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義経は、驚きのあまりしばし言葉を失っていた。
秀衡の言った通り、確かに『大日の法』なる巻物は存在した。
だがそれは、義経が想像していた兵法書などではなかった。
まさか、人が鬼に成る術を記した巻物であったとは。
「驚くのも無理はない。だが『大日の法』とは、我ら夜の眷族に伝わる巻物。人間の為の兵法書とは訳が違う。確かに一から廿一巻の内には、人間でも使える兵法や呪法の極意が記されている部分もあるが、その殆どが我ら夜の眷族のみが使える兵法や呪法の類いよ」
ーー確かに、良く良く考えれば鬼が秘蔵している兵法書だ。
ーーそれが人間用に作られている筈がない……。
こんな蝦夷の地の果てまで遙々やって来て、その結果がこれとは、義経の落胆は決して小さくなかった。
「そう落胆する事も無い。お前が我らの同族になれば、『大日の法』に書かれている兵法や呪法を使う事も出来よう。そしてそれが、儂がお前に『大日の法』を授ける条件であり、お前が生きてこの城から出る為の唯一の方法よ」
かねひら大王が、ぞろりと言った。
“!!”
かねひら大王からの、予想だにしなかった条件を突き付けられ、義経は声を発する事も出来ず固まった。
すると、
「な、何と……」
「源氏の小倅を我が夜の眷族に加えるなど、決してあってはならぬ事ですぞ!」
「大王様、どうかご再考を!」
「大王様!」
口を挟む事を禁じられていた千方達が、驚きのあまり思わず声を上げた。
義経の反応も、千方達が再考を求めて叫ぶのも当然の反応と言えた。
かねひら大王の出した条件は、それ程までに突拍子もないものであった。
何と言っても義経は、かねひら大王の弟である大江山の酒呑童子を殺した源頼光の血を引く源氏の御曹子だ。
しかも、その弟を斬り殺した刀である“薄緑“を携えて参上したばかりか、つい先刻その刀で水鬼を手に掛けたばかりなのである。
その意味で義経は、かねひら大王のみならず千方達にとっても復讐の対象であり、殺しても飽き足らぬ仇だった筈だ。
それを命を取らぬばかりか、眷族の一員に加えるなど最早論外である。
幾ら夜の眷族を束ねる大王とは言え、これは暴挙としか思えなかった。
千方達が不満に顔を歪める中、義経は黙したまま思考していた。
「どうだ? 我が眷族となり『大日の法』を得るか、死して醜い屍を曝すか。どちらを選ぶか考えは纏まったか?」
しばしの沈黙の後、かねひら大王は改めて答えを求めた。
「返答する前にお尋ねしたき事が御座います」
義経は、かねひら大王の問いに問いで答えた。
「何だ? 言ってみろ」
かねひら大王の眼光が鋭く光った。
「まず一つ……。非礼を承知ながら、先程大王様は、遥か昔この国を治めておられたのは、夜の眷族と人狼だと仰られました。ならば何故、非力な人間よりも遥かに強大な力をお持ちのあなた方が、人間との戦に破れ政を朝廷に譲る事になったのですか? しかも夜の眷族に伝わる『大日の法』と言う巻物までありながら、何故に人間に敗れたのか、そこの所にまずお答え願いたい」
義経は、かねひら大王の目を真っ直ぐに見据え訊ねた。
一瞬、かねひら大王の表情が険しくなる。
先程来鎮まっていた筈の妖気が、怒りを伴い再び激しく立ち上った。
「大王様に対し、いや我ら夜の眷族に対し何たる無礼を!」
「小僧、図に乗るでないぞ!」
「我々を愚弄するか!」
「最早大王様が止めたとて、この身に代えても貴様を八つ裂きにせねば気が済まぬ!」
凄まじくも禍々しい妖気と怒気を噴き上げながら、千方達は今にも飛び掛からんと腰を上げ身構えた。
頑丈な建物が、千方達の妖気による内圧で悲鳴を上げている。
「待て!」
かねひら大王が叫んだ!
「いいえ待てませぬ!」
「幾ら大王様のご命令でも、この小僧の言った事は万死に値します!」
「ここでこ奴を許せば、我ら夜の眷族の沽券に拘わりますぞ!」
「これまでの我らの屈辱、この小僧にも味あわせてやらねば気が済みませぬ!」
千方達は、激昂に顔を歪め、口許から牙を覗かせながらかねひら大王に詰め寄った。
最早完全な悪鬼と化している。
「待てと言うておろうが!」
再びかねひら大王が一喝した。
「小僧、我ら夜の眷族を前にして良くぞそこまで申せたな。見上げた胆力よ。その胆力に免じて、ひとつ貴様の問いに答えてやろう」
かねひら大王は、憤怒の表情をしながらも、込み上げる怒りを無理やり力で抑え込み極めて冷静を装った口調で言った。
「大王様、何もそんな……」
千方が、尚も言いすがろうと声を上げたが、かねひら大王が片手でそれを制した。
千方は、不承不承に口を接ぐんだ。
義経は、高まる緊張と恐怖を凄まじい精神力で捩じ伏せ、かねひら大王の顔をじいっと見詰めている。
「儂がまだ生まれる前、我が父の率いる夜の眷族が人間に敗れたは、その数において圧倒的な差があったからよ」
「数!?」
「そうだ。貴様ら人間と言う種は、我々に比べ圧倒的に数が多い。戦ともなれば、その数にものを言わせて次々に軍勢を繰り出し来る。それに対し我が眷族は、あまりにもその数が少ない。それが一番の原因よ。更に我が夜の眷族は、その名の通り一部の者達を除いては、陽の下を歩く事が叶わぬ。従って陽のある内に急襲され、寝ぐらを焼かれれば為す術もなく討ち取られるのは必定……」
ーーそうであったか!
ーーここに送ってくれた漁師達も、陽が暮れる前には村に戻りたがっていた。
ーーこの殿舎に来る途中でも、出会ったのは人間ばかりで他の鬼を見掛ける事が無かった。
ーーならば残りの鬼共は、何処か陽の当たらぬ屋内にでも潜んでいると言うのか……。
ーーそれならば、これ程の都を築きながら、鬼共の数が少なすぎるのも納得が行く。
ーーだが、それならばかねひら大王を始めとするこの千方達は、何故陽の下でも平気なのか……?
義経は、疑問に思った。
「我ら夜の眷族には……」
かねひら大王は、義経の疑問を他所に先を続けた。
「我ら夜の眷族には、我らの様な“貴族”と呼ばれる者と、“屍鬼“と呼ばれる者の二種類がある」
「“貴族”? “屍鬼”?」
「そうだ。我ら貴族は、この世に生まれ落ちた時からの純粋種だ。我ら“貴族”は、陽の下でもその行動に制約を受ける事が無い。一方“屍鬼”は、陽の光に晒されればその皮膚は焼けただれ、遂には燃え尽き死んでしまう。しかも“貴族“と呼ばれる者の数は非常に少く、幾ら“貴族”の力を持ってしても、多勢を誇る人間の軍勢全てを相手にする事は出来ぬ……」
かねひら大王は、口惜しげに悲痛な表情を浮かべた。
見れば、いつしか千方達も皆一様に無念の臍を噛んでいる。
「我々は、身体に傷を負ったぐらいで死ぬ事は無いが、その後激しい“渇き”に襲われ、血を吸わねば死よりも辛い苦痛に苛まれる事となる。戦ともなれば、幾ら我らでも無傷と言う訳にはいかぬ。そうして“渇き”に任せて生き血を吸えば、吸われた者は“餓鬼”と化し他の人間を襲うようになる」
「“餓鬼”?」
「そうだ。我々に生き血を吸われ死んだ者は、生きる屍、“餓鬼”と化す。“餓鬼”は、自らの意志も何も無く、ただ本能のままに人間を襲い肉を喰らう“鬼”だ。そしてまた“餓鬼”に喰われた者も“餓鬼”と化してしまう。そうなれば“餓鬼”は無限に増え続け、脳が溶ろけ、肉が腐り落ち、身動きが取れなくなる迄の間、次の獲物を狩る為にさ迷い歩き、獲物である人間を見付けては襲い、肉を喰らい続ける事となる。“餓鬼”が身動きが取れなくなる頃には、この国は“餓鬼”で溢れかえってしまうであろう。だがそうなれば、我々が血を飲む為の人間が一人も居なくなり、やがては我々も“渇き”により滅びの道を辿る事となる……」
「何と……」
「それでも我が父の率いる軍勢は、天津神の末裔と称する朝廷の大軍勢と死力を尽くして戦った。だが奴等は、凄まじい神力を持つ 三種の神器やその他様々な神器を駆使し、結果父上達の軍は敗北を喫する事となった」
「三種の神器……」
「天津神の子孫がこの国に現れた時、この国を治める為に与えられた三つの神宝よ。あれは確か崇神とか言う天皇の時代であったか、三種の神器はそれぞれ別の場所に移される事となった。それぐらいはお前も知っておろう」
「はい……」
義経は、短く返答した。
「こうして戦に敗北した父上達は、最果ての地である蝦夷から更に離れたこの千島に逃れ、この喜見城の都を築いたのだ」
「では人狼はどうしていたのです? 共に以前この国を治めてきたのであれば、一緒に朝廷の軍勢と戦わなかったのですか?」
「人狼……? あのような獣、我々誇り高き夜の眷族と一緒にするでない。人狼も我々とは別に朝廷の軍勢と戦ったが、戦に破れた後各々が散り散りとなって森や山に隠れ住み、野山の動物や人間を襲って暮らす様になった。最も今では唐から密教を持ち帰った空海と言う坊主から、ある呪法を学んだのを切っ掛けに朝廷と和解し、一族狼等遠野の隠れ里で暮らしておる。つまり人間の飼い犬に成り下がったと言う事よ」
どうやらこの鬼共と人狼は最悪の関係らしい。
今の話を聞く限り、ここに弁慶を連れてこなくて正解だった様だ。
「これがお前の問いに対する答えだ。他にはもう無いか?」
「なれば今一つお尋ね致します。先程大王様は、夜の眷族の中にも二種類あると仰られた。そしてご自身は純粋種である“貴族”だと。ならば“屍鬼”とは、いったい如何なる者なのでしょう?」
「屍鬼とは、我らが血を吸った際に自らの血を相手に飲ませる事で、“餓鬼”ではなく我が眷族として迎え入れた者達の事だ」
「自らの血を……」
「そうだ。我らが人間の血を吸った後、その者の命が絶える前に自らの血を飲ませるのだ。そうすれば、その者は“餓鬼”とならず“屍鬼”と化すのだ」
「ではそれが、『大日の法』に記されている人間を夜の眷族に変える方法なのですか?」
「いいや、『大日の法』に記されておる方法は、人間を我らと同じ“貴族”に変える術だ」
「人間を“貴族”に……ですか?」
ーー先程の説明によれば、“貴族”は陽の下でも活動する事が出来る様だ。
ーー夜しか活動出来ぬ“屍鬼”であれば、平家を打倒するなど夢のまた夢である。
ーーだが“貴族”であれば……。
義経の心の天秤が、自ら夜の眷族と化す方向へと僅かに傾いた。
「だがな、これだけは覚えておくが良い。我ら夜の眷族に成ると言う事は、人である事を辞めると言う事だ。お前が“貴族”と成り『大日の法』の兵法を用いて人間の軍勢を率いれば、平家を打倒する事も容易かろう。だが人でなくなると言う意味が分かるか?」
かねひら大王が、厳しい表情で言った。
「……」
義経は、即答する事が出来ず黙している。
「我らの眷族に成ると言う事は、確かに人間とは比較にならぬ力と、大抵の事では死なぬ不死に近い肉体を手に入れると言う事だ。それが“貴族”であれば尚の事だ。だが我らに“渇き”がある以上、平家を打倒したとて最早人間と共に生きる事は叶わぬ」
「“渇き”……ですか……?」
「そうだ。我らが吸血鬼である以上、必ず“渇き”が訪れる。さすればどれ程理性を保とうとしても誰彼構わず人間を襲い、血を吸わずにはいられなくなる。誰彼構わずだ。だがそうなれば最早平家打倒など夢のまた夢……。お前は、“鬼”として死ぬまで追われる身よ……」
かねひら大王は、何処か悲痛な思いを顔に滲ませ目を閉じた。
「何とか“渇き”から逃れる術はないのですか?」
義経がすがる様に言った。
「無い!」
かねひら大王は、“カッ”と目を見開き、厳しい表情で断言した。
更にかねひら大王が続けるーー。
「術は無い。一度“渇き”が訪れれば、血を飲まぬ限りその苦しみから逃れる事は出来ぬ。しかも血を飲まなければ、幾ら我らとて肉体が衰弱し死んでしまう」
「……」
「助かる方法はただ一つ。“渇き”が来たら血を飲め。人を襲い、喉を噛み切り、その溢れ出る血を啜れば良いのだ! 人間などただの餌だと、そう思い込めば良いだけの事だ」
「……」
義経は、どのような言葉も見付からなかった。
「まあ良い……。今宵一晩ゆるりと考えるが良い。お前が寝る部屋と食事は、後で用意させよう。今宵一晩は、誰もお前を襲わぬよう儂から触れを出しておく。良いな、千方!」
かねひら大王は、有無を言わさぬ口調で、脇に控える千方にキツく命じた。
「はは……」
不承不承ながら、千方は頭を下げた。
「風鬼、金鬼、お前達は大王様の御触れを皆に伝えて参れ。隠形鬼、お前はこの者の部屋と食事を用意するよう、奴隷共に命じて来るのだ。良いな」
千方が命じると、風鬼達は一様に不服な表情を浮かべながらも、一礼し広間を後にした。
義経は、力無く項垂れている。
「千方、後は頼んだぞ」
そう言うと、かねひら大王はゆっくりと立ち上がった。
義経は、その場に座したまま力無く頭を垂れて一礼する。
かねひら大王は、一瞬義経を見下ろすとそのまま広間を後にした。
「呼びに来るまで、そこで待っておれ」
千方は、義経に一声掛けると、かねひら大王の後ろに付き従い広間を後にした。
広間には、義経だけがぽつんと一人残された。
「大王様、あの者をお気に召されましたか?」
千方が、前を行くかねひら大王の背中に声を掛けた。
「お前は気にくわぬ様だな」
かねひら大王が、前を見据えたまま答える。
「はい。畏れながら、あの様な源氏の小倅、我が眷族に加えるなど承服致しかねます。何と言ってもあの小僧は、あの源氏の血を引くばかりではなく、我が弟子水鬼を手に掛けたのですぞ」
千方の口調には、義経に対する憎しみがありありと込められている。
「目だな……」
「目?」
「そうだ。目だ」
かねひら大王は、後ろに振り返り言った。
「あの者の清んだ目を見たか? この数百年の間、あの様な目を見た事が無かった」
「はあ……」
「あの者は、まだ若く未熟なれど、良い目をしておった。この儂が危うく引き込まれそうになったわ」
「確かに真っ直ぐな目をしておりましたが、しかし……」
千方は、語尾を濁した。
「幾ら平家打倒と源氏再興の為とは言え、この島がどんな島で、そこに住む我らが何者であるかも知った上で、自らの命も省みずたった一人でこの島に来たのだ。しかも儂を前にして怯まぬあの豪胆さ。人間にしておくのは勿体無いとは思わぬか?」
「はあ……」
千方は、まだ納得しきれていない様子だ。
「良いか。明日あの者が如何なる返答を出そうとも、決して手出しせず無事にあの者を帰してやるのだ」
「お、お待ち下さい! それでは風鬼達が納得しませぬぞ!」
千方が慌てて諌める。
「これは命令だ!」
かねひら大王は、厳に命じた。
「畏まりました」
千方は、不承ながら応じた。
「あの者が、如何なる返答をするか楽しみな事よ」
かねひら大王は、然も愉しそうに言った。
見ると、辺りは既に暗くなっていた。
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などにはいっさい関係ありません。