百三十一話
翌日。
目覚めてすぐに精霊学校の制服を身につけようとしたフェイの手がわずかに震えていた。
手の平を広げて己の手を見る。
そして、ぐっと拳を作り、両手で頬をパンッ! と叩いてから、自室の扉を開けた。
◆ ◆
フェイが教室に入ると、浮ついた空気がそこかしこにあった。
それも当然。
明日からは長期休暇。つまりは夏休みが始まる。
各々が予定を楽しそうに話し合っている。
ではフェイはといえば、それに別段興味を抱くことなく自分の席に座る。
「おはよう、ゲイソン。楽しそうだねって、言うまでもないか……」
「おっす! 当たり前だろ! 試験を無事終えた俺に死角はない!」
他のクラスメート同様浮かれているゲイソンに向けて苦笑いを浮かべているフェイにアイリスとメリアが近付いてきた。
「おはよ、フェイ君! それはそうとこの間の約束、覚えてる?」
「あぁ、僕の屋敷にくるってこと? 大丈夫、覚えてるよ。いつでもいいけど……」
いつがいいのだと、言外に視線で問う。
フェイの返答に、アイリスはしっ! とガッツポーズを作って喜ぶ。
その会話に関係のあるゲイソンは当然首を突っ込んでくる。
「明日からでいいんじゃねえか? 夏休みなんだし」
「課題が終わってからでいいんじゃないかな? 夏休みの終わりごろに来なよ」
ゲイソンの提案を一蹴。
課題という単語を聞いて顔を引き攣らせるゲイソンを放置し、アイリスもそれに同意する。
「そうね、どこぞのバカが課題をやらないなんてことがあるかもしれないものね」
「誰がバカだ!」
「あら? 私はあんたがバカだなんて一言も言ってないわよ? それとも自覚がおありで?」
「てんめぇ~っ!」
口元に右手を添えてにやにやと相手を挑発する笑みを浮かべるアイリスと、それに突っかかるゲイソン。
変わらぬ光景にもはや仲介に入ることなく、フェイは一言結論を述べた。
「わかった。じゃぁ夏休み最後の週にしようか。その日の朝に精霊学校に迎えに行くから」
ゲイソン、アイリス、メリアの三人の同意の声と同時に、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
◆ ◆
終業式が終わり、講堂から教室に戻る道程で、フェイは思案顔になっていた。
終業式には当然、学園長であるジェシカや生徒会長であるレイラが登壇し、挨拶をしていた。
彼女たちの顔を見るのは久方ぶりで、終わってから何か声を掛けられるかと思ったがそんなことはなかった。
セシリアやブラム、エリスたちも同様だ。
むしろ、向こうから避けているような。
(まぁ、ボネット家には今日行くんだから、今話さなくてもいいって判断かも知れないけど……)
教室に戻ると、式から解放されて伸びをしている者やお偉いさんの話は長い! と文句を垂れている者もいる。
「ほら、席に着け! 課題と夏服を渡す!」
荷物を抱えて戻って来たアーロンの一喝で生徒たちはそれぞれ自分の席へと向かう。
課題を持ってうな垂れる者、夏服を受け取り喜ぶ者と、実に様々な反応を示す中でフェイは表情を微動だにすることなくそのどちらも受け取る。
彼にしてみれば、数十ページの課題はすぐに終わらせられるし、夏服にも別段興味があるわけではない。
どころか、今日はそれよりも遥かに気がかりなものがあるのだ。
意識は放課後のその時に向けられたまま、気付けば一学期最後のホームルームも終わっていた。
◆ ◆
「じゃぁな、フェイ! また数週間後!」
「またね、フェイ君!」
意気揚々と帰路に就くゲイソンとアイリスに手を振ることで応じながら、フェイは己の席に着いたままぼんやりと窓の外を見つめる。
いつもならば数人程度教室に残って他愛もない話をしているだろうが、今日に限ってそれはない。
全員が全員、さっさと家に帰って夏休みを始めようという魂胆らしい。
つまるところ、今この教室にはフェイとメリアの二人しかいなかった。
「急がなくていいの? ボネット家の迎えが行っちゃうよ?」
「だ、大丈夫です。馬車は二台あるので……」
「二台?」
馬車は大体四人、つめれば六人程度は乗れる。
エリス、セシリア、ブラムの三人を含めても、十分一台で事足りる。
「その、一台はブラム様が使って……」
メリアの補説に頷く。
要はブラムが一台を占領しているらしい。
(資金にも、人手にも余裕があるってことか……)
実際、フェイはそれを真似ようにも真似ることができない。
馬車をひく馬を操れる者は彼の使用人にはトレント以外いないのだから。
「フェイ様、今日は、その、お気を付けください」
本当に心配だと視線で訴えかけてくるメリアに、フェイは苦笑しながら返す。
「大丈夫だよ、メリア。今僕に何かしたら、それこそボネット家はおしまいだ。まぁ、どのみち……」
「――――」
最後に何を呟いたのかメリアの耳には届かなかったが、それでもその声の冷たさにびくりと肩を震わす。
そこで、フェイは窓の外に向けていた視線をメリアへと移す。
ジーッと見つめて、メリアの頬が紅潮していくのも無視して、フェイはただ見つめる。
「フェ、フェイ様……?」
恥ずかしさ以上に、何やら言葉に出来ない不安がこみ上げてきて、メリアはフェイに疑問の声を上げた。
その声に反応して、フェイはふっとわずかに笑う。
「何でもないよ。それより、そろそろ行かないと本当に置いて行かれるよ?」
「あっ、はい! ……フェイ様は?」
「僕はもう少しここでのんびりしてから行くよ」
フェイの返答に、メリアは頭を下げて応じる。
そして、そのまま急ぎ足に教室を後にした。
「――――」
彼女の姿が消えてから、フェイはここでようやくゆっくりと席を立つ。
「? フリールも来たのか……」
精霊学校に近付いてくる、己と契約の関係にあるその存在を感じてフェイは呟く。
ふとしたときに、思うことがある。
クラスメートたちを見て。
自分がもし、普通の家庭に生まれて、普通に魔法を使えて、普通に精霊学校に入学して。
そうしていたら、どんな人生を歩んでいたのだろうかと。
普通に進級し、普通に就職し、そうして普通に人生を終えたのだろうか。
自分の机を撫でながら、フェイは自嘲の笑みを刻む。
こんな疑問に意味はない。それはわかっている。
だが、この疑問が浮かぶということはつまり、その人生に憧れを抱いているのだろう。
普通の人生に。
自分に照らし合わせよう。
あの森で、あのまま細々と人生を終えていれば自分は死の間際どのようなことを思ったのだろうか。
きっと、ボネット家への憎しみも忘れ、恨みも忘れ、自分はラナに出会えてよかったと、そんなことを思いながら逝ったに違いない。
悔いはない。自分は幸せ者であったと。
――すべてを忘れ、忘れようとして。逃げたままの人生を送っただろう。
机の上で握り拳を作る。
今はもう、逃げることすら許されない状況にある。
逃げようと思えば逃げれたあの頃とは違う。
胸に手を当てて、己の脈動を感じる。
あの日、あの森に逃げたころの無力な自分とは違う。
あの日まで、あの森で隠れ逃げていた頃の無力な自分とは違う。
なにかしてきたならば、そのすべてを抑えつけて蹂躙しよう。
壊しつくそう。
彼らが、息子を捨ててまで守ろうとした一切を。
頬が吊り上がるのが自分でもわかる。
きっと、自分が抱いているのは覚悟何て御高尚なものじゃないだろう。
それとは違う。復讐に彩られ、固められた強固な意志。
だがそれでいい。それでこそ、それがあるからこそフェイは生きていける。
大きな息を吐いて、フェイは教室をでる。
廊下をゆっくりと歩いていく。
――――でも本当は