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第0話「口裂け女」

ちょっとした息抜きにでも。


          /0



 八月も終わって九月の初め。秋は遙か遠く、夏が我が物顔で幅を効かせていたそんな日だった。

「口裂け女??」

 夏休みのせいか、人影もまばらな大学の研究室の一角で、先輩は怪訝な表情を浮かべてこちらに振り返った。

 彼女は形の良い眉をいびつに歪めたまま、手にしていたアイスコーヒーを口につける。

 暗に話の続きを待っているのだ、と僕は勝手に解釈し口を開いた。

「最近隣町の高校で流行っているらしいですよ。そんな噂が」

「口裂け女って、この口裂け女か?」 

 手にしていたグラスをデスクに置いて、先輩は両手の人差し指で自身の口端を左右に引っ張った。

 白くて薄い歯が、いーっ、と剥き出しになる。

 そんな巫山戯た表情をしていても、美人顔が崩れない先輩はさすがだと思った。

「ええ。その口裂け女です。なんでもその高校の近隣でよく出没するのだとか」

 知り合いから聞きました、と付け加えて僕は先輩の対面に腰掛けた。デスクの上に置かれていたポットにアイスコーヒーが残っていたので、自分のグラスにもそれを注ぐ。

 最初からガムシロップでも入れてあったのか、その赤黒い見た目に反してかなり甘めのコーヒーだった。

「知り合いていうのは、信用のおける人物なのか?」

 話を疑っているのか、先輩の食いつきが悪い。彼女の大好物である怪談話なのに釣れない態度なのは、まだまだ世界を支配する残暑のせいなのだろうか。

「ほら、今年僕たちのサークルに入部してきた一年の子ですよ。あの子が昨日たれ込んで来ました」

 一年の子……、そのワードを耳にした先輩の表情は面白くらいに変化した。

 戸惑いだとか嬉しさだとか苛立たしさだとか、およそ人が持ちうる悲しみ以外の全ての感情が内包されたようなそんな顔。

「うげ、なら本物か。ああ、くそ。ああいった才能に溢れた若者を見てると早いうちにその芽を潰してやりたくなるな。今夜あたり、呪いでも送りつけてやろうか」

「やめてください。先輩がやったら洒落になりませんし、彼女も対抗意識を燃やして呪い返しをしてきたらとんでもないことになります」

「ふん、たかだかホンモノの霊能力者風情が自称悪魔憑きにかなうもんか。悪魔から授けられた知恵と魔力でけちょんけちょんにしてやろう」

 何処からそんな自信が湧いてくるのか、先輩はあちょーと意味不明なポーズで僕に相対してきた。

 この自称悪魔憑きの先輩は時折こうやってお茶目な一面を見せてくる。学内では秀麗なお淑やか美人で通っているだけにそのギャップは中々に面白い。

「とまあ、冗談はこれくらいにして神崎くん、今夜は暇かな?」

 乱れた服装と髪を整えながら(腰まで伸びた見事な黒髪をしているので手入れが大変らしい)先輩はこちらを見下ろしてきた。

 その好奇心に溢れた透き通った瞳は黒曜石のようにきらきらと輝いている。

「別に僕は問題ありませんが、他のサークルのメンバーは誰もいませんよ。皆夏休みで実家に帰省していたり、旅行に行ったりしています」

「くだんの後輩ちゃんはどうなんだ?」

「バイトです」

「ありゃ、霊能力者もアルバイトにいそしまなければ生きていけないほど世知辛い世の中なのか。これはますます卒業して社会にはでたくないな」

「卒業も何も、先輩はそこまで生きてはいないでしょう」

 余りにも先輩との言葉のやり取りが気持ちよすぎて、僕は自分が失言したことに暫く気が付かなかった。

 ただこちらを真顔でじっと見つめる先輩の瞳が少しばかり濁っているのが眼に入って、僕は大層慌てた。

 だが先輩はすぐに口角をつり上げてニヒルに笑った。

「君までそういうことを言い出したのなら、あの占い師の予言はどうやら的中するみたいだな。あと半年、だったか? 私の余命というのは」

「いや、その……」

 言葉を濁す僕を尻目に先輩は次々と続ける。

「あれから定期検診にも行ったがとくに命に関わるような大病は見受けられなかったよ。気がかりと言えば一つ。ここ最近急激に低下してきた視力くらいか」

 先輩は眼鏡をしていない。本人曰く、そういった外界の景色を隔たるものは「向こうの住人」を視るときに邪魔になるそうだ。

 代わりにコンタクトレンズを着用している。これは眼球に直接張り付いているので、まだ眼鏡よりかは使えるとのこと。

 そう、僕が先輩と出会って早一年目だが、ここ1、2ヶ月で両目で2.0の視力を確保していた先輩の視力は有り得ないスピードで失われていた。

 眼科医は若年性の近視かもしれない、と診断したそうだが、先輩はそれを否定している。

「大方私に巣くう悪魔がそろそろ代償を払えと催促してきているのだろう。これはそのサインかな。ということはつまり、私の命が失われるのは恐らく2パターンだ。一つ、これ以上に視力が失われ回避能力が大幅に低下。車か何かに轢き殺されるデッドエンド。二つ、代償を一向に払わない悪魔が私の魂を喰らうデッドエンド、だ」

 二本の指をこちらに突きつけてくる先輩の顔を見ることはできない。

 が、一体どのような表情をしているのかは何となく想像がついていた。

 多分、この人は笑っている。

「さあ神崎くん。さっそく準備のためにジャスコへいこうか。車は君が運転してくれたまえ。私は……そうだな、ガソリン代をケチってエアコンを付けない君を助手席から団扇で扇いであげよう!」

 片付けもそこそこに研究室を飛び出していく先輩を僕はやれやれと追いかけた。




 この話は僕と先輩が出会ってから別れるまでの、一年と半年の物語の一部だ。

 つまり彼女と過ごした最後の夏のエピソード。

 むせ返るような残暑の下、この頃はまだまだ先輩――、鬼泊川 加奈子は元気だった。 



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「ポマードと数回叫べば口裂け女は逃げていく。ありきたりでかなり有名な撃退方法だが、神崎くん。何故だか知っているかい?」

 平日の大手スーパーマーケット……ジャスコは人影も疎らで、特に何もないまま僕たちは買い物を終えていた。

 購入したのは菓子パンやコーヒーなどの夜食類に夜間を探索するための懐中電灯。予備の乾電池がいくつか。あとは虫除けスプレーや絆創膏など些細なものばかりだ。

 おっと、そういえば先輩は一人で備え付けのドラッグストアに向かい、何かを大量購入していた。

 それがあれか、今話題にしているポマードとやらか。

「ポマードとはいわゆる整髪剤なんだがな。主に成人男性が髪型を整える際に使うらしい。その様子だと君は使ったことがないようだね。で、何故口裂け女はポマードを忌避するかなんだが……」

 時刻は日が沈んで少しばかりたった午後八時前。僕たちはまだ車通りも多い市内の国道を北に向かっていた。

 先輩は僕が質問に答える前にべらべらと蘊蓄を垂れ流していく。

「口裂け女の整形手術を執刀した医師がこれの愛用者だったらしい。彼女の口が裂けているのはそのときのものだな。つまり口裂け女の口が裂けているのは人間の整形外科医の医療ミスという、およそオカルト臭くない、ある意味でありきたりな理由なんだ。だがここで面白いのは、そんなないとも言い切れないような与太話がいつの間にか怪談にまで昇華している現象だ。もともとは1979年の岐阜県の小学生の間で口コミを通して広がった噂がルーツだとも言われている。他には江戸時代に一揆で処罰された農民の怨念の化身という、民間伝承と結びついたケースも有名だ。ここで私が注目したいのはね、口裂け女という結果ではなく、それが人々の間で語られ、伝播し、一つの怪談を形作っていく過程だ」

 運転中のため、助手席の先輩を伺い知る方法は僕にはない。だが、意地の悪い笑みを浮かべていることだけは何となくわかった。

「結局は妖怪だとかお化けだとか怪談だとかは人間の想像力が生み出したまやかしなのさ。たとえそれらの中にホンモノが混じっていても、正体を完璧に観測できる人間が同時に複数存在しなければ『それ』が何であるのか、理解することはできない」

「ごめんなさい、よく意味がわからないです」

「なに、簡単なことだ。一重に口裂け女といっても、それの正体が本当に口裂け女なのか会ってみないとわからないということだ」

 先輩は手にしていたドラッグストアの袋――おそらくポマードが入ったそれを助手席から後部座席に放り投げた。

 こんなものは必要ない、と言わんばかりに、興味を亡くしてしまったかのように。

「さて、神崎くん。次の信号を左に曲がってくれ。そしたら右手側にコンビニが見えてくる。そこで一端夕食にしよう。ほら、昔から言うだろ? 腹が減っては戦ができないってね」



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 腕時計を見る。PM10:00。

 コンビニで菓子パン類を食べ、週刊誌を立ち読みし、先輩に妨害されながらタバコをふかしていたら結構な時間が経っていた。

 そこから車を運転すること十五分ばかり。先輩に指定された隣町まで何の障害もなくたどり着いていた。

 今僕たちはその隣町の、とある高校の裏手に広がった雑木林の中にいる。

 とは言っても、先輩は懐中電灯をちらつかせながら「ここでまっていろ」と僕に告げて一人雑木林の奥まで歩いて行ってしまった。

 先ほどまでは遠くの方で懐中電灯の明かりが断片的に見えていたのだが、今はもう暗闇が広がるばかりで僕は完全に一人取り残されていた。

「寒いな」

 昼間はあれほど暑かったというのに、今は半袖では身震いするほどに寒かった。

 雑木林の中というのもあるかもしれない。日中はそれほど日が当たらないし、足下には水気を含んだ、冷たい土の地面が続いている。

 もう一本、タバコでも吸おうか。

 さっきは嫌煙家の先輩に邪魔されてろくに吸うこともできなかった。

 前からやめろ、やめろと注意されてはいるが、こればかりは何故か止められなかった。

 先輩に煙が届くようなところでは吸わないようにしているのだが(コンビニでも彼女が週刊誌を立ち読みし始めたときに外で吸った)わざわざ僕のそばまでやってきて、タバコを取り上げようとする。

 全くもって不思議な人だった。

 それからどれだけ時間が経っただろうか。

 少なくとも、完全に一本吸いきって携帯灰皿に吸い殻を捨てるくらいの時間は経っていた。

 いつの間にかあれほど感じていた寒さは消えていた。

 代わりに背骨に冷や水を流されるような、言葉にするのも難しいような悪寒が訪れていた。

 寒くはないのに震えが止まらない。むしろ脂汗が止まらなくて、暑さを錯覚する。

 僕はこの感覚を知っている。

 先輩とこれまで過ごしてきた約一年間。こういった感覚は何度も味わってきた筈だった。

 だが、一生慣れることはないのだと思う。

 ゆらゆらと二本目のタバコの紫煙が照らす先。丁度先輩が消えていった雑木林の奥の方。明かりなんて存在しないのに、夜目でもなんでもない、普通の人間である僕が知覚できてしまう一つの人影。

 それがこちらを見ていた。

 二つの黄色い眼がはっきりと確認できた。

 背格好はやや猫背気味の、背筋を伸ばしても僕より頭一つは小さいだろうか。体格的に女であると一目で判断することができる。

 目が合った、と気が付いたのは一瞬だった。

 女がゆっくりと、歩み寄ってくる。

 反射的に後ずさろうとして、できない。

 先輩曰く感受性が強すぎる僕は、こういった類いのものに出会うと自分の意思とは関係なく金縛りに遭いやすいそうだ。

 かちかちと、何かが小刻みにぶつかる音がうるさい。

 音が自分の歯が震えているものだと自覚したときには、女はすぐ目の前に立っていた。

 長い前髪越しに、こちらを下から覗き込んでいる。

 黄ばんだ白目に縦長の瞳孔が不気味な、獣のような瞳だった。

「――――し、―――い?」

 声がよく聞き取れない。

 否、声自体ははっきりと聞き取れるのに、それが何を意味しているのか理解したくなかった。

 かちかちと、震えが止まらない。


「わたし、きれい?」


 葛藤は一瞬だった。

 すぐさま踵を返し、その場を離れようとする。

 だが身体が動かない。まだ金縛りから解放されていない。

 女が嗤った。耳まで避けた醜悪な口を嫌らしく歪めて嗤った。それはまるで獲物を追い詰めた狐のようだった。

「う゛ぁだじぃぃぃぃぃ、ぎれぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!?????」

 最早言語の体を成していない咆哮が雑木林に木霊する。

 咆哮を直に受けた祐作は意識が吹っ飛びそうになるのを必死にこらえ、足を踏ん張った。

 女がこちらに手を伸ばす。

 あれにふれてはいけない。あれにふれられてはいけない、と意識はするものの、祐作の身体が思い通りに動くことはなかった。


 ……なんだ、ポマードと唱えれば撃退できると言われても、金縛りにあったら意味がないじゃないか。


 そんな下らないことを考えながら、観念したように祐作はその時を待った。



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 永遠に等しい時間が流れる。

 でも走馬燈は何処にも見えない。

 ただ見えたのは暗闇に翻る悪魔の美しい黒髪だった。



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「やあ、待たせたね。祐作くん」

 救いは声の形をしていた。拳を振り抜いたような、躍動的な体勢をとっている先輩がいつのまにか目の前にいた。

 女は――、口裂け女は数メートルほど離れたところにうずくまっていた。

 これはあれか、まさか殴ったのか。口裂け女を、悪魔が。

「どうも獣臭い臭いが奥の方からすると思って見に行ったんだが、どうやらフェイクだったようだ。中々どうしてこの狐は賢いね。獲物にするべき対象を間違えていない。だが一つだけ間違いを犯した」

 ぽきぽきと、先輩は拳を慣らす。彼女はこちらに背を向けてうずくまったままの口裂け女に向き合った。

 僕は先輩の表情を見ないままに、それを予想するのが得意だと自負している。

 一年という、長いのか短いのかよくわからない期間の付き合いだけれども、それまでに過ごしてきた密度はちょっとしたものだ。

 だから僕は何も言えない。

 ひょうきんな声色に滲み出た先輩の殺気の色を僕はよく知っているから。

 彼女の表情を、感情を、一言で表すならまさしく「憤怒」だ。


「――誰が私のモノに手を出して良いと言った? この女狐が」


 人を殺せる雰囲気というものが只の比喩ではないことを僕はまざまざと体感した。

 口裂け女のもとに歩み寄った先輩はその首を引っ掴んで無理矢理立たせた。先ほどまでは恐怖しか感じられなかった彼女が哀れに思えてくるのだから、人間というのは不思議なものだ。

「はん、半端な動物霊如きが女の怨霊に取り憑いてこのザマか。少しばかり可愛そうだから共に成仏させてやろうと画策していたが、気が変わった。お前たちは二度死ね」

 ぼきり、と何かが砕けるような音を耳に聞いた。

 それが口裂け女の首から聞こえてきたと理解したと同時、掠れたような悲鳴がわずかばかり空気を振るわせた。

 直前に受けた咆哮との余りの落差に一瞬耳を疑う。

「本当に詰まらなかったよ。お前は。あの後輩の底意地の悪さを考えればある程度は予想できたことなんだけどな」

 ぱっ、と先輩が掴んでいた口裂け女の首を手放した。

 ややあって、彼女は霞のように消えていった。

 静寂が夜の雑木林に戻ってくる。

「さて、これで夜の遊びは終わりだ。ちゃっちゃか帰って風呂にでも入りたいところだが……」

 台詞を途中で切らせた先輩の目線をゆっくりとなぞる。すると、手元に挟んだままの火のついたタバコがゆらゆらと煙を吐き出していた。

 あ、やばいと思っても間に合わなかった。

 先輩は素早くタバコを僕の手元から取り上げると、呆れたような、それでいて少し怒ったような風にこちらを見た。

「たく、君は本当に懲りないな。あれだけ吸うなと告げてもまるで暖簾に腕押しだ」

 口裂け女に向けていた殺気とは似ても似つかない、ちょっとばかり出来の悪い子供を叱る母親のような声。

「だが、まあ、今回ばかりはこれのお陰か。先に謝罪しよう。私はあの口裂け女――いや、半端な動物霊と怨霊の集合体に見事に騙されてしまったよ。どうも奥から気配がすると感じたのだがな、あったのは猫の死体だけだった。というわけで、まんまと仕込みに引っかかった私を嘲笑ったあいつは、非力な君をターゲットにしたわけだ」

 よく見れば、先輩の足下――よく履いている色あせたジーンズパンツの裾が泥や草の種で汚れていた。スニーカーに跳ねた汚れも含めて考えると、よほどの奥まで向かったか、あるいはここまでかなりのスピードで走って帰ってきたのか――。

「やつの企みはここまでは完璧だ。けれどもたった一つの障害があった。それがこれだ」

 ふらふらと先輩がタバコを振る。闇夜に移る小さな火がまるで鬼火のようだった。

「タバコっていうのは今でこそ嗜好品の一種だが、もともとは神と交信するための道具だった。アメリカのインディアン――今ではネィティブアメリカンというのかな――が有名だな。もちろんニコチンやタールの有害性を否定して現代科学に喧嘩を売るほど野暮ではないよ。そこははっきりと認める。けれどもこういった特殊な環境下に於いては一種の魔除けになることも事実だ」

 続ける。

「口裂け女の属性はただの動物霊ならまだしも、かなり魔よりの怨霊が含まれていた。要するにすぐに君が襲われなかったのは、――私が駆けつけるだけの時間を稼いだのは大嫌いなこいつだったというわけさ。皮肉なものだね」

 そう言っておもむろに先輩は手にしていたタバコを咥えた。

 煙を吸っているのか、先に灯された火が一際輝く。

 だがその状態は二秒と持たなかった。

 先輩が常人ではありない勢いで嘔吐いたからだ。

「げほっ、ごほっ! ……やっぱりあれだな、悪魔憑きというおよそ考え得る限りの中でも最上位の魔の属性を内包した私には相性が悪すぎるな。一箱吸ったら肺が血塗れになって死ぬんじゃないか?」

 それはタバコが苦手だとか、吸い方を間違えているとかいった、そんな生やさしいものではなかった。

 もっと根源的に、本能として受け付けていないような、そんな反応だった。

 げほっ、と肺の中の空気を全て絞り出すかのような咳を残して先輩は続きを告げた。

「というわけで、一概に止めろとは言い辛くなったんだな。今回の件で。――でも、」

 すっと、先輩がこちらに手をさしのべた。いつの間にかタバコは足下に捨てられている。

 白魚のような細い指が僕の首筋を撫でた。

「君と心置きなく口づけをするためには、やはり禁煙して貰いたいのも事実だ」

 優しく唇が押しつけられる。まるで僕の存在を確かめるかのように、先輩は僕の唇をちろり、と舐めた。

「あまり君がタバコに毒されてしまうと、私が昇天してしまうかもな」

 からかったように告げる先輩に僕は何も言えなかった。 

 ただ、少しばかり禁煙をしてみようかと思った。



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 二人で並んで歩く帰り道。

 真っ暗な雑木林を抜け、街灯の並んだ高校の前まで帰ってきた。

 道路脇に目立たないように駐車した愛車(形式落ちの軽自動車ムーヴ)に乗り込もうとそれに近づく。

 すると夜間巡回している地元のボランティアだろうか。丁度フロントガラスのワイパーに挟み込むようになにやらチラシが貼り付けてあった。

 チラシにはこの駐車が迷惑になっている旨が簡潔に記されていた。不法駐車にはならないものの、近隣住民のことを考えて遠慮して欲しいらしい。

 確かに道路幅を占有しているだとか、何処かの住宅の目の前に止めている、とかはないが、このあたりに住んでいる人から見たら面白くない光景だったのだろう。

「先輩、こんなのが貼ってましたよ」

 ちょっとした申し訳なさと後ろめたさを感じつつ、剥がしたチラシを先輩に見せようとそちらに振り返った。

 丁度街灯の下に立っていた先輩は上から降り注ぐ白い光に照らされていた。

 そして異変に気が付く。

「あれ、先輩、それどうしたんですか?」

 自分の頬を指さしながら先輩に指摘した。

「ん? ほっぺか? ……ってなんじゃこりゃ」

 右頬に手を当てた先輩が素っ頓狂な声を上げた。彼女の手の平には薄く血が滲んでいる。

 そう、先輩の右頬には一筋の赤い線――まるで何かに切り裂かれたような傷が刻まれていた。

 そこまで重傷ではないものの、若干の血が流れるくらいには深く切れている。

「これはあれか。君のもとへ駆けつけるときに木の枝でも引っかけたのかな」

 ごしごしと乱暴に血をぬぐった先輩が、特に気にした風でもなく先に車の助手席に乗り込んでしまった。

 僕もそれに続こうと運転席のドアの取っ手に手を掛ける。ふとそのとき、今まで歩いてきた雑木林の方に視線を向けた。

 当然のことながら何もいないし、何も見えない。

 けれども僕はその雑木林がどうにも気になって、車を発進させたあとも、ルームミラー越しにずっと様子を眺めていた。


 結論から言えば――、

 このとき先輩が受けた頬の傷が治ることは、彼女との別れが訪れるまで終ぞなかったのである。


悪魔憑きと先輩と僕と  PROLOGUE    了


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