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「ここか……」
老人はぽつりと呟いた。
オフィス街のとあるビルの前だ。
このビルは、先日失踪した村田と言う少年が、消息を絶つ前最後に雨宿りしたと思われる四菱証券ビルの前である。
シャッターや地面に付着していたと言う血痕は既に綺麗に洗い流されており、最早特別変わった点は見受けられない。
老人はビルの前にぽつりと独り佇んでいた。
背は小柄で、一五五センチあるかどうかと言った所だ。
少し痩せた顔は、深い皺と白い髭で上下半々に覆われている。
白く目尻まで垂れ下がる様に伸びた眉毛の下には、少し窪んだ優しげな目が見て取れる。
鼻の下から口全体を覆った白く長い髭は、もみあげから生えている髭と繋がり、胸の辺りまで伸びていた。
その真っ白で伸び放題の髭を、胸の辺りで紐で結び束ねている。
髪も真っ白で、もう何年も床屋に行って無いのだろう。
伸びたままの髪をオールバックにして、後ろで無造作に束ねている。
しかしこの老人には、この髪型が不思議と良く似合っていた。
笑えば如何にも好好爺と言った感じだ。
歳に似合わぬ引き締まった身体を紺色の甚平で包み、足には草履を履いているが不思議とだらしなさを感じさせない。
この老人の身体に、何処か“シャン”としたものを感じるからだろうか?
風格……、そう言っても良いかも知れなかった。
老人は、黒色の布で出来た巾着袋を、腰まで届く長さの紐で肩から斜め掛けている。
身体の割には大きめの袋で、目一杯物が入れられているのかたっぷりと下に垂れ下がっていた。
背中には、六十センチ程の筒の両端を紐で縛り、それを襷掛けにして胸の所で結んでいる。
何処か時代錯誤な雰囲気を感じさせる不思議な老人であった。
老人は、顔を上げ大きく闇を吸い込むとゆっくりと辺りに目を配った。
辺りは、生き物と化した様な禍々しい闇が重く漂っていた。
濃密な湿度を内包した闇は、同じく濃密な湿度を持った肉食獣の吐息の様な風で、深く呼吸をしている。
風自体が粘り気を帯びているかの様だ。
「はてさて、時間が経っておる上に雨も降ったみたいじゃから、果たして間に合うかのう……」
そう独り呟くと、老人はビルの軒下にゆっくりと屈み込み、下げていた巾着袋から、約直径二十センチ程の八角形をした薄い箱の様な物を取り出した。
八卦鏡である。
八卦鏡は、八角形の中心部に鏡を埋め込んだ物で、邪気を反射させて化殺(軽減)、あるいは良い気を集中させて吉を増す目的で使用される風水等の仙具である。
種類は凸面鏡、凹面鏡、平面鏡等それぞれ配した三種類のものが一般的で、鏡が無く八卦記号だけのものを貴節鏡・羅経鏡と呼ぶ物もある。
この八卦鏡は凹面鏡の様だ。
通常八卦鏡には、鏡の周囲に八角形を象る様に八卦が施されている。
八卦とは、『はっけ』と言い(易の専門家達は『はっか』と呼ぶらしい)、古代中国の帝王・伏羲が考案したと伝えられる易の一つで、まず対(太極)となる物を陰と陽の両儀に分け、それぞれに陰(柔)と、陽(剛)
をーと言った爻と呼ばれる記号で表し、その両儀を老陽・少陽・少陰・老陰の四つに分割した物を四象と言って、爻を二つ組み合わせた記号で表している。
そしてそれら四象を更に八分割した物を、爻を三つ組み合わせた記号−三爻で表し、
乾ーケン(天・父)
兌ーダ (沢・少女)
離ーリ (火・次女)
震ーシン(雷・長男)
巽ーソン(風・長女)
坎ーカン(水・次男)
艮ーゴン(山・少年)
坤ーコン(地・母)
とそれぞれに名前と意味を付け、八卦と呼んだ。
それら八卦の記号=三爻を八角形に配し、その中心に鏡を埋め込んだ物が八卦鏡なのである。
ただしこの老人の持っている八卦鏡は、通常の物と少し違っていた。
形式としては帰蔵図(殷王朝で用いられた易で、他には周易の先天図と、夏の易の連山図がある)で、それぞれの三爻の下に五を除く一から八までの漢数字が書かれている。
いわゆる魔方陣だ。
魔方陣とは、縦・横・斜めのいずれの列の数字を足してもその合計が同じになると言った物で、この場合河図洛書に関る数字を、それぞれの卦に配し配列させた魔方陣となっていた。
そこまでは普通の八卦鏡とさほど変わらないが、中心の五の部分は鏡となっており、水銀を塗った底の部分には漢数字の五と、それを囲む様に邪・魔・魍・幽・鬼・怨・蠱・呪の八文字が八角形に朱墨で記されていた。
まるで邪気を化殺するのでは無く、むしろ吸収して増幅しようとしているかの様だ。
老人は、その奇妙な八卦鏡を取り出すと、同じ袋の中から、長方形の短冊の様な黄色い紙と、尖端が丸く胴の部分が筒になった小さな筆入れを一緒に取り出した。
八卦鏡をビルの軒下の地面に置いた後、取り出した紙を左手に持ち、右手には筆入れから口を使って器用に取り出した細筆を握っている。
筆の毛先には既に朱墨が付いているらしく、筆先から紅い墨が地面に滴り落ちていた。
老人は滴り落ちる朱墨を気にも止めず、左手に持った黄色い紙に何やらすらすらと書き始めた。
一目見ただけでは、まるで象形文字と漢字を組み合わせた様な文字が見えるだけで、いったい何を書いているのかまでは判別出来ない。
しかし、老人の動きに澱みや躊躇は全く無かった。
老人は何やら紙に書き終えると、その紙を血痕が残っていたとされる地面へ置き、その上に先程の八卦鏡を乗せた。
そして中指と人差し指を立てた左手を口元に当て、何やら口の中でボソボソと唱え始めた。
どうやら老人は、何かの呪を唱えているらしい。
老人の額から大量の汗が滴り落ちる。
この急激な発汗は、大気の温度や湿度によるものだけでは無いらしい。
老人の顔が険しくなり、深い皺が更に深みを増している。
同時に呪を唱える老人の声が高まり、次第に激しさを増して行く。
それと同調する様に、老人を包む周囲の闇が更に濃くなった様に見えた。
いや、実際に濃くなっている。
まるで紙の上に置かれた八卦鏡の凹面鏡に、闇が吸い寄せられているかの様だ。
そして吸い寄せられ八卦鏡に吸収し切れない闇が、老人の周囲に蟠っているのだ。
老人の姿が闇に霞んで見える。
老人の姿が闇に覆われ見えなくなろうとした瞬間、老人の唱えていた呪が止んだ。
それと同時に、老人を覆っていた闇も一瞬に霧散した。
今では老人の姿がはっきりと見て取れる。
老人は、玉の様な汗を掻き肩で大きく息をしていた。
足元を見ると、地面に置かれていた八卦鏡と、その下に敷かれていた紙にも著しい変化が起こっていた。
何と、八卦鏡の真ん中に埋め込まれた凹面鏡が、まるで焦げた様に黒く変色し底に書かれていた文字も全く見えなくなっている。
しかも、八卦鏡自体もどす黒い煤に覆われた様に、あちこちが黒く汚れていた。
そして八卦鏡の下に敷かれた紙も、先程までの黄色とは打って変わって凹面鏡と同様に真っ黒に変色していた。
しかも煤けているのではなく、まるで墨汁をぶちまけた様に完全な黒色に変色しているのだ。
「やれやれ、何とか間に合った様じゃの」
老人は、黒く汚れた八卦鏡を袋から取り出した白い和紙で包むと、もう一度袋へ仕舞い直した。
そして黒く変色した紙を拾い上げると、そのまま腰を伸ばして立ち上がった。
「ふう、歳は取るもんじゃないのう……」
老人はそう呟くと、紙を持ってない方の手でポンポンと腰を叩いた。
「まあこれなら何とかなるじゃろう」
老人は、手に持った黒い紙を見詰め、懐から徐に携帯電話を取り出すと、慣れた手付きで携帯のアドレスを開き何処かへ電話を掛け始めた。
少しコールした後、相手が電話に出た。
『もしもし……』
この深夜に関らず、電話の相手は予想外に早く出た。
電話の声は男の様だ。
しかも四十代位で落ち着きのある低いバリトンだ。
「おう佐々木君か、夜分に悪いのう。起きておった様じゃな?」
『これも仕事なので当然です。こちらこそ老師にご無理を言って申し訳ありません。しかしこんな時間にいったいどうされたのですか?』
佐々木と呼ばれた男が老人に尋ねた。
「うむ、お前さんとの話では明日の筈じゃったが、もうかなり時間が経っておる上に、これ以上この場所を人が歩いた後では間に合うものも間に合わなくなるでのう」
『えっ! ではもう既に現場におられるのですか? では私も直ぐ駆け付けます!』
電話の男=佐々木は驚き電話の向こうで慌てて叫んだ。
「良い良い、儂が勝手に来ただけの事じゃ。お前さんが気にする事は無い」
老人は優しく言った。
『しかし老師……』
佐々木は言い縋った。
「大丈夫じゃよ。それにおかげでどうやら間に合った様じゃ」
老人はそう言うと、手に持った先程の黒い紙を見詰めた。
『では反応が出たんですね!』
佐々木が興奮して言った。
「ああ、だいぶ弱くなっておるが何とかなったわい。じゃがもう一日早ければもっとはっきり出たのにのう」
『申し訳ありません。ですが情報がなかなかこちらに回って来ないもので……』
佐々木のバリトンが弱々しく響いた。
「仕方ないわい。お役所仕事は縦割りじゃからのう」
老人は、少し意地の悪い言い方をした。
『本当に申し訳ありません。我々の課は部外秘になっている為所轄の情報がなかなか回って来ないのです。今回も私個人が私的に老師にお願いしたくらいですので……』
「分かっておる、分かっておるて。お前さんがあんまり申し訳なさそうに言うものじゃから、儂がつい意地悪で言うたまでの事じゃ。いや、儂こそ済まなかった」
老人は、電話越しに申し訳なさそうに頭を掻いた。
『で、これから老師はどうされるおつもりですか?』
佐々木は気を取り直して言った。
「うむ、儂はこれからこ奴の居場所を探す。このまま放って置いたら何時また犠牲者が出るとも限らんからのう」
『危険です! 奴が今何処で、しかも何匹居るのか分かったもんじゃありません。どうしてもこれから行かれると言われるのであれば、私も同行します!』
佐々木は、言葉遣いは丁寧でも否定を許さぬ強い口調で言った。
「大丈夫じゃよ。恐らくこ奴は貴族ではあるまい。儂一人で十分じゃ。それに危険となれば、儂一人くらいどうとでも逃げ出せるしな。儂ももう歳じゃ、無茶はせぬよ」
老人は言った。
『ならば尚更……』
「本当に大丈夫じゃよ。それに来るとしても出動記録はどうするのじゃ? 儂に頼む位じゃから、まだこの件は上が奴らの仕業じゃと認識しておらぬのであろう」
『ですが、私の方から勝手にお願いしておいて、老師だけを危険な目に合わせる事は出来ません!』
佐々木が強い口調で言い縋る。
「心配するでない。これでもかつては武神と呼ばれた男じゃ。歳は取っても奴らの一匹や二匹、どうと言う事は無い。それともお前さんは儂の腕が鈍ったとでも言うのかね?」
『分かりました。老師が今尚最強の武術家であり最高の仙道士である事は認めます。ですがくれぐれもお気を付け下さい。何かあれば直ぐ連絡を下さい。いつでも出動準備は整えておきます』
「うむ、何かあれば連絡しよう。結果は明日、飯でも馳走になりながら報告するとしようか」
老人はぬけぬけと言った。
『分かりました。ご連絡お待ちしております。ですがくれぐれもお気を付け下さい』
「分かったよ。まったく心配性じゃなあお前さんも。では明日連絡するよ」
そう言って老人は電話を切った。
老人は、再び携帯電話を懐に仕舞い込むと、手に持っていた黒い紙を開いた手の平に乗せ変えた。
そしてまた呪を口の中で唱える。
すると黒い紙がひとりでに動き出し、見る見る内に一羽の黒い烏に姿を変えた。
烏にしてはかなり小さめではあるが、その姿形、羽毛の色艶までどう見ても生きた烏だった。
傍から見れば何かの冗談か手品にしか見えない。
紙から変じた黒い烏は、老人の呪によって更に命を吹き込まれた様に、老人の掌の上でバタバタとその小さい羽をバタつかせた。
老人が手を上に押し上げると、その反動で烏が勢い良く夜空へ舞い上がった。
烏は、意図的に駅の方角へと羽ばたいて行く。
老人は急ぎ烏の後を追った。
老人の行く手には、暗く不気味な雲が広がっていた。
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などにはいっさい関係ありません。