僕にちょっとした文句を言ってくる。

 文句と言っても別に怒っているわけでも僕を咎めているわけでもない、これが母さんなりのコミニ……コミュ……コミュニケーションだ。僕は毎朝の牛乳を飲みながら、そんな母さんとの会話を楽しんでいる。

 べ、別に毎朝牛乳を飲むのは身長がコンプレックスって理由じゃないからね。


「それより、焼き上がる前に顔でも洗ってきたらどう」

「あ、忘れてた」

「ほら、いってきなさい」


 僕は素直に頷いて席を立った。その際に母さんの表情が悲しそうに変わったが、すぐに優しくなっていたのに気がついた。

 僕って、そんなにだらしないかなぁ。そんな、ちょっと抜けている我が子が心配だけど、それでも我が子のそんなところがかわいい、みたいな表情をしなくても。これでも、しっかりしているつもりなんだけど。



 今日はいつもよりお腹が減っていたようで、食パン一枚じゃ全然足りなかった。

 偶然にも母さんが二枚食パンを焼いて、たまたま目玉焼きを作っていたから、それなりに満足した。二枚目の食パンに目玉焼きを乗せて食べたけど、明日も早起きしてこれを食べよう。

 もし、食パン一枚だけだったらおそらく弁当に手を出していた、と思うくらいに僕のお腹は減っていた。いや、まぁ、さすがに弁当には手を出さないよ、昼食が無くなっちゃうからね。弁当だから、出すのは口かな?


 いつもより多めの朝食を食べ終わり時計を見ると、いつも僕が起きる時間になっていた。

 偶然今日は早めに起きたんだから、早めに学校へ行っていつもと違う空気を味わおうと思っていたのにこのままじゃいつもの同じ時間になってしまう。


「母さん、ごちそうさま! いってきます!」


 僕は置いていた鞄をつかんで、玄関に急いだ。父さんはいつの間にか姿が無かったので、僕より先に家を出たみたいだ。

 まぁ、いつも僕が起きるともう居ないから当然と言えば当然か。


「まったく、もう少し余裕を持って動けないの」


 靴を履いている僕の後ろから、母さんが声をかけてきた。


「遅刻しないくらいには余裕を持って登校しているよ」

「弁当を忘れないくらいには、余裕を持ちなさいと言っているの」

「あ」


 母さんの言葉で反射的に振りかえると、包んである弁当箱を持った母さんが呆れながら立っていた。


「ほら、ちゃんと確認しなさい」

「めんぼくないです」


 なるほど、僕はまだだらしないみたいだ。

 差し出された弁当を受け取り、しっかりと肩にかけた鞄に入れた事を確認して僕はようやく玄関を開けた。


「いってきます!」



 外に出ると既に頭上にのぼっている太陽が何物にも遮られず、登校中の僕の皮膚にジリジリと影響を与えている。

 日本独自の四季の移り変わりは好きだけど、夏の日焼けさせてやろうと照りつける太陽の熱気と日射しと紫外線と赤外線はあまり好きじゃない。あ、赤外線は違うね。

 えっと、つまり、僕は皮膚が弱いのだ。

 ちゃんと焼けてこんがりと焼き色が付くならいいよ、でも僕はこんがり焼き色じゃなくて、真っ赤になって火傷してしまう。もう、夏は極力家から出たくない!


 なんて、毎年考えているけど、結局毎年の夏休みは海や山に出かけて肌を火傷させてしまう。もしかして僕はMってやつなのかな? それだけは断固否定したい!

 それにしても、少し早めに家を出ただけなのにいつもの通学路が違って見える。

 僕の横を通り過ぎていく人たちの顔に見覚えは無く、いつもの定位置に座っている猫はまだそこに姿は無かった。でも、そんないつもと違うって言うのが、新鮮でちょっと楽しくなる。


「明日はもうちょっと早く起きてみようかな」


 と、言ってはみたものの、朝は眠くて起きることができなかったから、あの時間になった事を思い出した。

 まぁ、たまに早起きしてこそ新鮮味があるんだから、いつもの遅刻しないくらいに起きればいいか。やっぱり、朝は眠いし。


「待ってよ! もう、なんで先に行っちゃうの!」


 後ろから女の子が大きな声で誰かを呼ぶ声が聞こえてきた。

 多分、声の若さからして、一緒に学校に行こうと約束して相手が勝手に行っちゃったってとこかな。その相手が男子か女子か分からないけど、男子だったらリア充爆発しろ!


「だから、待ってって!」


 おいおい、彼氏(推定)よ、待ってあげないのか。

 もしかして、ドSの彼氏(推定)なのだろうか。まぁ、どちらにしても僕には関係ないし、リア充は爆発してほしい。でも、そもそもリア充爆発しろってどういう状態をもってして爆発と言うんだろう。

 別に、僕は物理的に爆発してほしいわけじゃない。だったら破局を迎えてほしいかと言えば、それもそれでこっちの後味が悪い。なら、どういう状況を爆発と言うのだろうか。これは永遠の謎になりそうだ。

 ただ、僕の知らないところで知らないうちに別れていたら、それは後味が悪くないかもしれない。でも、僕はそのことを永遠に知ることができないだろうけど。


「もう、聞こえて無いの! 比暮!」


 僕は知らない女の子に声をかけられ、振りむこうとしたらいきなり肩を掴まれて強制的に振りむけさせられた。


「比暮、なんで待っててくれなかったのかな?」


 振りむいた先には笑っているけど笑っていない、僕はまったく知らないけど僕の名前を言う女の子が腕を組んで立っていた。

 整った顔立ちをしているセミロングの女の子は、こんな怒った笑顔でも美少女だと分かる。容姿端麗、眉目秀麗、才色兼備と言う言葉がよく似合いそうだ。ん、いや、眉目秀麗は男性に対しての言葉だっけ。どうだっけ。まぁいいや。あと、才色兼備も色の方しか見た目では分からないか。


 見るかぎり僕の通っている高校の女子生徒用のブレザーを着ていることから、同じ学校なんだなと分かった。

 それにしても、怒った笑顔って真逆な感じがするけど両立するものなんだ。あ、そう言えば、どこかで聞いたことがあるな。

 笑顔とは、本来威嚇のための表情である、と。

 僕はその言葉の意味を今この瞬間に身をもって体験しているけど、知らない女の子にそんな顔を向けられる理由も運命も偶然も身に覚えが無い。それに、そんな笑顔を向けられても僕は特に嬉しくともなんともない。あ、僕はMじゃない。断固として言っていこう。


「……わたしの話し、聞いてないでしょ」


 目の前の女の子はよりいっそう怒った笑顔の、怒りの部分を強めた。

 え、なんで分かったんだろ。何を考えているか分からないと言われるくらいに、ポーカーフェイスならぬ常時スマイルフェイスだと言うのに。

 友人から、人畜無害を装って最後には黒幕として登場しそう、と言われたことがあるのに。……ん~、これは違うか。


「だ~か~ら、わたしの話を聞きなさい!」


 もう怒った笑顔の、笑顔の部分が消え去り完全に怒っている女の子は僕に向かって怒鳴ってきた。その声で、周りの人たちが僕たちの方へ目向けている。

 サラリーマン風の男性はメガネに手をそえて僕を怪訝な目で見ているし、セーラー制服を着た女の子の集団はひそひそと喋りながら僕を見ているのが見える。

 完全に、完璧に、僕の方が悪い事にされていることが手に取るように分かってしまった。僕の方こそ被害者なのに。

 あと、同い年くらいの男子は僕を見る目が『リア充爆発しろ!』って確実に言っている。まさか、僕が言われる日が来るとは。あ、口元が動いているから実際に言っているな。


「えっと、あの、同名の完全な人違いじゃないですか? 確かに僕は比暮と言う名前ですが、あなたのことは知らないんですけど」


 そう言うと女の子は一瞬動きを止め、さっきの怒り顔が笑顔に見えるほどに鬼の形相を浮かべて僕を睨みつけたかと思えば、すぐに笑顔に戻った。


「へぇ、そうやって言い逃れするんだ。そう、比暮はそんな態度をとっちゃうんだ」


 爆発しそうだった怒りを一度収めて凝縮させた笑顔はどんな表情より、怪物よりも怖いと思った、恐怖だった。

 でも、


「あの、本当に人違いだと思いますよ。

 僕はあなたのことを本当に知らないですし、言葉から察するに同姓同名ならともかく、ただの同名である僕には朝から一緒に登校する女子に心当たりは全くありません。あ、自分で言ってて悲しくなってきた」


 本当に目の前の女の子に見覚えがなく、記憶にもない。それ以前に、見ず知らずの女の子に怒られる理由が見当たらない。

 怪訝な顔で僕を見てくる女の子は、一度冷静さを取り戻すために大きく息をはいて僕を見据えた。


「じゃあ聞くけど、あなたの名前は、日野暮比暮(ひのくれひぐれ)、だよね」

「いかにも、僕の名前は日野暮比暮です」


 そんな自信満々で答えた僕の返答にちょっとムッとしていたが、何かいい案を思いついたかのような表情をうかべてスマホを取り出した。取り出したスマホを操作していると、僕のスマホから着信音が聞こえてきた。


「ん? 誰からだろ」


 取り出して画面を見てみると、知らない番号から電話がかかってきていた。僕は防犯のために知らない番号からの着信は出ないことにしているので、すぐに電話を切った。

 そもそも、人と話している途中に電話に出るのはマナー違反だし。

 目線を戻すと、信じられない物を見るような目で僕を見ていた。


「なんで出ないの!」

「え、知らない番号だったからです」

「ちょっと見せて!」


 そう言って女の子は僕の手に持っていたスマホを奪い、操作し始めた。

 僕はまだ了承していなかったんだけどなぁ。まぁ、でも、ロックを掛けてるから中身を見られる心配は……あれ~完全にロック解除されてそうな操作の仕方に見えるんだけど、大丈夫だよね?


「……わたし、比暮を怒らせること何かした?」

「えっと、何かと言われましても、完全なる人違いなんですけど」


 僕の目を真っ直ぐに見つめてきて、ちょっとドキドキする。


「この番号はわたしの知ってる比暮の物だけど、あなたの番号と同じでしょ?」


 女の子はピンクのケースに入れられたスマホの画面を僕に向けてきた。画面に映されたアドレス帳には、確かに僕の名前と僕の電話番号が書かれていた。でも、それ以上に目についた場所があった。


「……あ」

「やっぱり、何かしたかな?」

「あの、スマホをかえしてくれませんか」


 僕は女の子の方へ手のひらを上にして差し出した。女の子は僕の意図が分かっていないものの、素直にかえしてくれた。


「まず、僕はやはりあなたのことは記憶にないですし、見覚えもありません。なぜ僕の番号とあなたの知っている比暮と言う人物の番号が同じなのか分かりませんが、僕でないことは確かです。記憶に誓って、確かです。

 ただ今はそれ以上に、遅刻したくないので僕は急いで学校に行きたいと思います」


 僕は一度頭を下げ、踵を返して走り始めた。

 いや~本当に危なかった、気がついて良かった。あれ以上喋っていたらギリギリ遅刻しそうになっていたよ。

 しかし、世の中には不思議があふれているもんだ。

 偶然にも同じ番号が使われているなんて、今日の帰りに番号を変えておかないといけないかもしれないな。あ、あと、ついでにアドレスも。




 どうにか急いだおかげか、予鈴十分前に学校につくことができた。

 いつもより早く起き、いつもより早く家を出たのに、いつもと同じような時間に学校につくとは。これは、何か見えない力が働いている可能性が……ないかな。

 靴を上履きに履き替え、階段を上がって校舎の最上階にある一年生の教室に入ると、すでに半分以上のクラスメイトが登校を終え、それぞれのグループごとに分かれてホームルームまでの時間を潰していた。


 僕は特にグループと言うグループに属していないので、僕に向けられた挨拶を返しつつ自分に割り当てられた窓際の真ん中あたりにある机へ一直線に向かった。

 鞄の中から教科書を机の中に入れている途中、席の横に立つ人影が見えた。そう言えば、僕の隣の席って、誰だったっけ?


「おはよう」

「ああ、おはよう」


 この僕、日野暮比暮は不意打ちで声をかけるのが好きなのだ! まぁ、嘘なんですけどね。

 目を向けると、男子委員長と言えばこんなイメージかな、と言わんばかりに男子委員長委員長として有名な男子クラス委員長の富士君が立っていた。

 大きめのメガネをかけて真面目そうな顔立ちで、あだ名が委員長かメガネかハカセの定番しか思いつかない外見の富士君は周りを気にしながら何か話そうとしていたけど、どう聞いていいか分からないような表情をしていた。


「どうしたの、富士君。何か僕に聞きたい事があるんじゃないのかな」

「ん、ああ。その、珍しかったから」

「珍しい? 何が?」

「いや、日野暮君が一人で登校してきたからなんだけど」

「え、僕はいつも一人で登校するけど?」


 ピッチリと切りそろえた髪型は毎日早起きしてセットしており、入学早々先生から真っ先に委員長を押し付けられ、義務感からかしっかりと委員長キャラを崩さず委員長であり続けている富士君の表情が少し強張った気がした。


 周りもなぜか話すのを止め、僕達の方へ視線を向けすぐに額を突き合わせて話し始めていた。話をするというよりは、議論をしているように見える。

 そして、なぜか男子と女子の態度や僕を見る目が違っていた。

 男子は僕の事ではなく、誰か僕の知らない別の人物についての会議をしていて、そこに僕の名前も聞こえてきてくる。

 女子は完全に僕の名前がメインらしく、漏れてくる言葉からどうも僕は悪者扱いされているようだった。その話の端々に、やはり僕の知らない名前の人物も口の先にのぼってきてその人物も関係しているようだったが、僕には身に覚えもなく話しの全容が、全貌が見えない。


 そんな事を話している一つのグループの男子数人が討論を止め、制服を着崩す事なくきっちりとカッターシャツをズボンの中に入れている実はメガネをかけ出したのが高校入学の前日で、中学までは委員長なんてした事のない富士君に向かって頷き、教師受けがよくて毎回運搬物がある時に頼まれやすく女子委員長と一緒に運ぶ姿をよく見る富士君も何かを決心したように頷き返していた。


「囃子さんとは喧嘩でもしたのかい?」

「……林って、誰?」


 クラスメイト全員の視線が僕に向けられていた。

 そんなに見つめられると恥ずかしいなぁ。


「日野暮君、それはどういう……」

「おいおい、朝っぱらから空気が悪いな」

「あ、おはよう。相変わらず日之出はチャイムギリギリに来るね」


 僕の親友である東出日之出(ひがしでひので)は、いつものように鞄も持たず時間ぎりぎりに教室に入ってきて僕の後ろの席に座った。ボサボサで寝癖がついている髪を掻きながら、眠そうな鋭い目つきで周りを見渡していた。


「お前も似たような時間に来るだろ」

「僕はギリギリになるギリギリに来るんだからセーフだよ」

「ったく、お前は。ああ、それより、囃子と喧嘩でもしたのか? 来る時見かけたが、あいつ一人だったぞ」


 まったく、日之出もわけのわからないことを。


「だから、その林って人物を僕は知らないんだって」


 少しふくれっ面を浮かべて、その話はもううんざりという表現を日之出に見せた。


「ん、あ~あ~そうか。なるほど、なるほど。理解した」


 僕の言葉に必要以上に頷く日之出は、ニヤニヤと悪戯を思いついた子供のような、新しいおもちゃを買ってもらった子供のような、つまり悪ガキのような笑い顔を浮かべていた。


「いや、悪い悪い。俺の勘違いだったわ。他の奴と間違えたようだな」

「でしょ。ほら、僕はその林って人に心当たりが無いんだから」


 青い顔をして僕を、僕たちを凝視する富士君に僕は笑いかけ、最終的な返答を返した。


「君は、本当に、そんな事を本気で言っているのか?」

「くどいぜ、委員長。知らない物は知らない、当たり前のことだ」

「いや、君もそんな事を言わず彼に……」

「だから、無駄だって言ってんだよ。俺は」


 日之出はニヤニヤ笑いを消して、無表情に、無感情な目線を向けて富士君を黙らせていた。


「あ、富士君、富士君。そろそろ席につかないと予鈴が鳴っちゃうよ」


 教室にかかっている時計の針は、すでに予鈴一分前を過ぎていた。


「……ああ、そうだね」


 止まっていた時間が動き出すように、僕達を見ていたクラスメイトたちも自分の席に戻るために教室内を右往左往していた。

 まったく、自分勝手に一気に動き出すから道が詰まって動けなくなる事が分からなかったのかな。ちゃんと時計を見ていれば、こんな事にならなかったのに。


「かはは、ちゃんと時計を見ておけばよかったのにな」

「本当にね」


 ケタケタと本当に面白そうに笑う日之出に同意した後、まだ鞄の中身を全部机に移し替えていないことを思い出して鞄の中に手を突っ込むと、教室のドアが勢い良く開いて息を切らした女の子が入ってきた。

 あれ、同じクラスだったんだ。まったく知らなかった。


「ほぉ、ようやくお出ましか」


 女の子は僕と目が合うと、鬼のようなオーラを背中に背負い、僕の方へゆっくりと移動してきた。

 あれ、いつの間に僕はオーラが見えるようになっていたんだろう。

 あ、いや、オーラが見えてるのは僕だけじゃないみたいだ。みんな恐れをなして道を開け、担任もチャイムと同時に教室へ入ってきた瞬間に逃げていった。

 相変わらず危機管理と言うか危機感知が有能な人だ。

 ただ、日之出はそんなクラスメイト達を見て楽しそうに笑っており、女の子を方へ目線を向けるといつものようにいつも以上に邪悪な笑みを浮かべていた。

 まぁ、僕も特に怖いと思ってはいないし、何が起こるのか何をするのか楽しみではあるかな。

 女の子は持っていた鞄を隣の席に置いた後、僕の目の前に移動して僕に向かって笑いかけた。


「ねぇ、比暮。流石にもう怒っていいよね」


 目の前に立っている女の子に近づきたくないのか、入口あたりにクラスメイトが集まっていた。そんなクラスメイトを見てか、噛み殺した笑い声が聞こえてくる。

 僕も逃げるんなら教室を出ればいいのに律儀に教室に残っているクラスメイトの様子が面白くて笑いたいけど、さすがにこんな空気の中で笑ったりはしない。日之出は笑うだろうけど、僕は僕だからね。せいぜい、心の中で笑っておこう。


「だから、人の話はちゃんと聞いてくださいよ。

 さきほども言いましたけど、僕はあなたのことは知りませんし記憶もありません。それに失礼にあたると思いますが、今この瞬間にあなたと同じクラスと言うことを知ったんです」

「じゃあ、なんでわたしの知っている比暮の席に座っているのかな。それって、わたしの知っている比暮と同一人物って事になるよね」


 グイッと僕の方へ顔を近づけニコッと笑うと、


「比暮、いい訳を聞いた後に罰ゲームだからね」


 感情を殺したその表情は、無機質な人形のような怖さと表情を浮かべていた時と比べた落差から恐怖を作り出していた。


「罰ゲームですか、それは面白そうですね。

 でも、それを僕が受ける正当性を僕は思い至らないんですけど。ええ、ほんと、まったく、これっぽっちも。ですから、できるだけ詳しく詳細に教えてほしいんですよ。裁判員裁判で、裁判員全員が納得できるような正当性がある理由と言う物を、ね」


 他人が怖い物だからと言って、それを僕が怖がったり、恐怖するのかと言えばそうじゃないと僕は思うんですよ。


「いい加減にして! なんでそんな事を言うの!」

「僕は授業のように分からないことを聞いているだけですし、分からないことを提示しているだけですよ。ごくごく、一般的なマナーに従っていると思いますが」


 まったく、親友が困っているというのに日之出はただただ笑って見ているだけで何もしようとはしない。僕は渋い顔をして後ろを振り向くと、ニヤリと嗤いかえすだけで特に動くそぶりは見せなかった。


「ねぇ、聞いてるの!」

「ほどほどには聞いていますよ」

「ちゃんと聞きなさい!」

「少なくとも、僕は聞くべき話は聞きます。ですが、聞くべきじゃない話や、聞いても意味のない話はできるだけ話し半分に聞く事にしているってだけです」


 ほんと、日之出はもういい加減に爆笑をやめて僕を助けた方がいいと思うんだよ。

 目の前の女の子はその笑い声にイラついて、僕へ八つ当たりしている可能性が九割ほどあると僕は見ている。そう言えば、なんでこの女の子はこんなにも怒っているんだろうか。本当に心当たりが……


「ん、ああ、そうか。

 どうも、初めまして、僕の名前は日野暮比暮です。って、名前はすでに言ってましたね。同じクラスだったのに自己紹介が数ヵ月も遅れましたが、一年間よろしくお願いします」


 そうだ、僕は自己紹介を忘れていたんだった。この女の子はそう言う挨拶を重んじるのだろう。そりゃ、怒られて当然だな。ちゃんと立って挨拶しなければならないんだろうけど、立ち上がる時に顔がぶつかるかもしれないから座ったままで大丈夫だよね。うん、言ったらちゃんと分かってくれる。

 それにしても、日之出の爆笑が頂点に達して笑い声が超音波じみてるし、入口に固まっているクラスメイトの顔が青くなっている。あと、担任が前の入口から中の様子を恐る恐るうかがっているのが見える。まったく、少なくとも大人で教師で担任なんだからちゃんとして欲しいな。


「なに、言って、るの?」


 唖然、茫然とした女の子は名状しがたい表情を浮かべて僕に聞いてきた。

 何って、自己紹介だけど? あ、やっぱり立たなきゃいけなかったかな。だったら、もう一度やればいいのかな?


「……もういい、比暮なんか知らない!」


 そう言いながら大きく右手を振りかぶり、どうやら僕に平手打ちをくらわそうとしているようだ。

 せまりくる右手首のスナップに腕の入射角度、腕の筋肉を最大限利用しその全てを運動エネルギーに変換している。なかなか高度なテクニックを使うようだ。これに当たったら教室の壁を貫通するくらいの勢いで飛ばされそうである。

 痛そうだなぁ、くらいたくないなぁ。


「さすがに、手を出されるのは見過ごせねぇな」


 いつの間にか女の子の後ろにいた日之出が、振りかぶられた腕を掴んで立っていた。

 まったく、もう少し早く助けてくれたらこんな事にならなかった、かもしれないのに。


「離しなさい!」


 少し涙目の女の子は、果敢にも日之出を睨みつけて一歩も引く気配を見せない。


「離すとこいつに平手打ちするんだろ。それを止めたんだろうが」

「東出もさっきの聞いてたでしょ!」


 ふむ、二人のやり取りを見るかぎりでは、どうやら知り合いなんだろうな。まぁ、同じクラスなんだしそれはそうか。


「ま、全然お前は悪くねぇよ。だが、比暮も悪いとは言えねぇんだがな」

「……なんでそんな事が言えるの」

「んじゃ、説明するからついてこいよ」

「……分かったわ」


 どうやら話は決まったようで、日之出は掴んでいた腕を離し女の子と一緒にあえて後ろの出入口に向かった。そこに集まっていたクラスメイトはモーゼが海を割るように両脇に避け、二人の前に道を作っていた。なんか楽しそうだ。

 二人が鳴り響くチャイムと一緒に教室から出ていくと、残っていたクラスメイトの視線が僕に降りそそいできた。

 針のむしろって、こんなような状態を言うのかなぁ。

 まったく、ぬるいね。




 ■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆




「なんで僕はこんなところにいるんだろう」


 夏前とはいえ、不用意に太陽の下に出るのは避けたかったんだけど。肌が焼けて地獄を見るのは僕なのに、いや、僕だからこそか。


「ほら、行こう」

「あ、え、はい」


 僕は囃子百華と言うクラスメイトに腕を掴まれ、公園の中に引っ張られて入っていった。



 あの後、自分の席で客寄せパンダのように注目を集めるだけ集めて、誰も話しかけてこない状況を楽しんでいると、笑いながら戻ってきた日之出と青い顔をした女の子が戻ってきた。

 日之出はそのまま自分の席に戻り、女の子もまた僕の目の前に戻ってきて、さっきまで睨みつけるように合わしてきた目を今は気まずそうに僕から逸らす姿がちょっと笑えた。


「ねぇ、比暮。本当にわたしのきお……わたしのこと、知らないの?」

「はい、言った通り口に出した通り。それに、僕は嘘を言うのが苦手ですから」

「……なら、初めまして、かな。わたしは、囃子百華。よろしくね」


 一瞬悲しそうな表情になった女の子、林さんはすぐに僕に微笑みかけ感情を隠したような自己紹介をしてくれた。そんな何かを押し殺したような微笑みは、万人を億人を恋に落とすような笑みで、僕たちの動向を見ていた男子があからさまに顔を赤くさせていた。

 いや、男のそんな表情は需要が無いって。

 女子数人のその表情は需要があるかもしれないけど、ちょっと怖いよ。まぁでも、いくら兆人を恋に落とす微笑みでも、全人を恋に落とす微笑みじゃないんだよね。


「林さんですね、これからよろしくお願いします」

「あ~えっと、多分勘違いしていると思うけど、わたしは木が二つの林じゃなくて、祭囃子とかに使われている方の囃子なんだ」

「ああ、それは失礼しました。ではあらためて、これからよろしくお願いします、囃子さん」


 どうにか物事が収まった事を嗅ぎつけてか、ようやく担任が何事も無く教室に入ってきた。

 さすが事無かれ主義の担任だ、ほれぼれするね。

 そんな担任が手早く連絡事項を口にしようとしていた。


「俺と比暮、それと囃子は本日学校を早退するんで、上手く誤魔化しておいてくださいよ、先生」


 日之出は急に立ち上がり担任に向かって一方的に言い放つと、僕と囃子さんに一度目くばせしてから振り返らず教室のドアを開けて教室を出ていった。僕はやれやれと思いながらも、鞄を掴んで立ち上がると日之出の後を追った。囃子さんも急いで机の上に置いた自分の鞄を持って僕たちの後を追って教室を出てきた。



「それで日之出、僕は何をすればいい?」


 昇降口に向かって歩きながら、僕は日之出に予定を聞いた。


「ん、ああ、お前にはそこの囃子とちょっとデートしてもらうだけだ」


 僕たちの後ろからついてくる囃子さんを親指で指差しながら、さらっと答えた。

 ついさっき出会ったばかりの、今しがた知り合ったばかりの女の子とデートは恥ずかしいなぁ。いや、デート自体も恥ずかしいんだけどね。


「ま、そこまで考えなくても良いぜ。デートつってもお前は特に特別な事をする訳じゃなく、せいぜいそいつと一緒に歩くって事ぐらいだ。行き先もそいつが案内するから安心しろ」

「ふ~ん、それをいつまで?」

「夕方までで大丈夫だろ」

「了解」

「ああ、それと。メールのチェックは忘れんなよ」


 あ、なにげにこれが僕の初デートだ。




 まず僕が連れてこられたのは、小さい頃によく遊びにきた公園だった。

 木々が茂っている広めの公園に入るとすぐに目に入るのは青々とした芝生。その芝生の周りを囲むように道が作られ道の端には休憩用のベンチが所々に置かれており、自然豊かな場所である。僕たちはその中の、入口に近い所にあるベンチに座った。公園内は月曜の午前中だからか、僕たち以外の人の姿は見当たらなかった。


「最近と言うか数年ぐらい来てなったけど、小さい頃に来た時と変わってなくて懐かしいな」


 小さい頃はこの公園でよく遊んだなぁ。皆で集まって遊んだり、公園で遊んでいた子たちと一緒に遊んだっけ。今頃、みんなどうしているかな。


「ここで遊んだこと覚えている?」


 囃子さんはすがるような目を僕に向けてきた。


「ええ、覚えてますよ」

「じゃあ、遊んだ友達は、どう?」

「さすがに覚えていないですって。かなり前の事ですから」

「よく思いだして」

「無理ですよ、小さい頃の事ですし。それに、僕は昨日食べた夕飯も覚えていないんですから」

「それでも……!」


 絶望と希望がないまぜになりその狭間にいるようで、それでも希望にすがっているような目を、真っ直ぐに僕の目に合わせてくる。

 ちょっと恥ずかしいな。でも、こんな感情がぐちゃぐちゃな目は久しぶりに見たけど、やっぱり綺麗な目だ。


「ん~思い出してみてもあの頃は本名なんて聞くことは無かったですし、成長して顔がもうすっかり変わってますから面影だけとなると記憶だけじゃ確実には思い出せませんよ。覚えている方が逆におかしいくらいです」

「……そう、そうだよね」


 残念そうにうなだれて顔を足元に落とす囃子さんだったが、すぐに頭を振って何もなかったかのように笑顔を浮かべていた。


「じゃあ、次の場所に行こうか」


 急ぐように立ち上がると、僕に向かって手を出している。


「いえ、もう少し涼んでからにしましょう。良い感じに日陰になっていて、こんなにも心地良いんですから」


 木々が日射しをさえぎり、樹木の生い茂る青々しい葉がそよ風で揺れている光景と音をいつまでも感じていたい。

 僕の言葉にどうしようか迷っている囃子さんに笑いかけると、囃子さんはベンチに座り直した。


「もう少しだけなら」

「ありがとうございます」


 ふと、ポケットからの振動を感じてスマホを取り出すと、一通のメールが届いていた。


「ん~これかな、言ってたの」


 メールの差出人は、不思議な事に僕だった。

 メールを開く前に送信日時を確認すると、昨日の夜になっている。だけど、僕にはメールを出した覚えが無かった。不思議に思いながらメールを開くと、文字数制限いっぱいまで書かれたんじゃないかと思うほどに長々と文章が書かれていた。

 言葉の選び方や文面の言い回しを見るかぎり、確実に書いたのが僕である事は確かだった。送ったのは僕だとは言い切れないけど、僕のスマホからであることはおそらく正しい。


「……ああ」


 この長さで第一項と言うことは、これから送られてくる第二、第三項も雑談や脱線が多いだろうな。短くまとめろと言われたら、本当に短くまとまる内容だったし。まぁ、これが僕なんだからしょうがないかな。


「なんのメールだったの?」

「なんでもない内容でした。

 それより、囃子さんも小さい頃はここで遊んでいたんですか?」

「……うん、幼馴染の男の子とよく遊んだ、かな」

「そうなんですか、なら偶然僕らとも一緒に遊んだことがあるかもしれませんね」

「そう、だね」


 僕から目線を外して芝生の方に向けた囃子さんは、その当時を思い出しているように見えた。その後、その思い出を消しさるかのように目を強くつぶりゆっくりと目を開けて僕に目線を戻した。


「そろそろ、次に行こうか」

「ええ、分かりました」




 公園の次に僕が連れてこられたのは、地方によくあるデパートの屋上だった。

 さびれて使用禁止になった屋上遊園地を横目で、屋根の下に設置してある机の上に弁当を広げて僕たちは昼食をとっていた。

 この屋上もよく家族で来た覚えがある。たまの休日に両親と買物へ来た最後にこの屋上で売っていたアイスクリームを食べながら、今もまだかろうじて残っているステージでやっていたヒーローショーを見るのが楽しみだったな。


 そう言えば今思うと、あの時のヒーローショーって本気で殴り合っていたっけ。

 えっと確か『番長戦隊ナグリアウンジャー』だったかな。あ、そうそう、子供たちの教育に悪いって教育委員会からクレームが入って中止になったんだった。真剣で白熱した殺陣だったから好きだったんだけど、今思えば仕方が無いと言えば仕方が無いかな。まぁ、さっきまで忘れてたけど。


 その後に始まった『切腹戦隊ハラキルンジャー』の切腹シーンで、血のりを大量に使ってリアルに再現して、最後にはステージが殺人現場になってたな。あれは第一回が最終回になったんだった。えっと、他には『介錯戦隊クビキルンジャー』も一回で終わったし『泥酔戦隊ヨッパラウンジャー』のノンアルコール委員会との死闘回はなかなかの白熱っぷりだったなぁ。あと、最終回でレッドが肝臓がんを患って禁酒する所は屈指の名シーンだったよ。地方ヒーローショーにしておくのはもったいないストーリーだった。

 このヒーローショーを見るためだけに一人できた事もあったっけ。

 こうやって昔を振り返っているけど、今気になっているのは囃子さんの弁当の中身である。


「おいしそうな弁当ですね」


 囃子さんの女の子らしく小さくてかわいい弁当箱には、少なめのご飯にバランスよく詰められたおかずたちが詰められていた。彩りもさるものながら、栄養バランスにも気を使った弁当だった。


「じゃあ、食べてみる?」

「え、良いんですか」

「うん、良いよ」

「でしたら交換で」

「そうだね。じゃあ、おかずの交換しようか」


 さすがに一個だけのおかずはマナー違反になるから、二つあるこの焦げのない綺麗な卵焼きを一つ貰おうかな。


「僕はこの卵焼きを」

「じゃあ、わたしはミートボール貰おうかな」


 僕は他のおかずに触れないよう、卵焼きの真ん中にめがけて箸を突き刺した。突き刺した卵焼きが落ちないように素早く口に運んで咀嚼すると、完全に僕の味覚に合うだし巻き卵だった。


 そう、だし巻き卵。

 見た目は普通の卵焼きに似てはいるが、その味は大きく違う。一口、一口だけ口に入れればすぐに気がつく。その繊細で深い味わい、出汁のとり方や種類で味が変わってくるが、僕はしっかりと出汁の味がするだし巻き卵が好きなんだ!

 そしてこのだし巻き卵、冷めているはずなのに一噛みするごとに出汁と卵の味が口の中に広がりなんとも言えない味覚の波が襲ってくる。そして出汁だけではなく卵の焼き加減が絶妙で、柔らかすぎず硬すぎず歯ごたえが心地いい。

 もうずっと口の中に入れて噛んでいたい。


「どうかな。わたしが作ったんだけど」


 男子高校生の腹を満たすように作られている僕の大きな弁当から、ミートボールを綺麗な箸さばきで挟んで口に入れた囃子さんは既に食べ終わったのか、僕にだし巻き卵の感想を聞いてきた。

 まさかこのだし巻き卵を囃子さんが作ったとは、すごく惚れそうだ。


「ものすごくおいしいです」

「もう一つの方も食べていいよ」

「本当ですか!」


 仕方なく口の中で楽しんでいただし巻き卵を喋る事に支障が無い程度を残して咽の奥に流しこんだのだが、囃子さんがもう一つのだし巻き卵をくれるということで残りのだし巻き卵もきれいさっぱり胃の中に収めた。


「では、お言葉に甘えて」


 僕ははやる気持ちを押さえて箸を伸ばす。今度は慎重にだし巻き卵を箸で掴み、落とさないように自分の弁当に移動させた。まず、真ん中から二つに分けてだし巻き卵の味を再び味わうために口に運んだ。

 やはり、このだし巻き卵は美味い。いつでも、いつまででも食べていたい。

 さて、最後のだし巻き卵はご飯と一緒に食べてみよう。おそらく、白米と一緒に食べても負けない味だろうからね。


「……ああ、本当にありがとうございました」

「ううん、いいのいいの。それに、比暮に作ってきたものだから」


 僕のため、ねぇ。

 それはそれとして、残りの弁当を食べてしまおう。



「「ごちそうさまでした」」


 僕らは食べ終わって片付け終わった弁当に向かって両手を合わせた。

 やっぱり、食べる前には『いただきます』で、食べ終わったら『ごちそうさま』はマナーだよね。僕ら人間もそうだけど、生き物は全て他の生き物を食べなければ生きていけない、だからその命に対しての敬意を払わなくてはいけない。

 生き物を殺して食べるのが嫌で菜食主義になったと言われても、僕としては野菜も生き物の一つだと思うんだよ。あ、じゃあ乳製品とかはどうなんだろう。


 なんにしろ、僕たちが食べた命には感謝を示さなきゃいけないと、そう僕は思うんだ。

 そんな事を考えながら弁当を鞄にしまっていると、ポケットに入れていたスマホが振動し二つ目のメールが届いたことを教えてくれた。

 差出人も僕で、送信日時も一通目が送られて少し時間が経ってから送られたようだった。二通目の第二項も雑談や脱線が多かったが、伝えるべき事はしっかりと書かれていた。短かったけど。


「昔、よくここでヒーローショーあったよね」


 使われなくなってただそこにあるだけのステージを眺めながら、そんな事を僕に向かって呟いた。


「ええ、地方オリジナルのヒーローでしたけど、かなりクオリティが高かったんですよね。ストーリーも面白くて、毎週日曜日に来ていた覚えがあります」


 僕も同じようにステージの方へ目を向けた。


「その時って、誰かと一緒に行かなかった?」

「いいえ、一人でした。ヒーローショーを見るためだけに毎週両親を振り回すのはどうかと、子供心に遠慮しなければと思っていましたからね」

「そうじゃなくて、友達とかって事なんだけど」

「こんなご当地ヒーローショーよりも全国展開のヒーローの方が人気でしたから、わざわざここまできて観るような変わりものは僕ぐらいでしたからね。もし、日之出がいたらついてきてくれたでしょうけど」


 日之出が小学生の時いてくれたら楽しかっただろうな。


「でも、言ったら一緒についてきてくれた幼な……友達もいたんでしょ?」


 再び期待と希望を込めた目線を僕に投げかけてくる。


「いえいえ、毎回僕一人で観に来ていました。お小遣いでアイスを買って、観客席にいた同い年くらいの子供たちと楽しんでいましたよ」

「本当に?」

「ええ、本当です。それに、僕が嘘をつく理由がありません。僕は嘘を言うのが苦手なんです」

「そう……ここでもダメなのね」


 落胆した様子の囃子さんは、それでもすがりつける藁がまだあるのか、表情を戻して椅子から立ち上がった。


「次で最後だから、ついてきてくれるかな」

「明日の昼食で、だし巻き卵を食べさせてもらえるのであれば」


 そう、僕は答えた。




 ■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆




 最後の目的地に向かって歩いている途中、三回目の振動が太ももを震わせた。

 三通目のメールは簡潔に一行だけだった。おそらく、このメールが最後のメールだろう。

 今回もどこに向かっているのか聞かされていなかったし、その場所に着くまで目的地は分からなかったけど今回は見覚えのある道でなんとなく分かった。平日は毎朝と学校終わりによく通る道、つまり通学路を歩いていた。

 もう少し歩くと僕の家が近づいてくるけど、帰りたくなってきた。だって、肌がちょっと熱を帯びてきて焼ける寸前の状態になっているから、今すぐにでも日陰に入りたいし氷水で冷やしたい。

 そんな事を僕は考えていたので、囃子さんが急に立ち止まった事に気がつくのが遅れて、ほんの数センチまで顔が近づいていた。それに加え、タイミングよく囃子さんが振り返ったもんだから、僕の目の前には囃子さんの顔がドアップで僕の瞳に映り込んでいた。数秒間僕らは至近距離で顔を合わせたあと、囃子さんが飛び退く形で離れてしまった。


「ああ、すみません。考え事をしていたもので」

「う、ううん。別にいいよ」


 少し顔を赤く染めた囃子さんは数回深呼吸をして息を整え、真剣な表情を浮かべて顔を横に向けた。つられて僕も横を向くと、なんてことはない僕の家だった。今朝学校に出かけた時と変わらずその土地にあり続け、火事や地震で焼失や倒壊で僕の帰る家がなくなるようなことが起きなくて良かった。


「そっちじゃなくて、こっちを見て」

「そっち、ですか?」


 指を指している方に目を向けると、表札に『囃子』と書いてあった。

 へぇ、こんな偶然ってあるんだ。まさか、囃子さんと同じ名字の家が僕の家の隣にあったなんて。普通の『林』ならともかく、この『囃子』が僕の家の隣にあったなんて。え、まさか、ここが囃子さんの家だったりして。じゃあ、もしかしたら僕に可愛い幼馴染がいたかもしれなかったのかな。

 なんてね。


「ねぇ、比暮。比暮は忘れているかもしれないけど、わたしと比暮は……」

「幼馴染だったんですよね」

「……え」


 呆けたような表情で僕を見つめる囃子さんに向けて、僕は笑顔で話す。


「途中に僕に送られてきたメールがありましたよね。あれは、記憶がある昨日の僕が記憶を失った今日の僕に送ってきたメールなんです。

 一通目の第一項は僕の記憶に起こった現象について、二通目の第二項は僕が記憶を失った経緯について。

 最後の三通目は昨日の僕が、今日の僕に聞いてきたんです」


 ポケットからスマホを取り出し、メール画面を表示して囃子さんに見せる。


「『で、僕はどうする?』って、ね」


 僕は完全忘却能力と言う、見たことも聞いたこともない不便極まりないと思われるような体質らしい。らしいというのは、僕自身自覚がないからなんだけど、昨日の僕が言っているのだからそれを信じることにした。


 それで、僕が記憶を失う条件としては、自分の親しい人が自分から離れるような発言をした時、離れるような行動をした時、自動的に僕の記憶からその人物に関する記憶すべて失う。

 でも、そうすることによって記憶の齟齬が発生してしまうけど、その発生する齟齬を疑問としないことで僕の中でつじつまを合わせていると思われる。

 つまり、これは自己防衛の一種なのかな?


「前の僕はどうやら囃子さんのことが好きだったみたいなんだけど、囃子さんは僕のことは幼馴染、友人、たまたま隣の家に生まれた同年代の男の子程度にしか思っていなかったようで、どうやら僕は自発的に忘れることにしたようです。

 つまり、忘れたかったんでしょうね。

 まったく、昨日までの僕はどうやら頭の中が全面お花畑だったようですね。ただ単に、幼馴染だってだけでずっと一緒にいられると思っていたんだから。いや、そんなことは思ってはいなかったけど、でも行動する勇気が無かったのかな? どちらにしろ、忘れちゃったんだからしょうがないと言えば、しょうがないですね」


 さて、僕はどうするか。まぁ、どうするかなんて決まっているんだけど。


「……記憶は、戻らないの?」

「戻らないらしいですね。

 まぁ、戻るとしても絶対に戻ってほしくないと思いますよ。僕自身が、あ、昨日までの僕自身と言う意味ですけど、忘れようとして忘れたんですから。自ら進んで消したいと思ったんですので」


 何かを言おうとして、何を言っていいか分からず口をつぐむ囃子さんに僕は、


「別にここから僕がいなくなるわけじゃないですよ。ただ、僕から囃子さんとの記憶が無くなるだけですから友人であることは、クラスメイトであることは、変わりません。ただただ、幼馴染じゃなくなるだけです。簡単な話し、転校生が来たと思えばいい話ですよ」


 今の僕は囃子さんのことが好きでも嫌いでもない。それはそうだ、だって、なにも知らないんだから。今日のように僕の記憶を取り戻そうとしてくれたことに好意が無いわけではないけど、それでも恋愛感情は湧かない。


「あ、でも、好きじゃない僕の事に思考をさくよりも、昨日の僕に話してくれたその好きな先輩の事を考えた方が有意義だと僕は思いますよ。だって、僕が記憶を失いたいと思ってしまうくらいに、囃子さんは僕のことが好きじゃないんですから」


 うん、そろそろ本格的に肌が痛くなってきたから、帰りたい。


「えっと、それでは僕は帰っていいですか? 家がすぐそこなんで」

「……うん」

「今日は楽しかったです。それでは、また明日学校で」

「……うん、そうだね」

「あ、だし巻き卵の約束は忘れないでくださいね」


 これは忘れないようにしっかりと言っておかなければいけないことだ。僕の記憶以上の重要事項だからね。


「……ちゃんと用意するから」

「ああ、安心しました。今度こそ、また明日」


 泣いてしまいそうで、でも泣かないようにしている囃子さんに向かって僕は頭を下げた。


「……また明日」


 僕はどうするかの答えは、どうもしない。




 ■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆




「くはは、相変わらず面白いな、あいつは」


 俺は隠れていた場所から囃子に聞こえるように大きめの声で話しかけながら、ゆっくりと近づいていった。


「……なに」


 囃子が急いで制服の裾で目元をぬぐい俺の方を振り向き、俺を睨みつけてきた。

 泣いていた事を俺にばれないようにしたかったのだろうが、残念ながら後ろ姿からでも泣いていた事も急いで涙を拭いた事も手に取るように分かっていたんだが。

 しかし、ちゃんと声をかけて整える時間を与えてやったのに、感謝くらいしてほしいものだ。ま、睨みつけるような余裕があるのは悪くない。


「いやいや、どうなったか気になってつい今しがた様子を見に来ただけだ」

「嘘を付かないで」

「俺は嘘を言うのが苦手だ。嘘をつくは好きだがな」


 そう、俺は最初から最後まで動向を見ていた。こんな面白い事を、最初から最後まで見逃すなんてもったいない。どれくらいもったいないかと言えば、もったいないお化けが大群で押し寄せ街中を覆い隠してしまう程度のもったいなさだ。


「さて、どうだ。あいつに忘れられる気分は」

「……」


 口を固くつぐんだまま目線を俺から逸らし、意地でも口を開こうとはしないように見える。


「言いたくないか。そりゃそうだ、親しかった奴に忘れられるのは辛いだろ。それがあいつであれ、誰であれ」



 比暮と俺は小学生の時には、もう友人だった。だが俺は転校し、こっちに戻れたのは中学になってからだった。

 そこで比暮と数年ぶりの感動の再会を果たしたが、比暮は完全に俺のことを忘れていた。

 あいつの体質を知った今ならその理由も納得できる。あの年齢の頃に転校するということは、もう二度と会えないような感覚だろうからな。今生の別れというやつだ。

 それが比暮の初めての忘却だったらしいが、どうも周りが俺のことを話したがらなかったが故に、比暮の体質のことが周りにバレることはなかったようだ、両親以外には、だが。てか、俺の事を話したがらない奴らはなんなんだよ。


 まぁ、そこからは俺たちは友人になり直し、俺が比暮の秘密を隠すように動いていた。中学生とは言えまだまだガキで、自分達と違う奴は排除の対象になりやすかったからな。

 と言っても、中学三年間は記憶が無くなることなく平和そのものだったが。



「ま、学校でも言ったが、お前は悪くねぇ。だが、あいつが悪いわけでもない。お前もあいつが言ってたように、あいつのことを忘れて大好きで大好きな先輩を追いかけても問題は無いだ……」

「東出、それは無いわ。絶対に」


 囃子は俺が喋っている途中、俺の言葉をさえぎるように言葉を被せ、逸らしていた目を真っ直ぐ俺に向けてきた。

 ほう、相変わらず力強い目をする奴だ。この数分でもう思考を切り替えやがった。

 さっきまでの鬱陶しそうな瞳から、決意に満ちた力強い瞳に変えて俺を見据えていた。


「絶対と来たか、その理由を聞きたいね」


 俺も俺で難儀な性格だ。理解した事を訊ねるなんてな。


「ねぇ、恋と愛の違いって何か分かる?」


 囃子は何かを悟ったように、上から目線で俺に笑みを向けてきた。

 うわ、なんだこの表情、ちとイラつくなぁ。


「あ? それは今回のことと何か関係あんのか?」

「良いから答えなさい」


 ったく、こいつ完全に調子を戻してやがる。あ~はいはい、んで、恋と愛の違いってか。


「恋は下心で、愛は真心ってやつか」


 定番と言えば定番の答えだが、初めて聞いた時は納得しちまった覚えがある。


「東出くん。平凡な答えをありがとう」


 あ、このやろう、むかつくような表情をしやがって。


「恋は自分のことを知ってほしいと思う相手のこと、愛は自分のことを絶対に忘れてほしくない相手のこと、よ」


 さっきまでの力強い瞳が揺らぎ、悲痛や悲しみが瞳の中に見え隠れしていたが、それでも揺らいではいない希望が見えた。

 そうか、やはりそうか、そうなったか。


「だから、わたしは諦めないし、離れたくないと思ったわ」


 まったく、記憶を失って良かったのか悪かったのか。ただ、あいつが忘れていなければこいつはその事に気が付かなかっただろうな。


「わたしももう帰るわ。帰ってやらなきゃいけないことがあるからね」


 絶望するよりやる気に決意に満ち溢れた囃子は、比暮の家を一度眺め、


「ごめんね、嘘ついて。全部、私が悪かったんだね」


 そう呟いていた。

 おそらく俺に聞こえない声で言ったはずだが、はっきりと俺の耳に届いた。少しの間比暮の部屋がある場所を眺め、隣にある自分の家の玄関を開け中に入った。

 ああ、なるほど、俺は思い違いをしていたのか。まったく、人の恋愛話は苦手だ。

 さて、一人残された俺はどうするか。

 ひとまず、比暮と遊ぶことにしよう。また、俺のことを忘れる前に。


「比暮、遊ぼうぜ」


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