百六十四話
「平和だ……」
週末の休み。
屋敷の庭に寝転がり、陽光を全身に浴びながらフェイは恍惚とした表情で小さく呟いた。
精霊学校に入ってからというもの、碌に落ち着ける時間がなかったとフェイは振り返る。
そして今、こうしてのんびりしていられる事実に嘆息した。
「何爺臭いこと言ってるのよ。それに、平和なんてこの世のどこにも在りはしないわよ」
「フリール……折角気持ちのいい気分だったのに、そんなことを言われたら台無しじゃないか。それに、平和はあるよ。君たちと一緒にいられることも、平和の一つじゃないか」
フェイの傍らで手から水をだして遊んでいたフリールの言葉に、フェイは上体を起こしてジト目で睨みながら返す。
そして後半に付け足した言葉に、フリールは固まった。
「……ん、お兄ちゃんとこうしていられて平和」
「あんたたち、平和の使い方を間違えてない?」
フェイの片膝に頭を乗せているセレスが目をこすりながら呟き、それを聞いたフリールが肩を落とす。
フェイはフリールの言葉に「そうかな」と首を傾げる。
平和は争いの準備期間でしかない。
誰かがそう言ったらしい。
それは間違いではないのだろう。けれど、その期間の間に争いの渦中にあるときでは味わうことのできない尊い時間はあるはずだ。
そしてその尊い時間こそが、真に平和と表現するに違いないとフェイは思う。
「ん……」
フェイのもう片方の膝に頭を乗せて眠っているライティアが僅かに身をよじらせる。
その様子を苦笑しながら見つめ、それから遥か上空を見上げて呟いた。
「シルフィアたちは何をやってるの?」
「さあ? おおかた雲を燃やせるか……とか、くだらないことをやってるんでしょ? アホイヤなんだし」
「くだらないって……いや、まあその通りだと思うけど」
遥か上空で炎を放出して暴れているフレイヤと、彼女を上空まで連れて行ったシルフィアの二人を見て生じた問いに、フリールは鼻で笑いながら答える。
相も変わらず仲の悪い二人を見てフェイは肩をすくめた。
「ま、色々あったけど暫く落ち着けそうだね」
「案外、そういう時に限って面倒事が転がり込んでくるものよ?」
「それはちょっと洒落にならないからやめて……」
フェイの言葉に、フリールが意地の悪い笑みを浮かべながら返す。
それに顔を引き攣らせながら、フェイは魔王と呼ばれた一人の男の姿を脳裏で思い浮かべた。
そしてすぐさま頭を左右に振ることで幻視したその姿を忘れ去ろうとする。
せめてこのひと時ぐらいは、嫌なことを忘却してもいいだろう。
フェイの休日の昼下がりは、自らの契約精霊たちと中庭でのんびりと過ごすことで終わっていった。
◆ ◆
「フェイ様、これが先日お話ししていた有事の際の避難場所の設計図です」
夕食を終えて自室のソファにかけてくつろいでいてフェイに、トレントが紙の束を手渡した。
先日、公爵位を陞爵することが決まってから、ディルク領での課題であった統治のための資金の不足を解消することができた。
そして、フェイは以前の一件以来必要だと痛感した有事の際に逃げ、隠れられる場所の設計をトレントに任命していたのだ。
受け取った図面を見て、フェイは頷く。
「ええ、これならある程度凌げるでしょう。このまま進めてください」
「かしこまりました。――そういえば、他の貴族諸侯からパーティのお誘いが来ておりますが、どうされますか?」
「うーん……いつも通り、『自分が公爵位になった際、盛大にパーティを開く予定ですのでそれまでお待ちください』とか言って断っておいてください」
「かしこまりました。……しかし、ほぼすべての貴族に対してそのように応えておりますので、フェイ様が公爵位につかれた際は本当に大きなパーティを開くしかありませんね」
「……まあ、それはその時考えますよ。どの道、パーティを開くこと自体は避けては通れない道でしょうしね」
フェイの言葉にトレントは頷く。
それから疲れたようにソファの背もたれに身を預けると、目の前のテーブルに置かれたティーカップを手に取り、紅茶を口に含む。
「ああ、そういえばセロルマ=マレット公爵が娘への返事はいつくれるのだという書状を送ってきていました」
「――!? がほっ、げほっ……!」
「だ、大丈夫ですかっ」
「大丈夫です、なんとか……」
危うく紅茶を吹きそうになったが、すんでのところで堪える。
セロルマ=マレット。以前、娘であるレイラ=マレットの婚約者になってくれないかとフェイに言ってきたのだ。
その際、フェイは「考えるだけなら」と曖昧な返事で場を切りぬけた。
しかし、フェイが実際に公爵位を陞爵することを知り、焦ったらしい。
他家にとられるよりも先に、という腹積もりなのだろう。
「キッパリ断ったら断ったらで、色々こじれそうですからね……」
相手が公爵位でなければ断っても構わない。
地位において劣る相手からの婚約など、いくら破棄したところで相手が悪いということになる。
だが、地位が同じ、あるいは勝る相手からの婚約となるとこの限りではない。
「……それは、少し考えさせてください。下手にやると問題になるかもなので」
「承知しました」
眉間を指で摘まみながらフェイはため息を吐く。
やはり、この時間は平和とは程遠いものなのかもしれないと。
そんなことを、ベッドで平和そうな表情で眠るフリールたちを見て苦笑しながら思った。
「さて、じゃあ僕もそろそろ寝ましょうかね。明日は村を見て回りたいですし」
フェイの言葉にトレントは頭を下げる。
そして、部屋を出ようとして、屋敷のドアが叩かれる音がトレントたちの耳朶を打つ。
こんな時間に一体誰が。
警戒しながら、トレントはフェイの自室をでて玄関へと向かう。
そして――
「フェイ様!」
自分を呼ぶ声で、フェイもまた玄関へと降りていく。
そこには――
「宮廷術師!? どうしてここに……」
息を荒げながら、焦燥に満ちた表情を浮かべるのは白のローブを纏った、王城にいるはずの宮廷術師だった。