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「恭也が、こんな時間部屋に居るなんて珍しいじゃない」
陽気な声で陽子が言った。
風呂上がりの為か、シャンプーの優しい香が漂って来る。
少し茶色いショートカットの髪はまだ完全に乾き切っておらず、スレンダーで引き締まった身体をゆったりとしたグレーのスエットの上下を纏っていた。
当然すっぴんなのだが、間近で見ていると、時々“ドキッ”とさせられる。
俺の愛しい夜の女達の様な色気こそ無いが、逆にアイツらには無い“何か”を持っている。
その“何か”って言うのが上手く説明出来ねえが、この陽子如きに“ドキッ”とさせられる自分が無性に悔しくてしょうがねえ。
だいたい俺は、この女が苦手なんだよな……。
苦手に感じる最大の要因は、自分は短気で凶暴なクセにいつも正論ぶって俺に説教する所と、とにかくお節介な所だ……。
この陽子の彼氏になる奴がいたら、ホント心から同情するぜ、まったく……。
そう言やあ、ちなみにここは俺の部屋だ。
爺とあの獣人野郎は、佐々木のオッサンと共に昼前から高野山へ行っている。
陽子は、どうやら今朝出掛ける前に爺に頼まれたらしく、俺の様子を見に来たのだ。
しかしこんな時間に、年頃の男女が一つの部屋にいる事に何の懸念も抱いていないのか、俺の様子を見に行くよう頼む爺も爺だが、それをあっさり引き受ける陽子も陽子だ。
しかも陽子の親父やお袋さんも、娘の事が気にならないのか様子を見に来る気配すら無い。
一応俺は、獣人とヴァンパイアの血を引く化け物なんだぞ!
陽子やお袋さんはともかく、陽子の親父は俺の正体を知っている。
幾ら爺に昨夜の『内調』での話を聞いて、俺が人間を襲わないと分かっていても、親としてもう少しは警戒したらどうなのかと俺の方が気になっちまう。
まあそれだけ爺や陽子の両親に、俺が陽子に弱いって事を見透かされてるんだろうがな……。
そこいらの不良共やヤクザ共にも恐れられ、飲み屋の女達からはモテモテのこの俺様が、この陽子だけにはどうにも手が出せねえなんだから、実際舐められても仕方ねえ。
ったく、忌ま忌ましいったらありゃしねえぜ。
俺は、苛立つ様にタバコを揉み消した。
「あんたねえ、タバコ吸うなら窓くらい開けたらどうなのよ!」
陽子が口を尖らせた。
「バカヤロウ! こんな蒸し暑い夜に窓なんか開けたら余計暑いじゃねーか! ったく何の為のエアコンだよ!」
「何言ってんの! だいたい未成年のクセにタバコなんか吸って、いったいどう言うつもりなのよ! オマケにお酒まで飲んで! それに部屋でタバコ吸うと壁紙が汚れるでしょ。間借り人なんだからもう少し考えてよね!」
あ~あ、また陽子の説教が始まった……。
俺は、わざとらしく耳を塞いだ。
「あーー、あーー、何も聞こえねーー!」
「何子供みたいな事やってんのよ! 全くバカなんだから」
陽子が呆れた様に笑った。
ーーこれだ!
同い年のこの俺を、まるで子供扱いして説教ばかり垂れやがる。
だからコイツは苦手なんだよ……。
愚痴りたい気持ちを堪えてる俺を他所に、陽子の表情が少し曇った。
「でも恭也が病気だって聞いて心配したけど、無事でホントに良かったわ。それに昨日は昨日で、恐い顔して慌てて行っちゃうんだもん。ホント心配したんだから……」
陽子の語尾が少し小さくなった。
ーーな、な、何だ? 急に……。
ーー急にしおらしくなりやがって、調子が狂うじゃねえかまったく。
「悪かったな。もう大丈夫だ……」
俺は気を取り直し、精一杯強がってみせた。
ーーホントは全然大丈夫なんかじゃねえ。
ーーそれどころか、これからもっとヤバい事になるかも知れねえんだ。
俺は、心の中で歯噛みした。
「でも……、いったい晶子は今頃何処に居るんだろう……。昨日も言ったけど、学校の周りで行方不明になってる人達がいっぱいいるって話だし……」
陽子は、不安げな表情で俺を見詰めた。
俺の心臓が“ドキリ”と跳ねる。
俺の中では、この件に関しては犯人も結末も分かってる事なんだが、陽子や周りにいる一般の人間に取っては、未だ全てが謎のままであり、何も終わっちゃいないのだ。
俺は、再び苦い現実を思い知らされた。
「さあな……。何か気味の悪い話だが、警察に捜索願い出してあるのなら警察に任せるしか無えんじゃねえの?」
俺は、吐きそうになる程の自己嫌悪を抱きつつ、引き攣る顔を何とか堪え素知らぬふりで言った。
ーー心が痛え。
人に嘘を付く事が、これ程辛いと思ったのは初めてだ。
女を口説く為の嘘は、自分でも信じられないくらいスラスラと言えるのだが、どうもこう言う嘘は苦手だ。
それに昨夜までの事はある意味確かに決着を見たが、本質的な事はまだ何も解決しちゃいねえ。
それどころかこれから始まるんだ。
その為に俺はバイトを辞めたのだから……。
今朝、鉄二と別れた後俺は店の掃除を終え、昼過ぎにマスターの携帯へと連絡を入れた。
まだマスターは寝ていたが、手短に用件だけを話し、鍵を返す段取りを取り付けた。
近くの喫茶店で会い話をしたが、マスターは俺の辞める理由が嘘だって事を何と無く感じ取っている様だった。
俺のもう一つのバイトで、何か余程のトラブルがあったんじゃないかと心配してくれたが、俺は病気の一点張りで通した。
だけどさすがマスターは、商売柄ちゃんと心得ていて、一度は辞めると言う俺を止めはしたが、俺の気持ちが変わらないと知るとそれ以上何も聞かず辞める事を認めてくれた。
こうして俺は、店の鍵を返しその場を後にした。
別に後悔なんかしちゃいねえ。
久保のオッサンに言われたから決めた事じゃなく、昨夜一晩考えて自分で決めた事だ。
これからの事を考えると、確かに俺と接する人間が多ければ多い程、その分リスクが増えるのは間違い無い。
もうシゲのような犠牲者を出すのは沢山だ。
それにこの件は、キッチリ自分でおとしまえを着ける。
誰の手も借りねえ。
俺を気遣う爺や久保のオッサン達には悪いが、自分のケリは自分で着ける。
今までもそうやって生きて来た。
これからもそうだ。
誰かとつるむのは俺の主義じゃねえ。
それに俺が、爺達の言う通り本当にヴァンパイアや獣人以上の化け物なら、奴らをぶっ潰す事も可能な筈だ。
まあ途中でおっ死んじまっても後悔は無えがな……。
だがそん時は、一人でも多くのヴァンパイアを道連れにしてやる!
そう決めた。
だからバイトも辞めた。
本当は、今朝学校も辞めるつもりだった。
朝は学校へ行く途中で鉄二と会っちまったから仕方ねえが、昼過ぎにマスターと別れた後、学校へ退学届けを出しに戻らなかったのは、ただ何となく学校へ行くのが面倒になって明日に延ばしただけの事だ。
結局空いた時間をパチンコ店で潰し、散々負ける結果にはなっちまったがな……。
お陰で極貧と化した俺は、コンビニでタバコと晩飯の菓子パンを一個だけ買い、先程部屋に戻って来たのだ。
「恭也、さっきからあんた、何一人で考え込んでるのよ?」
陽子の声に、俺は現実へと引き戻された。
「あ、ああ。まあ色々と……な」
俺は少し慌てて答を返した。
「ふうん、恭也でも考え事するんだ」
また陽子が憎まれ口を叩きやがる。
「馬鹿にすんじゃねえ。俺だって考え事ぐらいするさ」
「珍しい事もあるもんね……。珍しいと言えば、さっきも言ったけど、あんた今日はバイト休みなの? それに李のお爺ちゃんが、あんたが帰ったら部屋へ様子を見に行ってくれだなんて、いったいどうかしたの? まだ具合でも悪いの?」
陽子が、心配そうな目で覗き込む。
「バイトは辞めた……」
「辞めた? 学校休んでも、バイトだけはあんなに張り切って毎日行ってたのに……」
「学校休んでは余分だ。でもバイトは結構楽しかったし、金にもなったからな……」
「じゃあ何で辞めたのよ? やっぱり具合でも悪いの?」
「いやそうじゃねえ。身体は至って健康そのものよ! まあバイトを辞めたのは、一身上の理由ってやつかな」
俺は少し惚けた。
「何よそれ! でもまあ良いわ。あんたいつも夜中や明け方に帰って来て、学校も行かず昼間寝てばかりいるんだもの。これでこれからはちゃんと学校に行けるわね!」
陽子が皮肉った。
「いや、俺……学校も辞めようと思うんだ……。それで近い内にこの部屋も出ようかと……」
そう言い掛けた瞬間、陽子が俺の話を遮った。
「ちょ、ちょっと恭也! あんたいきなり何言い出すのよ! 学校辞めるって、しかもこの部屋を出て行くだなんて、いったいこれから先あんたどうするつもりなのよ!」
陽子が大声で叫んだ!
「ど、どうするって……。それはまた後で考えるよ……」
俺は言葉に詰まった。
理由なんて言える訳が無えし、この先どうなるかなんて俺にも分かりゃしねえ。
ただ今は、陽子や陽子の家族……、それに学校の連中が、今後この件に巻き込まれないようにする為にも、皆の側から離れるしか無えんだ。
「ちょっと、後で考えるって何言ってるのよ! ちゃんと訳ぐらい言いなさいよ!」
ーー陽子のヤロウ、激怒して食い下がりやがって。
ーーオメエに理由が言える訳ゃねえだろ!
ーー少しは人の身になって考えやがれ!
俺は、腹の中で陽子の性格を呪った。
無論、俺を心配してくれるのは有り難いが、人には言える事と言えない事……、言いたくないって事がある事に何で気付かねえんだ!
ーーったくこのバカ女だきゃあ。
ーーだからO型の女は苦手なんだよ!
「あっそう! 理由も言えないんだ! こんなに心配して上げてるのに、もう良いわ! 勝手にすれば良いのよあんたなんか!」
黙っている俺を怒鳴るだけ怒鳴り散らしり、陽子はすくっと立ち上がった。
怒りで目が吊り上がってる。
「もう知らない、バカ!」
そう捨て台詞を残し、陽子は“ズカズカ”と足音を立て部屋を出て行った。
ーーったく、あの女だきゃあ俺より短気なんだから始末に負えねえぜ。
俺は、飲みかけのジムビ−ムを一気に煽った。
口から喉、そして胃へと熱い液体が駆け巡る。
俺は大きく息を吐くと、再びタバコに火を点けた。
ゆっくりと紫煙を吐き出す。
その時、テ−ブルの上に置いてあった携帯の着信ランプが点滅している事に気が付いた。
今日は誰からの電話も受ける気がしなかった為、着信音もバイブも切ったままにしてあったのだ。
俺は携帯を手に取ると、サブディスプレイに浮かんだ発信者の名前を確認した。
そこには『マスター』の文字が浮かんでいる。
マスターとは、無論今日辞めたばかりの『ヘブンズ・ドア』のマスターの事だ。
俺は、無視しようと携帯をテーブルに戻しかけたが、何故か一向に切れる気配が無い。
俺は、嫌な予感がして怖ず怖ずと電話に出た。
『もしもし、恭也か? 俺だ!……』
電話の向こう側で、マスターが慌てた様子で叫んだ。
「もしもし、何かあったんスか!」
俺の動悸が速まって行く!
マスターの焦り方は尋常じゃない。
『恭也か! テッちゃんがヤバイんだ!』
「鉄二が?」
『そうだ。ついさっきお前を訪ねて来た男がいたんだが、それがいかにもヤバそうな男で……』
「ヤバそう? 筋モンか?」
そう言いながらも俺の勘は、別の者だと告げている。
『いや、あれは筋者とは少し違う。だがとにかくヤバそうな男なんだ。それでテッちゃんが店に来て、そいつと二人で店を出て行ったんだ!』
「何だって!」
俺の心臓が“ドキリ”と跳ねた。
血液が逆流した様だ。
『店の外へ出てみたら、テッちゃんのバイクは置いたままで、テッちゃんもその男の姿も見えないんだ!』
ーーヤバイ、ヤバイぞ!
「それで、その男の特徴は!?」
『片目だ。片目の男だ!』
それを聞いた瞬間、ハンマーで頭を殴られた気がした。
ーーあの男だ!
ーー昨日ゾンビと化したシゲやショウを殺し、獣吾と闘っていたヴァンパイア……柳生十兵衛だ!
ーーアイツが、この俺を捜しに来たんだ!
ーーそれを知った鉄二が、シゲの仇を討つ為に十兵衛を連れ出したんだ。
ーーあの馬鹿!
俺は唇を噛んだ。
『恭也、聞いているのか!』
電話の向こう側でマスターが叫んでいる。
「とにかくすぐ行く!」
そう言って俺は携帯を切り、そのまま部屋を飛び出した。
外はまだ雨が降っている。
俺は愛車のV−MAXに飛び乗ると、メットを被るのも忘れ、雨の中へとバイクを走らせた。
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などにはいっさい関係ありません。