百三十二話
迎えの馬車に乗り込むと、案の定中にはフリールが座っていた。
そのことをわざわざ指摘することはない。
むしろ、彼女の力に頼る必要があるかもしれないのだ。
いてくれたほうがいいだろう。
当然のことながら彼女の装いはメイド服ではない。
フェイは対面に腰掛けて、大きく息を吐いた。
すると、フリールが不意に立ち上がり、狭い車内を動いてフェイの横へと座りなおした。
フェイは柔らかく微笑んで、そして窓の外を見る。
そんな彼の手の上にそっと己の手を重ねて、フリールは僅かに表情をほころばせる。
結局、ボネット家の屋敷に着くまでに車内で会話が生まれることはなかった。
◆ ◆
「お待ちしておりました、フェイ=ボネット様」
屋敷に到着すると、ボネット家の雇う使用人、その大半が外に出てフェイのいる馬車に向けて腰を折っていた。
数十人の侍女や執事がそうしている姿はまさに壮観だ。
つまるところ、これはボネット家の最大限の歓迎の証といえよう。
そしてフェイは、その歓迎を受けて苦虫をかみつぶしたような表情をする。
かつて、自分を軽蔑した彼らが、今は胡散臭い笑みを浮かべている。媚びへつらっている。
加えて、使用人の筆頭がこう口にした。「フェイ=ボネット」と。
あえて追及こそしなかったが、現時点でフェイの不快感は最高潮に達している。
そんなことは露知らず、フェイが馬車を降りると同時に「お荷物は?」などと近づいてくる。
それに首を横に振って応じていると、ふと屋敷の玄関にアレックスたちボネット家の面々が立っていることに気付いた。
「よくきたな、フェイ」
「おかえりなさい」
フェイのかつての両親、アレックスとアディが笑みを張り付けてフェイを迎える。
その瞬間に、フェイは吐き気のようなものがこみ上げてきたのを覚えた。
(なんだ? なんだこれは……)
理解が追い付かない。
見れば、ブラムは今までと変わらずこちらに敵意をむき出しにした視線を向けてくる。
心なしか、以前よりもさらに増したような。
そしてエリスとセシリアは曖昧な、どこか困った風な笑みを。
と、フェイの後ろについてきたフリールを見て、アレックスは一瞬真剣な顔を浮かべる。
「そうか、彼女が……」
一度振り返り、アレックスはブラムを見る。その視線にブラムは頷きをもって応じ、アレックスは再度笑みを張り付けてフェイと、そしてフリールに近寄る。
「久しぶりの我が家なんだ、ひとまず中に入ってそれから話をしよう。そちらの方もいっしょに!」
「そ、そうね……! 誰か、食事の用意を!」
アレックスの言葉に賛同するように、アディは使用人に命じる。
「いえ、僕は食事は……」
「何を言っているんだ! 食べていきなさい」
調子が狂う。調子が狂う。
なんだこれは。この気持ち悪さはなんだ。この違和感はなんだ。
疑問がいくつも、フェイの思考を所狭しと埋め尽くす。
しかし、この状況でも辛うじてわかったことがある。
少なくともボネット家の方に自分と敵対する意思がないこと。
そして、フリールが氷帝獣であることを知っているということ。
それらを踏まえた上で現段階での過剰なまでの歓迎の理由を考慮すると、一つの〝最悪な〟可能性が浮かび上がる。
(まさか……いや、あり得ない。あり得ないはずだ。それだけは……!)
必死に否定に否定を重ねて、フェイはアレックスたちの後に続く。
浮かび上がるその仮説は、フェイにとって最悪の結果をもたらすものであった。
◆ ◆
「それで、今日は一体何の用があって僕を呼んだんですか」
冷静であるように、あるいは己が男爵であることを考慮して。
フェイはつとめて敬語で話しかける。
現在、ボネット家屋敷の食堂。かつてフェイが食事をとっていた場所で同じように運ばれてきたそれらを目の前にして、一口もとることなく切り出した。
フリールはフェイの横ですでに食事に手を付けている。
トレントはといえば、フェイの後ろで従者らしく控えている。
数年ぶりに、ボネット家の面々が同じ場所で食事を共にする。
だというのに、もうすでにこの場にかつての団欒とした雰囲気はない。
その団欒すら、今では偽りのものであったとフェイは思う。
「まぁそう急くな。取りあえず食事にしよう」
そして上座には、あの頃と同じような父親としての笑みを浮かべるアレックス。
その態度に、その所作に吐き気を催して、とてもではないがフェイはなにかを食べる気など起きなかった。
「……まぁいい。そうだな、先に話を終わらしてゆっくり食事をとるというのも悪くない」
一向に料理に手を伸ばさないフェイを見かねて、アレックスは諦めたように呟く。
「単刀直入に言おう。フェイ――ボネット家に戻ってこい」