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冴えざえとした夜であった。


数多の星が煌めき、中空にぽっかりと浮かぶ満月から、しずしずと月光が降り注いでいる。


昼間あれ程立ち込めていた霧も何時しか晴れ、空気は澄み、肌寒ささえ感じる程だ。


義経は、用意された部屋を出て夜空を見上げながら、昼間かねひら大王が言った言葉を何度も反芻していたーー。


『お前が我らの同族になれば、『大日の法』に書かれている兵法や呪法を使う事も出来よう。そしてそれが、儂がお前に『大日の法』を授ける条件であり、お前が生きてこの城から出る為の唯一の方法よ』


ーー


『だがな、これだけは覚えておくが良い。我ら夜の眷族に成ると言う事は、人である事を辞めると言う事だ。お前が“貴族”と成り『大日の法』の兵法を用いて人間の軍勢を率いれば、平家を打倒する事も容易かろう。だが人でなくなると言う意味が分かるか?』


ーー


『我らが吸血鬼である以上、必ず“渇き”が訪れる。さすればどれ程理性を保とうとしても誰彼構わず人間を襲い、血を吸わずにはいられなくなる。誰彼構わずだ。だがそうなれば最早平家打倒など夢のまた夢。お前は、“鬼”として死ぬまで追われる身よ』


ーー


『一度“渇き”が訪れれば、血を飲まぬ限りその苦しみから逃れる事は出来ぬ。しかも血を飲まなければ、幾ら我らとて肉体が衰弱し死んでしまう』


ーー


『助かる方法はただ一つ。“渇き”が来たら血を飲め。人を襲い、喉を噛み切り、その溢れ出る血を啜れば良いのだ! 人間などただの餌だと、そう思い込めば良いだけの事だ』


かねひら大王の言葉は、例え一時的にでも、自ら夜の眷族と化す事へ傾いた思いを迷宮の彼方へと追いやった。


ーー今の源氏では、恐らく平家を打倒するは出来まい。


ーーしかしかねひら大王の言によれば、『大日の法』を手に入れる事でそれが可能になるかも知れない。


ーーだがそれは、自分が夜の眷族と化した上での事だ。


ーー平家を打倒し、帝を奉り源氏を再興する。


ーーそれにより、平家の悪政に苦しむ民を救済する。


ーーその為であれば、自分の命など惜しくもない。


その思いには一寸の揺らぎもない。


ーーだが、夜の眷族と化し“渇き“が訪れれば、大切な家臣も、民も、周りの大切な人々全てに危険が及ぶ事となる。


“鬼”となるーー。


その事実が、義経の心に重く乗し掛かっていた。


そしてもう一つ、義経の頭に蟠っている事がある。


平家を打倒した後の政の事だ。


ーー平家を滅ぼし、源氏がとって変わったとして本当に何かが変わるのか?


ーーどう変える事が出来るのか?


ーー帝を奉る以上、今の仕組みそのものが変わる訳ではない。


ーー自分は、ただの武士だ。


ーー自分には、政を行う資格も無ければ資質も無い。


ーーだが誰が政を行おうと、人は自己の権力を嗜好する限り、人が人を支配し、強者が弱者から搾取し続ける仕組みは変わらない。


ーーならば平家を打倒する事など、実はただの私的な復讐ではないのか?


ーー圧政に苦しむ民を救済するなどただの夢物語で、使命や信念など、ただの自分の思い込みではないのか?


ーー分からない……。


いや、分からなくなったと言うのが本当のところだった。


それが今の自分の限界なのだろうか……?


この十八年間、自らの心が求めるように生きてきた。


思い立ったら、まず悩む前に行動する。


どの様な境遇にあろうが、出来る事から行動する。


それが自分の生き方であった筈だ。


だが今は、まるで幼い迷い子の様に途方に暮れている。


義経は、大きく夜空を仰いだ。


そして大きく息を吸い込むと、懐から“たいとう丸”を取り出した。


“たいとう丸”は、義経が牛若丸と名乗っていた頃から所持している薄墨の横笛だ。


その音色は、相手が人間であれば荒れた心を静め、相手が魔物や鬼であれば、その魔性を抑え妖力を削ぐ霊力を有している。


実際に、京の五条大橋にて人狼である弁慶を打ち負かせた際も、この“たいとう丸”の音色が効力を発揮した。


“たいとう丸” の音色で魔物を調伏する事は出来ないが、その霊力を伴った美しい音色が、魔物の狂暴で荒んだ心すら抑え鎮める働きがあるらしい。


義経自身も、悲しい時、辛い時、苦しい時、怒れる時は、いつも一人で笛を奏でてきた。


それにより自らを癒し、宥め、苦難を乗り越えて来たのだ。


言わば“たいとう丸”は、義経にとっての友であり、分身であり、父であり母であった。


義経は、玉砂利が敷かれ、松の木の植えられた庭の中程に設えた池の畔に立ち、静かに目を閉じて“たいとう丸”を奏で始めた。


夜に溶け込む様な美しい音色は、細やかな風に乗り四方へと流れて行く。


物悲しげな旋律が、冷たい夜気を更に澄んだ物へと変えていった。


しばらく笛を奏でていると、義経はふと人の気配を感じた。


目を開くと、建物の影に女と思しき人影が立っている。


義経は、“はっ”として笛を吹く手を止めた。


「止めないで!」


その女が言った。


「どうか、お続け下さい」


女は、義経に笛を吹くよう促した。


義経が、再び笛を奏でる。


笛を奏でている最中、義経は時々薄目を開けてその女へと目をやったが、その女はうっとりと義経の笛の音に聞き入っていた。


殿舎の影になり、詳細まで見て取る事は出来ないが、声や雰囲気から察するところまだ少女の様だ。


髪は、前髪に両鬢を張らせた垂髪で、真ん中で分けて長く垂らしている。


地色の白い袿を羽織り、下には緋色の長袴を履いていた。


袿とは、女房装束と呼ばれる高貴な女子が纏う裳唐衣姿ーー後に十二単と呼ばれる正式な儀式や行事、また身分の高い人の前に出る時に纏う晴れの装束ではなく、準正装または、私邸で羽織る上着として用いられる着物の一種である。


表着より身丈や袖をやや短く仕立たもので、下に肌小袖・単・緋袴を着て、帯で結ぶことなく袿を何枚も重ねて羽織った物を“重ね袿”、一枚の上着を羽織っただけの場合は“小袿”と呼ばれた。


この少女は、上着を一枚羽織っただけの小袿だ。


ーーこの少女も“鬼”か……? しかもこの装束、かなり身分の高い“鬼”の様だが、この少女も“貴族”か……?


義経の頭を一瞬過ったが、直ぐ様笛を吹く事に集中した。


月の雫が降り注ぐなか、義経は心行くまで笛を奏でた。


そして義経が笛を吹き終わると、辺りは“しん”と静まり返った。


義経は、ゆっくりと目を開き、少女へと目をやった。


少女は、先程と同じ場所にひっそりと立っている。


「何と言う美しき調べ……。今のは、いったい何と言う曲なのでしょうか?」


少女がおずおずと訊ねた。


「特に名はありません。私が幼き頃、私の母がよく吹いていた曲です」


「そうですか……。あまりに美しい音色でしたので、何処の御方が吹いておられるのかと思い、ついここまで来てしまいました。ご迷惑でしたでしょうか?」


「いえ、迷惑などと……。その様な事は御座いません。私の方こそ、この様な時刻に笛など吹いて迷惑だったのではありませんか?」


「いえ決してその様な事は……。私の方こそお邪魔して申し訳ありませぬ」


そう言って、少女は頭を下げた。


義経は、“鬼”らしからぬ少女の淑やかな仕草と物言いに少し戸惑いを覚えたが、同時に妙な親しみを感じた。


「そんな所に居られず、こちらへ出て月でも御覧になられませ」


そう言って義経は少女に促すと、遙々と夜空を見上げた。


「今宵は良い月が出ております。夜空の星々も鮮やかな輝きを放っておりますれば、一緒に御覧になりませぬか?」


義経は、再度少女に促した。


すると、玉砂利が敷き詰めてあるにも関わらず、少女が音も立てず軒先から歩み出た。


まるで体重を感じさせぬ、静かで柔らかな足運びだ。


「本当に、良い月ですこと……」


少女が言った。


月明かりに照らされ、少女の輪郭が像を結ぶ。


見たところ、年の頃は十四・五歳であろうか?


顔にはまだあどけなさや可憐さを残してはいるものの、明らかに大人の女性としての雰囲気を漂わせている。


 細面で先の尖った顎に、細く切れ上がった眉。


“すっ”と涼しげで切れ長の目には、くるんとした大きく愛らしい瞳を宿している。


筋の通った鼻梁の下には、血を塗った様に赤いぽってりとした唇が見てとれた。


肌は透ける程白く、不思議な事に全く化粧をしていない。


普通であれば引眉、白塗り、お歯黒等の化粧は当然の事である筈が、この少女は全く化粧をしていないのだ。


“鬼”だからか、化粧をしなくても透ける程肌が白いからか、何れにしても素顔のままでこれ程の美しさと可憐さを持ち合わせている少女には、今まで出会った事が無かった。


「貴方様が、源義経様ですね?」


少女が訊ねた。


「はい……。ですがどうして私の名を……?」


義経は、初対面の少女が自分の名前を知っていた事に、少し訝しんだ。


「父様から聞きました。面白い人間が来たと」


「父様?」


「はい。私の父は、この城の主かねひら大王なのです」


少女は、きっぱりと言った。


「か……、かねひら大王の……」


義経は目を剥いて少女を見た。


「私は、かねひら大王の娘で、“朝日”と申します」


少女が、自ら名乗った。


「朝日姫ですか……。知らぬ事とは言え、非礼をお許し下さい」


義経は、頭を下げた。


「非礼だなどと……。私の方こそ無粋な真似を致しました。しかし聴くところ何やら物悲しげな音色に感じました。何か悲しき事でも御有りになりましたか?」


「悲しくは御座いません。ですが……、迷うております」


そう言って、義経は夜空を見上げた。


「迷う……」


「はい。貴女様の御父上、かねひら大王様に拝謁させて頂いた折に、色々と思う所がありまして、勇んでこの喜見城まで参りましたが、今後どの様にすれば良いのか分からなくなったのです……」


「父様に何か言われたのですか?」


「『大日の法』の修得は、私が“吸血鬼”と化さねば無理だと仰っておいででした。ですがどうしてもその踏ん切りが着きません」


「まあ、自ら眷族に加わりたくて、この城を訪れる人間は後を絶たないと言うのに、義経様は、それ程“吸血鬼”になるのが御嫌ですか?」


朝日は、皮肉っぽく“吸血鬼”に力を籠めて言った。


「あ、いやこれは“吸血鬼”などと失礼な物言いを……」


義経は、自らの失言を訂正しようと些か慌てた。


「良いのです。本当の事ですから……」


朝日の顔が少し曇った。


「朝日姫……」


「私達夜の眷族は、確かに人間の血を吸わねば生きていけません。そう言った“魔性”の者として生まれついてしまったのです……」


朝日姫の言い方には、自分が夜の眷族として生まれついた事を嫌悪しているかの様な、何処か哀しげな響きが含まれていた。


「私は平家を打倒し、帝を奉り、苦しむ民を救う事が出来るのであれば、自ら夜の眷族に加わる事に何の異存もありません……。しかし……、それにより私の大切な仲間や家臣、更には恩義ある方々や民達に危害が及ぶのであれば、躊躇せざるを得ません……」


「だから迷うておられるのですか?」


「はい……。それに、仮に平家を打ち果たした後、我ら源氏が再興したとしても本当に世の中が変わるのか……? いや変える事が出来るのか? 分からなくなったのです。源氏が平家にとって変わろうが、恐らくはこれまでと同じく人が人を支配し、強き者が弱き者から搾取し続ける……。そう言った世は変わらぬのではないか……? ならば、平家を打倒する事など、ただ私の復讐を果たす為の私怨に過ぎないのではないか……。そう考えていると、私が夜の眷族に加わる事も、無意味な事ではないのかとつい思えてきてしまったのです……」


義経は、“たいとう丸”を強く握り締めた手をじっと見詰めた。


「民の事にまで思いを御馳せになるなど、義経様は、本当に御優しい御方なのですね。ならば、義経様自身の手で世の中の理を御変えになられたら如何ですか? 世の中には、不条理で理不尽な事は多々あります。もしそれらを憂うのであれば、御自身の手で変える他ありません。結果ばかりを考え何もしないのであれば、義経様が嫌う平家や今の世の中に加担しているも同じ事……。誰も何もしなければ、世の中は決して変わりませぬ」


朝日は、力強く義経を諭すように言った。


「ですが私にはーー」


「その資質も資格も無いと仰られるのですか?」


義経が言い終わらぬ内に、朝日が義経の言葉を遮る様に言った。


「えっ!?」


義経は、今自分が言おうとした言葉を朝日に言い当てられて、思わず声を上げた。


驚きに目を見開いたまま、朝日の顔を見返す。


すると朝日の無垢な瞳が、義経をじっと見詰めていた。


「今何と仰られた? それは今、私が言おうとした言葉です。いったい貴女は……?」


「他心通と言うのだそうです」


「他心通……」


「はい。 私は人の心が見えるのです」


「人の心が……見える……」


「はい。私には、人々が心に抱く喜びや怒り、それに哀しみや迷い……。更には憎悪や恐怖までも……、それら心に思った事や感情が全て聴こえてしまうのです」


朝日は、泣き出しそうな表情を見せた。


「聴きたくない、見たくない、出来る事なら知らぬままでいたい……。そう思うのに、どうしても人々の思いが、望んでもいないのに聴こえて来てしまうのです」


朝日の瞳から、透明な涙が一筋流れ落ちた。


ーー他心通……。


ーーそんな事がこの世にあるのか……。


ーー聴けば便利な能力にも思えるが、違う見方をすればなんと残酷な能力なのだ……。


ーー人は、言葉や表情、態度だけに表れる様な、綺麗事だけの生き物ではない。


ーー人は、誰もが心の裏に残酷で醜い部分を隠し持っている。


ーーそれら全てが見えてしまうと言うのか……。


ーーしかもこの少女は“鬼”だ。


ーーただでさえ人間が恐れ、意味嫌う“鬼”なのだ。


ーーそれら人間の憎悪や悪意を全て受け止めるなど、どれ程の苦痛であろうか。


ーーそれに、この少女も“鬼”である限り、人の生き血を吸わねば生きて行けない筈……。


ーーならば、血を吸われる際の人間の恐怖や絶望、哀しみ、怨嗟などを全て受け止めた上で、尚血を吸わねばならぬのか……。


ーー何と憐れな……。


義経は、朝日の顔を見詰め思った。


先程の涙の意味は、これであったのだ。


義経の瞳からも、思わず一筋の涙が零れ落ちた。


「ああ……、何と御優しい方……。私の為に泣かないで下さい。私は生まれついての“貴族”です……。この能力を恨んでは、父様や死んだ母様を恨む事になります……」


朝日の瞳には、最早止めどなく涙が溢れ、頬を濡らしていた。


「母上様はお亡くなりになられたのですか……?」


「はい……。もう二十年になります。私の母は人間だったのです……」


「そんな……」


「私の母様は、蝦夷に暮らす漁師の娘でした」


朝日は、頬を涙で濡らしながら語った。

この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などにはいっさい関係ありません。

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