三十五話
魔法の練習を終え軽く汗を拭いた後、陛下との謁見のためにフロックコート……ではなく、アンナさんに渡された燕尾服に身を包む。
それにしても、殿下はなぜ怒ったのだろう。
もしかしたら魔法を使えないのだろうか。いや、彼女は王女……一級の魔術師や精霊術師に魔法を教えてもらえるはずだ、そんなことはあり得ない。
魔法を教えてもらう事を断る理由はないはずだ。
……次に会ったら謝ろうかな。いや、何に対して謝るのかわかっていないのに形だけ謝っても失礼だよね……と、思考を張り巡らせていると、眼前に迫っていたアンナさんに気づいた。
「な……何?」
驚き、王城に来るまで保っていた口調が崩れる。
「その……ネクタイをお締めしようかと……」
「いいって、自分でやれるから!」
「でしゅが……」
……なんというか、アンナさんってメリアと似てるところがあるような。
というか、また噛んでる。
「ぐす……私では不安ですか……」
「えっ?いや……違う!違うから!」
「では……」
「分かった!お願いできるかな?」
「はい!」
満面の笑顔で言われ、妹というのは本来こういう暖かいものなのだろうか……と、思考の奥深くで思っていた。
「んしょ……あれ?右の穴に入れるのかな……ううん、もう一回まわすのかな……?」
……大丈夫かな?
背伸びをしながら一生懸命にやっているので、あとは自分でやるとは言えない。……断じて言えない!
ぴょんぴょんと跳ねるたび、彼女の頭が僕の鼻付近に近づき、そこから漂う女の子特有の甘い匂いが僕の鼻を刺激し、なんだかいたたまれない気持ちになった。
「で、できました!」
一仕事終えたような……達成感に満ち溢れた顔を見せてくる。
「ありがとうございます」
「いえ……あ!香水を持ってくるのを忘れていました!」
「香水……?」
「すぐにとってきますね!」
「えっ……ちょっと……」
半ば走り気味に部屋を出ていったアンナさん。丁度入れ替わるようにトレントさんが入ってきた。
「……フェイ様、アンナがご迷惑をおかけしました」
僕のネクタイを見た瞬間、そう言いながら頭を下げて来た。
「いえ……大丈夫です」
ぐるぐる巻きに締められた……いや、絞められたネクタイをほどきながら言う。
「慣れてましたから」
「慣れている……ですか?」
「ええ、僕にも昔……妹がいましたから」
「……なるほど」
僕が言うと、得心を得たといった顔で頷いていた。
「フェイしゃまー!持ってきました!」
息を荒げながらアンナさんが戻ってきた。
右手に、何か持っている。
「……アンナ、それは食用油ですよ」
「ふえ?本当だ!」
「どうしたら、厨房に置いてある油と香水を間違えるんですか?」
「ご、ごめんなしゃい!」
「はあ……一緒に取りに行きますよ。フェイ様、少しお待ちください」
「分かりました」
アンナさんに呆れながらも、しかし僕の方から見ればほおが緩んでいるトレントさんを見て、これが本当の兄なのか……と思った。
果たして僕はあの頃、兄でいられたのだろうか。
「……緊張しているのかな。柄にもなくこんなことを考えるなんて」
あの頃に戻ることはできないのに……無意味だと分かっていても、やはりあの頃過ごした楽しい日々を忘れることは出来なかった。
そしてそれ以上に、精霊契約を終えた後の仕打ちを忘れることは出来なかった。