百四話
普通であれば足を踏み入れることすらない森の奥深く。
八歳の子供は、何かに誘われるようにそこを突き進んでいた。
木がそびえ立っていれば避け、あるいは地を這うようにして進み、すでに服は土で汚れきっている。
「ハァ、ハァ……ッ」
滴る汗を無視して子供は突き進む。
彼は、この近くに住んでいる。
森の深くに一軒だけ立っている小さな家に、同居人の女性と共に。
女性曰く、この奥は危険らしい。落石の危険もあるし、何より木が多すぎる。迷子になる可能性は十分にあった。
だから、彼はこの森で暮らし初めて一年。ずっとここには寄りつかなかったのだ。
では、そんな彼がなぜ今この場にいるのか。
というのも、ここ一週間なぜかここが気になってしょうがないのだ。
今日は女性が近くの街へ買い物にでている。
何かに誘われるようにして子供はさらに奥へと――
そうして数分後、彼は今まで目にしたことがないモノに出会った。
「大丈夫。君たちと契約を交わしたとしても、僕は――」
子供は、この場までの険しい道程を思わせぬ笑顔を浮かべて、目の前の神秘に答える。
この瞬間に、彼は運命という名の濁流へと足を踏み入れた。
◆ ◆
フェイは、はじめに懐かしいと感じた。
ひんやりと、しかし確かな温もりと柔らかさが頭の下から伝わってくる。
そして先ほどから、これまたひんやりとしたなにかが、前髪に優しく触れてくる。
目を開けないままに、フェイは口を開いた。
「おはよう、フリール」
「やっと起きたのね、フェイ」
彼女の言葉に、棘はない。
ただ優しく、自身の契約者の目覚めを喜ぶ。
永遠にこのままでいたい気持ちになりながらも、フェイは目を開ける。
ちょうど上を見上げるようにして寝ていたフェイの視界いっぱいに、青が広がった。
肩ほどまでの青髪に、青い瞳。そして雪のように白い肌。
そんな彼女――フェイの契約精霊、氷帝獣フリールに膝枕されていたことを、フェイはあらためて自覚した。
「……ッ??」
このまま彼女の膝に頭をおいているわけにもいかない。
そう思い、立ち上がろうと頭を上げかけたところで、フェイは顔をしかめた。
「力が入らない……」
「まだ動かないほうがいいわ。短時間で魔力が増えたり減ったりしたから、体がついていけてないのよ」
「増えたり、か」
確かに、内包する魔力量を感じると、格段に増えた。いや――元に戻ったという方が正しい。
帝級精霊を封印するのに膨大な魔力を使っていたのだ。その枷がはずれたために、封印のために使っていた魔力がそのままフェイの体の中へと戻ってきたのだ。
そしてその膨大な魔力に体は耐えられるかと言えば、否である。
したがって、内包する魔力が体に馴染むまでの間はろくに動けないということだ。
「痛い……」
「体が悲鳴を上げているのよ。治まるまではゆっくりしなさい」
しかたないと、フェイは何とか持ち上げていた頭を再びフリールの太ももの上へと戻す。
「そういえば、ここは?」
「王城よ。私もくるのは初めて」
「王城!? ……一つ聞きたいんだけど、僕どれくらい眠ってた?」
アルマンド王国の東に位置するマレット領から王都までくるのでもただでさえかなりの時間を要する。
いやな予感がフェイの頭をよぎり、恐る恐る、すべてを知っているフリールに問うた。
「そうね……、ざっと三日間くらいね」
「三日間!?」
「ちなみに、膝枕も三日間ずっとしてたのよ。なにか言うことがあるんじゃないの?」
「三日も膝枕って、それ大丈夫なの? 足動く?」
「私を何だと思っているのよ。このくらいなんてことないわ」
「……そう。――なんにせよ、ありがとう。その、気持ちよかった」
頬をかきながら、フェイは正直に膝枕の感想を言う。
「――――」
「……? フリール?」
自分の言葉に何の返答もなく、訝しみながらフェイはフリールを見上げようとしたところで、その目を乱暴に押さえられた。
「み、見ないで!」
「……、わ、わかった」
突然のことに戸惑いながら、フェイはわずかに顎を引く。
無言が続きそうになったが、その前にいくつも聞きたいことがあった。
フェイはフリールの唐突な行動への疑問は脇に置いておいて、すぐさま別の疑問を投げた。
「――それで、フリールはどういう扱いになってる?」
三日間寝たからといって、忘れているわけがない。
海底遺跡での出来事を鮮明に思い出せる。
そう――立ちはだかる黒い巨人に対し、何年も封印し続けていたフリールを、氷帝獣を解放したことを。彼女の力を以てすればあの海域が凍てついたであろうことはフェイには容易に想像できた。
そして、あの場にいたレイラたちがそれに気づき、自分が何かしたのだと予想するのもまた自然なことだ。
自分は魔術師。精霊と契約できなかった落ちこぼれ。
そんな奴が伝説の帝級精霊と契約していただなんてことを、一体だれが想像するだろう。
そしてもしその結論に辿り着いたとき、彼らはどう思うのだろう。
フェイの頭の中を思考という濁流が荒々しくうねる。結論は出ない。考えがまとまらない。いくらでも想像できてしまう。そうして想像した仮定に対して自分がどう対応していけばいいのかも考えなければならないのだ。
眉間にしわを寄せるフェイ。
そんな彼の眉間に、微笑みながらフリールは触れる。
「そんなに表情を険しくすることないじゃない。大丈夫よ、私がいる限り何があってもあんたは独りにならない」
「……うん」
フリールの言葉に、フェイは一言、小さく頷く。
契約の時に交わした会話。それを思い出しながらフェイは大きく息を吐きだす。
「それでフェイの質問だけど……分からない、が答えよ」
「分からない? え、それってどういう……」
「順を追って話した方が早そうね。あの後、フェイが意識を失ってから――」
そしてフリールは語り出す。事の顛末を……。
◆ ◆
「大丈夫よ。私はいつでもあんたの傍にいる。こんな世界、いつでも作ってあげるわよ。だから――」
氷の城の中で、彼女は契約者に、自分の主に告げる。
己の力は、すべては主であるフェイのために使われることを。
その声が通じたのか、フェイは瞼をゆっくりと閉じていく。
そして彼の意識はそこで途切れる。両膝を氷の床についていたフェイは、ゆっくりと前に倒れていく。それをフリールは全身で受け止め、そのまま自分は正座し、自分のふとももに彼の頭をのせる。
静かに、髪を撫でる。今までずっと彼の中から世界を見てきた。寂しくなかったといえば嘘になる。彼に触れたいという衝動を抱いてしまうのは仕方のないことだ。
(幸い、この場には私しかいないから……)
他の四人のことを思い浮かべながら、フリールはフェイの顔を見る。
疲れ切った、けれどどこか穏やかな表情で規則正しい寝息を立てる。その寝顔は、かつてのものと変わらない。
何故かそれを可笑しく思って、フリールはくすりと笑う。
フェイと自分。二人しかいないこの空間を心から感じるかのように、フリールもまた目を瞑った。沈黙。そこにあるのは美しいまでの静寂だけだった。
そうして――二人が閉ざされた世界で互いを感じ合っている間、少し離れた砂浜では動揺が生まれていた。
「これは……」
ジェシカ=フリエルが、この場にいるものの気持ちを体現するように息を呑んだ。
目の前の異常な光景を目の当たりにして。
「な、何ですか、これは……」
常識外の現象。
それを目の当たりにして、ジェシカを始め誰もがそう問うた。だが当然、答えは返ってこない。
「――っ、動ける人は私についてきてください。遺跡に向かいます」
学園長であるジェシカの言葉に、遺跡に向かっていないアドニス、ベイル、アネリ、グラエム、セリア、ユニスの六人は立ち上がる。
その中で、ユニスとアネリはレイラやセシリアたちの手当のために残る。
ジェシカ含め五名は、凍り付いた世界に足を踏み入れた。
◆ ◆
世界を凍らせたフリールは、自身の契約者とただ静かに黙していた。
沈黙以外になにもいらない。
フェイといることだけが彼と契約した後のフリールが存在し続ける意味そのものであった。
と、それまで目を瞑っていたフリールが突然目を開く。
自分の領域に何者かが踏み入ったことを知覚したのだ。
フリールがたった今凍らせた世界。
凍らせた、ということは、その世界をすべて彼女が支配しているという事。
故に、自分の領域になにかが侵入したことなど、封印を解かれた彼女には手に取るようにわかる。
「…………」
しかし、その侵入者に敵意を抱くことなく、フリールはまた静かにフェイの髪を撫でる。
侵入者がフェイの知己の人間であるとわかったのだ。
「これは……ッ」
入り口であり、出口でもあるそこから、何者かが息を呑んだ音がフリールの耳に入る。
そこでようやく彼女はフェイに向けていた視線を上げ、音のした方へと目を向けた。
「おいおい、なんだよこれ……。なあおちびちゃん、こんな現象を引き起こす魔法を見たことあるか?」
「おちびちゃんって言わないでください。少なくとも僕は見たことがありません。というより、魔法どころか精霊魔法でもこれほど大規模なものはないと思います」
「だよなぁ……」
驚きの声を上げたのは、生徒会に所属しているアドニス=オーウェンと、彼の後輩であるベイル=オーガスだ。
傍らでは、幼馴染である、生徒会補佐会のグラエム=ネルソンとセリア=ライリーも同様のやり取りをしている。
それを、フリールは心底つまらなそうに見つめる。
そこでようやく彼女の視線に気付いた一同は、警戒を露わに、全身に力を入れる。
「あなたは……?」
やや上擦った声で、ジェシカが一同を代表してフリールに尋ねる。
それに、フリールは答えない。
しばらく沈黙が続く。その間に一同は周囲を見渡す。そしてフリールのふとももを枕のようにして気を失っているのがフェイであることに気付き、声を荒げてそれを指摘する。
「フェイッ!」
思わず、グラエムたちが駆け寄ろうとするが、それを不満そうに、そしてどこか怒った風にフリールは彼らの方へ手をかざす。
その瞬間に地面から氷の壁が生え、彼らの進行を阻む。
「――――ッ」
てっきり、フリールがフェイに膝枕をしているものだから彼女を敵ではないと認識していた一同は、驚きに顔を染める。
勿論、フェイの知り合いである彼らに敵対する意思など、フリールにはない。
だが久しぶりにこうしてフェイに触れられたのだ。その時間を何者かに邪魔されるのは耐えられない。
フリールはじっと、一同を見つめる。
自分たちを見つめておきながら、その瞳になんの感情も宿さずに、ただただ冷たい光を放つフリールの青い瞳に、一同はごくりと息を呑んだ。
直感した。――アレとは、敵対してはいけないと。
フリールの纏う冷たい雰囲気に飲み込まれた一同。
そこで、フリールの一同に対する関心は消えた。
そして再び、フェイの寝顔を見つめ、髪を撫で始めた。
◆ ◆
「――で、その後学園長に言われて、王都まできた、と」
「フェイ以外の指図は聞きたくなかったけど、フェイにとってその方がいいと言われたら従うしかないわ」
「いや、でも学園長たちになんて態度を……。それで、三日間フリールはなにもされてないの?」
「ええ。この部屋に通されて、こうして今までフェイと一緒にいただけよ」
「それで三日も膝枕って……」
フェイは呆れながら苦笑する。
フリールはフェイのその苦笑を受けて、首を傾げる。
なにがおかしいのか。本気でそう思っているであろう彼女の仕草に、フェイは一層苦笑を濃くする。
『――イッ! フェ……!』
「!?」
突然雑音が脳内に響き渡り、たまらずフェイは顔を顰めた。
「フェイ、どうかしたの?」
「……、いや、大丈夫」
心配そうに覗き込んできてたフリールに笑みを浮かべて応じながら、ここでようやくフェイは上体を起こした。
それと同時に、唐突に部屋の扉が優しく叩かれた。