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炎の陰陽師(ヒーロー)

作者: 火威

五月十三日(火)午前7時五十五分


 火宮劫(かみやこう)は、「孤高」だ。小学5年生を表す言葉として、それはどうなんだ、というツッコミはあるだろう。でも、事実、そうなのだ。

 五月にふさわしい、さわやかな風が吹きこみ、透き通った朝の日射しの差し込む教室。

「おはよ。」

「おはよ。薫。なあ、算数の宿題やってきたか?」

「まさか、また忘れたわけ?」

「頼むっ、見せてくれ。」

「いい加減にしてよ、まったく…。」

「おはよ、なあ、ドッジボール行こうぜ!」

「行く行く!早くしないと六年にコート取られるぜ!」

 活気に満ちたざわめきの中。

「おはよ、火宮。火宮もドッジボール行こうぜ!」

 輝くような明るい笑顔で誘うのは、元気いっぱい、という表現のよく似合う少年だった。

 大きな瞳には、生き生きとした光が煌めいている。整っているというより愛嬌のある顔立ちで、そこに浮かぶ笑顔を見れば、誰もが友達になりたいと願うような少年。それが、風祭天(かざまつりそら)だった。

 しかし。

「断る。」

 返される劫の言葉は、これ以上ないほど冷ややかだ。

 どきりとするほど綺麗な、端正で秀麗な美貌。けれど、鋭く冷たい瞳は威圧的で、好んで近づきたい者は滅多にいない。

「えー、おまえいつもそれじゃん。今日はやろうぜー。」

 すげなく断られても、天はめげない。席に着いている劫の腕を引っ張る。

「なあ、行こうぜ。」

「離せ。」

 短い拒絶の言葉は、さっきより低い。触れれば凍りつきそうな冷気をまとっている。

 ここらが潮時かなと、天は思う。肩をすくめ、

「しょーがねーなー。じゃ、次の休み時間な。」

 と、劫から手を離す。

 扉に向かって歩き出したところで。

「またふられたねー、天。」

「おまえも懲りないよなー毎日毎日。」

 自分の席で頬杖をついている七瀬(ななせ)(かおる)に笑われた。薫の席まで椅子を持って来て、宿題を教えてもらっている進藤(しんどう)雄紀(ゆうき)は、やや呆れている。

「いいかげん、あきらめたら?」

「そーそー。あいつ、誰ともつるまないぜ。」

「ボクたち、去年同じクラスだったけど、火宮が誰かとしゃべってるとこ、見たことないよ。」

 忠告する友人に向かって。

「いいんだよ。オレは絶対火宮に、うんって言わせてみせるぜっ!」

 天は、力強く宣言する。

 きっかけは、二週間前。

 四月の最後の週に行われた、スポーツテストの五十メートル走だった。

四月二十八日(月)午前九時

 

「次、風祭と火宮。」

 先生に呼ばれて、オレはスタートラインに立った。石灰で描かれた白線が、運動場にまっすぐに伸びている。

 よし、やるぞっ、て気分で息を吸い込むと、後ろから応援の声がする。

「風祭、がんばれよ!」

「天、新記録作れよっ!」

「はりきりすぎて、こけんなよー。」

 オレは振り向いて、親指を立ててみせるを作る。

「任せとけよ!」

 足の速さには自信がある。運動会の全員リレーのアンカーを毎年やってるくらいだ。

「風祭、いいから早く前を向け。」

 先生が呆れたように笑っている。

「はーい。」

 と返事をして構えて、オレはふと隣を見た。

(火宮って速かったけ?)

 隣に立ってる火宮は、とても気合いが入ってるとは思えない顔で、前を見ている。どうでもいいことが始まる前みたいな、興味なさそうな顔。だから、ちょっと油断していた。

 ピッ。

 笛の音と同時に、オレは走り出す。

 ぐん、と加速する。風がすごい速さで流れる。

 そして。

(え、嘘っ!)

 火宮は、めちゃくちゃ速かった。

 こっちは心臓が爆発しそうなのに、追いつけない。

 足がもつれて転びそうなくらい、全力で走ったのに。

 差が縮まらないままゴールに飛び込んだ。

「火宮、7・4。風祭、8.0.」

 オレは、地面に座り込んで、ぜいぜいと息をついた。タイムは、自己ベストだ。オレが遅かったわけじゃない。

(こいつ、めちゃめちゃ速いっ…。)

 しかも、こっちはぶったおれそうなのに、火宮は涼しい顔をしている。まだ余裕がありそうな顔。

 火宮はそのまま、みんなが並んでる方に歩いていこうとする。オレは、慌てて追いかけた。

「火宮、おまえ、すげーな!超はええじゃん!」

 追いついて隣に並んで話しかけたオレを、火宮は無表情に見た。

 あ、とオレは思わず息を呑んだ。

 どくん、と心臓が音をたてた。

 それくらい、火宮には迫力があった。

 ただ、立ってこっちを見てるだけなのに。

 きれいな顔をしているからだろうか。でも、アイドルとか、そういう整い方じゃない。なんていうか…じっと見ていると背筋が寒くなってくるみたいな。冷たい目。

「あ、あのさ、火宮、おまえってそんなに足速いのに、今までリレーのアンカーやってねーよな。なんでだ?」

 それでも、オレは話を続けていた。俺がしゃべっている間くらいは、火宮はこっちを向いていてくれるんじゃないかと、思って。

 火宮はオレに、たった一言返した。

「興味がない。」

 それだけだった。

五月十三日(火)午前十時三十五分

 

 三時間目開始のチャイムが鳴る五分前の理科室。

 クラスの9割くらいの人間はそろっていた。

二時間目と三時間目の間は二十分の長い休み時間で、外で遊ぶ児童は多いが、次が移動教室の時は、ほとんどは早目に校舎にもどってくる。

「ちょっと早く来すぎたかー。もうちょっと遊べたなー。」

 ぼやく進藤を、

「遅れるよりいいだろ。」

 分厚い参考書から顔を上げずに七瀬がなだめる。有名私立の中学を受験する七瀬は、休み時間もたいてい、塾の参考書をめくっている。そこへ、

「天はまだ来ていないか?」

 学級委員の雪野史也(ゆきのふみや)が聞いてくる。真面目で誰にでも親切で、天と同じくらい人気のある少年だ。

「風祭?さあ、あいつ最近ドッジ来ねえから、わかんねーや。悪い。」

「天なら、まだ教室にいたよ。火宮と一緒に来るんじゃないかな。どうして?」

「天、今日日直だろ。」

「あ、そうだった。まずいね。」

 理科のノートは、前回の授業で回収してあった。そういう場合、職員室からノートを持って来るのは、日直の仕事だ。

「しょーがねーな。オレ、代わりにとってくる。」

 進藤が立ち上がって、廊下をパタパタ走り出す。

 理科室から出てすぐに階段だ。一階の職員室まで駆け下りようとしたところで。

 上の階から降ってくる声が耳に届いた。

「なー火宮、全員リレー、アンカーやってくれよ。そうしたら、絶対優勝できるって!」

 明るく弾んだ天の声に、答える声はない。だが、足音は二人分だ。

(天、火宮にまた無視されてんな。)

 最近見慣れた光景なので、姿が見えなくても想像できてしまう。あんな、無口で無愛想で、やたら態度がエラそうなやつのどこがいいのか知らないが、天は劫にまとわりついている。

 進藤は上に向かって、天に「おまえ日直だろ。」と叫ぼうとした。体の向きを変える直前。

 どんっ。

 誰かに、強く背中を押された。

 言葉にならない悲鳴とともに、進藤の体が宙に投げ出される。

 浮遊感は、一瞬のはずが、妙に長く感じられた。

 どさっと、思っていたより軽い衝撃と同時に。

「進藤!」

 天の叫ぶ声が響いた。

五月十三日(火)午前十時三十五分


 天と劫は、理科室に向かっていた。一緒に、というのとは少し違う。天を無視してさっさと自分のペースで歩く劫に、天が追いすがって話しかけている。

「なー火宮、全員リレー、アンカーやってくれよ。そうしたら、絶対優勝できるって!」

 階段を下りながら、天は劫の肩にぽんと手を置く。劫が払いのけようとした時。

 悲鳴が響いた。

 二階と一階をつなぐ、階段の踊り場。

 そこから真っ逆さまに転落する進藤。

 進藤の後ろに。

 漆黒の、二本の手が、浮いていた。

 手首から先のない、黒い手。

 火宮が叫んだ。人差し指と中指をピンと立てて。

「オン・バサラギニ・ハラチ・ハタヤ・ソバカ!」

 進藤の体が、ふわりと浮く。見えない何かに支えられているかのように。けれど、それは一瞬。すぐに、進藤は階段の一番下に落ちた。

「進藤!」

 天は一気に階段を駆け下りた。

「おい、進藤!大丈夫か!」

「お、おう。どこもけがしてねえ…みたいだ。」

 あの高さから落ちたのに、と進藤はこの状況に半信半疑だ。そして、ざっと血の気が引く。

「な、なあ、風祭。オレの後ろ、誰がいた⁉オレ、誰かに突き飛ばされたんだよ…!」

「おまえの背後には誰もいなかった。」

 答えたのは、氷のように冷たい声だった。

 悠然とした足取りで、劫が階段を下りてくる。

 白皙の肌。光を浴びて輝く亜麻色の髪。名工の手による完璧な造形のような、作りものめいた麗姿の中で、その両目だけが苛烈な意思を宿して鋭い。

 進藤は、蛇に睨まれた蛙のように、身動き一つできない。

(これ、だれだ…?)

 愛想のない、人と関わりたがらないクラスメイト。それだけの認識しかなかった。

 だが、今目の前に立つ相手は、自分と同い年の子どもとは到底思えない威圧感をまとっている。

 進藤は、がたがたと震えた。干上がった喉から、何とか声を絞り出す。

「だけど、オレは。」

「おまえは、自分で落ちた。」

 その声と、眼光だけで、劫は進藤雄(ゆう)()の全てを封じた。

 進藤は、こくり、と頷く。操り人形のように。

 劫は、そのまま進藤と天の脇をすり抜けて、廊下を歩いて行く。

 劫が視界から消えて、天はハッと我に返る。

「進藤。おい、進藤。おまえ、本当にけがないんだな?」

「あ、ああ。」

「じゃあ、先生に伝言頼む。火宮が調子悪くて保健室行くから、オレその付き添いってことで。」

 天が言い終わるのと同時に、三時間目の始まりを告げるチャイムが鳴った。

五月十三日(火)午前十時四十三分


「おい、火宮、火宮ってば!」

 天は、校舎と体育館をつなぐ渡り廊下で、劫に追いついた。

 授業中なので、当然誰もいない。体育館では、運動会の練習をしているらしく、軽快な音楽や元気なかけ声が、渡り廊下まで届く。それがかえって、この場の静けさを際立たせた。

 外は明るい陽光が降り注いでいるのに、渡り廊下だけは、妙に薄暗く、空気も冷えている。

 児童が走らないよう、廊下の中央に銅像が設置されているのだが、薄暗い中ではそれすら不気味に見える。微笑みを浮かべた少年の像だが、目が合うと呪われるという噂まであるぐらいだ。寄贈した地元の彫刻家が知れば、気を悪くするだろうが。

 火宮は、その像をにらみつけている。眺めているだけなのかもしれないが、目つきが鋭すぎてそう見える。

 天はぶるっと頭を振って、気持ちを切り替えた。場の雰囲気に気圧されている場合じゃないと思った。

 まっすぐに、劫の目を見た。

「火宮、さっきの黒い手ってなんだ?おまえには、わかってるんだろ。」

 劫が、かすかにだが、目を見開いた。表情が動いたところを初めて見たと、天は思う。

 確信した。

(火宮は、何か知っている。)

「おまえに、見えるはずが。」

 劫の小さな呟き。

 天は、力任せに、劫の両腕をつかんだ。教えてくれよと、叫ぼうとして、凍りついた。

 手。

 手。

 手。

 手。

 無数の、漆黒の手。

 天井も床も壁も埋め尽くすかのように、無数の、黒い手が、びっしりと生えている。

 劫がにらんでいた銅像からも。いや、銅像から生える手は、他の物よりも色が濃く、漆黒の闇の色をしていた。

 天の悲鳴は、劫の手で塞がれた。

「騒ぐな。人が来る。…見えるんだな。」

 天は、こくこくと頷く。それだけの動きで精いっぱいだった。

 劫は、天の口から手を離し、そのまま天を避けるように一歩退く。

 劫から離れたとたんに、天の視界から漆黒の手は消え失せる。

 天はぱちぱちと瞬きをした。

「なるほど。」

 劫は、つ、と目をすがめて天を見た。

 初めて、視界に入れてもらえた気がして、そんな状況じゃないのに嬉しい。

「波長が同じ、か。」

 劫の言葉の意味はわからなかったが、説明してくれる気はないらしい。天は必死で考えた。

 あの黒い手は一体何なのか。なぜ、現れたり消えたりするのか。否。

「おまえに触ってると、あれが見える…のか?」

 天の疑問に対する劫の言葉は。

「関わるな。」

 凍てつく氷の視線。ひとかけらの容赦もない、完璧な拒絶。

「おまえの世界じゃない。」

 五月十三日(火)午後一時二十二分 

 給食後のそうじが終わると、昼の休み時間になる。天のそうじ場所は、三階の図工室だ。

 ごみ捨てに行き、ごみ箱を戻す途中で、チャイムが鳴った。当然、図工室に戻った時には、誰もいなかった。さっさと遊びに行ったらしい。一見、薄情だが、さっさと行かないとドッジボールコートを取られてしまうので、それは仕方ない。

 それに、最近は劫を追いかけてばかりで、ドッジボールもサッカーもここしばらくやっていない。付き合いが悪いのは自分なので、置いて行かれても文句は言えない。

 三時間目に体育館の渡り廊下で、

「関わるな。おまえの世界じゃない。」

と天に言った後、劫は理科室に戻って普通に授業を受けた。天も劫を追いかける形で理科室に戻ったが、何を言っても、劫は何一つ答えてはくれなかった。

 周囲に人がいる時に訊ける話題でもなく、結局何もわからないまま今に至る。

 劫を探しに行こうと、顔を上げた瞬間。

 廊下を歩く劫を見つけた。

(すっげー、タイミング!)

「火宮。」

 と呼びかけて、声が止まる。

 一瞬見えた横顔。

 その表情が、あまりにも、厳しい。

 固く引き結ばれた唇は、あらゆるものを拒んでいる。

 ふだんから、愛想のいい顔なんて見たことはない。けれど、今の劫は、そういう次元で語れない。

「関わるな。おまえの世界じゃない。」

 脳裏に甦る、冷たい声。

 でも、と天は顔を上げた。

(オレは、関わりたいんだよ…。)

 天は、劫の後を追った。

 劫の姿は、廊下の突き当たりにある、袋教室へ消えた。

 三階の特別教室棟は、もともと人気のないフロアだが、劫が入っていった教材室は、はっきり言ってほとんど誰も近寄らない場所だ。

 学芸会の大道具、図工室に置き場がなくなった姿見、古くなった世界地図など、雑多な物が詰め込まれて物置と化している教室だ。

 ドアのガラス窓からそっとのぞくと、昼間なのに妙に薄暗かった。窓をふさぐように、スチール戸棚が置かれているせいかもしれない。日差しが遮られているせいか、色あせた人体模型やホルマリン漬けのせいか、不気味な雰囲気の漂う教室だ。

(そーいや、あの鏡、人を吸い込むとかって七不思議にあったような。)

 誰が言い出したか知らないが、ありえそうでぞっとする。とりあえず、あの鏡の前には立ちたくない。

 劫の、背筋のピンと伸びた背中が見える。

 こんなところで何を、と思う間もなかった。

 床から、天井から、壁から、劫に向かって、無数の黒い手が伸びる!

 劫が、右手を横薙に払う。

 それは、こんな状況なのに見惚れるほど優雅で、舞うように流麗。それでいて鋭く力強い。

 人差し指と中指が、一枚のカードを挟んでいる。

「招来、火の序列六位、焔狼(ほむらおおかみ)!」

 カードから、狼が飛び出した!

 燃え盛る、銀色の毛並の狼は、カッとそのあぎとを開く。

 吐き出される銀の炎が、黒い手を全て飲み込んで焼き尽くした。

「うわあっ!」

 思わず上げた、天の悲鳴に、劫が振り向く。

「誰だ!」

 ガラッと音をたてて、ドアが開け放たれる。

「おまえ…。」

 天を見た劫の双眸は、鋭利な刃物のようだった。舌打ちと同時に、劫は、天の腕をつかむ。

 ぐい、と容赦のない力で、部屋の中に引きずり込まれる。天の背中で、ぴしゃり、とドアが閉められた。

五月十三日(火)午後一時三十分


 天は、劫に、スチール製のキャビネットに押さえつけられた。

 見下ろす劫の視線は、痛みを感じるほどに険しい。身長は、ほんの少し劫が高いだけなのに、まるで遥かな高みから見下ろされているような威圧感がある。

 天の両肩に、劫の手が食い込んでいる。細見の体のどこにそんな力があるのか分からないが、全力で暴れても無駄なのはわかった。

 劫は、低い声で言う。

「今見たことを全て忘れると誓え。」

 天は、ごくり、とつばを飲み込んだ。喉が上下する。

(怖い。)

 つ、と冷たい汗が背中を流れていく。

 ついさっきまで、五月の明るい陽射しの下にいたのに、この場所は、陰気で薄暗い。昼休みの喧噪からも切り離された空間だった。

 それでも、天は、ぎゅっと両の拳を握りしめた。どうしても、声は震えてしまう。それでも、必死で言葉を紡いだ。

「な、なんで忘れなきゃだめなんだ…?」

「危険だからだ。」

間髪入れない即答の声からは、何の感情も読み取れなかった。それなのに。

 天はにこっと笑みを浮かべた。

 無邪気で無防備な、手放しの笑顔に、劫が目を見開く。なぜこの状況で笑うのか意味がわからなかったが、続く天の発言は、さらに劫の度肝を抜いた。

「おまえ、やっぱり、いいやつだなっ!」

「は?」

 いつも凛と鋭いその目が、きょとんと丸くなるのを、天は

(初めて見た!)

 と、うれしくなる。

「オレのこと、心配してくれるんだろ。」

「…違う。邪魔なだけだ。」

 返る言葉がわずかに遅い。そして、天の肩をつかむ劫の手から、少し力が抜けている。

 天は、自分から劫との距離を詰めた。

 まつげの数さえわかる至近距離で、その目を見つめて。

「じゃあさ、邪魔しない。火宮、何か目的があるんだろ。それに、協力させてくれよ。」

「断る。」

 劫が、天から手を離し、そのまま一歩下がる。いつの間にか、銀色の狼は消えていた。床に落ちていたカードを、白い指が拾い上げた。

 天はカードを目で追う。

 トレーディングカードゲームの一枚かと思った。ただし、描かれているのは狼の絵と、「火の序列六位、焔狼」の文字だけ。何のマークも数値もなく、これではゲームは成り立たないだろう。

 ただ、その絵が。

(さっきの、狼?)

 銀色の炎を身にまとった、狼。

 劫が、カードを掲げる。

「招来、火の序列六位、焔狼(ほむらおおかみ)!」

 カードから、狼が飛び出す。

 近くで見ると、大きい。2メートルはあるだろう。かみつかれたら、骨まで砕けそうだ。

 何より、熱い。

 燃え盛る銀の炎は、

(ほんもの…。)

 ざっと、血の気の引く音がする。

「俺が命じれば、こいつはおまえを殺す。」

 劫が、感情のこもらない、その分凄みのある声で告げた。

 天は、歯を食いしばった。

 ここで引いたら負けだと思った。

 欲しいものをつかむには、覚悟を決めるしかない。

 天は、一歩、狼に近づいた。

「でも、火宮は、オレを殺せって、命令しないだろ?」

 劫が無言で天を見た。天も黙って見返す。

 空気が張りつめる。全てが遠くなる。

 薄暗い、不気味な教室も、銀に燃える狼も。

 天は、束の間、自分と劫の二人だけが世界から切り離されているかのような錯覚を覚えた。

 先に視線を外したのは、劫だった。天は、緊張の糸が切れて、くたっと床に座り込んだ。

「火宮?」

 戸惑った声を上げたのは、劫が鏡の前に立ったからだ。隅にひびが入り、図工室からここに移された姿見。

 劫の端正な容姿が映っている。鏡の中の少年は、実像よりもさらに冷たく、無機質な目をしている。

 そして、劫に付き従う銀の狼は、鏡には映っていなかった。

 天は座り込んだまま、どう受け止めたらいいかわからない事実に慄然とする。

 劫が、鏡の手を置いた。鏡の中の劫も、同じ動きをする。劫が、透き通った、けれど冷たい声で言葉を紡ぐ。

「天地神明、我が請願に応えよ。速やかに次元の通路を開け。」

 鏡に置いた劫の手が、沈む。

 天は、目を見開いた。

 鏡面が、水面のように。

「行け。」

 劫の命に従い、銀の狼が床を蹴る。そのまま鏡の中へ消える。

 劫は振り向かずに言う。手首から先を鏡の中に入れたまま。鏡に映る瞳を、天は食い入るように見つめる。

「ついて来たら死ぬぞ。」

 最後の警告だと、言外に告げて、劫は鏡の中へ。

 天は、嵐のように立ち上がる。迷わなかった。体当たりするように、鏡に飛び込む。

 衝撃はなかった。

 くら、と眩暈を感じて、意識が遠のいた。

 ぎりぎりと、喉を締め付けられる。

 息ができない。

 痛い。

 苦しい。

 死ぬ。

 目の前が真っ暗になって。

 ふいに、手が離れた。

 げほげほと咳き込む。

 涙でぼやける視界に、無数の黒い手と、その中心で首をかしげている化け物の姿が映る。

「…へえ。驚いた。お客さんだ。」

 くすくすと、面白そうに、笑い出す。化け物のくせに、人間のように。

「もしかして、キミを探しに来たのかなあ?」

 ふふふ、と桃色の唇がつり上がる。

「だったら、ヒントをあげようかな。キミにたどりつけるかどうか、ゲームをしてみよう。」

 化け物の楽しそうな声を聞きながら、ぜいぜいと、肩で大きく息をする。床についている両手に力をこめて、必死で立ち上がる。

 ガクガクと足が震えた。

よたよたと、歩き出す。

 どんなに苦しくても、止まってはいられない。

 つかまったら、殺される。

「いいよ。今は逃がしてあげる。」

 背中から追いかけってくる、声。

 怖い。

「追いかけるのは楽しいからね。でも、覚えておいて。」

 振り向けない。

「キミは、ボクに捧げられた贄だよ。」

 誰か。

 誰か、助けて。

 腕をつかまれた。

 倒れる寸前だった天を、劫の手が引っ張り上げる。

「火宮!」

 天は、うれしそうに笑う。対照的に、劫は不機嫌そのものだった。凶悪と言っていいほど目つきが悪くなっている。

 美形が凄むとこええ、と天はごくっとつばを飲み込んだ。

「あ、えーと、その、火宮…怒ってる、か?」

「当然だ。」

 劫の返事は絶対零度に冷たい。

「ここがどこだかわかっているのか。」

「ここ?え⁉」

 天は絶句した。

 ファイルが並ぶスチール戸棚。腕の欠けた人体模型に、隅の破れた世界地図。

 雑多なものが詰め込まれた教材室なのは変わらない。だが。

 窓の外が。

「真っ暗…。」

 初夏の陽光が降り注ぐ昼間だったはずの景色は、どこにも無い。

 窓の下に広がるのは、果てしない漆黒。

 夜の闇とも違う。何もかも黒一色で塗りつぶされていた。

「ここは異界だ。」

「いかい?」

 天は目を瞬く。劫の言っている意味はわからない。だが。

「…よくわかんねえけど、おまえは、ここに用があるんだよな。何かをしようとしてるんだよな。」

天は、まっすぐに劫を見た。

 自分でもなぜ、そうしたいのかわからない。ただ、焦がれる感情に突き動かされて。

「手伝わせてくれ、火宮。」

 抑えきれない思いに内側から焼かれるように、訴えていた。

「オレは、おまえの力になりたい。」

 息のつまる数秒。

 絡んだ視線。

 感情の読めない劫の瞳の奥で、何かが動く。

 何かが…変わり始めた。

「なら、役に立ってもらおう。」

 にやりと、劫が不敵に笑う。何かをたくらんでいるとしか思えない笑みに、心をわしづかみにされた。

 魅せられる。

「ついて来い。」

 後ろも見ずに歩き出した劫を、

「おうっ!」

 天は満面の笑みで頷いて追いかけた。

 廊下も、窓の外は漆黒の闇だった。ただし、電気がついていて、校舎の中は明るい。

四年以上通っている日常の場所だが、夜中に学校に来たことなどないので、違和感がある。そして、瘴気というのか、妖気というのか、肌を刺すような、ピリピリした空気。本能に危険を知らせる予兆だと、何となくわかった。

いつもの学校に見えても、ここはそうではないのだと。理屈ではなく、感覚に訴える。

それなのに。

天は高揚していた。わくわくする。恐怖を麻痺させるように、胸が高鳴る。

劫の隣を歩けることが、うれしくてたまらない。無表情というには厳しさ、険しさが勝る、それでも綺麗な劫の横顔。それを間近で見られる位置にいられることが。

 異界、と劫は言ったが、校舎の作りは、現実のそれと同じらしい。教材室を出てすぐに、家庭科室がある。

 ふと、中をのぞいて。

「みんながいる…?」

 天は声を上げた。

 五年一組のクラスメイトが、全員そろっていた。

 家庭科室は、普通教室のように、一人に一つの席はない。ガス台と流しがついた大きな机がある。その周りに椅子を置いて、五、六人で囲んでいる。

 机の上には三、四台のミシンが置かれ、ガタガタと音をさせながら動いている。縫っているのは、はちまきだ。

「うわっ、下糸からまった!」

 声を上げたのは進藤だ。

「ちゃんと糸の強さ調節しないからだよ。」

 呆れて横から言うのは七瀬。

「あー、これは、糸全部切ってやり直しだな。」

 貸してみろよ、救いの手を差し伸べるのは雪野で。

「この調子じゃオレたちの班、絶対休み時間なくなるなー。」

 ため息まじりに呟いたのは、天。

 その後ろを、縫い終えたはちまきを手にして通り過ぎ、アイロン台へ向かうのは、劫。

「なんで、オレたちまで。」

 天が、呆然と呟いた。

 家庭科室の中と、外と。

 天と劫は、同時に存在している。

 天と劫は、家庭科室にいる、自分たちを眺めている。

「言っただろう。ここは、異界だ。空間の狭間、世界の裏側。時の狂った場所だ。今のこの光景は、現実世界の過去を映しているだけだ。」

 隣で、劫が淡々と告げた。天は必死で頭を働かせた。

「…思い出した。これって、昨日の家庭科の時間だ。」

 あたかも、ビデオカメラで撮影された授業風景が再生されているかのようだった。

 運動会の全員リレーでは、クラスカラーのはちまきをしめる。三年生までは布を持ち帰って親に縫ってもらうが、家庭科のある五、六年生は、自分で縫う。その時間だった。

 机を回り、作業に手間取っている児童を手伝っていた教師が、ふいに言った。

「布が一枚余っているぞ。足りない班はないのか?」

 ミシンやアイロンの準備ができた班から、班長が人数分の布を持って行くことになっていた。どの班も既に作業中なのに、教師用の机には、布が一枚余っていた。

「オレたちの班あります。」

「わたしたちも全員持ってます。」

「あるよー。」

「全員分取ったし。」

 口々に、声が上がる。教師が首をひねる。「またか。おかしいな。あまりがないように注文したはずなんだが…。」

 まあいい、作業に戻れと指示され、子どもたちは従う。

 再び鳴り出すミシンの音。子どもたちのおしゃべり。

「…そう言えば、うちのクラスって、何でも一つあまるよな。」

 光景を見ている方の天が、呟いた。

 漢字ドリルや計算ドリル。給食も毎日、一つ数が多い。今まで、深く疑問に思ってこなかったが、ずいぶん奇妙なことではないだろうか。

 なぜ?いつかから?そして、誰も深く追求しようとしなかったのは?

 劫が、眉をひそめた。何かを、考えている。

「…多いのか?それとも。」

 呟く声の途中で、光景が変わった。

 家庭科室から、人間が消えた。

 画面が切り替わるように。

「行くぞ。」

 劫が歩き出す。

「お、おう。」

 天はあわててついて行く。

 今の光景は、何だ?ただ偶然、現実世界の過去が映っただけなのか?それとも、この空間の支配者が、わざと見せたのか?何のために?

 劫は、形のよい眉を寄せたまま、考え続けた。

 劫と天は、空っぽになった家庭科室を通り過ぎて、廊下を歩き続けた。特別教室棟の突き当たり、音楽室まで来た。

 五線譜のかかれた黒板。グランドピアノ。壁には、モーツアルトやベートーベンの肖像画。

 現実世界と何一つ変わらない音楽室の中には、天のクラスメイトがいた。ただし、さっきまでとは違い、全員そろってはいない。数人のクラスメイトが、床をほうきで掃いたり、机をぞうきんで拭いたりと、忙しそうに動き回っている。今映し出されているのは、そうじの時間だった。

「あ。」

と、天が声を上げた。自分の脇をすり抜けて、雪野が音楽室に入って行った。

「雪野。」

「無駄だ。」

 反射的に呼びかけた天を、劫が遮る。劫を見た天に、淡々とした声で説明がされる。

「今見ているのは、過去の映像にすぎない。」

「話しかけても反応してくれるわけじゃないってことか…。」

 劫は頷く。

 確かに、雪野が、すぐそばに立っている天に一言も声をかけずに無視して通り過ぎることなどないだろう。

(どんなにリアルに見えても、幻なんだ。)

 目に映ること、耳で聞こえることが、あまりにも現実と変わらなすぎて、わかっていても認識が追いつかない。

 天は、隣に立つ劫が平然としていることに感心する。こっちは大混乱なのになあと。

 音楽室に入った雪野が、そうじ道具入れから、ちりとりとほうきを取り出しながらわびる。

「遅くなってごめん。」

「いいよ。学級委員の仕事してたんだろ。」

「ごくろうさん。」

 雑用で忙しいのはわかっているので、クラスメイトたちは寛大だ。

「ありがとう。」

 と返した雪野が、周囲を見てうんざりした顔をした。

(雪野…?)

 天が違和感を覚える。小学生らしくないほど穏和で、滅多に怒ったりしない雪野が。

「林は、またさぼっているのか。」

 乱暴な、吐き捨てるような声。

 自分に向けられたわけではないのに、天は一歩下がってしまった。とん、と右肩が劫の左肩に触れる。ごめん、と呟いて、けれどすぐに離れられなかった。

 雪野の周囲のクラスメイトたちが、怒りが連鎖したように、声を荒げたのに、驚いて。

「あいつって、本当にどうしようもないよな。」

「サイテーだよね。」

「いたって邪魔するだけだし、いない方がいいけど。」

「いなくなってくれればいいのに。」

「だよね。」

 頷き合う、クラスメイト。

(部屋が…暗い?)

 天が、目を瞬く。音楽室が、さっきよりも暗く見える。電気が消えたわけでもないのに。

「瘴気だ。」

 天の思考を読んだように、劫が言った。

「負の感情が集まる場所では、濃くなる。」

「それって、ここが異界だからか?」

「現実世界でも同じだ。」

 天が首をかしげた。

「でも、オレ、今までそんなの見えたことねーけど。」

「俺に触れているからだ。」

 そこでようやく、天は、劫にまだくっついていることに気づいて、慌てて離れる。

 閃くように気づく。

 黒い手が見えた時、劫に触れていたことを。

「おまえと俺は、霊力の波長が同じなんだ。だから、俺の力に共鳴する。異界に来られたのも、俺が作った道を通れたからだ。」

 劫は、教材室の周囲に結界を張っていた。本当なら、誰も通れないはずだった。だが、劫と同じ霊力の波長をもつ天を、結界は劫だと認識して、通してしまった。術者自身は、自分の結界に妨げられることはないから。

「すげえな。」

 天が目を輝かせる。信じられないことばかりが起こっているこの状況。そのうちいくつかは、劫が起こしていることで、それを可能にしているのが、劫のいう「霊力」というものだということは察せられた。

「じゃあ、オレも火宮みたいに、あの、えーと、ホムラオオカミっての、出せるのか⁉」

「出せるか。」

 劫は冷ややかに一刀両断した。

「霊力の波長と、術の技能は違う。」

 劫は、同じ楽器を持っていても、技能がなければ同じ曲を弾くことはできないと、たとえ話で説明した。

「そっか。そりゃそうだよなあ。」

 天は、残念そうに納得した。

「そんなことより。」

 と、劫は天の目を見た。

「林という苗字のやつが、クラスにいるか?」

「え?」

 天は首をかしげる。

「いないけど。」

 と考えるより先に答え、それはおかしいと、気づく。

 そうじ場所は、クラスごとにわりふられている。音楽室のそうじは、雪野たち。雪野は、天と同じ一組。林という児童が、音楽室そうじなら、一組でなければならない。

「なんで、オレは、林ってやつを知らないんだ…?」

声が、かすれた。まるで、自分のものではないかのように。

 何かがおかしい。

 自分の記憶に、自分に、自信が持てない。

 足元がぐらぐらと揺れている感覚。

「火宮、おまえは、知っているのか…?」

 すがるように見上げた視線の先で。

「俺も知らん。」

 劫があっさり言った。天と対照的な劫の、常と変らない態度に、天は落ち着いてしまった。

 不思議なことならたくさん起きているのに、今さらこれくらい、と。思ってしまった。そうさせるだけのものが、劫にはある。

「行くぞ。」

 劫が言う。

 いつの間にか、音楽室は無人になっていた。もはやここに用はないと言わんばかりに歩き出す劫を、天は笑顔で追いかけた。

 これは謎かけだと、劫は気づいていた。

 映し出された過去の時間は、脈絡もなく選ばれたものではない。あの映像のどこかに、ヒントがある。

 この異界を支配している何者かが、劫に叩き付けた挑戦状だと。

 劫が向かうのは、五年一組の教室。

 この異界の校舎の中で、最も瘴気の濃い場所。

 必ずそこに、答えがある。

 たどり着いた自分たちの教室は、音楽室と同様、現実世界と何ら変わらない、見慣れた場所だった。

 壁の掲示物は、四月当初にかいた自己紹介カードだし、机の並びも、いつも通りだ。

 教室は無人だった。

 劫はつかつかと入っていき、天は慌てて後を追う。

 劫は、壁の掲示物や、ロッカーに貼られたネームシールを眺める。「林」という名前を探しているのだと気づいて、天も机を見て回った。

 ふと、天は顔を上げた。

 ぼそぼそと、低い声が耳に届いた。

 内緒話のようにひそめられた、話し声。

 いつの間にか、教室の中に、数人の人影が現れていた。

 誰かが入って来た気配も足音もない。突然の出現に、けれど天はもう驚かない。

 投影された影でしかないことはわかっていたから。

 四人の少年が、一つの机を囲んでいる。そこだけ変に暗くて、顔どころか、背格好もはっきりしない。かろうじて、性別がわかる程度だ。話し声も、低くこもっていて、誰の声かわからない。

 机の上には、ノートを一枚破ったらしい紙が置かれていて、何か書かれているのはわかるが、読み取ることはできない。

 近づこうと一歩踏み出して、グイと肩を抑えられた。

「火宮?」

 いつの間にか近くにいた劫が、無言で首を振る。よくわからないまま、天は足を止める。

 低く、暗い話し声は、誰のものかはわからないが、内容を聞き取ることはできた。

「<神隠しサマ>、お答えください。運動会の日は晴れますか?」

 紙の上には、消しゴムが置かれていて、四人の少年は、人差し指をその上に乗せていた。

 すうーっと、消しゴムが紙の上を動いていく。

「は・れ。晴れるって。」

「よかったなあ。次、何聞く?」

「<神隠しサマ>、お答えください。今週、抜き打ちテストはありますか?」

「あ・る。げーっ、あるのかよ!」

「<神隠しサマ>、抜き打ちテストは、漢字ですか?」

「け・い・さ・ん。やっぱり。漢字は先週あったしね。」

 少年たちは、たわいない問いかけを繰り返している。

「何だ、あれは。」

 隣で劫が眉をひそめて問うのに、天は説明する。

「なにって、<神隠しサマ>だよ。あーやって、質問すると答えてくれるんだって。すげえ流行ったじゃん。」

「ようは、コックリさんだろう。エンジェルさまというのも聞いたことがあるが…なぜ神隠しなんだ?」

 今まで、暇つぶしの遊びにすぎず、深く考えたことなどなかった。だが、劫がこだわるなら、意味のあることなのだと思い、天は記憶を探る。

「確か、七不思議だよ。」

 天の言葉と同時に。

<神隠しサマ>に興じていた少年たちが、声を揃えて、言った。

「<神隠しサマ>、ありがとうございました。お礼に、ハヤシヒロキの魂の一部を生贄に捧げます。受け取ってお帰りください。」

 声と同時に、少年たちが消え失せた。

「生贄だと?」

 劫の声のあまりの険しさに、天は身震いする。

「そ、そう。六百六十六回生贄に選ばれたら、<神隠しサマ>に、次元の狭間に連れていかれるってのが、七不思議の一つで。」

 言いながら、天はハッとする。

 次元の狭間。

 それは、まさか。

「ここが、その。」

 タンッと、何かが軽やかに着地する音がした。

 教室の窓から跳びこんできたのは、眩い銀色の毛並の狼。燃える炎をまとった…。

「ホムラオオカミ!」

 天が声を上げた。劫と一緒にこっちに来たはずなのに姿が見えないと思ったら。

 焔狼は、一匹ではなかった。もう一匹、否、正確にはもう一人。鋭い牙を備えたあぎとが、一人の少年の襟首をくわえていた。

 少年は気を失っているらしい。目を閉じたまま、ピクリとも動かず、だらりと四肢を投げ出している。

 焔狼は、少年の襟首を離し、劫へと歩み寄る。劫は、膝をついて、焔狼の額の毛をそっとなでた。

 燃えてる毛皮に触って大丈夫なのかと天はギョッとしたが、劫の手は火傷一つ負わずに綺麗なままだ。焔狼の炎が、主である劫を害することはない。

 焔狼を見る劫の目が、少し細められた。

「よくやった。」

 褒める声。

 天は、さっきとは別の意味で驚く。

 劫の表情の変化は、ごくわずかで、他の誰かでは気づかなかっただろう。けれど、ずっと劫を見ていた天にはわかる。

(火宮、ホムラオオカミには、優しい。)

 劫が立ち上がる。気絶している少年を、あごで示す。

「こいつに、見覚えはあるか?」

「…ない。初めて見る。」

「こいつが、ハヤシヒロキだ。」

「え。」

 天は、慌てて少年の胸に視線を向ける。

 劫や天の胸にもある、プラスチック製の名札に刻まれているのは、確かに林裕輝という名前。

「…ん…。」

 林裕輝が目を開けた。ガバッと身を起こし、喚き散らす。

「助けてくれ!もうやめてくれよおっ!」

 恐怖に染まった、絶叫だった。

 そして、天を見て。

「風祭っ!風祭っ!頼む!助けてくれ!」

「え…。」

 天は、目を見開く。

 腰が抜けたのか、立つこともできず、膝で天ににじり寄って叫ぶ少年に、天はまるで見覚えはない。名前にすら聞き覚えはない。

 それなのに、林裕輝は天を知っている。

「おまえ…誰?なんでオレのこと知っているんだ…?」

「や、やめてくれよ。なんだよ、それ。今までのことなら謝るから、助けてくれよっ!」

 林裕輝は、ガタガタと震えながら、必死で訴える。その顔は、悲愴そのものだった。

 す、と劫が割って入り。

「無駄だ。」

 ばっさりと切り捨てる声で一喝した。さほど大きな声でもない。しかし、静かな分、無情に響く。

「<神隠し>に連れ去られた時点で、きさまの存在そのものが消されたんだ。」

「そう。それが、ボクに捧げられた生贄の運命さ!」

 あははははははっ!

 きん、と耳を刺す笑い声とともに。

 周囲が真っ暗になった。

 否。

 床を、壁を、天井を、空間の全てを、漆黒の手が埋め尽くしたのだ。

 黒く染まった教室に、彼は突然現れた。

 教卓に座り、投げ出した足をぶらぶらと揺らして笑っている。

「ようやく現れたか、<神隠し>。」

 劫が、少年を見据え、不敵に笑った。獲物を前にした肉食獣さながらの、危険な笑みが、彼には何よりも似合って魅惑的だった。

 天は、魅入られて、一瞬何もかも忘れた。

 戦慄する笑みを向けられたのは、天たちよりもいくつか年下に見える、小柄で華奢な美少年。劫の硬質な美貌とは真逆の、妖気の漂うような麗姿だ。

 天は、どこかで見た顔だと思う。どこで、と思い出す前に。

 林裕輝が、空気を切り裂くような悲鳴を上げた。ガシャン、と音がした。机に手をついて立ち上がろうとした林裕輝が、その机を倒したのだ。

「うるさいなあ。」

<神隠し>は、うんざりした顔で、林裕輝にちらりと視線を流す。それだけの表情の動きが、匂い立つほどにも妖艶で、同時に冷酷だった。

 虫けらほどにも価値がないものに向ける視線だと、劫は思う。

「ボクは、炎の君と話したいんだ。邪魔しないでよ。」

 ひっと林裕輝の喉が鳴る。

 瞬間、黒い手が、林裕輝を包み込んだ。林裕輝ごと、黒い手は廊下に消える。

「追え、焔狼!」

 銀の狼が床を蹴り、窓から廊下に飛び出す。

「これでゆっくりキミと話せるね。」

 にこ、と<神隠し>は劫に向かって笑う。無邪気に見えて、その大きな黒い瞳は底なしの闇のようだ。

「俺は話などない。」

 劫の手が、掲げられる。いつの間にかその長い指に一枚のカードを持ち。好戦的に目を輝かせて、高らかに叫ぶ。

「招来、火の序列五位、金毛玉面九尾狐(きんもうぎょくめんきゅうびのきつね)!」

 眩い光とともに、カードから金色の狐が飛び出す。九つの尾を持った、燃える炎をまとった狐。

 狐の尾から炎が噴き出す。

<神隠し>を直撃する。しかし、<神隠し>の前に無数の黒い手が伸び、盾となる。

金色の炎が視界を焼く。

爆炎の向こうで、鈴の音のように笑い声が反響する。

「すごいねえ、炎の君。すごいすごい。」

 燃え上がる金の炎。火の粉が舞う先で。

「キミと遊ぶの、すごく楽しそうだ。すぐに終わらせるの、もったいないや。」

「九尾!」

 劫が鋭く命じる。金の狐は、先に放った炎に、再び炎をぶつける。

 しかし、黒い手に阻まれて、<神隠し>に届かない。

「追いかけっこしよう、炎の君。追いかけるばっかで、ちょっと飽きてきてたんだ。だから、キミがボクを、追いかけて。」

 声と同時に、黒い手も炎も金の狐も消え失せた。

 劫が舌打ちしながら、カードをしまう。

 嵐のように走り出す。天は、慌てて追いかけた。

 廊下を走る劫を、天は追う。舌をかまないように気をつけながら、息を弾ませて問いかける。

「なあっ、火宮!さっきの話からすると、オレは、本当は林ってやつを知ってるんだよな!」

 前を走る劫は、無言だったが、小さく頷く。

「じゃあ、忘れてるのは、<神隠し>のせいなのか?<神隠し>って一体何なんだ!」

「おまえたちが作った呪いだ。」

 え、と天は足を止めそうになる。

「オレたちが作ったって、どういう…。」

「走っても無駄のようだな。」

 劫は、全く関係のないことを呟いて、足を止めた。

 天は、転びそうになりながらなんとか踏みとどまり、ぜいぜいと肩で息をする。

「無駄って。」

 劫は、わからないのか、と言いたげに、前方を指した。

「はは、本当だ。」

 天は、力なく笑って座り込んだ。

 無限廊下。

 果てが見えなかった。

 廊下がどこまでもどこまでも伸びている。

 さっきまで、校舎は現実の世界と変わりない作りだったのだが。どうやら<神隠し>の意志で、この異界はどうとでもなるらしい。

「そうだ、<神隠し>。オレたちが作ったって。」

 一般に言われるような神隠しとは違うのはわかった。

「誰かが言い出した、ただの作り話じゃないのか?ほら、都市伝説ってやつ。」

「そうだ。最初は、ただの作り話だった。だが、多くの人間が、何度も繰り返した。<神隠し>が、呪術と化すほど浸透してしまった。」

「そんな。」

 天は上ずった声を上げた。

「呪術って、そんな大げさな。みんな面白半分っていうか、遊びでやってただけで、本気で信じてるやつなんて誰も。」

「そんなことは関係無い。」

 劫が断言する。

「広く知れ渡った時点で、<神隠し>は儀式であり、信仰だ。さらに、妖怪でもある。おまえたちが名づけ、生み出した<神隠し>は、そんな厄介なモノだ。」

 無限に続く廊下に、劫の冷ややかな声が響く。

「これは、ただのコックリさんの亜流ではない。」

 蔑むような憐れむような、冷めた表情。

「考えてみろ。<神隠し>を呼ぶたびに、誰かを生贄にしているんだ。それは、生贄に選んだやつを呪う行為だ。」

「あ。」

 天は、がん、と鈍器で殴られたような気がした。

 ただの遊び。本当に相手に何かが起こるわけではない。言葉だけのこと。

 みんなそう思っていた。何の罪の意識もなく、そうとは知らずに、

「オレたちは、呪いをかけ続けていた…。」

 床に落とされた視線。そのまま次第に血の気が引いていく天を一瞥し、劫は顔を上げた。

 果てのない廊下。片側には教室。もう一方には窓硝子。いくつもいくつも並んでいる。見つめていると眩暈が起こりそうな、狂った、閉じた空間。

 嫌悪や侮蔑、憤怒、憎悪。負の感情を煮詰めるように凝縮して編まれた網だ。

(式神の炎では壊せんな。)

 式神は、妖。<神隠し>と根源を同じくする闇のもの。この閉じた空間を浄化するには向かない。

 劫は、天から離れる。すうっと息を吸い込んだ。

「ノウマクサンマンダ・バザラダン・カン!」

 ゴウッ。

 劫の周囲が炎に包まれた。

 燃え盛る真紅。普通の朱色の炎とは違う。鮮血の赤。鮮やかに容赦なく、全てを無に帰す。

 全ての邪悪を焼き清める、浄化の火。

 天が目を丸くして炎を、そしてそれを生み出した劫を見上げている。

「焼き払え!」

 劫が叫んだ。

 炎が走る。

 無限の廊下を、閃光のように、火炎が広がる。

 爆発的な勢いで、炎上する。

 轟音とともに、全てが焼け落ちた。

 後に残ったのは、見慣れたいつもの三階廊下。

 天は声もなく、劫を見上げていた。

 何もかもを、天の心に生まれた淀みすらも、有無を言わせず浄化するような、そんな灼熱の劫火だった。

 劫が肩ごしに振り向いた。

「おまえ、まだ、俺の役に立つ気はあるか?」

 見てくれた、と天は思った。初めて、劫の方から。

「あるに決まってる。」

 天は、考えるより早く、答えていた。

「それに、<神隠し>は、オレたちが作ったんだろ。だったら、責任、とらないといけないと思う。」

 ふ、と劫が唇の端をつり上げる。微笑んだわけではない。全然優しくない笑い方なのに、天はなぜか嬉しくなる。

 劫は、天に近づいて、片膝をついた。カードを一枚、天に向かって差し出す。

「貸してやる。火の序列七位、火車(かしゃ)だ。」

「火車…。」

 カードに描かれているのは、猫だった。紫色の炎をまとい、目を鋭く光らせている。ただの絵なのに、天は、睨まれている気がした。

 カードを持っている劫の手が、赤く光った。赤い光は、そのままカードに吸い込まれて消える。

「今、俺の霊力を火車に与えた。火車は、俺の式神だ。式神は、霊力を与えることで使役できる。おまえは俺と霊力の波長が似ている。呼べば現れる。」

「霊力をくれた相手だって、勘違いしてくれるってことか?」

「そうだ。」

 と劫は頷いた。劫の目が、射抜くように天を見据えた。

「式神を使役するのは、技と力と心だ。おまえには、技も力もない。心だけが、おまえの武器だ。」

 天は、手を伸ばした。カードを受け取って、ギュッと握りしめる。

「…ありがとう。」

 天の顔に広がった笑みは、覚悟を決めたもののそれ。

 劫は一つ瞬きをして、立ち上がった。

「俺は、焔狼を追う。おまえは、<神隠し>の本体を探せ。」

「本体?」

「この異界のどこかに、<神隠し>の核がある。それを潰さない限り、<神隠し>を滅することはできん。」

 劫は淡々と言うが、天はうーんとうなる。

「なんかヒントくらいないの?」

「知るか。あれは、おまえたちが作り出したものだろう。」

 自分の頭で考えろと、言外に諭された気がする。

 天が、わかったと頷く。劫は軽く頷き返すと、身を翻して廊下を走り去った。

 しん、と沈黙が落ちる。

 一人になると、急に、心細くなった。

 静けさに包まれた校舎。自分の息づかいだけが、やけに大きく聞こえる。

<神隠し>の核。

 天は、目を閉じた。

 考える。あれを作り出したのが自分たちなら、きっと手がかりは自分の記憶の中にある。

(そう言えば、どっかで見た顔なんだよな。)

<神隠し>の姿には、既視感があった。どこかで見た気がしていたのだ。

 どこで。

(<神隠し>。七不思議。儀式。生贄。呪い。)

「呪い。そうか、渡り廊下の銅像!」

 天は叫んだ。

 校舎と体育館をつなぐ渡り廊下。そこに設置された少年の像に、<神隠し>の姿は似ていた。

あの銅像にも、目が合うと呪われるという噂あった。

「確か七不思議の一つだったよな…。」

<神隠し>も、呪いであり、七不思議。六百六十六回生贄に選ばれたら、<神隠しサマ>に、次元の狭間に連れていかれる。

 渡り廊下の銅像も、目が合うと呪われる七不思議。

呪いと、七不思議。共通するキーワードによって起きる同一化。

子どもたちが、<神隠し>の容姿として思い浮かべるのに、あの銅像ほど適当なものはない。繊細な美しさを持ちながら、退廃的で不吉な少年の像。

<神隠し>を作り出したのは、この学校に通う子どもたち。彼らが<神隠し>の姿として、あの銅像を選んだなら、彼らのイメージに、<神隠し>は縛られる。

天は走り出した。劫から受け取ったカードを握りしめて。

劫は、焔狼の気配を追って、階段を駆け上がる。その足取りに迷いはない。使役している式神の気配を間違うことはない。

息も乱さず走りながら、劫は、ようやく話が見えてきたと思った。

(こんなことなら、クラスのやつらの動向に多少は気を配るべきだった。)

 劫は、クラスの誰とも関わらず、誰が何をしているかに全く関心がなかった。天に聞くまで、呪いとして成立するような遊びが流行っていることに気づかなかったのは失態だったと、唇をかむ。

 劫は、屋上に続く扉の前で、足を止めた。

 屋上のドアは、当然施錠されている。ここは、<神隠し>が意図的に操作しない限り、現実の学校と同じ作りになっているはずなので。

「カン!」

 劫は、不動明王の一字呪を唱えた。可能な限り短くした真言は、本来のものより威力は小さいが、劫にはそれで十分。

 ドアが炎に包まれ、瞬時に焼け落ちた。

 悠然と進んだ先には。

 真っ暗な空。

 月や星が雲に覆われた時の夜空とは違う。月も星も雲も、何一つ存在しない、虚無の闇。

 異界の、まがいものの空。

 その証拠に、光源はないのに、視界に不自由はない。

 屋上のコンクリートの床には、無数の手に覆われた、林裕輝が転がっている。焔狼が、鋭い牙で、黒い手を引きちぎっている。目を閉じたまま、微動だにしない。意識はないようだった。

 焔狼は、劫に一声鳴いた。

 劫が軽く頷いた時、ゆらりと空気が揺らめいた。闇が凝る。瞬き一つの間。

劫の背後に、<神隠し>が現れた。

「あれ?そいつ助けるの?」

 軽やかに問いかける。

 劫は振り向いた。

<神隠し>は劫の鋭い視線を受け流すように、ふふ、と笑ってみせる。

「その人間、助ける価値なんてあるのかなあ?」

 一歩、近づく。

「そいつは、みんなに嫌われていた。ボクの贄に選ばれ続けるくらいにね。そしてそれは、当然の報いだった。キミも、知っているだろ?」

 林裕輝は、所謂、問題児だった。

 授業中に奇声を上げ、走り回り、授業の妨害をする。当番活動は当然のようにさぼる。クラスメイトへの暴力行為。持ち物を壊されたり、教科書を破られたりした児童は数知れない。

 そんな子どもは、学年に一人か二人はいるものだが…彼は度を越していた。

 社会に出れば「傷害」という名の犯罪行為でも、学校という場所では、取り締まる人間も、法的拘束力も発生しない。

 耐えるしかない子どもたちは、林裕輝を呪った。

 あいつさえいなくなれば、と。

 作り物の呪術、まがいものの儀式。

 けれど、そこにこめられた憎悪は本物。

 それゆえに、呪いは成就した。

生み出された<神隠し>は、林裕輝を異界へと連れ去り、脅威の去った子どもたちは、全てを忘れた。<神隠し>は林裕輝の存在した事実そのものを消し去ったのだ。

おそらく、それが、<神隠し>を作り出した子どもたちの真の願いだった。

あんなやつのこと、おぼえていたくもない、という。

「そんなやつ、放っておけばいいと思うよ?」

「何を勘違いしているのか知らんが。」

 劫は、カードを一枚、長い指に挟む。

「俺はこいつなどどうでもいい。」

「?どういうこと?キミはこの人間を助けに来たんじゃないの?」

「俺はおまえと戦いたいだけだ!」

 劫がカードを掲げて呼ぶ。

「招来!火の序列五位、金毛玉面九尾狐!」

 カードから、黄金の炎をまとった狐が飛び出す。

 九尾の狐は、その尾から火の玉を放つ。

<神隠し>の前に、漆黒の手が立ち塞がる。炎は、漆黒の手を焼き払うが、そこで燃え尽きて、<神隠し>には届かない。

「無駄だって。」

<神隠し>は、鼻先で嗤った。

 劫は、目をすがめて思案する。

 炎を漆黒の手で防ぐということは、当たればダメのージがあるということ。しかし、九尾の炎では、漆黒の手を焼き尽くすのが精いっぱいで、<神隠し>に到達できない。

(なら、もう一段上を使うか。)

「戻れ。」

 劫の一言で、金の狐はカードに戻る。

 劫は、自分の霊力を与え、焔狼や九尾の狐などの式神を使役している。自分自身が真言を唱えて術を行使するより、その方が霊力の消費が少ないからだ。

 だが、序列が上になれば、その分霊力の消費は大きくなり、制御も難しくなる。

 序列四位が、今の劫に扱える最高位の式神だ。

<神隠し>は身構えた。

 漆黒の手が伸びる。

「招来、火の序列四位、八咫烏!」

 カードから、三本足の烏が飛び出す。闇を凝らせたような、漆黒の翼を羽ばたかせて。

 漆黒の翼から、同じ色の炎が噴き出す。

 黒い手を、黒い炎が焼き尽くし。

 炎は、その勢いのまま、<神隠し>へ向かう。

「甘い。」

<神隠し>が、す、と手の平を炎に向けて差し出した。その白い手の中に、黒い円が生まれる。一見、しみのように見えたそれは。

「穴、だよ。」

 八咫烏の炎は、すうっとその穴に吸い込まれて、消えた。

「!」

 劫は、目を見張った。その一瞬の隙が、命とり。

 劫の立っていた場所から、漆黒の手が生えた。屋上のコンクリートを突き破って。

 砕けた破片が飛び散る。

「がっ…。」

 劫の呻き声。

 漆黒の手が、刃と化して、劫の全身を切り刻んだ。

 飛び散る血飛沫。傷口から流れ落ちた鮮血が、ぽたぽたとコンクリートを濡らしていく。

 シュルッと音をたて、黒い手は<神隠し>のもとに戻る。黒い手についた劫の血を、<神隠し>の舌が舐めとる。

「キミの血は美味しいね。」

<神隠し>が、無邪気に残酷に笑い、穴の開いた白い手をかざす。

「これはねえ、異次元に通じてる穴なんだ。キミの炎だって、どこか別の次元に送ってしまうのさ。」

 得意げにくすくす笑う。

「なるほど。」

 劫は呟いた。ざっくりと切り裂かれた頬から、つ、と真紅の滴が流れ落ちる。

六百六十六回生贄に選ばれたら、<神隠しサマ>に、次元の狭間に連れていかれる。

それが、子どもたちの作り出した設定。<神隠し>は、その設定に見合った能力を持っているということ。

(だが、妙だな。)

 劫は、傷を負った状況においても冷静に分析する。

(こんな便利な力があるなら、なぜ、最初から使わない?)

<神隠し>は、今まで炎を黒い手で遮っていた。

(試してみるか。)

に、と劫は唇の端をつり上げた。ピッと、親指の腹で頬につたう鮮血を飛ばす。

 凶悪で危険な、それなのにゾクリとするほど魅力に満ちた笑み。あやうい艶やかさ。白刃の煌めきにも似た。

<神隠し>は身構えた。

「八咫烏!焔狼!」

 劫が傲然と昂然と、高らかに己の式を呼ぶ。

 漆黒の烏が空をすべり、銀の狼が床を蹴り、主の前に馳せ参じる。

「やれ!」

 八咫烏が翼から生み出した漆黒の炎を、焔狼が吐き出した銀の炎を、<神隠し>に放つ。

 ぶつかり合って燃え盛る、黒と銀の業火。灼熱が風を生む。突風が渦巻き、それに煽られて炎が勢いを増す。

「無駄だよ。」

<神隠し>は、鼻先でせせら笑う。白い手を炎に向ける。

 吸い込まれて消える炎。

「まだだ!」

 八咫烏と焔狼は、炎を放ち続ける。

 しかし、触れたもの全てを灰燼に帰す爆炎も、異次元へと送られて、<神隠し>には届かない。

 劫のこめかみに汗がつたう。

 自身が術を使うより霊力の消費を抑えられるとはいえ、式神の存在は、劫の霊力が支えている。式神を行使し続ければ、劫は霊力を消耗する。

 それでも、

「八咫烏!焔狼!」

 劫は式神の名を呼んだ。

 しん、と静まり返った渡り廊下。

 中央には、少年の銅像。

 目が合うと呪われるという噂。七不思議の一つ。

 そんなものを心底信じている小学生はいないだろう。それでも、肌が粟立ち、背筋が冷える感覚がある。

 瘴気とも妖気とも呼ぶもの。

 今はそれほどでもないが、低学年の頃は、この像の前を通るのが嫌だったと、天は思い出す。

 目が合うと呪われるという噂は、具体的に何が起こるのかわからない分、不気味だった。

 そのせいもあって、この銅像の顔をしっかりと見たことはない。視界の隅にちらりと映った記憶を手掛かりにここに来たのだが。

「やっぱり、似てる。」

 天は呟いた。

 初めてまじまじと見る少年の像の顔。

 かすかに微笑む唇。幼く無邪気な、同時にいたずらっぽい笑顔が、少し角度を変えてみただけで、妖艶な、なまめかしいものと化す。

 <神隠し>の笑みだった。

 天は、劫の言葉を思い出す。

「この異界のどこかに、<神隠し>の核がある。それを潰さない限り、<神隠し>を滅することはできん。」

 逆に言うならば。

(核さえ潰せば、<神隠し>は滅ぼせる。)

 天は、大きく深呼吸して、カードを取り出した。

(火宮が、オレを信じてくれたんだ。)

 絶対に、やり遂げてみせると、天は誓った。

 ぎゅっと、カードを握りしめる。劫が唱えていた言葉を思い出して、真似る。

「しょうらい、火の序列七位、火車。」

 カードが急に熱くなった。

 カードから紫色の猫が飛び出す。

 衝撃にカードを取り落としかけ、天は指に力をこめた。

 大型の犬ほどもある、巨大な猫だった。

 夕焼け空のような紫の毛並。同じ色の瞳で、ひた、と見据えられ、天は息を呑む。

 澄んだ、アメジストの目が爛々と輝く。

 試すように、見透かすように。

 いかなる欺瞞も通用しない、真実を見抜く瞳。言葉を持たぬ人外の存在ゆえに、偽りを許さない。

 天は、ごくりとつばを飲み込んだ。

 火車を、まっすぐに見つめる。その先に、劫の姿を探すように。

「火車。おまえの本当の主のために、オレに力を貸してほしいんだ。」

 火車が、不快そうに目を細めた。それだけで、天は背筋が冷えた。

 火車が跳躍した。鋭い爪が閃く。

「っ!」

 天の腕に痛みが走る。鮮血が散った。

「つ…。」

 天は腕を抑えた。腕を伝ってぽたぽたと、赤い滴が流れ落ちていく。

(だめなのか。オレの言うことは聞いてもらえないのか…。)

 天は唇をかみしめる。

(火宮が、オレを信じてくれたのにっ…。)

 悔しくて、泣きそうになる。目の奥が熱くなる。

 やっと見てもらえたのに。火車を託してくれたのに。

(火宮。)

 毅然と前を向く、怜悧な美貌が脳裏をよぎる。烈火のように激しく眩しい、劫の眼差しが。

(あきらめるもんか。)

と思った。思い浮かんだ劫の瞳が、天にそう思わせた。

(火宮の役に立つって、決めたんだ。)

 天は、火車に向かって一歩踏み出した。血を流しながら。

「火車。火宮のために、この像を焼いてくれ。」

 紫の瞳を見据える。

 正直、怖い。もう一度とびかかってこられたら、今度はこの程度のけがではすまないかもしれない。

(だけど、火宮が言った。)

 心だけが、おまえの武器だと。なら、退くわけにはいかない。

「火車!焼けっ!」

 声が出た。腹の底から叫んだ。

 今まで生きてきた中で、一番大きな声。喉が裂ける勢いで。

「焼けッ‼」

 火車の目が光った。

 なぜか、天は、火車が笑ったように見えた。満足そうに。

 尻尾がぱたりと動き、その先端にぼっと炎が宿る。尻尾がうなり、紫の炎が、弾けとんだ。

<神隠し>の本体へと。

「ねえ、炎の君。」

<神隠し>は、かわいらしく、細い首をかしげて尋ねる。

「いつまで続けるの?」

 渦巻く炎。

 火の粉を巻き上げ、ごうごうと音を立てて燃え盛る。

 けれど、何一つ焼くことができないまま、<神隠し>の手の平に吸い込まれて儚く消える。

 ぽたぽたと伝うのは、真紅の鮮血と、透明な汗。

 劫は、ぎりっと奥歯をかみしめた。

 視界に黒い点が明滅する。今にも崩れ落ちそうになる体を、意志だけで支えて立つ。

 けれど、その眼光は鋭利なまま、<神隠し>を貫く。

「っ。」

<神隠し>がたじろいだ。完全に優位に立つ方が。

 劫は、昂然と傲然とあごをそらした。

「いつまで俺が炎をぶつけるか、教えてやる。」

 全てを焼き尽くす圧倒的な熱量を放って。

「おまえに限界が来るまでだ。」

<神隠し>の顔色が変わる。

「なにを、言って…。」

「おまえは、最初から、次元の穴を開かなかった。次元の穴を使える時間か、送るものの量のどちらか、あるいは両方に、限界があるからだ。」

「!」

 劫は、大胆不敵に笑う。

「勝負だ、<神隠し>。」

 劫は、取り出した新しいカードを掲げる。

「俺の炎とおまえの穴。どちらが先に尽きるか。」

 カードの序列は、三位。今の劫の霊力で召喚できる式神ではない。そう、霊力では。

「我が血を捧げて請願する。招来、火の序列三位、紅蓮竜!」

 ヒョオオオオオオオオッ!

 空気が戦慄の悲鳴を上げる。

 空間が、軋む。

「な、なに…。」

<神隠し>が初めて動揺を見せた。

(出てくる。)

 穴の開いた白い手が震える。

 カードから飛びだした。

 紅い竜。

 燃え盛る炎を全身にまとう。

 背に広げた翼。

 下界の矮小な生き物を睥睨する。

「ははっ。来たな、紅蓮竜…。」

 劫が満足気に笑う。

 全身から流れ落ちていた鮮血は、ぬぐったように消えている。紅蓮竜に捧げたのだ。

 血が見えなくても、ざっくりとした傷口があらわになっているので、凄惨な印象は変わらない。

 そのせいで、浮かべる笑みがひどく凄絶だ。

 足元がふらつく。

 紅蓮竜に渡したのは、流血した分だけではない。体に残っていた血液も、一部は渡した。

 貧血で今にも倒れそうだ。

 荒い息で、劫は命じる。

「焼け、紅蓮竜。世界の全てを滅ぼす業火で、俺の敵を焼き尽くせ!」

 紅蓮竜の全身から、炎が噴き出す。

 真紅の炎獄。

 世界全てを焦土と化す。

「うああああっ!」

<神隠し>が悲鳴を上げて、穴の開いた手をかざす。

 炎が、吸い込まれていく。

 しかし、業火は、いくら吸われても尽きない。

 後から後から噴き出して、燃え盛り、燃え続ける。

 視界を赤く紅く染めて。焼けた空気が熱風と化して荒れ狂う。

 その中心に、劫は立つ。気力だけで、炎を支えて。なびく髪は、炎に照らされ朱金に輝く。まっすぐに眼前の敵を見据え、瞬き一つしない。

 どれくらい続けただろうか。

 ピキッ。

 漆黒の穴に、亀裂が入る。

「!」

<神隠し>の手が砕けた。

次元の穴ごと。

 一滴の血も流れない。

 無機物でできているかのように、バラバラと破片がコンクリートに落ち、衝撃でさらに細かく割れた。

 同時に。

 炎が消えた。

 紅蓮竜も。

「ははっ!」

<神隠し>が笑う。

「あはははははははっ!」

 狂ったように。

「すごいね、炎の君。次元の穴を壊すなんて。でも。」

 手首から先がなくなった右腕を、左手で抑えて。

「キミの炎も尽きた。キミも、もう限界だろ?」

 くす、と花びらのような唇で、無邪気に残忍に笑みをこぼす。

「勝負あったね?」

「ああ。」

 劫は、告げた。刃の一閃のように。

「俺の勝ちだ。」

 瞬間。

<神隠し>は、紫の炎に包まれて燃え上がった。

「火宮っ!」

 屋上に、天がとびこんでくる。紫の猫、火車のカードを握りしめて。

「火宮!大丈夫か!」

 転びそうな勢いで駆け寄ってくる天に、劫は頷く。

「ああ。」

「よかった、火宮…。」

 ほっとして大きく息をつく天に、劫は視線を向ける。

ほんのわずか、笑みらしきものを唇の端に浮かべて。他の誰かが見てもそうとは気づかないが、天にはわかる。

「よくやった。」

「火宮っ…。」

 嬉しくて、顔をくしゃくしゃにして笑う天。

「どういう、こと…?」

 虚ろな声で、<神隠し>が呟いた。

 全身を炎で焼き尽くされ、コンクリートの上に倒れた、無残な姿で。

 天が、目を見開き、悲鳴を喉の奥でかみ殺す。

<神隠しの>肌は焼けただれ、まだ白く煙が立ち上っている。

 劫が静かに答えた。

「おまえは、縛られている。」

「ボクが?何に?」

 焼け焦げた眉根を寄せて尋ねる<神隠し>。意味がわからないようだった。

 劫は無表情に事実のみを伝える。

「おまえを作り出した子どもたちの意識に、だ。」

 生贄を次元に連れ去るという設定ゆえに、次元に穴を穿つ能力を備えているように。

 本体が銅像であるという設定ゆえに、核を焼かれれば…。

<神隠し>を生み出した子どもたちがそう決めたなら、核が<神隠し>の弱点だ。

「なるほど、ね…。キミは時間稼ぎの囮だったってこと…。」

 喉も焼かれた<神隠し>は、ほとんど息だけで呟く。

 劫は一歩、<神隠し>に近づいた。

「だが、手を抜いたつもりはない。本気で戦わなければ、おまえの目を核から反らしてはおけなかった。」

<神隠し>は、初めから天は眼中になかった。無力で何もできない存在だと。だが、それでも、劫が全力を尽くしたからこそ、この結果がある。

 ふ、と<神隠し>は笑った。無邪気でも残忍でもない。初めて見せる笑顔。満ち足りた目で。

「そっか。なら…いいや。ボクは…闇にかえるよ。」

 さら、と。<神隠し>の輪郭が崩れる。さらさらと、風の前の砂の造形のように。儚く消えた。

 同時に。

 世界が色を失う。

 透明に澄んで、淡く。

 光の中に、溶けていく…。

五月十七日(土)午前十時三十分


 林裕輝は、病院のベッドの上で、じっと天井を眺めていた。数日前に目を覚ましてからずっと。

刑事だという、父親と同い年くらいの大人の説明によれば、自分は二か月近く行方不明になっていたのだという。正確には、5年生の始業式の四月七日から、五月十三日まで。

「その間、どこにいたのかね?」

 と聞かれ。

 林裕輝は何も答えられなかった。

「何も憶えてねえよ。」

としか、言えなかった。

 警察は、事故と事件の両方の可能性を視野に入れて捜査するそうだが、真相は永遠に闇の中だろう。

(オレは、<神隠し>につかまって、ずっといたぶられ続けていたんだ。)

 そんなことを信じてもらえるとは思えなかった。頭がおかしくなったと思われるだけだとわかっていた。だから、沈黙するしかなかった。

 永遠に朝が来ない、真っ暗な夜の学校で、何度も殺されかけ、ぎりぎりで解放される。そしてまた、追い詰められる。繰り返される悪夢。

 思い出しただけで、震えが止まらなくなる。呼吸が荒くなる。汗が噴き出す。

 ふーっ、ふーっ、という自分の息使いだけが響く病室で、林裕輝は思い出す。

 悪夢の終わりに、現れた少年のことを。

 場所は、教材室だった。窓を塞ぐように雑多なものが積み重ねられているせいで、薄暗い。その中で、彼だけが光を放っているように見えた。

 腕を組んでこちらを見下ろしていた、ぞっとするほど冷たい瞳が、林裕輝の記憶に焼き付いている。

 テレビに映るアイドルなど比べものにならないほど、整った顔立ちだったが、その目のせいで、<神隠し>以上に恐ろしく見えた。

「<神隠し>は消えた。おまえを知っている人間は、おまえの存在を思い出す。おまえは、もとの生活に戻れる。」

 ひとかけらの感情も含まれない声が、事実だけを端的に説明する。林裕輝が、わけがわからないまま、それでもホッとしかけた時。

「だが。」

 と、凍てつく瞳が細められる。

 林裕輝が蒼白になる。

「おまえが変わらない限り、また同じことが起きる。」

 脅しでもはったりでもないと、その目を見ればわかる。

<神隠し>は、子どもたちの憎悪が生み出した魔物。林裕輝が再び憎悪の対象になるのなら、<神隠し>は闇から甦る。黄泉返り、生贄を異界へとさらうのだと。

 林裕輝は一人きり、病室で震え続ける。もう二度と、安らかな眠りは訪れない気がした。

 窓から見える空は突き抜ける青さ。どこまでも透明に澄んでいる。五月の明るい陽光と、清々しい風。

 病室にも日射しは降り注いでいるはずなのに、部屋の中は薄暗かった。

五月十七日(土)午前十時三十分


 運動場には、スピーカーから、軽快で速いテンポの、明るい音楽が流れている。

 青空に翻る万国旗。

 紅白に塗られた入場・退場門。

響く雷管の音。その度に上がる歓声。

 燦々と降り注ぐ初夏の日射しの下、子どもたちの体操服が、くっきりと白く見える。

 ふっと、音楽が止まった。

「プログラムナンバー4、演技名、高学年全員リレー、「つなげ、魂のバトン」。」

 スピーカーからアナウンスが流れる。

 クラスカラーのはちまきを締め、入場門に並ぶ子どもたちは、程度の差こそあれ、皆、それなりに緊張した顔をしている。

 その中で、二人の少年の表情だけが、周囲の子どもたちのそれからは浮いている。

 天は、わくわくした気持ちを抑えきれない満面の笑みを浮かべている。

「火宮、がんばろうなっ!」

 前に立つ劫の肩に手をかけ、耳元でささやく天。

 劫は、心底どうでもよさそうな無表情のまま、うっとうしそうに天の手を払いのける。

「無視すんなよ、なあ、火宮。火宮ってば。」

 天はめげずに、劫のはちまきを軽く引っ張る。天の頭にも、揃いの赤いはちまきがある。

「やめろ。」

 劫は横顔を見せる程度に振り向いて、天をにらみつける。

 にらまれたのだが、少し劫の顔が見られただけでうれしくなった天が、さらに笑みを明るくする。

「入場。」

 指揮台に立つ教師の声が、マイクを通して運動場に響く。

「駆け足、はじめ!」

五月十七日(土)午前十時三十五分


 雷管の音とともに、第一走者がスタートする。自分に出せる精いっぱいの力で、走る。

 二百メートルトラックの半周が、一人分の距離。一分にも満たない時間。

 テイクオーバーゾーンで、バトンが渡る。

 手から手へ。

 一本のバトンが、クラスメイトの手を渡っていく。

 天は、息を詰めてトラックを見つめていた。

 既に、リレーは終盤。

 赤いはちまきの一組のランナーは、七瀬(ななせ)(かおる)。順位は、5クラス中、2位。

 アンカーの劫にバトンを渡す天へと、息を切らせて走ってくる。

(あれくらいの差なら、オレと火宮なら…。)

 天は、ちらりと劫を見た。

 アンカーだけは、トラックを一周するので、劫は天のすぐ近くにいる。

 一組の子どもたちが、息を呑んだ。

 七瀬(ななせ)(かおる)が、転倒した。

 すぐに立ち上がるが、既に他のクラスのランナーと大きく差がつき、最下位に。

 七瀬(ななせ)は、泣きそうな顔で、バトンを持つ手を伸ばしてくる。

 一人きり、テイクオーバーゾーンに立つ天へ。

「ごめんっ…。」

「大丈夫!」

 叫んでバトンを受け取った天は、走った。

 景色が、すごい勢いで流れる。

 風がうなる。

 心臓がきりきり痛む。

 息が苦しい。

(追いつけっ!)

 天は歯を食いしばって走る。

(火宮までつなげば、あいつが、絶対にっ。)

 前のランナーの背中が見える。

 一人抜いたところで、もう、一位のクラスのアンカーがスタートしている。

 テイクオーバーゾーンに、劫の背中がある。

 劫が、振り向いた。強い陽射しに透ける、栗色の髪がなびく。

 毅然と澄んだ強い目が、天を射抜く。

「風祭!」

 凛と。

 劫が、天を呼んだ。

「!」

 パシン、と。

 叩き付けるように、天はその掌に赤いバトンを託す。

 劫が走り出す。

 天は、崩れ落ちるように膝をつきながら、目だけが吸い寄せられるように劫を見ていた。

(速っ…。)

 天だけでなく、その場にいた全員が目を見張っただろう。

 劫は、恐ろしいほど速い。

 あっという間に、前のランナーに追いつき、追い越していく。

 飛ぶように、駆ける。

 背中に透明な翼でも広げているかのように。

 赤いはちまきが、大きくなびく。

 白い布が張られる。

 教師が、雷管を構える。

 黄色のはちまきをしめた少年が、ゴールする寸前。

 突風のように滑り込んだ劫が、一位でゴールテープを切った。

 パンッと。

 青空に雷管が鳴った。

五月十七日(土)午前十時四十分


 心臓が、どくどくと脈打っている。

 劫は、肩で大きく息をした。

 命がかかっているわけでもないのに、こんなに本気で走ったのは、初めてかもしれない。

「火宮っ!」

「うわっ!」

 思わず間の抜けた声を上げてしまったのは、後ろから天に抱きつかれたからだ。

 首に回された腕で、ぎゅっと。渾身の力を込められて。

「すげー!やっぱ、おまえ、すごいぜ、火宮っ!」

「離せっ。」

「やだっ!」

「おい…。」

 劫が舌打ちする。

 あははははっと、天の明るい笑い声が響く。

「離れるから、これ、くれよ!」

 巻き付かれた腕がほどかれると同時に、しゅるっと、劫のはちまきがほどかれる。

「あのな…。」

 劫はうんざりする。クラスカラーのはちまきは、閉会式までつけている決まりだ。何の悪ふざけだと、怒鳴りつけるより早く。

「オレのやるから。」

 ぐいっと、劫の手に、天のはちまきが押し付けられる。

「5の1 風祭天」とマジックで記名された、劫のそれよりやや縫い目が不揃いな。

「いいじゃん、交換。」

 にこっと笑う天に、劫は、毒気を抜かれてしまった。

「ほら、おまえたち、退場するぞ。」

 すぐそばで雷管を持った教師が、苦笑しながら言った。

 なあ、火宮。

 オレにとって、おまえはヒーローなんだ。

 誰も知らない場所で、誰かのために戦うヒーロー。

 

                  終

 

 




 現代らしい少年陰陽師ものにしたかったので、式神を呼び出す呪符を、トレーディングカード仕様にしてみました。しかし作中では一度も陰陽師と言っていない…。読んでくださった方がもしいたら、とてもうれしいです。ありがとうございます。

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