百七十一話
フェイの全身から力が抜ける。彼に手を添え、抱きつき、あるいは膝に乗っていたフリールたちはフェイの体を支えながらひとまずの安堵を覚えた。
帝級精霊同士が共鳴しあうことを利用し、フェイをレティスの精神世界に送り込むという一か八かの行為が成功したからだ。
だが、成功を喜ぶ反面失敗すればよかったのにと思うのもまた、本心だ。
帝級精霊同士は共鳴しあうとはいえ、互いの領域には踏み込んではならない。
仮にも白帝竜と契約の状態にあるレティスの精神には、もうすでにほかの人間と契約を結んでいる精霊が踏み込むことはできない。
つまるところ、今この瞬間五体の帝級精霊は主との繋がりがなくなったのだ。
それが不安で、恐ろしくないわけがない。
契約を交わしてからいついかなる時も――それこそ、封印されていた時でさえ、彼の中から彼が見るもの、感じるもの、そのすべてを見てきた。
だが今は、精神世界に入った彼がなにを見ているのかがわからない。彼がどういった危機にあっているのかも。
ただ唯一、フェイの置かれている状況を知るために指針となり得るものはある。
精神と肉体は表裏一体。切り離すことのできないものだ。
レティスの精神世界にいるフェイの精神体が傷つくことがあれば、それは現実の肉体に少なからず反映される。
要するに――フェイの体に異常が現れれば何か危機的状況にあるということ。
不安に瞳を揺らしながら五人はフェイを見つめる。
いや、彼女たちだけではない。レティスの父であるアルフレドや彼女の専属侍女であるセリーナもまた、表情を硬くしフェイたちが再び目覚めるのを待っている。
「……!」
突然、フェイの頬に裂傷が現れる。
決して深くはない。命に関わるものでは断じてない。――が、フェイの体に傷ができたということは、精神世界では戦闘が起きているということ。
そして敵は恐らく白帝竜だ。
だが、フリールたちは何もすることができない。
一度精神世界に送り込めばそれで最後。後はフェイ自身が落ち着いた精神状態で戻ると念じるまでは他者には手出しすることができない。
そして戦闘状態の最中でそのような精神状態になれるとは到底思えない。
フリールはフェイの頬に出来た傷をそっと優しく撫でる。と同時に、治癒を施そうと自らの力を引き出すが、彼の傷が癒えることはない。
当然だ。まだフェイはここにはいないのだから。
せめて滴り落ちる血だけはとめようと、何か患部に当てるものを探そうとしたその時――フェイの体から膨大な魔力が吹き荒れるようにして室内を駆け巡った。
◆ ◆
「……! この魔力ッ」
目の前の光景を前にして、ルクスは初めてその顔を焦燥で歪めた。
果てのない精神世界が埋め尽くされるほどの膨大な純白の魔力。それをその身一つから放出している目の前の少年――フェイを畏怖の宿った瞳で見る。
フェイは吹き荒れる魔力の奔流の中で、対峙するルクスを睨みつけている。
今まで対峙してきた人間の誰もが恐怖の眼差しを自分に向けていた。だが、フェイの瞳には自分の我を貫き通すという強い意志と、そしてそれを支える頑固さがある。
その眼差しに苛立ちを抱き、そしてそれ故にルクスは冷静になった。
いかに目の前の少年が膨大な魔力を持とうとも。かつての契約者を何倍も圧倒する力を持っていようとも。――そう、ルクスには自信がある。
精神世界に溢れる魔力全てを用いた魔法であろうとも、自分の力はそれを防ぐことができると。
それは理屈などではない。ルクスの力は、そういうものなのだ。
だから、ルクスは硬直していた口角を僅かに上げて笑う。そこには多少の驚嘆と、それに勝る納得があった。
「くく……なるほど、これほどの力があれば妾に対して大言壮語を吐けるのにも理解できるというものよ。精神世界を埋め尽くすほどの魔力――これだけの純度の魔力が莫大な量あるとなれば、低位の精霊魔法を凌駕し得るやもしれん。外界では負けなしであったのだろう。天狗になるのも無理はない」
だが、と。ルクスは、それはこの場では……自分には通用しないと言う。
「そなたが今からどのような大魔法を放とうとも、妾の力はそれを拒絶する。どうあれ、不敬の代償としてそなたがこれから死ぬことに変わりはない。――そなたがどのようにしてこの場に来たのか、聞きたくもあったが、もうよい」
それよりも、一刻も早くこの場に平穏を。
折角手に入れた場所に安寧を。
そのためには、やはりフェイを排除するしかない。
ルクスの周囲に光の剣が現出する。一本や二本ではない。フェイの魔力に張り合うように光の剣は空間を埋め尽くしていく。
それを睨みながら、フェイは口を開いた。
「確かに、あなただけと相対していたのなら僕は負けていたかもしれません」
「……?」
「でも、今のあなたは一人ではない。なら、僕は勝てる」
空間を埋め尽くす膨大な魔力がフェイの胸の前に集約していく。
濃密で、莫大な。魔力が魔力を圧縮し、更に圧縮を繰り返す。
そうして、あれほど空間を所狭しと駆け巡っていた魔力がフェイの胸の前で一つとなった。
名唱は魔力放出時に行った。にも関わらず、発動に時間がかかっているのはそれだけ制御する魔力が多いことの証。
ルクスはフェイの胸の前で吹き荒れる魔力の玉を見て訝し気に眉を上げた。
「そなた、何がしたい。自棄を起こしたのであれば大人しく妾の裁きを受ければよかろう」
「裁き……ええ、確かにあなたにとってはそうでしょう。僕の行動はあなたからすれば身勝手極まりないものだ。ですが、僕にとってもあなたの行動は身勝手なもの。殿下の意思を省みることなく強制的に契約に持ち込んだことは断じて容認できない。――だから、僕が今からその契約が間違いであると証明して見せます」
「――!」
直後、フェイの胸の前にあった濃密な魔力の塊がルクスに向けて放たれる。
何かの形を為していない魔力など、受けたところで精霊であるルクスは傷つかない。
故に、力を発動させるまでもなかった。
が――
「……ッ! これ、は――」
「あなたを、支配させていただきます。殿下の中にいるということは、あなたは殿下と契約しているということになる。それなら、僕の力で契約を断つことができる……!」
圧縮した魔力を精霊に放つことで契約者との魔力のつながりを断ち、一時的に行動不能に追い込むフェイが編み出した系統外魔法、【エレメンタルコントロール】。
五帝獣を解放し、彼女たちを封じるためにつぎ込んでいた魔力を取り戻し、その魔力量は莫大なものとなっている。
とはいえ、帝級精霊ほどの存在には通じない。――本来であれば。
レティスと強制的に契約の関係になったことで、ルクスとの間にある繋がりは不安定なものとなっている。
それならば、勝機はある。
「っ、人間如きの魔力が、妾に通じるわけがなかろう!」
苦悶に表情を歪めるルクス。その表情が何より【エレメンタルコントロール】の効力を示していた。
だが、さすがに行動を制限できるまでには至っていないのか。
ルクスが右手を上げ、宙に待機している光の剣に命令を下す。
「光の中に消え去るがいい!」
「……ッ、くっ、うぉぉおおお!!」
迫りくる光の剣を無視して、フェイは更に魔力を放出しルクスへと向ける。
いかにフェイといえど、帝級精霊の精霊魔法までは防げない。
ならば、一刻も早く彼女を制御しきるしかない。
一か八かの賭けだ。だがそうでもしなければ勝てない。
ルクスの放った光の剣は、しかしその精彩を欠いていた。
その大半はフェイを外れ、そのまま消える。が、数本の剣はフェイの体を穿つ。
「くぅ……ッ! ハイヒー……」
膝を、腹部を穿たれ、フェイはたまらず回復魔法をかけようとしてすぐにそれをやめる。
これほどの傷だ。自分如きの回復魔法では意味をなさないだろう。
何より、ハイヒールを発動するための魔力と集中力があればそれをルクスを御しきることに回すべきだ。
そんなフェイの行動に、ルクスは驚く。それは驚嘆というよりも呆れに近い。
「何故だ、何故そなたは娘一人の為にそこまでできる! 死を背負いながら戦える!」
「死にさえしなければ……」
「――――」
「向こうに戻ったときに、必ず、治してくれる。それに――」
腹部を押さえ、片膝をつきながら、フェイは尚も体の奥底に眠っている魔力のその全てをルクスに向ける。
「――僕は、ついこの間まで話し、笑いあっていた人と話せなくなることを許容できない!」
何と傲慢な考えか。
帝級精霊が遥か昔に交わした契約に逆らってでも、彼は己のわがままを貫き通すという。
ルクスにとっては酷く目障りな話だ。だが、そうあると同時に目の前の人間の強い覚悟を見た気がした。
奇しくも、その覚悟は遠い昔に自分という存在を生み出した男に似ているような……。
ルクスは記憶の中に生きる男の姿を幻視し、それから首を振りながら「くだらぬ……」と、小さな笑みを浮かべて呟いた。
そして、再度フェイを見据えて好戦的な笑みを刻む。
「ならば、貫き通して見せよ。妾はそれを阻んでみせよう」
「言われなくても……!」
消えそうになる意識を必死に手繰り寄せ、フェイは更に宙に現出する光の剣を見据える。
自分の内に在る魔力がもうすぐなくなりそうなのもわかる。
だがそれ以上に――徐々にルクスとレティスとの繋がりを支配出来ている感覚を抱く。
残る魔力の全てを絞り尽くして、自分の我儘を貫き通して見せる。
それが、レティスにとっても、自分を含めた彼女の周りにいる人たちにとっても、――そして、ルクスにとってもいいことなのだから。
「うぉぉおおおおおおお!!!!!!!」
喉が灼けるほどの叫び声を上げながら、フェイは自身の力を絞り出す。
――そして、この白い空間を更なる純白が塗りつぶした。