第十三章1:義経
第十三章
『義経』
1
時は、今を遡る事八百三十有余年ーー
世は、まだ平家が権勢を振るっていた“平安“と呼ばれる時代……。
男は、眼前に立ちはだかる、黒色に塗り込められた巨大な門の前に立っていた。
まるで、平安京の朱雀門を模して建てられたかの様な重厚な造りの門だ。
二階建てのその門は、瓦葺の二層構造の屋根で入母屋造になっている。
幅は十丈六尺(三十五メートル)程はあろうか、奥行は二丈八尺(約九メートル)・高さも約七十尺(約二十一メートル)程と、色以外は大きさも朱雀門とほぼ同じだ。
正面には、黒色に塗られた直径およそ二尺三寸(約七十センチメートル)に及ぶ太く頑丈な丸柱が六本立ち並び、頑丈な黒色の門扉が、来訪する全ての者を拒む様にしっかりと閉じられていた。
辺りには、禍々しくも濃密な霧が立ち込め、ジトジトと肌に纏わり付いてくる。
葉月ーー、八月と言えば暑さも盛りを迎えている頃の筈なのに、この辺りは気温が低く肌寒ささえ感じる。
男は、気温の低さばかりではなく、周囲の霧に混じって漂うこの異様で禍々しい妖気を感じて一瞬身震いした。
呼吸する度に妖気が体内に入り込み、肺から内臓をじくじくと腐らせ、内側から喰われてしまうような……、そんな錯覚に囚われてしまう。
「これが、“喜見城の都“か……。なる程、これぞまさしく鬼が住む都よな……」
男は、惚れ惚れするようにふと洩らした。
男の歳はまだ若く、十七・八歳と言ったところであろうかーー。
細面で色白の肌をしているが、ひ弱な印象は一切なく、寧ろ知的さと繊細さに色を添えている。
少し細目の眉の下には、切れ長な目に澄んだ瞳を宿し、その男の真っ直ぐな心根をよく表していた。
形よく整った鼻と品の良い小ぶりな口。
育ちの良い、知的な美男子と言った風貌だ。
だが冷たい印象は微塵も無く、寧ろ童顔な故に人懐っこい印象さえ漂わせている。
それが、自然と人を惹き付けてやまないこの男の魅力となっていた。
黒い烏帽子に白色の水干を纏い、下には紫の指貫袴を履き、腰には太刀を下げている。
水干とは、貴族逹の普段着である狩衣によく似た装束で、糊を付けず水をつけて乾燥させた簡素な生地を用いる事から、主に庶民の男性が着る衣服である。
襟は、狩衣に似て盤領ーーつまり丸襟で、襟は蜻蛉で止めず、襟の背中心にあたる部分と襟の上前の端に付けられた紐で結んで止める様になっている。
構造的には、動きやすいように袖と身頃が離れており、袖や袖裏、胸などに2つづつ菊綴という房が付いていて、動きやすさを維持したままで衣服の強度を上げている。
狩衣が、貴族や公家が普段着として着る為に絹等の高級な生地を多用しているのに対し、水干は当初庶民の普段着であった為に麻などの生地を使用している。
生地以外での狩衣との相違点は、襟の止め方と裾を上に出さず袴の中に着籠める点、更に胸や袖に菊綴が付いている点であった。
指貫袴は、ゆったりとした作りの袴で、裾に指し貫いた紐で足を括る様になっている。
男は、紐を“上括“ーーつまり膝の下で括っていた。
足は、素足で草鞋を履いている。
腰には、紫韋と呼ばれる革で出来た“くけ緒“と言う紐を使い太刀をぶら下げていた。
太刀は、深い色合いの朱鞘に収められており、柄の部分は鮫皮が剥き出しになっている。
“薄緑“ーー、これがこの太刀の名前だ。
この“薄緑“は、源九郎義経の愛刀である。
この男=後に平家を打ち滅ぼし、源氏の世を築く立役者となる源九郎義経は、濃い霧の中に聳え立つ巨大な城壁をゆっくりと見渡した。
城壁は、今義経が立っている門を中心に左右に延びており、長さは百丈(約三百メートル)程であろうか、城壁の高さは約四丈(約十二メートル)程で、石垣の基礎に木の柱で骨組みと枠を組み、そこに練り土を入れて棒でつき固める『版築』という方法で作られた所謂『築地塀』である。
奥州の藤原秀衡から“喜見城の都“と『大日の法』の話を聞かされ、止める弁慶らを振り切り一人奥州を旅立ったのは、かれこれ二ヶ月も前の事だ。
後の世に編纂された“御伽草子“の『御曹子島渡り』に描かれたような土佐から船で蝦夷(北海道)へ向かうのではなく、まず陸路にて津軽まで行き、津軽海峡を船で渡った後再び陸路で蝦夷を北上し、今で言う野付半島の野付岬から根室海峡の最狭部の浅瀬を潮流に乗り、船でこの島に辿り着いたのだ。
船の漕ぎ手は、全て金で雇った地元の漁師逹だ。
蝦夷に上陸した後、行く先々でアイヌの民に噂話や伝説を聞きながら、やっとの思いで辿り着いた野付岬であったが、地元の漁師逹は皆一様に千島列島へ船を出すのを拒んだ。
千島へ行くのを恐れての事である。
千島を恐れる……、それは、千島の喜見城を根城とする“鬼“を恐れての事だ。
鬼ーー、すなわち“吸血鬼である。
地元の民は、吸血鬼を“鬼“と呼んで恐れていた。
当時の日本では、吸血鬼や獣人は人間を襲う魔物として、アイヌの人々に限らず吸血鬼も獣人も一纏めに“鬼“と呼び恐れていたのである。
そしてこの義経は、その“鬼“が住み暮らす喜見城の都に行く為に船を出すよう頼んだのだ。
だがどのような理由があるにせよ、地元の漁師逹にとってそのような行為は、最早自殺行為にしか見えなかった。
地元の漁師が拒んでも当然の事だ。
しかし義経は、秀衡から渡された金の中から、漁師逹が一生遊んで暮らせる程の金を与え、更に喜見城のある千島で自分を降ろした後直ぐに引き返して良いとの条件で、嫌がる漁師逹をなんとか説き伏せ、ようやく二艘の船と漕ぎ手を手配したのである。
鬼が主に活動する夜を避け、日の出と同時に出発した為に陽はまだ高く、暗くなるまでにはかなりの時間的な猶予があったが、漕ぎ手の男逹は、日暮れまでには各々の家に戻れるよう力の限り船を漕いだ。
その甲斐あってか、昼にはこの島に上陸する事が出来たのだが、漕ぎ手である漁師逹は、義経一人と義経が帰る為の空の船一艘を島に残したまま、逃げるように引き返して行った。
そうして今、義経は鬼共の住む“喜見城“の前に立っているのだ。
この中には人の生き血を啜る鬼共と、その鬼共を束ねる“かねひら大王“、そして平家を打倒し源氏の世を築く力となり得る『大日の法』なる兵法を記した巻物が在る筈であった。
問題は、この後どうするかだ。
何と言っても、相手は人の生き血を啜る鬼である。
『大日の法』を手に入れるどころか、たちまち殺されるか、生きたまま血を吸われて死ぬか、どちらにしても生き延びる事すら至難の技だ。
特に何か策がある訳でも無く、行き当たりばったりと言うのが正直な所であった。
決して頭が悪い訳でも、思考力が鈍っている訳でもない。
ただ人智を超えた魔物に対して、小賢しい小手先の策など通用する筈もなく、しかも相手は一匹だけではなく何十匹……、何百匹居るか分かったものではないのだ。
幾ら剣術・体術・呪術に秀でた義経とは言え、力や技でどうにか出来る問題ではなかった。
もう一つの魔物である人狼は、家来の弁慶がそうであるように、獣に変じなければ普段は殆んど人間と変わらない。
気性が荒い事と、力が人間とは比べ物にならない程強いと言う違いはあるが、特に人間を襲ったり、食べたりしなくても生きていく事が出来るようだ。
弁慶の話によると、ほんの四百年程前までは、人狼も人間を襲い肝や血肉を喰らっていたらしいのだが、かの高野山の空海和尚が人狼逹に唐から持ち帰ったある秘術を授けてからは、人間を襲わなくても生きて行けるようになったらしい。
だが、この喜見城の都に住む鬼共は、今でも人間を襲い、人間の生き血を吸って何百年も生きている魔物なのだ。
弁慶は、この鬼共の事を“吸血鬼“と呼んでいた。
生き血を吸う鬼……、まさしく“吸血鬼“である。
「虎穴に入らずんば虎児を得ず……か……」
義経は、自ら妖気を馴染ませるかのように妖気の溶け込んだ霧を大きく吸い込むと、意を決して門扉を強く叩いた。
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などにはいっさい関係ありません。