百七十五話
「……殿下、レティス殿下」
夜の静けさを守るようにゆっくりと馬車は屋敷の前で止まった。
フェイは少し悩んでから、静かな寝息を立てて眠っているレティスに声をかけた。
だが存外に眠りは深いようで、レティスは目覚めない。
年相応の無邪気な性格のせいで時折忘れそうになるが、レティスは王族だ。
起こし方にも当然気を遣う。
「失礼します、殿下。屋敷に着きました、起きてください」
フェイは少しの逡巡の後席を立ち、前かがみになりながらレティスの肩を揺り動かす。
少しして、「ん……っ」という声と共に彼女の青い瞳がゆっくりと外気に晒された。
およそ王族には見えない間の抜けた表情と焦点の合わない眼差しでフェイを見上げる。
少しして、レティスは現状を理解したのか顔を真っ赤にして慌ててフェイを突き飛ばした。
「……っ!」
「あっ、ご、ごめんなさい!」
「い、いえ……」
フェイの苦悶の声でレティスは自分が彼を突き飛ばしてしまったことを自覚し、即座に謝罪の言葉を呟く。
慌てて立ち上がった彼女を手で制しながら、フェイは大丈夫だと告げた。
「起こしてくれたのに、本当にごめんなさい。その、大丈夫?」
「大丈夫ですよ、幸い後ろはソファでしたから。それよりもすみません、折角眠られていたのに起こしてしまって」
「そ、そんなことで突き飛ばしたわけじゃないわよ! ……その、私の寝顔を見たでしょ?」
「……ぁ」
その言葉でレティスの言わんとしていることを理解したフェイは、途端に気恥ずかしさを覚えた。
彼女とて年頃の女の子だ。
同年代の異性に寝顔を見られて平気でいられるわけがないだろう。
フェイは抱いた羞恥を誤魔化すべく「でも……」と言葉を続ける。
「安心してください、もう僕は殿下の寝顔は見慣れていますので。王城で殿下を治療した際にも目にしましたし」
「――ッ、それはそれで釈然としないのだけどっ」
「えぇ……」
フェイにとってはフォローしたつもりが、レティスはむしろ怒りに肩を震わせる。
彼女の思考が理解できず、フェイは顔を引き攣らせた。
◆ ◆
「お、お帰りなさいませ! ……えっと」
車内でのひと悶着を経てフェイは馬車を降りると、レティスをエスコートしながら屋敷の入口へと向かった。
後ろからはフリールたちがついてきている。
トレントが屋敷の扉を開けると、アンナが気合十分の大きな声でフェイたちを出迎えた。
そしてすぐにフェイの横に立つレティスの姿に気付き、戸惑いを見せる。
フェイは「ただいまです」と応じながら苦笑する。
「この方はアルマンド王国第一王女、レティス=アルマンド様です。今日から暫くこの屋敷に滞在されることになりました」
「お、王女様! し、失礼しましゅたっ!!」
フェイがレティスを紹介すると、アンナは慌てて頭を下げる。
気が動転したためか最近は幾分か改善されていたものの思わず語尾を噛んでしまっている。
レティスはそんなアンナの可愛らしい所作に表情を綻ばせながら彼女の下へ近づく。
「そんなに畏まる必要はないわよ。この屋敷でご厄介になるのは私なんだから」
「そ、そういうわけには……」
フェイと違ってそもそも普通の平民であるアンナにとって、王女と顔を合わせること自体一生にあるかどうかだ。
レティスにそう言われても受け入れられるはずがない。
困り果てるアンナ。
そこへフェイは苦笑いを浮かべながら助け船を出す。
「まあアンナさん、殿下はこういう方ですからあまり固くならなくても大丈夫ですよ。僕も昔似たようなことを言われましたから」
「ちょっとフェイ、こういう方ってそれ私のことをバカにしてるの?」
「そんなわけありませんよ。僕は殿下みたいな方が好きですよ」
「すっ――、……ッ」
フェイの言葉にレティスは顔を真っ赤にして固まる。
傍からそのやり取りを見ていたトレントやルクスたちは「やれやれ」といった様子で肩を竦めた。
「アンナ、食事の用意を」
「は、はい!」
兄の指示に、アンナは弾かれたように厨房の方へと駆けていく。
あるいは、王女殿下の前から立ち去れるようにトレントが配慮してあげたのかもしれない。
「では、その間に僕は殿下に屋敷を案内しますね。といっても、王城と比べると遥かに狭いので案内するほど何かあるというわけでもないですが」
「わかりました。では食事の用意ができ次第及び致します」
トレントの言葉に頷き、レティスへと向き直る。
「それでは、まず一階の案内から――って、どうかされましたか、殿下」
レティスは顔を赤くしたままジト目でフェイを睨みつけていた。
フェイは頭の上に疑問符を浮かばせながら問う。
すると、一層不満げに視線を鋭くしたレティスは、不意にフェイから顔をそらした。
「フェイ、そういうことを続けているといつか絶対後悔するわよっ」
「え? は、はぁ……」
レティスの忠告を受けてフェイは戸惑いながらひとまず頷いた。
◆ ◆
「――と、一階の設備はこんな感じです」
その後、一階を案内し終えたフェイは二階へ上がる階段の前でレティスに告げる。
「正に必要最低限といった感じなのね」
「ふむ、存外狭いのだな。帝級精霊の契約者ともあろうものの住処とはとても思えん」
「ま、まあ爵位を拝命してからそれほど日は経っていませんから」
これでも平民の家と比べれば十分すぎるものだ。
とはいえ、王族であるレティスの口からこぼれる感想が『必要最低限』というのは仕方がないことだろう。
そしてルクスの感想もまた然りだ。
彼女はフェイと精神世界で相対し、その力量を正しく理解している。
そんなフェイがこの程度の屋敷に留まっていることに違和感を抱くのは当然だ。
「二階は客間と僕の部屋があるぐらいです。空いている部屋を自由に使ってください」
「わかったわ。じゃあフェイの部屋の横にするわ」
言われて、フェイは自分の部屋の隣の部屋へレティスを案内する。
室内はやはり、王城にあるレティスの自室と比べると見劣りするものだ。
だがレティスは上機嫌に鼻歌を歌いながらフェイの部屋と接する壁に歩み寄ると、コンコンと手の甲で壁を叩いた。
「ここを壊したらフェイの部屋と繋がるのよね」
「む、壊すのか?」
「……やめてください。あの、片付けが大変ですから」
「冗談よ。そんなことするわけないでしょ」
「なんだ、つまらぬ……」
レティスの冗談を本気で遂行しかねないルクスにフェイは思わず冷や汗を掻く。
「では、後程トレントさんが呼びに来ると思うのでそれまでおくつろぎください。僕も部屋に戻ります」
「ええ、ありがとうフェイ。それじゃあまた後で」
廊下に出たフェイは、レティスのいる部屋の扉をしばし見つめる。
そうしていると、傍らについてきていたフリールが声をかけてきた。
「心配なの?」
「……まあね。今のところ二人の間に問題はなさそうだけど、何があるかわからないからね。術者と精霊、どちらかをキッカケにして関係性は突然変わってしまうものだしね」
何よりフェイはそれを身をもって痛感している。
レティスとルクス。屋敷に滞在している間、この二人の間に何か問題が生じないとも限らない。
「そうなったとき、何とかするために私たちがいるんでしょ」
「うん、そうだね。皆も色々とよろしくね」
フリールの言葉にフェイは大きく頷きながら、五人の契約精霊に指示を出す。
契約者の指示に、五人はそれぞれ所作は違えど了解の意を表した。