たとえ、歯車になろうとも
「は……っ!」
そして、男は目を覚ました。
体のあちこちが強張っている。まるで、少しの間どこか固いところで寝ていたかのように。
男は体の芯から沸き上がってくるような寒気に、自分の体を抱く。
「それにしても、悪夢だったな……。いや、内容は覚えていないんだが」
脳裏に何故か悪い予感が張り付いている。よくある、悪夢の後に訪れるなんとなく悪いことが起きてしまうんじゃないかと考えてしまう奴だ。
そう、男は悪夢を見たのだ。
そう納得して、悪夢を振り払うように男はぐうっと伸びをする。
目に入ってくるのは、見慣れた寝室の内装だ。奮発して絨毯を敷いた床に、寝室だけは趣味を良くしようと買ったアンティークっぽい棚。それに、今男が体重を預けているベッド。ぐるっと首を回していくと最後に、白いシーツがしかれた大きめのベッドの上、俺の横ですやすやと眠っている女性が目に入ってくる。
男は、急に妻が本当に、本当に愛おしく感じてきて、静かに寝息を起てる妻の頬をそっと撫でた。
きっと悪夢のせいだ。もう覚えてもいないし、欠片すらも思い出せないが、どこか寒気を感じるほどの悪夢が、男に温かみを求めさせている。
おそらくこれも悪夢の影響だろう。妻の頬までもが冷たく感じるほどに冷え切った男の手は、安らかに眠る妻を起こしてしまったようだ。
「んん……?」
音もなくそのまぶたを開けた妻は、自分の頬に夫の手が当てられていることに気づくと、一言だけ訊いた。
「どうかしたの?」
「いいや」
男はその優しさに、抱きしめられたような温もりを感じると、やっと自分が悪夢の余韻から脱せられたことを確信する。
「ちょっと、悪夢を見ただけさ。もう大丈夫」
「そう……」
妻はそういうと、静かに体を起こして、抜け切ったと思っていた悪夢の影響が残っていたのか、どこか無機質な笑みを浮かべた。
◆ ◆
起き出してきた男と妻は、慌ただしく朝の準備を始める。
妻は朝食の用意。男は冒険者ギルドへと職員として出勤する用意をしなければならない。
一階の台所へと準備に行った妻とは逆に、男は隣の部屋、書斎へと向かう。
机の上に無造作に置いてある自分の日記帳を片目に、クローゼットから冒険者ギルドの制服を取り出した男は、手早く着替えると姿見の前に立つ。
姿見で髪型を確かめて、ぼさぼさの髪を適当に整えると、男は仕事の品が詰まった袋を片手に階下へ降りて行った。
「今日の朝ごはんは、ベーコンエッグよ」
妻がそう男に言いながら、まずはベーコンを焼いていく。肉が焼けていく香ばしい匂いが男の鼻に漂ってきた。
「ああ」
男は妻にそう返すと、机の上に妻が持ってきてくれていた新聞に手を伸ばす。
「ふーん、王子様はもう成人か……つい最近までこんな小さかったような気がするのになあ」
新聞をめくって中ほどに来たとき、王子が成人するという記事を見付けて男は呟いた。
「何言ってるの、歳を取ったような事を言って……」
妻は男に文句を言いつつ、ベーコンエッグとパンを持ってくる。
「いや、俺達がいっしょになってから、そんなに経つんだと思ってさ」
「もう……」
男の言葉に、妻がどこか機械的に頬を染める。悪夢の影響は未だ続いているらしい。
「ギルドでの仕事にまで響かないといいが……」
「何の話?」
心配そうに男へ訊いてくる妻に、男はごまかすように、そして安心させるように言った。
「なんでもないさ。さあ、早く食べよう、朝ごはんが冷めてしまうじゃあないか」
「……そうね。でも、なにか気付いたなら相談してよ?」
「ああ、そうだな」
そう妻に告げてから、男は朝ごはんに手を付ける。
「うまい」
妻の料理は、いつものように、正確に、忠実にレシピを守って作られた、安定したおいしさだった。
それを男はいつものように、美味しそうに頬張ると、まるで男が欲しがるのを分かっていたように差し出される牛乳を受け
とって、一口にあおる。
「ふう、ごちそうさま」
「はい、ごちそうさま」
男が食べ終わるのと同時か少し遅いぐらいに、妻も食べ終える。それは、妻が食べていたのは男よりも少量だったからだ。
「さて……行くか」
「ええ」
男は時計をふっと見上げると、妻に凛々しい顔でそう宣言する。
今日も一日頑張ってくると、妻に約束するように。
それに応えた妻の言葉に、男と妻は連れだって玄関へ向かう。
「いってくる」
「いってらっしゃい」
男は妻とそう言い合いながら手を振って、玄関の扉を閉める。
妻は、そこで扉の先の男を夢想するように、そこで動きを止めた。
◆ ◆
「おはよう」
「おはようございます」
男が歩いて向かった先は、職場……冒険者ギルドだった。
男はここで、事務員として働いている。
挨拶を交わしながら職員用の入口から中に入って、自分の机へと向かう。
昨日から、まだ貯まっている仕事があるはずだった。
ところが。
「あれ、俺の机ってここじゃなかったか?」
男が向かった先には、別の職員が座っていたのだ。
男がそう声をかけると、職員はどこかのっぺりとした表情で言う。
「いえ、ここはおれの机ですよ? やだなあ、からかってるんですか? あなたの机はそこじゃないですか」
「ん、ああ、そうだったな。すまない」
「いえいえ」
男は首を降りながら、言われた机へと向かう。
行ってみれば、そこはたしかに自分の机だった。机の上に妻の写真がきちんと飾られているし、妻からのプレゼントだったクッションも、きちんと椅子の上に備え付けられている。
だが。
「あれ、今日の仕事は……」
昨日から貯まっていたはずの、今日やるべき書類の山がない。
仕方がないから、男はもう一度さっきの職員にへと確認に行くのであった。
◆ ◆
「ただいま」
「おかえりなさい」
日が暮れ、やっと男が帰宅し、玄関の扉を開くと、妻はまる
で出掛けた時と同じようにそこに立っていた。
「すごいな、帰ってくるのがわかったのか」
「ええ、あなたがもうすぐ帰ってくる気がしたの」
妻の言葉に、だらしなく男は顔を緩めながら靴を脱ぐ。
「ごはんにする、お風呂にする? 両方出来ているわよ」
「君ならもうわかっているだろう?」
「ええ、お風呂でしょう?」
「正解だ」
その言葉に微笑しながら男は妻に荷物を預けて、浴室に向かう。
一日の汗流してすっきりし終わったら、次は夕ごはんだ。
「それで、今日はなにがあったの?」
そして、夕ごはんというのは男と妻にとって、特別な時間でもある。
二人で、今日あったことを食べながら話し合うのだ。
面白かったこと。気付いたこと。楽しかったこと。
それを語り合うのは、男の至福の時間たった。
「今日は約束された報酬より少ない! ってクレームに来た冒険者がいてな……。でも、結局冒険者の計算ミスで、罰則分を引けばその通りだったんだよ」
「そうなの……。わたしは今日、買い物の時に愉快な話を聞いたわ」
「どんな?」
「それはね……」
そんな夕ごはんが終わると、妻が皿を洗っている間に男は書斎へと向かう。
日記を書くためだ。
男はこれまで、日記を書くことを欠かしたことはない。
きちんと今までのことを書いておくのが、将来役に立つと信じていた。
「さて、今日はなんて書くかな……」
男は書斎の机に座ると、机に置いてある日記帳を開く。
「ええと……」
あれ、と男は不思議に思った。
さっき妻と話していたから、話題について整理はついているはずなのに、どう書き出せば良いかわからない。
(未視感、かな?)
既視感とは逆、見たことがあるものを始めて見るような感覚だろう、と辺りを付けて、男は苦笑する。
(とりあえず、昨日の日記を読んでみよう)
そう思って、一ページ前にめくったところで。
「え……?」
男は、心臓が止まったかのような衝撃を覚えた。
そこには。
日記の中には。
こう、書かれていたからだ。
『妻が、死んだ』
「嘘、だろう? だって、さっきまでいて、え、あれ……?」
とんでもない混乱が男を襲う。
さっきまで見ていた光景と日記の文面との不整合に、意識がおかしくなりそうだった。
閉じたいのに。
こんな日記、嘘だと断定してすぐにでも忘れ去りたいのに。
男の目は、不思議と昔の自分の文字を追ってしまう。
『妻は……馬車に轢かれて、死んだ』
『治癒魔法でも治らない』
『俺がそれを知ったのは、家に帰ったらいた、憲兵からだった』
『妻の死骸は馬に蹴られ、車に轢かれ、ぐちゃぐちゃだった』
『でも、妻だった』
『間違えようがない、それは絶対に妻だった』
『妻がいない生活なんて、俺は耐えられない』
『耐えられるはずがない』
『……だから俺は決意した』
『妻が死んでから一週間後』
『妻そっくりの魔導人形を買うことを』
『でも、覚えていては意味がない』
『覚えていては、虚しくなるだけだ』
『ああ、君を忘れることを許してほしい。でも、自分には耐えられないんだ』
『だから、自分自身に魔導人形が忘却魔法をかける』
『毎日、毎日』
『すべての日常は、毎日同じように回りつづける歯車になる』
『ただ回って擦り減って死んで行くだけの、歯車に』
『でも』
『それでも、構わない。歯車でも、構わない』
『君と一緒にいられるのなら、自分はよろこんで歯車になろう』
『さあ、魔導人形が来る』
『これで、君と一緒にいられる……』
「うそだ」
男の口から、言葉が落ちた。
「うそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだ」
ガチャリ、と書斎の扉が開く。
「ひいっ!」
男は、体を縮こまらせて悲鳴をあげる。
この家にいる者なんて、男以外には、あれしかいないからだ。
影は、男の前に姿を表して、一言だけ告げた。
「『忘却』」
そして、光が男を包んで……。
◆ ◆
「は……っ!」
そして、男は目を覚ました。
歯車の一日が、始まる。