百五十九話
教室を後にしたフェイは、寄り道することなく学園長室の前まで来ていた。
目の前には当然学園長室のドアがある。
そのドアを手の甲で叩こうとして、ぴたりと動きを止める。
以前、レイラの領地にある海底遺跡への調査をして以来、ジェシカとは目立った会話はしていない。
国王であるアルフレドがフェイにあまり詮索しないようにと言及したからだろう。
だが今日、わざわざ学園長室に呼び出してきた。
一体何の用なのか。
(まぁ、考えるまでもなくあの件だよなぁ)
タイミングからいって、ボネット領での一件に違いない。
アルフレドには先日、事のすべてを伝えた。
その上で彼はこの精霊学校の長たるジェシカに何か言ったのだろう。
そこまで考えて、フェイは疲れたように小さく息を吐いた。
それから大きく息を吸って、今度こそドアをコンコンと叩き部屋の主に向けて声を発した。
「失礼します」
ドアを開けて、学園長室の中を覗くようにして入る。
やはり学園のトップの部屋らしく質の高いテーブルやソファなどの家具が備え付けられ、その奥にある重厚な造りのテーブルとペアのイスにジェシカ=フリエルは腰掛けていた。
フェイが入ってきた瞬間、ジェシカは目を細めて彼を凝視する。
「お久しぶりです、フェイ=ディルク君」
「お、お久しぶりです……」
微妙に冷たい声に一瞬びくりとなりながら、フェイは後ろ手でドアを閉めて室内に一歩踏み入る。
と同時にジェシカは立ち上がると、部屋の片隅に置かれているティーセットを手にしながら部屋の中央に歩み寄って来た。
「紅茶でかまいませんよね?」
「は、はい……」
視線でソファに座るように促され、大人しく従う。
彼の前のテーブルにジェシカはソーサーを置くと、その上に紅茶の入ったカップをそっと置いた。
「どうぞ」
ジェシカ自身も自分用のソーサーとカップを置いて、フェイの対面のソファに腰掛ける。
自分をジッと見て中々カップに口をつけないフェイを見て、ジェシカは飲むように促す。
それに目礼で返すと、フェイはちびりとだけ紅茶を口に含み、舌を濡らす。
その間もジェシカはフェイを見つめていた。
いい加減気になって口を開こうとしたフェイよりも先に、ジェシカが声を出す。
「今日は、いないんですか?」
一瞬なんのことだろうと戸惑ったが、その問いの意味を考えているうちにジェシカの視線がフェイではなくフェイの内側に向いていることに気付き、得心がいったように頷いてから答える。
「ええ。学園には連れてきてないです。そもそも、彼女たちはあまり僕の中に戻りたがらないので」
「そう、ですか……」
頷きながら、小さく返す。
そんなジェシカの瞳には、僅かな愁いが帯びていた。
「すでにあなたもわかっていると思いますが、先日ボネット領で起こった出来事、その過程、その顛末。――あなたのすべてを、陛下から伺いました」
「――でしょうね。そうでなければ今日あなたが僕をここに呼ぶ意味がない」
「陛下は私に学園内でのあなたのサポートを命じられました。と同時に、あなたの監視を」
「それ、僕に伝えてもよかったんですか?」
「陛下があなたにも伝えるようにと、言われたのです」
「僕に?」
監視をする、なんてことを監視対象に伝えたらその心証が悪くなるのは当然だ。
なのにそれを伝えてもいいのかと聞けば、そうするようにと言われたと答える。
その理由がいまいちわからず、矛盾に満ちているような気がしてフェイは首を傾げた。
「知られるよりも先に知っておいてもらった方がいいという判断ですよ」
「あぁ、そういうことですか。そういえばそういう考え方でしたね、陛下は」
隠すよりも先に公表する。
それは、フェイが帝級精霊と契約していることを国際社会に告白するとアルフレドが言ったときの理由と通ずるものがある。
要するに、後で知られて敵対されるよりも先にこちらから監視しますよと明言しておくことで、後々のまずい事態を避けようという思惑らしい。
(僕はともかく、フリールたちが知ったら怒るだろうしね……)
そう考えると、その判断は決して間違いではないように思える。
最悪周囲が氷の世界になりかねない。
「今日僕を呼んだのは、それを伝えるためですか?」
「いえ、これは単なる前口上の一種に過ぎません」
ジェシカは即座に否定し、前に垂れてきた銀髪を手で戻しながらカップに注がれた紅茶に映る自分の顔を見て続ける。
「五体の帝級精霊を従える……普通ではあり得ないことです。ですが、それは決まっていたことなのかもしれないですね」
「決まっていたこと?」
「ええ。あなたという存在がこの時代に現れ、膨大な力を手にする。そして、この国を守護してきた公爵家の一角の当主がこの世を去る。この一連の流れは運命なのかもしれないと」
「運命なんてないと思いますよ、僕は。すべて人が成すこと。すべて人が決めること。そこに不確かなものが介入する余地なんてない」
彼女の物言いからすれば、自分が家族に裏切られ、殺されかけたのもすべて運命だと言っているようなものだ。
その言葉がどうにも癪に障った。
フェイの怒りが伝わったのか、ジェシカは目を伏せながら「すみません」と一言謝り、「ですが……」と続ける。
「あなたは考えたことがありますか? 何故絶大な力を誇る帝級精霊、そのすべてがこのアルマンド王国という一国にのみ存在しているのかを」
「――――」
聞かれて、フェイは黙り込んだ。
この世界は広い。
精霊というものは世界のどこにでもいるし、帝級精霊に迫る力を備えている最上級精霊だって他国にはいくらでも存在している。
だが――帝級精霊の存在は、どの国でも確認されていない。
このアルマンド王国に存在する五柱の帝級精霊のみが、唯一無二の帝級精霊なのだ。
そのことに疑問を抱かなかったことはない。
アルマンド王国が世界の大部分を占めている大国であれば無理もないが、この国は大陸の東に位置する国の一つに過ぎない。
ならばなぜ、この国にそれほどまでに強大な力がすべて集中しているのか。
その答えがあるとするならば――
「――必然だった、ですかね」
答えてから、フェイは自分の言葉を否定した。
必然なんて言葉は、たった今否定したばかりの運命となんら変わりないからだ。
ジェシカはフェイの返答に困った笑みをこぼす。
「まさしくその通りです。私はこう考えています。――すべては必然であったと。帝級精霊がこの国に存在し続けているのも、今この時代に再び帝級精霊が目覚めたのも。あなたという何百年に独りの逸材が生まれたのも」
「まさか、あなたはこう言いたいんですか? 帝級精霊はこの国を魔族から守るために生まれたと」
「都合のよすぎる話ですし、そうあって欲しいと思っているだけです。そして私はこの現状をただの偶然だと思えない。ボネット領に謎の敵が現れたのも、帝級精霊が目覚めたのもすべて繋がっている。――私は危惧しているのです。またこの国が魔族に侵されるのではないかと」
ジェシカはこう言いたいのだろう。
帝級精霊という力がこの時代に目覚めたのは、かつてと同じく魔族が侵攻してくる予兆なのではないかと。
それはなんの確証もない彼女の妄想だ。
だが、それを何故かフェイは否定することができなかった。
「私が今日あなたを呼んだ理由は、あなたにお願いしたいことがあったからです」
「お願いですか? 僕が学園長に頼まれることなんてないと思いますが」
「伝説の帝級精霊の契約者がそれを言いますか。……あなたに頼みたいこと、その一つがこの学園を守って欲しいのです」
「守る? この学園を、何から?」
「あらゆる脅威から。それは魔物かもしれませんし、魔族かもしれない。あるいは未知の敵かもしれない。こう言うと気分を害されるかもしれませんが、あなたが力を手にしたのには理由があると思っています。そしてその理由とはすなわち現れる脅威を排除すること」
ジェシカは、なんの迷いもなく言葉を続ける。
フェイの目を真っ直ぐに見つめて、臆することなく。
そんな彼女の頼みに、フェイは何故彼女はここまで必死に頼み込んでくるのか疑問を抱きながら、しかしふっと微かに笑みを浮かべながら彼女の目を見返して答える。
「そんなこと、頼まれるまでもありませんよ。僕はこの国の貴族です。であれば、この国を守るために戦うのは義務でしょう?」
「そう、ですね。ええ、その通りです。ですからこれは、不安に駆られた私の失言だと思ってください」
一瞬だけ目を見開いてから、その後すぐに弱々しい笑みを、それから嬉しそうに微笑む。
「もう一つ、これは個人的なお願いなんですが……」
今度は先ほどまでとは逆に目を逸らし、躊躇いながら言葉を続ける。
「帝級精霊を統べるあなたに、聞いて欲しいことがあるのです」
「聞いて欲しいこと?」
「そう、帝級精霊たちがどう生まれたのか。何故生まれたのかを。過去に歩んできた道を、帝級精霊たち自身に」
「――っ!」
ジェシカの頼みを聞いて、フェイは息を呑む。
その問いはフェイが昔から気になっていたことで、しかし聞く必要はないだろうと彼女たちに聞くことを避けてきたものだ。
自分が心に抱いてきたものを見透かされたような気がして。
そして何故彼女がそんなことを知りたがろうとするのかがわからなくて。
「どうして、そんなことを……」
なんて、ありふれた問いを投げるしかなかった。
どこか深刻な表情を浮かべるフェイに、ジェシカは悪戯がバレた子供のような笑みを浮かべて、
「私が気になり続けてきたことだったのです。最初に言った通り、本当にこれは個人的なお願いです。学園長としてではなく、ジェシカ=フリエルとしての」
帝級精霊の伝説。五英傑の偉業。
それらはこの国のみならず世界中の人が耳にしていることだ。
そしてそれを聞いた者ならば少なからず抱くであろう疑問。
彼女もその疑問を抱いた一人であり、その答えを求めていたのだろう。
術師であるならば、常人よりも遥かに気になったはずだ。
そして今、その伝説を宿した者が目の前にいる。
その答えを知れるであろう存在が目の前にいる。
なら、その答えを求めるのは必然だと言えるだろう。
どうしたものかと、フェイは逡巡する。
そうしてから、答えが心の中ででるよりも先に口を開いた。
「わかりました。一応聞いておきます。――ただ、答えてくれないかもしれないですし、もし答えを聞いたとしてもあなたに言うかどうかは約束できません」
フェイの答えを聞いて満足げに頷きながら、ジェシカは「もちろんです」と笑みを浮かべた。
それを見届けて、フェイはカップを手に取り紅茶を口に含む。
のどを通過したそれは、とっくに冷めてしまっていた。