百八十二話
「本当にすみませんでしたぁッ!!」
「もういいわよ。怪我もなかったんだから」
鍛錬が終わり、各々が荷物を纏めて実技施設を出ようとしている中、先ほど自らの失態でレティスを危険な目に晒してしまったゲイソンは、今なお彼女に向かって頭を下げ続けている。
そのしつこさにレティスは僅かに顔を引きつらせていた。
「ふんっ、いい気味ね」
それを眺めていたアイリスは小さく鼻で笑うと、そんなことを口にした。
いつもはそんなアイリスの挑発めいた言葉に乗っかるゲイソンだが、流石の彼も今は返す言葉もないらしい。
苦虫を噛み潰したような顔で俯いた。
普段はうるさいぐらいだが、静かなら静かでどうにも落ち着かない。
フェイは堪らず肩を落としたままのゲイソンへ声を掛ける。
「まあまあ、殿下もこう仰られてることだし。怪我もなかったんだからさ」
「……ああ」
「ぷっ、フェイくん。それ、逆効果よ」
アイリスは可笑しそうに笑いながらそう言ってきた。
一瞬首を傾げるが、すぐにその言葉の真意に辿り着く。
ゲイソンが無理な魔法の行使によって暴走し、レティスに危害が及ぼうとした時。
誰よりも彼の行いを咎めたのはフェイだった。
そんなフェイに気にするなと言われても、アイリスの言うとおり逆効果だろう。
消沈しているゲイソンをどう宥めたものかと一同が思案していると、実技施設の入り口の方から気配がして、自然にそちらを向いた。
「――っ」
フェイは瞠目する。
現れたのが、セシリアとエリスだったからだ。
二人はフェイに視線を注ぐと、施設内に足を踏み入れながらレティスへと体を向ける。
両者が会話をするのに適した距離まで近付くやいなや、二人はレティスへ向けて頭を下げた。
「ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません」
「別に気にしないわ。学園内で身分を持ち出すつもりはないから。ね?」
王族であるレティスが学園に編入したことを知らされたのが今日とはいえ、公爵家の人間として挨拶をするのが放課後になってしまったことを謝罪するセシリアとエリス。
それをレティスは微笑と共にかき消しながら、同時にゲイソンへ視線を送った。
彼女らしい配慮だと、フェイは思った。
レティスへの挨拶を終えたセシリアたちは、今度は、というよりもこちらが本命と言わんばかりの眼差しをフェイへ向ける。
フェイはぎこちない笑顔を浮かべながら、二人へ向き直った。
「久しぶり。エリス、……セシリア、姉さん」
「っ、フェイ」
「フェイお兄様……っ」
フェイの呼びかけに感極まったといった様子で応じる二人。
ボネット家本邸襲撃の件で王城に登城し、その際フェイはボネット家の面々に対して『みんなと昔みたいに接して行けたらと思うんだ』と内心を告白した。
残念なことに弟のブラムと、母親であるアディはその提案を拒絶。
しかし、セシリアとエリスは受け入れてくれた。
それ以来、ゲイソンとの和解や白帝竜絡みのことで完全に機を逸し、フェイは二人と会えずにいた。
事実はどうあれ、対外的にはフェイは男爵位を賜るディルク家の人間。そしてすでに、公爵位の授爵も決まっている。
そんな自分がボネット公爵家の人間に対して姉さんなどと呼ぶことは憚られたが、公的な場ではないのだから構わないだろうと、少しの照れくささと共に口にしてみた。
久方ぶりに口から零れだしたその単語は、どうにも慣れず、けれど懐かしく感じられる。
停まっていた時間が再び動き出したような、そんな感覚を抱いた。
「ごめん、ちょっとだけ」
ゲイソンたちに断って、フェイはエリスたちと共に少し離れたところへ移動する。
その背中を見ながら、レティスは嬉しそうに微笑んだ。
「フェイ、よかったわね……」
◆ ◆
「それで、一体どうかしたの?」
努めて砕けた口調で、フェイは二人の問いかける。
すると二人は少し恥ずかしそうに身をよじらせて、やがてセシリアが口を開いた。
「その前に、フェイ。もう一度呼んでくれない? さっきみたいに」
「わ、私もお願いしますっ!」
「……え」
セシリアの言葉に乗っかかるようにしてエリスもまた身を乗り出してきた。
二人の頼みの内容に困惑しながら、フェイは頬をポリポリと掻きながら先ほどと同じように「エリス、セシリア姉さん」と口にする。
二人はその言葉を噛みしめるように目を瞑り、余韻に浸ってから話を切り出した。
「今日は、フェイに特別用があったわけじゃないの。ただ、あれから会えてなかったから」
「ごめん。色々と慌ただしくて」
「責めてるわけじゃないわ。あれからまた王城に呼ばれたんでしょう? 噂程度には聞いているから」
セシリアの言葉に、フェイは曖昧に頷く。
公爵家の人間とは言え、流石に白帝竜のことまでは耳にしていないだろう。
あるいはアレックスが生きていたならすでに情報を握っていたやもしれないが。
現状、白帝竜のことについてどこまで情報を公開するかは、国王であるアルフレドの裁量次第だ。
帝級精霊は、その存在だけで世界のパワーバランスを大きく変えてしまう。
外交上、何よりも重要なカードなのだ。
だから、フェイもまたアルフレドの指示がない限りその情報を漏らしはしない。
「僕も姉さんたちとはまた話をしたいなと思っていたんだ。こんなところで立ち話するのもあれだから、今度、日を改めてどこかでお茶でも飲みながらなんてどうかな」
「は、はいっ。私ならいつでも大丈夫です!」
声を弾ませて何度も頷くエリスに、少し呆れ気味に視線を注ぎながらこくりと頷くセシリア。
二人の同意を受けて、「じゃあ、今度の休みはどうかな」と日程を詰めていく。
そうしてお茶の約束を取り合わせたフェイは、「じゃあ、殿下たちを待たせているから」と二人に背を向けた。
「――フェイ」
そんなフェイを、少しだけ緊張を孕んだ声でセシリアが呼び止める。
振り向いたフェイに、セシリアは口を開いた。
「ねえ、今度別邸に来ない? 本邸とは違ってあまり思い出はないだろうけど、それでもフェイも何度か行ったことはあるでしょう?」
本邸が襲撃によって全壊した今、セシリアたちは別邸へ身を寄せている。
その別邸に遊びに来ないかという誘いだ。
「…………」
セシリアたちの提案を受けて、フェイは黙り込む。
自分を気遣ってくれているのだろうと、フェイにはすぐにわかった。
正直に言えば、かつて自分が暮らした場所を訪れたい気持ちがないわけではない。
けれど、同時に辛い記憶も蘇る。
精霊契約に失敗してから、地に落ちた名声。
廊下を歩くと聞こえる、かつては神童や戦慄の魔術師などと持て囃した侍従たちの陰口。
分家の人間たちの、執拗な嫌がらせ。
そして何より――。
「いや、やめておくよ。あまりブラムたちと顔を合わせたくはないからね」
別邸には、ブラムやアディもいるだろう。
彼らが自分を拒絶するように、フェイもまた彼らを拒絶している。
フェイの返答に、セシリアたちは悲しげな表情を浮かべながら「そう」とだけ返した。